亡国の王子の復讐

朝日

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恋しくて、切なくて Ⅰ

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『その喉を切り裂いて、朽ち果てるまで何度でも痛めつけてやりたい……』

イリスは小さく震えながら、昨日のミレイアを思い出していた。あれだけ近距離で、憎悪を隠すことなく睨みつけられた。あの顔が何度も脳内で再生され、胃が痛くなる。


取り残されたイリスは机に突き刺さったフォークを見つめると無言で下を向いていた。

ミレイアはきっとディルを誰よりも大切に思っている。それはもう、血のつながり以上にただ一人の男として。


いつまでも感傷に浸っているわけにはいかないと己を奮い立たせても、込み上げる涙は頬を伝っていく。


立ち止まってばかりでは前へ進めない。後ろを振り返っている暇があるなら、少しでも先へ行かなければ。

そう思っても、ミレイアからの言葉は大きな衝撃を受けた。気付かない内に心の奥にまで亀裂が走っていた。



「イリス様、顔色があまり良くないです。お疲れがたまっているのでは……?」

近くにいたロズが心配そうに覗きこんでくる。

ライアンの部屋で昼食をとっていたイリスははっとなってゆっくりと笑顔を作った。


「やだ、考え事をしていたのかしら。やることが多すぎて頭が痛くなってるみたい。少し休めば治るわ」

「ウィール様の代役を一人で行っているのですから疲労は溜まるでしょう……何か食べたいものはありますか?甘いものなどいかがでしょう」

「ありがとう。でももうお腹いっぱい、ごちそうさま。もう下げてくれて大丈夫よ」

「まだこんなに残っているではありませんか。イリス様、少しは食べないと倒れてしまいますよ」

確かに昼食は三分の一しか減っておらず、残りが多かった。それでもイリスは食欲がなく、ロズに断りを入れて下げてもらう。

少しだけ一人になりたいと言い、束の間の休憩に入った。静かになった空間で無意識に溜息が出てしまった。


明日、新しいエドームの軍が合流する。その準備に追われていたが、ぎりぎりで間に合った。

エドームの騎士が増えるのは正直嫌だったが、反論なんてできない。また別の問題が浮上してきそうだ。

サイでいいように振る舞い、高圧的な物言いのせいで、城内の空気はピリピリとしている。


「……皆を守らなければ」

ただその思いが強くなり、侍女らに被害が出ないようにイリスは夜中に城内を巡回するようになった。

エドームの騎士は目立つ昼には行動せず、夜にこっそりと動き出していると報告を受けていたからだった。

もちろんライアンは毎夜と言ってもいいほどイリスに手を出す。すべて終わった後にベットを抜け出し、下肢の痛みを我慢して見張りに当たる。これまでに何回かその場面に出会った。

