亡国の王子の復讐

朝日

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新たな動き Ⅱ

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「下ろしてくださ……っ」

ズキッと痛みが走ると顔をしかめる。


「ほら見ろ、痛みが増すだろう。少しはじっと出来ないのか」

いつまでも子供のように抱かれているわけにはいかない。薬品の香りがつんと鼻をつく部屋の中で、ベットに寝かされた。

左胸の上にウィールから衝撃を受けたイリスは無理は出来ずに、横を向いて黙った。


医者は呆れた様子でやってきて、小言をもらした。


「また姫君ですか。ライアン様、しっかりお守りしてあげないと駄目でしょう。ただでさえ繊細な女性なんですから」

「説教は聞き飽きた。後は頼むぞ。俺はまだ片付いていないことがある」

そう言うと、さっさと医務室から出ていってしまった。嵐のような人だと何度でも思う。

その後ろ姿を見ながら、イリスはゆっくり起き上がろうと力を入れる。


「はいはい、動かないでください姫君。大事なお体の具合を確かめないと」

「お手を煩わせるわけにはいきません、私は大丈夫です。まだやる、ことが…」

しかしドスンッと大きな音を立てて、ベットに追いやられる。え、と思いながら医者の顔を見ると笑っているが怒っていた。逆らえないような威圧感に怖い顔だと言葉に詰まる。


「私は女ですけど、男ばかりのエドームで医者をしていましたよ。そう簡単にはいきません」

「ですが……っ」

「エドームの医者に見られるのは嫌かもしれませんけど、我慢して下さい。ライアン様に怒られますから」

有無を言わせない雰囲気に流されるまま、カーテンを引かれると様子を見られた。

その間ずっと無言でいたイリスは、女性の医者の手つきを観察すると相当の腕だと分かる。荒っぽいエドームの医者でやっていけるほどの実力の持ち主なのだろう。

ぱちっと目が合うと、逸らすことができずに見つめてしまう。


まだ若い人なのに、医者として貫禄のある目。高い位置に束ねた巻き髪の金が揺れる。


「噂通り、美しいお姫様ですね。傷を増やすことが得意みたいですけど。血で染まった手と苦しそうな顔で運ばれた時は何事かと思いました」

「貴方が手を治療して下さったんですね…何度もすみません。ありがとうございます…あの、お名前は?」

「……アルトリア・ヴィレッツです。貴方に名乗るほどでもありませんが」


手でおさえつけて反応を窺うと、体には問題ないですと言葉を落とす。なら心配ないとイリスはロズを合流するために行動を開始しようとした。

しかしまた恐ろしい笑顔で言われる。


「だ か ら何回言えば分かるのです?問題ないですとは言いましたけど、今すぐに動けとは言っていませんが?」

「ご、ごめんなさい」

「無茶も大概になさって下さい。貴方は幼いころのライアン様と似ています。どんなに言っても聞かず、無理をしようとするんですから」

幼いころ、の……イリスはアルトリアの発言を聞いて、不思議そうな顔をした。


「……ああ、私とライアン様は幼馴染ですから。幼いころも知っています。貴方の事も、ずっと」

「わた、し……?」

「姫君を追いかけて年中走り回っていましたよ。他のことは眼中に入れずいつも貴方だけを見て、躍起になっていました」

言い方が乱雑になり、対応も適当になった。もしかしてと、イリスは勘を働かせる。

ライアン様のことが、好き……?
 

