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猫化、継続中

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 気がついたらベッドの中で、もしかして猫になったのは夢だったのかな? なんて思ったんだけど。
「おはようデイジー、ちゃんと人間ね」
 食堂で会った母さまの挨拶からすると、夢ではなかったようだ。
「おはようございます母さま、兄さま」
 イチノの手を借りて、自分の椅子によじ登る。父さまはもうお仕事に行かれたらしく、姿が見えない。
「昨日はびっくりしたわね」
 人間が猫になったのを、しかも自分の娘のことなのに、びっくりした、で済ませていいのかと思わなくもないが、母さまはそういう人である。肝が据わっているというか、のんびりというか。
「戻れて本当に良かったです」
 昨日、おそらく一番心労の深かった兄さまが、涙ぐんでいる。
「あらあらシオン、泣かなくていいのよ。もう済んだことですもの、昨日のことは忘れなさいな」
「はい、母上」
 おかしな魔法だか呪いだかに掛かったけれど、もう元に戻ったのだ。忘れてしまえばいい。
 そう思っていられたのは、食事を終えるまでの短い時間だった。




「きゃっ」
 食事を終えた私は、椅子から下りようとした時に、テーブルの上のグラスを引っ掛けて落としてしまう。グラスが割れる音と同時に、聞き覚えのあるバフッという音がした。
「ミャッ(えっ)」
 私は再び仔猫になっていた。


「お、お嬢さま!?」
 給仕に立っていたイチノが震えている。うん、昨日私が猫になる現場を目撃したのは兄さまだけだもんね、衝撃の光景だよね。
「デイジーっ」
 経験者の兄さまは耐性がついているのか、ぱっと立ち上がって私のところにすっ飛んでくる。いい兄を持った。
「ど、どうしよう」
 すっ飛んできた後は、おろおろするだけなんだけどね。うん、いいんだよ、兄さまはまだ五歳児。てきぱきと事態を収拾するような神童じゃなくていいからね。
「落ち着きなさいシオン、キスで元に戻るのだから」
 母さまは普通に冷静である。
「はい。……大丈夫だよデイジー、僕が人間に戻してあげるからね」
 え、兄さまが? 母さまじゃなく? ちょっと待って、これ大丈夫?
 私は狼狽した。私の中身は二十代である。前世の記憶は薄いので正確な年齢は分からないけれど、確実に成人していた。そんな私に、天使のような愛らしい五歳児にキスさせるとか、犯罪じゃない!? 私も外身は三歳児だけど!
 なんて思っているうちに鼻先にキスされて、元に戻る。
「一回限りの物かと思っていたのに、まだ効果が持続してるなんて」
 母さまが、困ったように呟く。
「何がきっかけなのかしら、あの本はもう屋敷にはないのに」
 どこに行ったんだろう、あの本。






 結論から言うと、猫になるきっかけは、『身体的、もしくは精神的に衝撃を受けること』だった。
 グラスが落ちたことに驚いたのを皮切りに、ベッドから転げ落ちる、庭で躓いて転ぶ、雷の音にびくってなる、という感じである。
 普通は『ああ、びっくりした』で済むような出来事が引き金になってしまう。


「こうも度々猫になってたら、普通の暮らしが送れないじゃないか……」
 何日か様子を見た後、父さまは頭を抱えた。
 致命傷を負うとか、心臓が止まりそうなほど驚くというレベルで発動するなら気を付けようもあるが、日常に数多く潜んでいるちょっとしたことがきっかけだと、防ぎようがない。
「解呪も誰でも出来る訳ではないようですしね」
 母さまも溜息をつく。
 鼻先へのキスで人間に戻れるのだが、キスする人によって戻れたり戻れなかったりする。
「家族とイチノだけが確実だそうだな」
「ええ」
 使用人全員で試した訳ではないが、確実なのはそれだけ。あとは母さまの侍女と、執事長と、メイドが、出来たりできなかったりだった。
 多分、私のその人に対する信頼度が左右しているんだと思う。


「やはりジスカール卿に一度診て貰うことにしよう、予約を入れておくよ」
 診てもらうのは予約制らしい。病院なのかな。いやいや、『娘が猫になるんですが』なんてのを取り扱う病院があるとは思えない、やっぱりマッドサイエンティストかな!
「父さま、ジスカール卿って? だあれ?」
 必殺、小首傾げで情報収集してみたが。
「魔法に詳しい人だよ。きっとデイジーに掛かっている魔法も解いてくれるよ」
 安心しなさい、と頭を撫でられて話は終わった。
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