 
目まぐるしく変わる日々の中で、イリスに対する風当たりはひどくなる一方だった。

特にエドームの騎士からはすれ違うたびに暴言や嘲りを浴びせられる。気にもしていないと態度で示すが、なくなる気配はない。

中でもよく言われるのがライアンとの関係。冷やされることも多々ある。

朝から晩まで今後についての話し合いに追われ、外を歩けばエドームの誰かに必ず声をかけられる。


城内ばかりいられず、城下に出ようとしてもライアンは許可してくれない。

姿を隠して外出しても王女だと見つかる可能性は高いと言われ、未だに実現していなかった。


今国民がどんな目にあっているのか……ライアンの話では手荒な真似はしていないと喋っているが実際の所、どうなっているかは分からない。

グータンや他の皆に話を聞く機会も少なく、イリスの不安は増すばかりだった。近いうちにロズや他の侍女に頼んでこっそり城下へ下りてもらうつもりでいる。


その時、バタンとドアが開く音が聞こえ、誰かが中へ入ってきた。振り向けば、少し疲れた顔のライアンが気だるそうにしながら歩いてくる。 


「ライアン、様……」

イリスは思わず名前を呟いてしまい、慌てて口に手を当てる。


「あぁ、いたのか。珍しいな、いつもこの時間にはいないことが多いだろう」

「少し時間があいたので……また、すぐに出ていきます」

「こっちへ来い」

と言ってもライアン自ら近づいてきている。また何かされると体が強張ったが、逆らうことも出来ずにただ流されていく。

気付けばライアンはソファに深く腰掛け、足の上にイリスを乗せていた。今まで何度もこうやって抱かれたせいか、戸惑うことはなかった。

それでも伸びる視線にはまだまだ慣れず、無意識に下を向いた。それでもすぐに上へ向かされる。


「少し痩せたようだな。食事はとっているのか?」

「……とっています」

本当のところを言えば、最近では食事を最後まで食べることは少なくなっていた。

とてもじゃないが、食欲が湧かない。今苦労して動いてくれている者達を差し置いてこんな食事をとってもよいのかといつも考えている。


「食べない様だったら口移しで食事をするぞ」

「なっ……そこまでして頂けなくても結構です。最低限のものは食べていますから」

「相変わらず嘘をつくのが下手だな、表情を見たらすぐに分かる」

悔しいが、この人は真偽を見分けるのが上手い。最も、隠すのが下手なだけなのか。イリスは何も言えなくなって、口を閉ざした。


「無理に食べろとは言わないが、これ以上体重が減らないようにしろ。もともと細いのにさらに痩せるのはよくないぞ」

「はい……」

素直に頷いたことに満足したのか、イリスをもっと近くに引き寄せた。

「こうやってお前を抱いているだけで満たされる……」

掠れかけた甘い声を出すライアン。イリスの首筋に吐息がかかり、くすぐったくなる。

体に力が入ったまま、ぞわぞわとする感覚にもぞもぞと動くがライアンは離さない。この温度を感じるたびに、夜の行為を思い出して顔に熱が集中する。


「……離して下さい、苦しいです」

本当はこの距離が嫌だった。どこか優しさを感じて、複雑な気持ちになる。

そんな大切そうに触れないでほしい。私の気持ちを試すかのような深い目がゆっくりと交わって、吸い込まれそうになった。


荒々しく乱暴なのがこの人に似合うのに、時々こうやって甘えるように体温を求めてくる。そしてゆっくりと目を細め、微笑する。

まるで壊れ物を扱うかのように繊細な撫で方をして、静かに唇を重ねて……


「嫌ではないだろう?前はあんなに喘いでいたくせに」

「それは貴方が強引に……っ」

「快感には抗えないはずだ。この前はしがみ付いて離れなかったのを忘れたのか?首が折れるかと思ったぞ」

「あのときはその……は、激しすぎたから……っ」

イリスは恥ずかしそうに目線を彷徨わせながら、どんどん声が萎んでいった。

そうやって、からかう言い方は変わらないのに。ふとした時に慈しむように微笑んでくるから反応に困る。


この人はサイを追い詰めた、憎い人。大事な存在を失くした原因を作った人。

どれだけ願っても戻ってくることはなく、大好きだった笑顔を向けてくれることもない。その事実だけは心の深淵まで刻んである。


最近はどうしてもすぐ身近に孤独を感じてしまう。大丈夫、みんながいてくれる。私は独りじゃない、ちゃんとやっていける。幾度となく言い聞かせては深夜に涙を流した。

そんな震えているイリスをライアンは後ろから抱きしめながら温かさを分け与えてくる。


イリスは、心のどこかでその温度に安心を覚えてしまっていた。


「明るいから灯りを消せだとか、文句が多いのはまだまだなくなりそうにないな」

「あ、明るいところで出来るわけがないです……!」

イリスは真っ赤になりながら言い返し、睨みつけた。


「なら暗い所だったらいいのか?そうか、じゃあ今度夜中に城内の廊下でしてやろうか」

「っ嫌です、絶対にしません!」

「気が向いたらするかもしれない。覚悟しておくんだな」

にやっと笑うライアンにイリスは眩暈を感じてしまった。この人ならやりかねない……本気で考えているのかと血の気が引いていく。


「――と、時間のようだな。また夜に。先に寝ていてもいいぞ」

「あ……」

すっとイリスを抱き上げソファに下ろすと、早々に部屋を出ていってしまった。

この頃、昼間に会うことは少なくなった。むしろ安心していたが、行動は全て見張られている。 

 
「……くよくよしてばかりじゃ、いられないわね」

幸い、ライアンは国に対して無茶なことを要求することはなかった。属国に下って何もかもが変化したわけではないが、自由は少なくなった。

サイにはエドームの国民が出入りするようになったらしい。


カモーアは少しずつ立て直しが始まり、既に国境は区切られている。着々と進められる建国にカモーアは本来の明るさを取り戻していっているようだった。


――…私に出来ることは全力でする。
 
イリスはゆっくりと目を閉じ、気合を入れると大臣たちが待つ会議室へと足を進めていった。


――その日の夜、イリスはくたくたになりながら廊下を歩いていた。

午後からエドームとサイの騎士の喧嘩が発生して、解決するのに多くの時間を浪費した。

理由なんて些細なものだったが、エドームが口汚い言葉で煽って火がついたらしく、殴り合いにまで発展しかけた。イリスは場を鎮めるために自ら頭を下げる羽目になった。

穏便に済ませることが出来て良かったが、不満や怒りは高まる一方で宥めるのに苦労する。


「皆、ピリピリしている……」

イリス自身もかなり堪えていたが、一切表には出さない。弱音など吐いていたら、色んなことに歯止めが利かなくなりそうだった。


ふらっと眩暈がして額に手を当て、壁に寄り掛かってその場で少し休んだ。寝不足に続いて、満足に食事をとっていないことが原因だとすぐに分かる。

同盟国に送る書状や国民に出す触れ書きの対応に追われている最中、今日ライアンは部屋に帰ってこないと報告を受けた。

安心して眠れる……と安堵したが、今日は夜中まで時間が潰れてしまった。


「行か、なきゃ……」

またどこかでエドームの騎士が粗相を起こしているかもしれない。

イリスは壁に手をつきながら、貧血気味の体を引きずるようにして歩き出した。明日行うべきことを頭に思い浮かべながら、ぼうっと揺れる火を頼りに城内を見て回る。


今夜もか、と怪訝な目で見てくる巡回の騎士にも慣れた。後ろから距離をあけてついてくる人影も分かっている。

気がつけば資材庫のあたりに差し掛かり、暗い道の真ん中で立ち止まった。


――いけない、頭がぐらぐらする。ぐわんぐわんと揺れる視界のせいで、いつもよりも警戒心が緩くなった。

頭を抱えるイリスは、近づく怪しい手にも気付かない。突然、イリスは何者かに口を塞がれた。


「……ッ!?」

構えようとしたが、素早い動作で相手の手が滑りこみ、動きを封じられた。ぐっと強い力で物影に追い込まれる。

イリスの反射神経でも間に合わなかった。成す術がないまま、相手の思うままにされる。

何をされるのかと恐怖が湧いてきて、せめて相手の顔を見ようと必死に暴れた。しかし、口に布を押し込まれ息が苦しくなった。

三人の姿が暗い影に現れ、どこからか持ち出された縄で後ろに腕を縛られる。周到に用意された物を見て、事前に狙われていたのだと悟った。


しかも、動きが早い。相当の力がないとここまで出来ない。

多勢でこられたら一人では何の力も持たない。暗い視界に広がるのは地面だけで、足で立ち上がろうとしてもドレスを託しあげられ、足も同様に縛られた。

これでは這って動くしか進めない。と言っても、三人の手が強すぎて下に転がっていた。


「んーっ!んーー!」

口に詰められた布のせいで、きちんとした言葉が出てこない。

喚こうが暴れようが、相手の思い通りにしかならず、ただ時間が過ぎ去っていく。
 

ここまでするのだから、襲われるか、何かしらの要求があるのかと思ったが一向にその気配はない。

抑えつけられているだけで相手は一言も漏らさない。沈黙して誰かを待っているかのようだった。自分の顔ですら満足に動かせず、覆面で隠した相手は声すらも認識できない。


これでは誰の差し金なのか見えない……心当たりなど、頭には数多く浮かんでいた。

サイがこんな事態になって、様々な人の人生が一転した。恨みを買っていたとしても何の疑問も抱かない。

 
物が多く散乱する資材庫は収納に使われている古びた箱や調度品などで元々狭いが、物置化している部屋ということで少し広かった。

所々に空いた隙間に伸びる影から亡霊でも出てきそうな雰囲気で、人は用がない限りなかなか近寄らない。

昼でも人気がなく、夜にこっそりと行動するには打ってつけの場所で、エドームの騎士はここで侍女を連れ込んでいた。


まさかこんな形で自分が襲われるとは、とイリスは悔しくなって眉を曲げた。

体調管理も間々ならず、いざとなったら何も出来ない。こんな奴が立派に国の責務を負えるのだろうか。


さて、この三人は何が目的なのか。先程まで混乱していた頭が徐々に冷えてきた。

不安や恐怖を隠す為に何とか冷静に考えようとイリスは押し黙った。ここまで盛大な登場としておいて、後は放置する気だろうか。

こんな状況なのに、清々しいほど落ち着きを見せている自分に違和感さえ覚える。

見当違いかもしれないが、この三人から感じるのは刺すような殺気でもなく、ただ無に近いものだった。

今まで受けてきた侮蔑や卑下するものとも種類が違う…ただ命じられるままに行動する僕のような淡々としたもの。


危害を加えるつもりはないらしいが、この後に何かが起きるのは確実だろう。

その時が訪れるのを待つしかないようで、イリスは後ろに厳重に縛られた縄の感触を指で確かめていた。もちろん、一人で解ける強さではない。


すると、背後で一人が何らかの動きを見せた。

なんとなく仲間内で合図を交わしあったような気配で、最後の締めとばかりに縄をさらに引きしめる。

さすがに痛くて小さな声を上げたが、足も同じように強められて顔をしかめた。

そして驚いたことにひょいと抱えられ、人が入れるか入れないかの際どい隙間に放り込められ、ガタッと鈍い音が響いた。


じ、地味に痛いことしてくれる……その辺に置いてある人形に興味を失くして幼子がポイと捨てるかのように投げられた。

扱いが雑なのは結構だが、ここのスペースは狭すぎる。身動きが取れずに縮こまるしか出来なかった。


こんなところに押し込めて何をするのかと思ったが、あの三人は信じれない行動をとる。なんと、一瞥するとそのまま去って行こうとしたのだ。


え?待って。いくら何でもここに置き去りはないでしょう。

こんな暗い所にいたら誰にも見つからない自信はある。孤独死しろと言うのか。


完全に姿が見えなくなると、呆然としながらイリスは目を瞬かせていた。

悪戯にしては手の込んだものだが、冗談ではない。明日にも明後日にもやることはたくさんあるのだ。

静まり返った空間に取り残されて、イリスの顔は真っ蒼になっていく。


――…何か、来る?何分かした頃、聴覚の奥が小さな足音をとらえた。

深夜の見回り?それでも、ありがたい。助けを求めるため何とか体を動かして音をたてようとした。

しかし、脳内で響いた足音に自然と息が止まる。どこかで聞いたことがある……だなんて、そんなものじゃない。だってこの、音は。


何度も聞いた、あの……


「――ミレイア。こんな場所に来て、どういうつもりだ?」


ディルの、足音。

久しぶりに聞こえた余韻を含ませるような声に全身が痺れた。魔法がかかったように微動だに出来ず、息を殺してしまう。

カツ、カツッと安定した靴の音が、その後ろを歩いているミレイアのものと重なっていく。


なぜこのタイミングで、この二人と遭遇するのか。

カモーアの復興に忙しいはずなのに。城内の資材庫の中でまるで人目を盗んで、密会をしているかのように……あぁ、そうかとイリスは悟る。

ただ、見せ付けて、いるのだ。それでは、縛るように命令したのも彼女なのだろう。何の証拠もないのに、冷たい頭がそう認識した。


どうしてこんな手の込んだことをしてまで。イリスは体が固まり、少し震えながら耐えていた。


「あら、お兄様。お話するのに場所なんて気にしなくてもよろしいのでは?」

「ならテントの中でもよかったはずだ。わざわざエドームの領域であるこの城の資材庫にまで来て話すことは、よほど意味があるものじゃないのか?」

「ふふ。思い出話はずっとベットの中で話して下さいましたからね。我が儘かもしれませんが、私はお兄様との時間がもっと欲しいです……」


思わずイリスの頬に赤が走った。絡みつく甘い声が心の奥にまで達して、黒々した感情が目を覚ます。

後ろにある手がぐっと握られ、目頭が熱くなってくる。本当に、自分は情けないと目を瞑った。


パーティでの光景がちらついて無理やり消そうとするが、なかなか消えてくれない。早く違う場所に行ってほしかった。


「……悪いな、なかなか時間を作ってやれない。本当だったら、どこか懐かしい場所に連れて行ってやりたいのに」

「いいえ、こうやってお兄様のお側にいられる……何よりの幸せです。あの地獄だった日々が夢のようで」

ディルの男口調はまだ戸惑いを感じる。何年も共にいたが、ずっと貴婦人のような丁寧な言い方を徹底していたからだ。


声だけが鼓膜に張り付いて、嫌でも聞こえてくる。足音によって二人の距離が縮まって行くのが分かる。ヤキモキしている自分が無性に腹立たしく感じた。

苦しい。つらい。お願い、やめて。これ以上、近づかないで。


「ねぇお兄様……?私のこと、今も昔も愛して頂けていますか?」

吸い込まれる深い声で甘えるように言うのが聞こえる。こんな弱さを見せられたら誰でも守りたくなるだろう。


「ミレイア?」

「私、不安で堪りません。またお兄様と離れ離れになるのではないかと、心が落ち着かなくて。何度も抱きしめてくださったのに幸せだと、どうも温もりを欲してしまって……」

「……大丈夫だ。もう、離さないから」


聞いたこともないほど優しい口調が吐息のように響いて。きっとディルは安心させるように緩く微笑んで、今ミレイアを引き寄せている。

イリスは、顔をうずめて歯を噛みしめていた。


「嬉しい……こうやって二人だけでお兄様の腕に抱かれている事が」

あら、ここにもう一人いますけれども。分かって言っているの……?