「今日はじっと寝ていて下さい。誰かに伝言があるなら伝えておきますから」

「……あ、はい」

ロズにここにいることを伝えてほしいと言うと、頷いて出ていこうとした。しかし、思い出したように振り返る。


「姫君、昨晩ライアン様と性交されましたよね。下肢の痛みもあります。安静にしているのが一番ですからここから動かないで下さいね」

「っな……!」

「動きを見れば分かります。下半身の引きずっているようなぎこちない動きも見逃しませんよ」

アルトリアはこの部屋から出るなと再度強調して言うと金髪をたなびかせて、医務室から出ていく。一瞬見えた顔は…確かに歪んでいた。


「好きな人が……誰かと同じ寝床を共にするなんて……どれだけ、つらいか」

どうしようもなくて、もがいて苦しくて。嫉妬で止まらなくなる。

人と人との関係性なんて驚くほど多くて、常に変化し続けるものなのに。それでも誰かを想う気持ちは強くて、揺るぎない。

そして思いを寄せる相手が、誰を望むかなんて分からない。


「……どうして人は、傷つけ合ってしまうの」
 
イリスは思い悩むように睫毛を下げ、静かに呟いた。少し眠ろうとそのまま瞳を閉じて、現実から意識を遠ざけた。

すぅっと息が吐き出され、やがて安定したリズムに変わっていった。


沈黙が流れたこの空間に、一人、伸びた影があった。


「どうして、だと?」

出される声に宿るのは黒々とした重い感情。音を立てずにイリスが眠るベットのカーテンが開く。


「そんなの人、だからだ」

そう吐き捨てると、憎々しげに見つめ姿を消した。

 



「――パー、ティ……?」

イリスは混乱しながら、もう一度聞き直した。

初めての経験から早二日。徐々に体調も良くなって普通に戻りつつあった。精神状態も不安定だったため、この数日は休む事を義務付けられた。

意外なことにライアンは触れることはあっても、最後まで手を出してこなかった。


「そうだ、今夜大広間で行われる。疲れた騎士に振る舞う宴のようなものだ」

「なぜ私に言うのですか。エドームが主催で行うのなら私は関係がないですよね」

そんなことをしている気分じゃない。今でさえサイの重鎮達と今後の話し合いもしなければいけないのに。

属国になったら税の徴収から騎士の階級など様々な面で変わってくる。ウィールの代わりとして力はなくても出来るだけの事をしていた。


「馬鹿か、カモーアの奴らも席を共にする。お前も参加しろ」

「ちょっと待って下さい……私が?」

カモーアの人も…参加する。ざわっと胸が震えたが、表には出さない。ライアンが何を考えているのか知らないが、参加したとしても苦痛の時間になる。

それでも拒否はできないようで、ドレスの手配もしてあるとライアンは言う。

前もって用意がされていて、ただ知らされずにいただけで準備も進められていたのか。


「夕食の時間までに準備しておけ。着飾るのも忘れるなよ。俺の隣にいて不足がないように」

「……分かりました」

逆らうことはできない。実質、この人が全ての権力を握っている。何度か機嫌を損ねることをしてしまっているため、これ以上は反抗しない方がいい。

それに敗国の見せしめとして自分は十分な価値を持つ。エドームの騎士もどんなものかと見に来るだろう。
 

「また迎えに来る。それまでに用意を終えていろ」

ゆるゆると弧を描いた唇に目がいき、イリスは不安を覚える。また何か波乱が起きそうな静けさがこの部屋を満たしていった。

 


