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令嬢、猫になる

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「おはようございますお嬢さま、起きていらっしゃいますか?」
 トントン、というノックの音の後に、メイドのイチノの声が聞こえた。
「ん、おはよう……あっ」
 目をこすりながら体を起こし、寝台から降りようとした私は、目測を誤って床に転げ落ちる。
 バフッという間抜けな音とともに呪いが発動する。
「ミャ(またやっちゃった)……」
 床に落ちた私は、仔猫に姿を変えていた。



「あらあら」
 部屋に入ってきたイチノは、寝間着に埋もれている猫の姿の私を、またですか、という顔で抱き上げた。人間が猫になったというのに驚きもしないのはどうなのかと思わなくもないが、私がこの呪いにかかってから既に二年、屋敷に住み込みで働いている彼女にとっては日常茶飯事なのだろう。
「解呪しますね」
「ミャン(うん)」
 私をベッドの上に戻したイチノは、鼻先に軽くキスを落とした。再びバフッという音とともに人間に戻る私。
「イチノ、寒い……」
 私は体を震わせた。
「はい、お着替えはこちらです」
 イチノが手早く服を着せてくれる。猫になってしまうのは百歩譲って許容するとして、変化した時点で体が仔猫サイズに縮むので服が脱げてしまい、猫から人間に戻った時にはすっぽんぽんというのはどうにかならないものかと思う。
「あのね、お洋服脱げちゃうの困るの」
 女の子としては大問題だ。今はまだ幼女の括りなのですっぽんぽんになってもいろいろ被害は少ないが、十年後のことを考えると、本当に早く何とかしたい。
「そうですね、困りますね……脱ぐ手間が省略出来てよろしいと思うのはいかがでしょう?」
 着替えの工程の半分が猫になるだけで一瞬で済む、とイチノはなぐさめなのか何なのかよく分からない提案をした。






 私の名前はデイジー・アスター。
 アスター伯爵家の長女で、現在五歳。一緒に暮らす家族は、両親と兄。
 そして、いわゆる転生者だ。


 前世の記憶を思い出したのは、二年前の、三歳の誕生日を迎えた頃。それまでは、おおむね年齢通りの、多少空気を読むのがうまい程度の幼児でしかなかった。
 きっかけは、夜空に浮かぶ二つの月。幼児なのであまり夜空を見上げる機会にも恵まれないんだけど、二つの月を見る度に違和感を覚えていた。
 そしてある満月の夜に『違う、違うの』と夢遊病者のように庭に走り出て、ばたりと倒れたらしい。屋敷は騒然である。関係者各位の皆様、御心配をおかけしてごめんなさい。
 で、翌朝目覚めた私は、いけない早く起きなきゃ仕事に遅刻しちゃう、ん? どうしてこんなに自分の手は小さいのだろう、あれ、仕事って何? 私はデイジーで三歳で仕事なんてしてなくて伯爵家の令嬢で? と頭の中が疑問符だらけになった。
 訳が分からないけど、とりあえず落ち着こうとして二度寝した。私きっと、前世でも混乱すると眠ってリセットするタイプだったんだと思う。睡眠は大事だ。
 そして次に起きた時には、自分が転生者だということを理解した。前世の記憶はそんなにはっきりしたものではないけれど、とりあえず月は一つしかなかった。
 月が二つあるということは、異世界であることは確定である。流行りの異世界転生である。
 悪役令嬢だったらどうしよう……ヒロインでも困るけど。
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