イリスは悔しい思いが込み上げてきた。いちいち状況を説明してくれているのかと思う程に見せ付けている。


砂糖菓子を詰めたような甘ったるい声でミレイアは言い、ディルの心に触れようとしているのが分かる。


縄がほどけたら大股で近づいていってディルに足技をかけてやりたい。いつも私には冷たい態度を取っていたのに、何だその優しさはとイリスは泣きたくなった。

掴みどころがない怒りに似た感情がふつふつと湧いてくる。ミレイアも絶対確信犯だろう。内心ほくそ笑んでいるに違いない。


「もっとぎゅっと、してください……私が、壊れるくらい。お兄様なら、私……何をされてもいい」

ミレイアだから様になるものの、普通の人がしたら引かれることの方が多いだろう。

イリスは耳を塞ぎたくなったが、肝心の手は動かない。もう怒りか嫉妬か分からないほどごちゃまぜになった心には冷たい嵐が来そうだった。


「……意味を、分かっているのか?」

ぞくッと震えるほど、小さく掠れたディルの声。言われた本人もさぞや衝撃を受けたはずだ。


直接向き合っているわけでもないのに、なぜか背筋に走るものを感じた。


「んっ……」

ミレイアの色っぽい息が漏れたのを聞いたら、イリスは体に力が入っていた。


まさか、キスをしてるの?

信じられないと思い、息を飲んだ。彼女の美貌に酔いしれてしまったのかと頭が真っ白になる。聴覚だけが鋭敏になり、イリスの目が大きく開いた。


「お兄様。最近、お疲れでしょう?私、少しでもいいから癒して差し上げたい……お役に立ちたいんです」

「ミレイアといるだけで安らげる。家族はこんなにも心地いい……何年もこの温もりを忘れていた」 


完全なる二人の世界が広がって、ただポツンとその様子を聞くだけのイリスは泣くまいと唇を引き結ぶ。

家族との間柄で、こんなにも親しい雰囲気になるだろうか。まるで恋人が愛を囁くかのように、甘い空気に満ちている。

この二人の美しさなら、そう思えてもおかしくない。表現しようとも難しく、儚げで繊細なのがカモーアの王族だった。


ここに自分がいるなんて、思ってもいないのだろう。


その時、ガタンッと誰かが押し倒されるような音が聞こえた。

びくっとなったイリスは身を乗り出して二人の様子を見ようとしたが、この小さなスペースではまったく動けない。


「……ミレイア?」

少しだけ戸惑ったようなディルの声に、心臓が飛び跳ねる。

 
「お兄様の全てが欲しい……」

ミレイアの熱い息が艶っぽく零れて、ディルに迫っているような光景が頭に浮かぶ。

兄に対する思いでは片付けられない言葉。絞り出す一つ一つに心の全てが込められている。一体、ディルはどんな瞳で見つめ返しているのだろう。逸らすことなく受け止めている気がした。


「これだけ縋っていても、お兄様は感じてくれないのですね」

物音すらしない空間には、嫌という程二人の音が伝わってくる。今どんな形で向き合っているか想像がつく。

ミレイアはどこかを擦っているようで、おかしそうに小さく笑った。


「今までの人は、ココを昂らせて興奮していたのに……お兄様はつれない人。それとも違う誰かを思い浮かべていますか?」

「ミレイア、離してくれ」

「……嫌だと言ったら?お兄様とて、私が今どんな気持ちなのか気づいていらっしゃるでしょう。このまま、身を任せてしまいませんか……?」


誘いかけるミレイアの擦る手がどんどん激しくなっているのが分かる。イリスは我慢できなくなってきて、全身から汗が出てきた。

こんなことをするために縛って閉じ込めたの?私を煽って、傷つくとでも思ったのか。


――思い通りになっているのが心底悔しかった。どうしようもないほど、体の奥が熱くなってきている。もうやめてと叫んでしまいたかった。口にある布が唾液で染みていく。


「それがミレイアの望みなのか?」

真っ直ぐ届いたディルの声に、イリスはぎゅっと目を閉じた。

お願い、彼女に体を許さないで。これ以上、何も聞きたくない。こんなにすぐ近くにいるのに笑いかけることも、触れることも、出来ないなんて。


気付けば涙が頬を横切って流れていた。狂いそうなほど、ディルを求めている。

もし今の感情に従っていたなら、ミレイアを押し退けてディルの手をひいて走り去っていたかもしれない。


「そうです。私がお兄様に望む、最大の願いです」

「……っ」

ディルがピクッと反応したのか、足が何かにぶつかる音が響く。


「分かっているんです……お兄様はお優しいから、私の思うままにさせてくれる。そこに一切の感情がないと知っていても。感じるのは罪悪感でも、家族間の愛情でもいい。それでも私は欲しくて仕方ない……」

ゾクリとなるような魅惑的な声でミレイアは擦っていた手を止め、ゆっくりと動き出した。ディルは何も言わず、静かに見ているだけのようだ。


「ひどい妹だと罵って頂いて構いません。尻軽と思って下さっても……」

ミレイアは嗚咽を零しながら、懸命に言葉を繋ぐ。


「血を分けた大事な妹を、そんな風に思えるはずがないだろう?」

そしてやはり、ディルはミレイアを宥めた。


「俺にとってミレイアは唯一無二の家族……この世に一人しかいない、大事な存在だ」


イリスの心を砕くのに、十分すぎる言葉だった。


「カモーアは九年前になくなりましたが、王家のしきたりは破られない……お兄様、ご存じでしょう?」

「……ああ」

「私たちは、こうなることが生まれた瞬間から決まっていました。代々続く運命だと、お父様から教わりました」

「ミレイアは、嫌じゃなかったのか?」

「まさか。愛以上の思いを感じるお兄様なら、喜んでこの身を捧げたいと切に願っていましたから。憎きサイがその幸せを踏みにじった。明るい未来を、粉砕させた……っ!」

ミレイアは噴火寸前の思いをぶつけ、ディルを愛おしそうに眺める。


「お兄様の、大きい……」

フフと淫美に笑うミレイアは、イリスに叩きつけるかのようにそう零した。

触れているのはきっと――…


 「世間では私の行為を愚かだと言うのでしょうね……何を馬鹿な、兄のものを愛撫して……血迷ったのかと笑うでしょう」

「……っ、ミレイア」

「禁忌、だと……誰も犯さない、タブーだと……それでもいい、今この一瞬お兄様を支配しているのが私であるのなら、地獄の鬼になっても構わない」


くちゃっと唾液が絡む音が無情にも資材庫に伝わっていく。

絶望に満たされたイリスは、混乱と戸惑いで全身の血が引いていくのを感じた。頬に熱がこもり、唇を噛みしめて溢れる涙を抑えようとした。しかし、止まってくれない。


今まで、こんなにも歯がゆい思いを抱えたことはあっただろうか。どんなに心で求めても、叫んでも、届いてくれない。

ミレイアに感じるのは、認めたくないが完全なる嫉妬。こうやって苦しませるために、ディルを試して誘導させている。


もうやめて、やめて……!気持ちが高ぶったら、鼻が痛くなった。


「く……っ」

「私を、感じて下さい。お兄様の心から望んでいる人が違う方でも……悦楽の端に私がいるのなら、今は満足です」

ぴちゃっ、じゅくっと奉仕する音がイリスをさらに追い込んでいく。


「もう、いい。やめてくれ……そんな泣きそうな顔で言われたら、どうしたらいいか、分からない……」


――やめてほしいのはこっちだとイリスは思った。

もがいても、ただ底の見えない沼に下降していくだけのように、ディルへの熱情が膨らんでいく。

沸点など、とっくに超えている。これ以上、上がることなど出来ない。ただ息が出来ないほど苦しい。このまま息を止めてしまおうかとも思った。そうしたらこの地獄から解放される。