「ほう、なかなかだな。俺の隣を歩くのに相応しい」

「……お褒めに預かり光栄です。例え本音ではなくても」

いつもなら夕食が運ばれる時間帯にライアンはやってきた。声をした方を向けば、上から下まで身支度を完璧に整えた姿があった。

普段とは違う雰囲気に包まれ、口元には不敵な笑みを浮かべている。目を奪うような長い金髪を一つに結い、左に流していた。


「毒舌などお前に似合わない。慣れないことはしない方がいいぞ」

「……そうですね」

ライアンの王子としての威圧。申し分ない美しさは確かに本物だった。周辺の王族にも一目置かれ、将来を期待されていたのを思い出す。

そして自分の手の及ばない存在だと何度でも思い知らされる。


「文句はないな。サイの侍女は優秀らしい」

数人の侍女とロズが黙ったまま化粧を終えたイリスの後ろに待機していた。


「……お気に召して頂けたのなら嬉しいです」

とだけ言葉を落とし、後は何も言わなかった。


イリスは胸元が開いた豪華なドレスを身に纏っていた。

薄い水色を基調とした形が整ったデザインで派手に見えない。イリスの肌の白さとバランスが良く、首元にあるネックレスは光が当たる度に輝く。

曲線を描くうなじや、魅力的な胸のふくらみに男子は目がいくだろう。


「さすがは至宝と言われた姫。どれだけ宝石で着飾っても素顔のお前が一番美しいがな」

そう言うと瞼を閉じてイリスの髪にキスをした。縁取られた金の睫毛にイリスは一瞬だけ心臓が動く。

お戯れを、と声を出すのが精一杯で下に視線をずらした。動揺してしまったのが恥ずかしい。


一体私は、この人にとっての何なのだろう。気紛れで戦を起こすような人じゃない事は分かっているが、何をしたいのか掴めない。


「は……この程度で赤らめているのが可愛いな。さぁ行こうか」

「はい」

優雅に手を差し出され、ゆっくりと自分の手を重ねる。

 
大広間へと足を踏み入れれば、たくさんの視線が集中した。

中にいるのはエドームの騎士達が中心だが、カモーアの顔も目立つ。見慣れた姿があると居心地が悪くなり、目線を外す。


全身を観察されているのが伝わってくる。品定めでもするかのように様々な角度から見られていると思うといい気分ではなかった。

王女であったため人が多い舞台は初めてではなかったが、いつもとは違う緊張感に縛られる。

人の評価を気にしていたら身がもたない、自信を持って堂々としなさいと教わったのを思い浮かべる。リズムを刻む心音を乱さずに、心は平穏を保つ。


「惑った様子もないな、慣れているのか」

「そんなことはありません。ライアン様だって、私が緊張しているのを分かっているでしょう?」

「そこまで抑えつけられるのもなかなかだがな。気後れすることなく、ここに入ってきた度胸も認めてやる」


そう会話している内に、真ん中の席に辿りついた。座れ、と指示されて、ゆっくりと腰を下ろす。

周囲に漂うのはお酒の香りで、既に酔って顔を赤らめている人もいる。紳士用の服を纏っている者が大半で、女性の姿はなかなか見られない。

机に用意された豪華な食事はスペースもなくびっしりとうまっている。色彩が豊かに飾られた野菜や炙られた肉も食欲をそそるものに違いない。


「随分とお金をかけているのですね……」

サイの軍事金を利用したのか。イリスは複雑な心を抱える。そして先程から感じる視線の数々に、気持ちも落ち着かなくなってくる。

やがて周りの騎士達がライアンに挨拶へやってきて、一人ひとりと会話を始める。


「いい玩具を手に入れられたようですね。毎夜飽きずに可愛がられているんですか」

「ああ。時々たてつくが、ベットの上では順応になる」

イリスは驚きもせずにその会話を聞き流し、無表情を貫く。今までどれだけ自尊心を傷つけられたか、数えるのも忘れた。

ただ人形のように無口で、この場を見据えているだけで、必要以上の行動は取らない。


しかし次に現れた相手から駆け抜けた衝撃に体が強張る。

思わずその男を凝視してしまい、バチリと電気のような視線が絡み合う。ゾクッとするような奥深い目が覗きこんでくると、イリスは微妙に表情を変化させた。


「ライアン様、これがイリス様ですか。一点の曇りがない美しい方ですね」

「ルークか。早速イリスに目を付けたな。残念だが、こいつは渡せない」

「まさか。我が主のお姫様を狙おうだなんて血迷っても考えませんよ。ただ――」