「やめませんよ……?だって、こんなにも反り返って……お兄様の香りが溢れてくるんですもの」

「ッどこで覚えて、きた……?一度や、二度じゃ……ない、なッ……?っぁ」

「ふふ……私がまだまだ幼稚な妹だと思いました?どこを刺激したら可愛く反応して下さるのか分かっていますよ。ほら、ココ……」

「――っ」


ディルの声にならない声が、イリスをさらに苦しくさせる。


「他の人のモノを咥えているときだって、ずっとお兄様に重ねていました……今日ここに来たのは、お兄様の気持ちを確認したかったから。私と添い遂げる御覚悟があるのか……」

「くッ、あ……」

「お兄様は私を裏切らない……そう、でしょう?」

とどめのばかりにじゅるッという激しい音が響いた。その時イリスは放心状態で、何が起こったのか分からなかった。ディルのくぐもった声が息切れと共に漏れていく。


「私を見ながら、達して下さいましたね……」

「……っは…これで、満足か?」

「やだお兄様、そんな目で見つめないでください。もう一度シたくなります……ええ、とっても嬉しいです」

小悪魔のようにはにかむミレイアは幸せそうにディルに抱きつく。 


「例えそのお心に私じゃない誰かが巣食っていても。お兄様には、私がいます。いつか必ず、振り向かせてみせる……」

「ミレイア、何の事を……」

「誤魔化しても無駄ですよ。私には邪魔でしかならない存在。それでも、もう介入なんてさせない……」

「馬鹿だな……俺にはミレイアしかいない。お前だって、分かっているだろう?」

イリスには見えないが、ディルはミレイアの頬に手を伸ばしていた。愛情にあふれた瞳を受けて少しはミレイアも落ち着いたようで、ディルの腕に包まれて小さく頷いた。


「ごめんなさい、我が儘ばかり……お兄様の負担にはなりたくないのに、欲求が尽きない……求めて、しまう」

「お前は、俺にだけ甘えていればいいよ。負担だなんて思わない…望むことは、すべて叶えさせてやりたい」

「……お兄様…ッ」

もういい、いいから……早く消えて。イリスは麻痺した感情の中で震えながら目を閉じた。

疲れ切った体と心が安定を失い、振り子のようにぐらぐらと揺れている。そして静かに、意識を閉ざしていった。

 


「………」

誰もいなくなった資材庫は、静けさだけが支配していた。いつの間にか二人の姿も消えて、いつものように暗くて重苦しい空気が広がっている。


足を踏み入れた人影は、ゆっくりとイリスの元へ進んでいった。


そこには積み重ねられた資材の片隅で意識を失っているイリスの姿があった。

口に布を押し込められ、ぐたりと横たわって目を閉じている。苦悶に満ちた表情は、イリスの美しさを翳らせていた。

瞳に滲んでいる涙は地面に吸い寄せられるように流れ、顔のそばには濡れた跡があった。


痛々しいとしか言いようのない形で、置物のように転がっているイリスを見ても訪問者は何も言わない。

ただ面倒臭そうに溜息をついて、口に込められた布を出し、縛ってある縄を解きにかかる。


ぴくりとも動かず、死んだように眠るイリスの目にはまだ光るものがあった。少ない灯りで伏せられた睫毛が影絵のように浮かびあがり、滑らかな肌を映し出す。


「……もっと、苦しめばいい」

呟かれた言葉はイリスに届くことはない。

やがて足にあった縄も解け、これからどうしようかと悩む男――レインはじっとイリスを覗きこんだ。


ディルとの戦いで傷ついた手には包帯が巻かれ、さらには強い力で縛られた跡も目立った。金髪が無造作に広がっていても、艶だけは失われていない。

首筋には赤い痕が所有印のように散らばり、白い肌にはりついている。あまりにも無防備で弱弱しい姿に、男ならまず興奮するだろう。

ライアンを始め、様々な男と惹きつける魅力があるのはレインでも理解できた。


「生まれ持った美貌が運の尽きだな。今まで何の苦労も知らず悠々と暮らしてきたくせに……そんなにつらいなら命を絶ってしまえばいい」

レインの脳裏には、強い輝きを瞳に秘め、何事にも真っ直ぐなイリスの顔が刻みついていた。


今にも壊れそうな危うさを持っているのに、体の芯から溢れる思いを糧に精一杯生きている。

そして陰険な悪口も相手にせず自分を貫いている。たかが女に何が出来るとレインは心の中で馬鹿にしていた。何より悔しいのが、ライアンが惹き込まれるということ。


「剣術に秀で、才能にも恵まれ……愛する者に囲まれ」

レインの手が、じわりじわりとイリスの細い首に伸びていく。柔らかい首筋には誘うかのようなうなじがかすかに見えた。


「俺のものまで、奪っていくのか……?」

ぴくっとイリスが動き、レインははっとなって距離をあけた。無意識にやろうとしていたことに蒼くなって、深い息をついた。

もぞもぞと動く体に、イリスが覚醒に近い事を悟る。


「つめ、たい……」

薄っすらと目を開ければ、突然イリスはバッと起き上がり辺りを見回した。


鋭い視線を感じて、その方向に顔を向ければ、無表情に近いレインが立っていた。数秒の沈黙が流れ、少しぼんやりとしていたが、近くに散らばる縄を見てやっと口を開く。


「助けて頂いて、ありがとうございました」

目元を細めて、少し安心したように微笑みながら礼をする。子供のようなあどけなさが無垢に感じる、優しい笑顔だった。

 
「……立てますか?」

「ええ。少し、体が痛むけれど……自力で部屋に戻れます。どうもありがとう」

言っているそばから、イリスの体がよろける。


長時間同じ体勢でいたせいや元々の貧血、そして大きいのが精神的負荷。思い当たる節はいろいろあった。

レインはきっと自分に触れたくもないはず。これ以上、迷惑をかけるわけにもいかなかった。それに、気を抜いたら涙がこぼれそうで今すぐ一人になりたかった。


「部屋まで、送ります」

そんな嫌そうな顔で言われても困る。イリスは苦笑しながら、ふらふらっと歩いていく。


「お気遣いはとてもありがたいですが、大丈夫です。レイン様も、することがあ……」


だめだ、視界が歪んで揺れる。この人に頼りないところは見られたくない。

変な意地だと思われてもいい、このまま壁を伝って歩いていけば何とか辿りつくだろう。


「……強情ですね、姫君は」

面倒臭そうに後ろから聞こえると、イリスはひょいと抱えられた。

え、と思ってぱちくりと目を開いたら、レインの顔が近くにあって驚く。いわゆる、お姫様だっこというやつで…意外で仕方ない。いかにも嫌悪しそうなのに。


「あの?」

「何も言わないでください。私とて本意ではないです」

「分かりやすい回答で……」


誰にも見られたくないのか、半分走りながら部屋に急いでいる。レインは思ったよりも筋肉質でがっしりとしていた。細いから、もっと緩い体かとイリスは思っていた。



この人には助けてもらってばかりだ。

渋々といった様子でも、危ない時には手を貸してくれた。きっと心の底では嫌な思いを感じているはずなのに。

この人を繋ぐのはライアンがいるから。遠くから見られていると視線で分かる。


「……そんなに見ても、私には何もありませんよ」

廊下を曲がる最中で、顔を歪ませながら言う。目を細められ、嫌そうに足を進めていく。

知らぬ間にじっと覗きこんでいたらしい。小さい頃からの悪い癖だとイリスは反省した。


「ごめんなさい」

人から疎まれることは好ましい事じゃないが、この人にはこの人なりの事情があるのだろう。

奥を知ろうとすれば、これからの関係が悪くなりそうだと直感が告げていた。これ以上不快感を与えたくないし、何かと世話をかけそうな気がする。


堅物そうな顔が眉をひそめて、無言の返事を返してきた。必要以上の会話は望んでいないらしい。

やがて見慣れた階段が見えてきて、もうすぐ部屋だと分かった。早足でどんどんを上って行くと、前方から暗い影が見えてすっと立ち止まった。


「どうし――」

声をかけようとしたら、まさかの事態が発生した。

ドンッと大きな音が響き、気が付いたらイリスは床に尻もちをついていた。あまりの突然の痛みに軽い脳震盪が起きた。

いきなり落とすなんてさすがにひどいだろう。イリスはまだ目がぐるぐると揺れているような気がして頭を押さえた。


「あっれ、レインと――…姫君?こんな夜中に何しちゃってるんですかー?」

「……ルーク様?」

パーティのときにライアンの側近の一人として紹介された、雰囲気の掴めない人。


今起きたかのような格好で、上着を適当にかけている。

気を抜けばあっという間に深い波のような圧に巻き込まれそうなオーラを具えている。探るような視線が突き刺さり、口の端がつり上がるのを見て、イリスは慌てて答えた。


「私が貧血気味で満足に歩けないので、部屋に送り届けて頂いてました」

「へぇ…それにしては随分親密そうな空気でしたけど。しかもライアン様がいない夜に二人でって…もしかして――」

「お前が想像する展開は一切ない。姫君の言うとおり、部屋まで送ろうとしていただけだ」

「そうです。勘違いはしないで下さいね」


どうかなー?と楽しそうに笑うルークが、なぜだが分からないが怖いと感じてしまった。


怪しいことなんて何もないのに、秘密を隠しているような気分になる。

自分を快く思っていないレインが、私を襲うわけないだろうとこの人なら簡単に気づくはずなのに。電撃のように目が合うと自然と体に力が入る。

 
「お前はなぜここにいる?」

「あぁ、今日の子猫ちゃんに飽きちゃったから違う子を探しに?そしたら偶然バッタリと」

にへらっと笑うルークにイリスは怒りを覚える。今まで何人、この人の餌食になりかけたか。二回ほど止めに入った。


「イリス様はいいタイミングで現れるからお預けくらっちゃうし。最近は欲求不満でー…生殺しですよ、ホント」

「ここは色街ではありません。お城の人間に手を出すのはやめて下さいと何度もお願いしてるではありませんか」

「そんなキツイこと言わないで下さいよ。男は本能に忠実なんですから。まぁイリス様をお相手できるなら一ヶ月くらいは我慢しますけどね」

熱っぽい視線で誘うように微笑むが、イリスは欠伸を噛み殺して流した。


「私なんて相手も務まりませんから。エドームか他でお探し下さい」

「つれないなー、一回くらいタブーを犯してみましょうよ。最高の気分を味わえますよ?きっと病みつきになる」

「そこまでにしろ。姫君の前だぞ」

レインが止めに入ると、つまらなさそうにルークはぶつぶつ文句を言った。尚も口説こうと近寄ってくるため、距離を開けて返事をする。


イリスとしては今夜は早く眠りに入りたい。明日はエドームの軍を受け入れなければならない。

もう頭がふらふらで、立つのも限界だったりする。今は休息が必要だった。


「ごめんなさい、具合が悪いわ…これにて失礼します。レイン様、ありがとうございました」

素早い動作で一礼すると、早足で部屋に向かう。


部屋に入り真っ先にベットへ近づくと、崩れる様に横になった。

一人になるとディルやミレイアのことが頭から離れず、また涙が出てきそうになる。しかしすぐに睡魔に襲われ、疲れた体から意識を手放した。



次の日早朝から、イリスは準備に追われていた。

エドーム側の要求は絶えず、ベットの管理だとか馬小屋の設置など細かく言われたが、要望通りに従う。

ただ簡単にはいかず不備が出たり、報告と間違っていたり、修正すべき点も多々あった。気付けば到着時刻に迫り、焦っていたらライアンが笑みを浮かべてイリスの元へやってきた。