感じるのは、冷たくて野心にまみれた心。それでいて清涼とした、相反する二つを抱えている。
 
王女として人と関わることが多かったが、初対面でここまでの存在感を感じたのも久しぶりだった。

細長い目と筋が整った高い鼻。短い金髪と大きなピアスが目立つ。イリスと大して身長は変わらないように思えた。


そして蛇に睨まれた蛙のように、冷たいものが背中を駆け巡る。


「骨の髄まで陥れてみたい、とは考えちゃいそうですけどね……」

「っ……」

何者なのか、この人は。本能的に怖くなって背中を後ろに下がらせても、椅子に座っているためそれは出来なかった。


「あぁ、怖がらせちゃいました?すいません、ちょっと本音が漏れました。こんなにも綺麗だとは思っていなかったので」

「……いえ」

憎まれているわけではなさそうだが、また別の、ギラギラとした征服欲を彷彿させるかのような、恐ろしい肉食獣を思わせる。


「そう言えばレインはどうした」

「あの真面目なら見張りに当たっていますよ。こんな日ぐらい騒げばいいのに」

「そうか。あいつらしいな」

「じゃぁ俺は退散させて頂きます。今夜も可愛い子猫が待っているので」

フフ、と艶めかしい笑みを残して一礼するルークに、イリスは目を逸らせない。

確かにこの美貌なら女の人に苦労はしなさそう。一言甘い言葉を囁かれば、あっという間に虜になる。掴めない不思議な雰囲気がこの人の特徴なのかもしれないと密かに思った。


「毎夜毎夜、女遊びはやめておけ。いつか痛い目に合うぞ」

「大丈夫ですよ、女の子には優しいので。では、イリス様……また会いましょう?」

「機会が、あれば……」

喉につまり、上手く言葉が話せない。口内が乾燥して、少しだけ足が震えた。

イリスは落ち着きを取り戻す為、胸に手を当ててゆっくりと深呼吸をする。


「ルークの圧におされたようだな。あいつには気をつけろよ、並大抵の奴じゃ敵わないからな」

「……彼は一体」

「身分は卑しいが才覚と剣技の腕で、俺の腹心になった男だ。時々暴走するのが欠点だが」

腹心、ということは、あのレインという人と同じ。ライアンは慎重派で、味方かどうかは自分の目で見極めるはず。信頼にあたると分かったからそばに置いているんだろう。

あの手の人は味方にすれば問題ないが、敵に回すと本当に怖い。何を考えているのか分からないから。


エドームに潜む権力争いや裏切り……巻き込まれたらただでは済まない。

そんな危ない国にサイは属国としてこれからも生きていかなければいけない。私はこの国を、人を、守り切れるだろうか。イリスは膨れ上がる不安に押し潰されそうになった。


「カモーアの屑もお出ましか。行くぞ」

はっと考えていた時に声をかけられ、イリスは慌てて立ち上がる。

ざわっと空気が震え、今までとは違ったオーラが流れていくのが分かる。その先にいたのはもちろん――


「……お招きいただき、光栄ですわ。ライアン様」

真っ直ぐとした目を向ける、ディルの姿だった。


「今日は女の格好ではないのだな。あれだけ男の視線を集めておきながら罪なことだ」

「あら、貴方もその一人でしたか?ご希望ならいつでも着替えてきますけど」

「欲しいもの一つ手に入れられないお前など男と認めない。女で十分だ。まぁ中には女のナリで興奮する奴もいるだろうが」

ちらっと周りに視線を送れば、陶酔したような目でディルのことを見つめるエドームの騎士がいた。

数人だけではなかった。欲求を隠し切れていない顔は恐怖さえ感じさせる。息が詰まるような空気が流れ、カモーアの人間はピリピリとした殺気を放っている。


「拒否できなかったとは言え、男の前で淫らに体を差し出していた屑に、カモーアなど治められるか?」

不意にイリスはぐっと引き寄せられ、ライアンの腕の中におさまった。熱っぽい息が首筋にかかると、出したくないのに小さな声が漏れる。

ライアンがわざとやって煽っていると分かると、恥ずかしくてディルと目が合わせられなかった。


「これからご覧になるはずです。私がどんな政治を行うのかご自身の目でお確かめ下さい」

「は、また誰かにつけ入られて滅されることになりそうだな。せいぜい内部の人間にも気を配っておけ」

「ご忠告どうも」

一礼して睨みつけるディルは、ディッシュ達を引き連れて室内の奥へ移動していった。

去り際に一瞬だけ視線が交わったような気がしたが、そんなの幻想に決まっている。自分がそう望んだだけで…何もない。