「イリス、準備は出来たのか?」

いつものように髪を弄ばれ、後ろから抱きしめられる。もう慣れた光景で、城内の者は訝しげな顔をして素通りしていく。


「もうほとんど終了しています。立ち会いには間に合うようにしますから、今は失礼します」

「これだけ迅速に動けたのを褒めてやろうと思ってな。今日の夜は褒美をやる」


この人が言う褒美にはろくなことがない。今日の夜は何か嫌な事が起きそうだと今から苦痛に感じる。

ささっとライアンの手をすり抜けると、後ろで薄く笑う彼が一瞬見えて溜息をついてしまった。


時間に追われていたため、あっという間にエドームの軍がやってきた。

率いてきた将軍は武骨な肉体で厳格な表情をした中年の男で、イリスを初めて見ると、馬鹿にしたような視線を送ってきた。


気後れするような圧力をかけられたがしっかりと受け止めて、小隊に分けられた騎士達を案内するため指示をする。

一人で行えることじゃないため、複数の者に頼み込んだ。案内するだけでも骨の折れる作業で、食事も用意しなければならない。


さらに増えたエドームの軍を、厄介者のように見つめるカモーアの騎士。王都は人に溢れ、喧騒や乱闘を鎮めるため、多くの部隊が巡回を行っているらしい。


イリスは一日中ずっと動いたせいか、気付けば日も暗くなってきて夜が訪れていた。

途中で馬鹿騒ぎしだす連中や、喧嘩を吹っ掛ける騎士や、とにかく散々で大きな疲労が圧し掛かってきた。


「ご苦労だったな、イリス。やつれた顔をしているぞ」

「……ライアン様も、お疲れ様でした」

内心クタクタで、今は喋る元気すらあまりなかった。叶うなら今すぐベットに横になって眠ってしまいたい。

しかし昼前にライアンが言っていた事を思い出して、体が固まる。


「疲れているだろうが、今日は庭園へ行くぞ。今夜の月が綺麗に映えている。たまには眺めるのも悪くない」

「……ライアン様にそんな趣味があったとは、意外です」

「それはまだ俺を理解できていない証拠だな。もう体の方は深く受け入れているが?」

「し、知りません、そんなこと……」

イリスは真っ赤になって顔を逸らした。

 
「いつまでたっても初な反応をするな。からかい甲斐がある」

フッと笑みを零して肩を抱き寄せられた。ふわっとイリスの金の髪が広がり、柔らかな香りもそっとライアンにかかる。 

  
ライアンにしては珍しく、あまり口を開かずにイリスに寄り添いながら夜の城を歩いていく。


重苦しい空気ではなかったが、冗談を言ったりからかったりするのがいつものことなのでイリスは違和感を覚える。

触れられる部分から肌の熱を感じて、対照的な深夜の冷たさを実感した。夜風は体に良くないが、ライアンの温度によって寒いとは感じなかった。


何度も通った道を行けば、親しみのある庭園が見えてきた。

ミレイアに紅茶をかけられ、罵られたことを思い出し、少しだけ心がざわついた。

頭上には大きな月が顔を出して白い光を投げかけている。少し蒼がかって伸びてくる光りの不思議な光景が誰かの雰囲気と混ざり合うような感覚にとらわれた。


「綺麗……」

思わず呟いてしまうほど、美しく思えた。最近心を落ち着かせて休んだことがなかったためか、余計そう感じる。

異世界の一部だけを切り取ったかのような鮮やかな花々が咲き乱れ、幻想的な世界が広がってみえた。


隣にいるライアンはイリスの手を誘導すると、近くの東屋に座らせた。

ライアンが手配したのか分からないが、近くに人の気配はない。二人だけしかいなかった。

彫の深い顔が覗きこんでくると戸惑って距離を取ってしまった。やはり根付いているのは恐怖で、体が先に動いてしまう。


「今夜は星がよく見えますね……」

会話がない事に少しだけ居心地の悪さを感じて、喋りかけた。

今日のライアンはいつもと違う様な気がして落ち着かない。なぜか、心臓がドキドキと活発に反応する。

向かい合っているのは国を追い込んだ人と自分に言い聞かせて、イリスは気丈に振る舞った。


「ああ」

なぜかライアンは、そんな単調な言葉しか呟かない。イリスはますます混乱してきて、ただ相手の顔を見ているしかなかった。

昼は自信に満ち溢れているその横顔が、なぜだか今だけ無防備なものに感じる。

この人にあまり月は似合わない気がした。日中のような燃える太陽が一番合っている、なんて、詩人にでもなったような感想を持つ。


「今日は疲れただろう。横になって休め」

「な、それなら部屋に戻って休みま……」

「いいから」


強引にライアンの足の上へ寝かされ、一気に体制がずれた。小さな声を出して抗議しようとしたが、なぜか息が止まってとどまる。

上から月光のように降り注ぐライアンの瞳と真っ直ぐに目が合って、痺れたように動けなくなる。口が開かなくなって、ゆっくりと瞬きしながら、黙っていた。


――どうして、なのか。

熱を宿した強い視線がぶつかると、抑止力がかかったように何も出来ない。


「お前は、温かいな」

頭に染み込むような優しい声が余韻を与える様に響いていった。

きっとこの人は、何人もの女性とこうやって視線を交わしたのだろう。

そこに愛はなくとも、一瞬で錯覚してしまいそうになる。自分は受け入れられたのだと思いこんでしまう。

甘い言葉一つで容易く自分の魅惑の領域へ踏み込ませる。


イリスにはそんな、ライアンの吸収されるような力に気付いていた。だからこそ抗おうと心で壁を作っていた。それでも、脆く弱い形の壁だった。


しばらくじっと動けずに、ただ見つめ合っていた。


「目を閉じろ。直に眠くなる」

長い沈黙の後、ライアンは頬を撫でながら笑った。


「そんな訳には……」

「いいと言っているだろう?ちゃんと部屋に運んでやるから」

確かに今、体は睡眠を欲している。気を抜いたら一気に脱力して眠ってしまいそうだった。包み込むような温度が心地いいのは本当で。

こんな所で寝てしまうのは……と思っても蓄積された今後への重みや疲れには勝てずに、イリスは閉じかかった目で小さく呟いた。


「ありがとう、ございます……」

そしてすぅっと息を吐き出すと、完全に寝息を立て出した。

少しだけ離れた位置で眠りにつくイリスは、ぐったりとしているようで穏やかな表情ではなかった。ライアンは月の光に照らされるイリスの髪をいつまでも撫でていた。


「……お前は、気づいていないのだろうな。側にいるだけで、世界がこんなにも輝く事を」

らしくない言葉をもらし、フと唇に笑みを浮かべる。


「眠ればいい。お前の夢に描くのが違う人物であろうと……イリスは俺のものだ」

寝ているイリスを起こさないように金の髪に触れるだけのキスをした。


その時、楽しげな女子の声が庭園の入り口から聞こえてきてライアンは顔を向ける。

一方は相手の腕を組んで、恋人のように熱っぽく見つめていた。仲が良さそうに入ってきた二人を見つめ、不敵な口元に弧を描く。


「――ねぇ見てお兄様っ、今夜の月はとっても綺麗……あら、ライアン様?」

「……」

偶然に出くわした二人組の正体は、ミレイアとディルだった。

どうしてこうもタイミングが重なるのか。或いは意図的なものが隠されているのか。真実を知るライアンは笑みを崩さずに口を開いた。


「兄妹仲良く夜の月を見ながら散歩か。いや失礼。恋人、の間違いか?」

「フフ……どうかしら。ライアン様とこんな場所でお会いするなんて。考えることは同じなようですね」

ミレイアはクスっと微笑みながら、丁寧な動作で一礼した。


ディルは会話などする気もないようで、挨拶もせず黙ってライアンを見ていた。

ただ注がれる視線の一部に昏々と眠り続けているイリスがいることをミレイアもライアンも気づいていた。


「兄は躾けがなっていない。あぁ……寝床の方が順応になるように仕込まれたせいか?」

「よして、ライアン様。これからカモーアとエドームは友好的な関係を築いていかなければならないのに」

「そうだったな。いつまでも女々しい奴を見ているとつい口が滑ってしまうようだ」


そう言うと、少しだけ体を動かしたイリスをもっと近くに抱き寄せる。

 
「イリス様、よくお眠りになっているようですね。よほどお疲れなのかしら。ライアン様の腕に抱かれて、本当に幸せな人……」

「そういうミレイア殿も、そこの屑に抱かれて眠っているんだろう?」

「ええ、だってお兄様の中は温かいですから……」


ミレイアは体を預けるようにしてディルの肩に顔を寄せて甘える。本人も嫌がる素振りを見せず、好きにさせているようだった。

離れていた分や見つけてやれなかった悔しさも含めて、せめて願いは叶えてやりたいとディルの優しさなのだろう。その様子にフッと笑みを落として、ライアンはディルに話しかける。


「復興は徐々に進んでいるようだな。王になる眺めは今までと違って見えるか?」

「お陰さまで。地べたを這って生きてきた過去よりは心地よく感じますけど?」

「凌辱された過去に比べればまだマシか。愛しい妹も手に入って、これ以上望むものはないな」

「……」

ライアンは小さく身じろぎするイリスの体をゆっくりと触れながら、ディルの反応を窺うように尋ねた。ミレイアはじっと期待するように兄の顔を見て、答えを待っている。


「そうですね、これ以上何かを望んだら罪になりそうだ……長年耐えてきた苦労が今に繋がって満足していますよ」

特に動揺する様子もなく、平然と言葉を落とすディルは、不安そうなミレイアを安心させるように引き寄せた。

少し意外そうに驚いたミレイアの顔は、嬉しさで笑顔が溢れる。


「なら、いい。せいぜい妹や国を大事にすることだな……余計なものに目を奪われずに」

「その余計なものとやらに、目を奪われた覚えもありませんが?」

ディルは勘に障ったようで、冷ややかな目で言い返す。


「よく言う。心には四六時中、妹とは違う奴がいるくせに」

「確証もないのに勝手なことを言わないでいただけますか?心など、本人にしか分からない不確かなものです」

「その本人でさえ気付いていない事実など幾らでも存在する。秘めた思いなど、他者から見たら滑稽にしか映らない」

そうだろう?とミレイアに視線を送り、嘲笑った。


「大丈夫ですよ、ライアン様――私が、そんな暇など与えませんから」


強い力でディルを引っ張ると、一瞬のうちに唇を奪った。空いた隙間から舌を出し、クチャッと唾液を絡ませて吸い寄せる。

突然の事に驚いたが、ディルは拒否しようとはせず、ただ受け入れた。ミレイアが終わるまで静かに待っている。


何も知らないイリスは、意識のない夢の中を遊泳していた。


「おいおい、見せ付けられるな。再会したばかりだと言うのに相当深い仲のようだ。兄妹であろうが関係がないらしい」

「あら、兄妹だからといって口付けしてはいけない法などありました?誰に後ろ指を指されても、背徳だと責められても、お兄様への思いは変わりませんわ」


何の迷いもなく口にしたミレイアは、そっとディルの口に手を這わす。逃すまいと縛るような強い眼差しだったが、ディルは渋るわけでもなく身を任せていた。


「堂々と声明されたのでは何を言っても効き目はないな。好きにしたらいい、俺に害が及ばないなら一向に構わないさ」

「ふふ、どうも」

ミレイアの艶めいた冷たい笑みは真っ直ぐにイリスに向かい、鋭い感情を表していた。


「だが、悪戯のやりすぎはよくない。傷物にしたらいくらカモーアだろうと容赦はしないぞ」

ライアンはイリスの手に触れ、薄くなった縄の痕を撫でる。指の先には白い包帯が未だに巻かれていた。資材庫の一件を知らないはずもなく、ミレイアをじっと見つめると凄みを利かせる。


「あら、ただのご挨拶ですわ。イリス様には少し刺激があったかしら……?」

それでも本人は、澄ました顔で妖しい笑みを浮かべ肩を傾げた。


「ミレイア、何かしたのか?」

ディルは目の前のイリスを見た後に低い声でたずねる。


「お兄様は知らなくてもいいことです。大丈夫ですよ、軽い冗談ですから。これからはもっと親密になれるように努力します」

「目が笑っていないぞ、ミレイア殿。イリスに構う暇があるなら、その屑の世話でもしていたらどうだ」

「ふふ、間に合っていますわ。本当は片時も離れたくないですけど、お兄様はお忙しいですから……」


十五歳とは思えない大人な顔をすると、ディルの胸板をすぅーっと撫でる。

その瞳で覗きこまれたらどんな男でもドキッとしてしまいそうなど、妖艶なオーラを纏っていた。


「……なんて、我が儘は言えませんね。今だけでも十分です」

誘いこむようにふわっと微笑むと、ディルの腕に絡みついた。ライアンは勝手にしていろとでもいう風に呆れ、口を開く。


「もういい、違う所へ行け。萎えた屑の顔も見たくない」

「そうですね、長居しましたわ。それでは失礼いたします。どうぞごゆっくり、ライアン様」


ディルに寄り添う形で礼をすると、イリスを睨むように見てから去っていく。

やがて庭園の奥へと消えていくと、ライアンは月を見上げてうっすらと笑った。 



「さて、あの屑はどう動くか――…?」

傍らに眠るイリスを愛おしそうに抱き寄せると、しばらくじっとして動かなかった。

 


「ん……」

イリスが起きると、隣にライアンはいなかった。

肌の優しい素材のシーツが目に入り、ゆっくりと体を起こす。音のしない部屋にはイリスだけで人の気配はなかった。


脳裏に昨日の月が浮かび、あのまま寝てしまったのだと思いだす。

ライアンに身を預けるように深い眠りに入ったのだろう。疲れはすっかり抜けていた。

自分の中で、ライアンに心の一部を許してしまったような気がして情けなくなる。いくら疲れていたとはいえ、あんなにも簡単に甘えたことを後悔した。


「まだ早朝ね。そろそろロズが起こしに来てくれる……」

ズキっと痛む頭を抱えて、鈍い光が零れるカーテンを一気に開けた。その眩しさに目を細めながら、視線を下に向け、完全に目を閉じる。


瞼の裏の世界は、いつだってあの姿が形を成して存在していた。胸が苦しくなり、ぎゅっとカーテンを握って気持ちを抑え込む。

忙しくしていたら深く考えないで済む。それでも、気を休めたら真っ先に思い浮かんでしまう。


すると、コンコンッとドアをノックする音が聞こえる。控えめな様子が伝わってきた。イリスはどうぞと声をかけて相手を待つ。


「失礼いたします……イリス様」

「あら、シンディ。珍しい、何かあったの?」

イリスの侍女の一人で、後ろに巻き髪をまとめたシンディが深刻な面持ちで入ってきた。

手の先がかすかに震えて、顔も若干蒼く、具合が悪そうだった。イリスは心配になって近くに駆け寄って声をかける。


「どうしたの!何か、あった?大丈夫?」

「こ、こんな朝早くに申し訳あり、ませ……イリス様に、会いたくて……わた、私……」

「落ち着いて、シンディ。そこのソファに座りましょう。ゆっくりでいいから、話をしてくれる?」


小刻みに揺れる手を包みこむと、優しくソファに誘導させる。イリスは根気強く励まして、焦らすことなく静かに語りかけて落ち着かせた。

一体何がここまでシンディを追い詰めたのか。内心不安でどうしたらいいのか分からなかった。 


「悔しく、て……私の行いを……罵倒した、エドームの騎士が……ッ!」

「エドームの、騎士……?」

イリスは小さく聞き返した。


「イリス様。私が歩兵師団第二班隊長、カーマ・レイグレンと恋仲にあったことを、ご存じでしたか……?」

絞り出すように言うシンディに無言で頷く。なんとなく頭の中で一つの線が繋がるのを感じて、無力さが込み上げてきた。

 
「ごめんなさい……私が、非力だったばかりにカーマは」

シンディの震える手を重ねて、イリスは声を掠らせながら謝った。

後の報告で、歩兵の騎士の多くが王都の一戦で負傷したと聞いた。決して警備が手薄だったわけではなく、エドルフの思惑によって瞬く間に城へと踏み込まれた。


必死に応戦したサイも、襲いかかる大軍に間に合わず追い込まれていった……


「イリス様は何も悪くありませんッ、ただ……どうしてカーマは死ななければいけなかったのか!いくら考えても答えが分からないんです……!」

「あの日、カーマは最後まで戦ってくれた……」

ぎゅっと手を握り返してくるシンディは力を失ったように下を向いていく。


「あの日の混乱の最中、最期に見たカーマは今でも、離れません……陛下がいらっしゃる王室で……エドームの王子に、貫かれた!」

「――っ」

「もう、カーマはいない。それは、分かっています……ッ!だから、せめてもの手向けとして、毎朝花を彼に送ろうとしました……」


彼女の瞳から一滴の涙が零れ落ちてカーテンから光る朝日と反射する。イリスは苦しくなるような痛みを覚えながら、何も言わずに聞いていた。


「それなのに、通りがかったエドームの騎士は……私を嘲笑ってカーマへ飾った花を踏みつけていきました……っ!」

「なんてひどい、そんなことを……?」

「死者に執着してどこまでも浅い女だと、吐き捨てられました。言い返したところで何も得られません……ただ、俯くしか出来なくて」


イリス様、と縋るように激しい怒りに染まった目を合わせる。

我を失いかけているとイリスは一瞬で悟った。頂点に達しそうなほどの荒い感情に囚われているシンディは大粒の涙を散らしながら叫んだ。


「どうか、どうか……カーマの仇を打って下さい。イリス様なら、不意打ちをついてエドームの王子の命を奪える……!」

「――…え?」

ライアンの命を、取 る?イリスは頭の中が真っ白になった。


「こんなお願いをするのはどれだけ失礼なのか重々承知しています……!私が出来るならそうしたい!けれどあの人は警戒心が強いのでまったく機会がない……」

「シンディ、」

「おつらい思いをされているのはイリス様もご一緒のはず!陛下やその他大勢の騎士が犠牲になったのはエドームの王子のせいです!」

「……ええ、そうね」

イリスは押し潰されそうな感情に襲われ、相槌しか返せない。


「私だけではないです。たくさんの人間が未来を失いました。大切な家族や恋人を奪われて憎しみだけが膨らんでいく。周りはみんな口には出しませんが内心穏やかではありません」

シンディは消えそうな声を必死に紡ぎだす。


「身勝手で卑怯な願いだと、自分でも分かっています。心優しいイリス様に付け込んで自身が傷つくのを恐れて……それでも心に悪鬼が住みついているかのようで、いつ暴れ出すか気が気ではないんです」

「ごめんなさい、シンディ……ここまで追い詰められていたのに、私は何も出来なかった」

「いいんです。私が、私が狂いそうになって……迷惑、しか」

嗚咽を吐き出しながら苦しそうに声を詰まらせるシンディを見て、イリスは瞳に涙が浮かんだ。

どうか、どうか皆の悲願を叶えてください。イリス様なら、必ず達成できます……と全身からの叫びを直に受け、成す術が見つからない。


「エドームの王子が崩御されたなら、きっと軍も統率を乱します。きっとサイも取り戻せる……っ!」

「それが、皆の願い、なのね」

「はい……っ」

「シンディ……伝えてくれて、ありがとう。素直な思いを聞けて、嬉しいわ」


すべてを包み込むようにシンディを引き寄せて、強く抱きしめる。彼女は震えながら、イリスに何度も謝り、涙を流し続けた。

誰が悪いとか、誰が愚かだとか、意味を見出すべきではない気がした。きっと根を辿れば暗闇の中にイリス自身が隠れていることも分かっていた。


――全ての元凶は、自分にあるのだと。

 
 
 
「――ロズ」

日も高い位置に昇り始めた頃、山積みにされた書類に手をかけながら、イリスは静かに名前を呼んだ。

物憂げな長い睫毛が伏せられ、呟く声も小さかった。知らぬ間に頬杖をついていた手をゆっくりと離す。


「はい、イリス様?」

「秘密裏にお願いした、城下の件だけど……今日は抜け出せそう?」

「お任せ下さい。人目を盗んでこっそり出ていきますわ」

「ありがとう。ライアン様は私が引きつけておくから。頼む、わね」

微笑みながら、そばに置いてある紅茶を口に運ぶ。温かい液体が喉を伝っていくと、仄かな香りが鼻孔を満たす。


「……この紅茶、とても美味しいわね。確かエドームの有名な資産家が栽培して出荷しているとか」

「イリス様、ご存じありませんでしたか。ファンシー家の方々ですよ。かなり前ですが食事会でお会いしたこともあるかと」

「そうだったわね。でも不幸に見舞われてたくさんの方が亡くなったって……」


鮮烈な出来事として記憶に残っている。

ファンシー家の家庭で出火した炎が空気に乗って被害を増し、近くの民家までも焼き尽くした。消化作業も煽り風によって思い通りにいかず、大変な思いでやっと鎮火された。


ファンシー家の人間はほぼ焼死体で発見され、無残な状態が広がっていたらしい。死者も少なくなく、悲惨な事件として世間を騒がせた。

その後は復興も出来ないほどの損害を受け、紅茶の栽培も不可能だと言われた。


「もう十年以上前の話ですが、当時はかなり大事になりましたね。エドームでも強い権力を持っていた一族の一つでしたから。今ではこの紅茶も稀少なものになりました」

「田園もろとも火によって消されたのよね……サイも多くを輸入していたから、打撃も大きかったわ」

「当主であるバロン氏は正義心の強いお方だったと聞いています。さぞ無念でしたでしょうね」

「優しくて心の広い方だった。どんな微々たる不正も嫌って、自身の実力と腕で事業を成功させたんですもの。お気の毒としか……」


その時、バンッと壁を叩くような大きな音が響いた。埋め尽くされた書類の山がその音に反応してぱらぱらと宙を舞う。


ドアの向こうで何かが起こったらしい。不審に思ったロズがゆっくりとドアへ向かい、ノブを握って開けた。

イリスはその先にいる人物を見ると、自然に声が漏れた。


「――レイン様?」

廊下の壁に拳を当て、俯くようにして微動だにしない彼がそこにはいた。

イリスは様子がおかしいレインが心配になり、ドアへ近づいていき、控えめに声をかけた。


「大丈夫ですか?具合が悪そうですけど……」

ゆっくりと肩に手を置こうとしたら、突然レインは思いっきりイリスを突き飛ばした。

ぐらりと安定を失ったイリスは倒れかかる寸前でロズが焦りながら後ろを支えてくれる。何が起こったのかとびっくりしてレインを見る。彼は冷たい眼光を真っ直ぐにイリスへ向けた。