「威勢のいい餓鬼だな。いつ見ても気にくわないが、今はまだ冷静な方だ。それでも、今宵の宴で惑うだろうがな……」

鼻で笑うライアンを見て、イリスの中で不安が渦を巻く。

何を企んでいるのか知らないが、ディルにあっと言わせる仕掛けがあるに違いない。


「一体、何を……」

ライアンとディルの会話を聞いていると生きた心地がしない。対立している二人の間に入ることが出来ず、外野で傍観している自分が情けなかった。

 
「戻るぞ」

ライアンが元の席へ足を進めると、その後を追おうとした。

しかし誰かとすれ違ったときに静かな声で耳打ちされる。そうして聞こえた言葉にイリスは泣きそうになった。


「よくもまぁ顔を出せるな。国家を売った女狐が」

「――ッ」

さっと後ろを向いて相手の顔を確かめようとしたが、それらしき姿は見当たらない。気配も消して、この人の中に素早く紛れ込んだのだろう。

国家を売った、女狐……そう思われていても仕方ない。しかしいざ聞くと大きな衝撃が残る。

目頭が熱くなったが、必死に耐えて前を向く。自分とて、誇りがあった。王女として生まれたことを恨んだことはない。


イリスは泣くまいと足先に力を入れて、ライアンの隣に座った。と同時に、がしっと肩を掴まれて近寄せられる。

斜め上から降りる視線がぶつかってきた。いつ見ても吸収されそうな引力を感じる。


「今日は銀の舞もある。お前が気に入るか分からないけどな」

「……カモーアの、伝統文化の一つですか。何度か目にした事があります」

「なかなか見事な剣の舞で俺は好きだ。もうすぐ現れるだろう」

剣の舞。銀の星に例えた剣を美しく表現する、凡人では出来ない大技。下手したら大けがを負ってしまうため、何年もの修業をしているとか。

上流階級の華族が好んで招待して夜会を盛り上げているらしい。


あの舞を見ていると、体の芯から込み上げる激しさを身近で感じた。胸を響く熱いものに感化され、無性に剣が握りたくなる。

過去に浸っていると、ドンドンッと太鼓の音が聞こえてきた。

入口から艶やかな衣装を身に付け、目に仮面をつけた三人組の女性が入ってきた。室内からわっと歓声が上がる。


「噂をすれば、お出ましか。衣装はなかなか派手のようだな」

「大胆ですね……」

挑発するかのような透けた白い肌が、周りの視線を独占する。両手に持った剣の先は鋭く、かすれば怪我をするだろう。

煽る腰を振る動きも、目が離せない。どんどんと音楽が響き、室内は静寂に包まれた。


「本日はお招きいただき、恐悦至極に存じます。今宵はぜひお楽しみくださいませ」

真ん中にいた女性が深く礼をして、妖艶に微笑む。おおっと感嘆が漏れるほど流麗な動きで、ただ者じゃない雰囲気が漂ってくる。


「――…」

イリスは、記憶に引っ掛かりを感じた。どこかで聞いた事のある、印象深い声音、そして体のライン。

ドクンとざわつく心。この人は、もしかして。イリスはただならぬものを感じていた。


「おお、見事だ。あの華麗な動きといい、息の合った剣の舞といい、唯一カモーアに褒められることがあるとしたらこの舞だけだ」

「あの女、なかなかやりおるな。生半可の修業ではここまで身につかない」

「厭らしく誘いおって、何か狙っているのか」


エドーム側から称賛が聞こえるくるほど、銀の舞は美しかった。独特の世界観に入り込んで、見る者を引きつける。

剣が自由に動く度に、薄い銀の放物線が描かれ、時にはぶつかり合い、激しさを刻んでいく。今まで見たことのある中でもこの演技は一味違うものだった。

まるで竜が生きているかのように鮮麗な曲線は目を奪われる。それ以上に、何か思いが込められているように感じた。


仮面で顔を覆っている人、真ん中で一際目立っている女の子にイリスは見覚えがあった。顔を見なくてもあの人だと第六感が働く。


「――…」

イリスは無言のまま、魅入るように見つめていた。やがて終盤に入っていく舞は徐々にゆっくりとした動作に入ってくる。気付けば誰もがその舞に注目し、目を離せずにいた。


あの子はディルの事を知っていた。ただの知り合いという雰囲気じゃなかった。

一体どんな繋がりがあるのだろう。自分には越えられない境界線があるような気がして胸が苦しい。


ちらっとカモーアの集団に目を向ければ、中心にいたディルがじっとあの子を見つめていた。

驚きを隠せないような、現実を疑うような、それでいて慈しみを感じさせる顔で……イリスには向けられたことのない、優しさを含ませていた。