「その手で、私に触れるなッ」

今にも噛みつきそうな荒い声を出し、さらには睨みつけられ、ビクッと体が震えた。レインからは憤りのような怒りが感じられて、ロズと顔を見合わせて一歩後退する。

まるで暗い過去を覗きこむような瞳が静かに揺れている。イリスは不安そうに視線を送った。


「……お言葉ですが、姫様は貴方を心配されて」

「ロズ、何も言わないで。レイン様には事情があったのよ。具合が悪いようでしたら、アルトリア様がいらっしゃるお部屋にご案内しましょうか?」

「……」

レインは目を合わせようとも返事をしようともせずに壁にもたれかかり、小さな息を吐き出す。

汗ばんだ額に手を当て、体を落ち着かせようと息を整えている。彼の心に直接手を触れるような話題を持ち込んだせいなのか、イリスは頭を探る。


――ファンシー家。

なぜだか、心がざわつく。


「気分を害してしまい、申し訳ありませんでした。これ以上はご迷惑になりそうなので、部屋に戻らせていただきます」


お大事に……と一言呟いて、渋い顔のロズに目で合図しながら部屋に入る。

こんな態度は軽薄かもしれないが、もう彼を刺激しない方がいい。自分の言動すべてがレインを追い込んでしまう気がした。


まったくひどい人ですねとロズが怒るのを聞きながら、イリスは元の机へ戻っていく。ドアをもう一度眺め、何か思い悩むように目を伏せると、本来の公務に意識を集中させた。


一方、レインは。


「……イリス・サイ!」

溢れる憎悪を抑えつけようと必死になっていた。血管が浮かぶほど手を握りしめ、耐えるように目を閉じていく。


「何も知らないのも、罪だ……」

がくりと項垂れるレインの耳にはキラリと光るピアスがあった。


イリスはこの日の夜、ライアンの気を引くためすぐそばでお酒を勧めていた。

出来るだけ自然に、何の疑いを持たれることなく、いつものように表情を抑え込む。


ライアンは些細な変化でも見逃さない。しかしイリスも今まで王女として暮らしてきたため、表情や立ち振る舞いに関してはいくつかの演技を身につけていた。

これまでに何度も表舞台に出る機会があった。それなりの術は幼い頃から学んである。


「せっかくの顔もふくれっ面で台無しだぞ。もっと丁重にもてなせないのか、お姫様?」

「残念ですが、もともとこういう顔なので。お気になさらず飲んで下さい」


そう言いながら、ライアンが差し出す器に透明なお酒を注いでいく。他の人に注ぐなら今よりは丁寧に扱うが、目の前の人にもてなす気などない。

イリスも飲むように言われたが、そんな気分ではなかったため首を振って断る。


「まだまだお子様のようだな、俺と大して年も変わらないというのに」

フッと鼻で笑うような態度でさえ、ライアンの魅力の一部になる。ゆるく着崩してちらりと覗く胸板に視線がいき、イリスは冷ややかな目をした。

この人に何度も抱かれ、その腕の中で目を閉じた。心に引っ掛かりのような靄を感じて、イリスは自分に嫌悪をする。


「とはおっしゃいますが、五歳も離れています。ライアン様は二十三歳でしょう?」

「そうだ。お前よりは大人だな」

コトンとお酒が入った器を四角い机の上に乗せると、イリスを自分の方へ向かせる。射るように食い入るように見つめられ、ドクンと鈍い音を立てまた心臓が高鳴った。


「堅苦しい会議で頭を使ったからな、今日はたっぷり可愛がってやる」

「ライアン様、酔って……」

仄かに漂ってくるお酒の香りにイリスは嫌がる姿勢を見せる。ライアンの目は完全に自分を欲していて、正直面倒だと思う。

眉を八の字に曲げ、必死で距離をあけようとするイリスを逃すはずもなく。


「あぁ、俺が酔うのはお前だけだ。理性も粉々にするほど、な……」


いとも簡単にイリスを抱え上げると、ベットに歩みを進めていく。

触れられた部分から肌の温かさが伝わり、気付いたら白の天蓋に包まれるベットに横たえられた。

ギシッと音がしたかと思えば、ライアンがイリスの上に覆いかぶさってくる。限りなく近い顔と顔に目を見開いた。


「っん!」

「こっちを向け、逃げるな。どうせ逃れても、お前にはここしか居場所はない」

「……い、やッ」

また、この仕打ち。

自身でも心の奥で感じている孤独を突きつけられ、ライアンという存在を知らしめてくる。

毎夜告げられることで、洗脳されていくような痺れを覚える。心を強くもたなければ、その流れるような言葉に身を包まれそうになる。

 
そして、その渦の中にいることも感じていた。引き返せずに、ただ、引きずられていることも十分すぎるくらい理解していた。 


「ライア……様……」

「何度も言っているだろう。この時くらい、ライアンと呼べ」

「そ、んな……できませ、ん……ッ」

イリスの中で頑なに守ってきたライアンへの距離感。それを縮めてしまえば、激流に巻き込まれるように元へ戻れなくなる。


彼がイリスに抱いている思いはすべて真実で、共に過ごしていきたいと願っていることは、これまでの生活を受けて分かっていた。

少しは体を考慮してくれたり、優しく触れてきたりするのも、きっと愛しいと思ってくれているから。


だからと言って、サイの国を犯したことを許すような心の広い器は持っていなかった。

シンディをはじめ、犠牲にならなくていい人が多く犠牲になった。そしてその原因が己にあること――どうやっても贖える罪ではない。いつまでたっても消える事のない罪悪感に蝕まれる。


「ん、んんッ」

くちゃ、ぴちゃッと音が響く。

口に侵入してきた舌が重なり、唾液が結ばれ、イリスは酸素を激しく求める。

啄ばむようなキスの仕方が頭を少しずつ溶かしていき、薄い涙の膜が目元に広がった。


「呼べ、俺の名を」

「――ッ」

イリスは以前のことを思い出し、顔を背ける。


「また寸止めがいいのか?前はあんなにヨガっていたのにな」

苦しそうに息を吐くイリスの上で崩される事のない笑みを深めていく。この前は同じ駆け引きをして、ライアンが飽きるまで何度も焦らされ、最終的に日が昇る時間帯にイリスが折れた。


何時間にわたる刺激と言葉による攻めにイリスはぐちゃぐちゃになりながら耐えた。が、その強烈なまでの波に我慢できず、震える声でライアンの名を呼んだ。

またあの思いを経験するのは絶対に嫌だった。それでも、ここで譲ってしまえばまた一つ、心を委ねることになるような気がして。


「ほら、どうする?」

ライアンの手が胸へと忍び込み、イリスは反射的にシーツを握りしめる。

ゆったりと弄ぶように頂きに向かって動き出し、縦に横にその早さは緩やかだった。


「~~ッ…」

膨らみに手が這う度に、イリスはくぐもった小さな声を上げる。ライアンの長い指が柔らかさを実感するようにやんわりと揉みほぐす。

どうして、こんなに上手いの……?と思う程、電流が走ったように体が揺れる。


「あッ……!」

反応を試すようにその手が腹部を伝えば、イリスの神聖な場所へと伸びていく。膨らみかけた蕾を横切ると、性感帯に染みる刺激のように感じて、体を震わせる。


濡れてはいないものの、この人はヤり方を熟知しているようで、巧みに触れてくる。

もう何度も抱かれた。自分の感じる全てを吸収しているのだろう。悔しいけど、主導権はこの人が握っている。


「……イ、アン……」

「聞こえない」

「ライ、アン……お願い、やめて……」


――私は、この人に圧倒されている。


 
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