それがズキっと心に響き、ぐっと手を握っていた。


そして完全に終わった演舞は拍手と歓声に包まれる。褒めることをしない硬派なエドームの人間も手を叩いているのが見えて驚いた。

シャンデリアの光に揺れる銀の髪は思わず手を伸ばしたくなるほど綺麗で、異世界から抜け出したかのような錯覚を覚える。

真ん中にいた女性は恭しく一礼すると、真っ先にカモーアの集団へと走っていった。


イリスは思わず立ち上がりそうになったが、ライアンの手が遮る。戸惑っていると、黙ってみていろと目で合図された。

焦りと言えばいいのか分からない何かが体を支配していた。あの子を行かせたら駄目だと、心が騒ぐ。


しかし、もうあの子はディルの側へと駆けつけていた。

見つめ合う二人には誰にも触れられない深い絆があるような気がして不安が襲う。

恋人でもなく、友人でもなく。形容しがたいものが包んでいる。どうにかして止めに行きたいという邪な心が巣食っているのに、体は動こうとしない。


「ディル、様」

情愛が籠った、胸に響くような声。待ち望んだ時が訪れたとでも言うように恍惚と微笑んでいる。


そして、ゆっくりと仮面を剥いで――…


「ミレイア……」

ディルは顔がよく見えるように足を屈め、頬に手をやり優しく微笑んだ。泣きそうな目で見つめているのが分かる。

そうしてミレイアと言われた彼女は感極まって勢いよくディルと抱擁を交わした。ぐっと首に手を回して温もりを感じとるように目を閉じる。


「会いたかった……!この日を、どれだけ待ったか!もう、離さないでくださいっ」

イリスは口を開けたまま呆然としていた。目の前で何が起こっているのか分からなかった。

ただ、自分の中で黒い感情が湧きあがってくるのを近くで感じた。


「まさか貴方は……」

カモーアの人間はざわめいて誰だか悟ると、さっと片膝をついて頭を下げる。よくぞご無事で、ミレイア様……!と誰かが言うと、泣きだす者も現れた。

何の騒ぎだと室内はざわめくが、勘のいい者は早くに理解した。この世で一番、ディルに近しい人物なのだと。


「皆、よくここまで支えてくれたわね。本当に、会えて嬉しいわ」

綺麗な涙が伝い、銀の光が照らされる。目が瞠るほどの美女が笑みを湛えて、ゆっくりとライアンの方を向いた。


「改めて御挨拶いたします。第一王女……ミレイア・カモーア。お兄様の妹です」

「――!!」

イリスは口に手を当てハッとなる。


ディルの妹……!いたのは知っていたが、あの戦いの混乱で姿を消したと聞いた。 それ以来誰も行方を知らず、命もないだろうと言われていた。

ディルが八歳のときだから、ミレイアが生きていれば六歳で生き別れたことになる。ということは、今は十五歳なはず。


そうは思えないほど豊満な体。そして大人顔負けの堂々とした迫力。そして王族としての誇りを感じる。


「感動の再会に立ち会えて嬉しいぞ、ミレイア殿」

「ライアン様が計画して下さったおかげです。お兄様に会える機会などそうは作れませんから……」

周りの人間が唖然とする一方で、イリスは真っ直ぐミレイアを見ていた。

ディルにとっては九年越しの再会。もういないと思っていた家族がいると分かってどれだけ嬉しいだろう。それなのに、先程から心にもやもやとした引っ掛かりを感じている。


ミレイアはライアンの隣で動けないイリスと視線を合わせた。

瞳の奥に憎い炎を燃やしているような気がして落ち着かない。笑っているのに、睨まれている心地だった。


「――お初にお目にかかります、イリス様。ずっとお兄様を守って下さったのですよね。皆に代わり、感謝いたします」

「そんな大層な事はしていません。ミレイア様、どうか顔を上げて下さい。ご無事で本当によかった……」

簡素な言葉しか出てこない。動揺しているのが自分でも分かる。


「またこの場に戻ることができて本当に幸せですわ、イリス様。これから何かとお世話になるかと思いますがどうぞよろしくお願い致します」


クス、と零れ落ちる笑みに嫌な予感が胸を満たした。

 
「まさか、知っていたのですか?ミレイア様のことを……」

「そんなものとっくの昔に調べ上げている。九年前の戦いでどこに逃げ去ったか、どのように暮らしてきたか。全部把握していた」

「っ……」

どこでそんな情報を仕入れたのかと震えが起きる。ディルでさえ知らなかったことを、この人は簡単に手に入れていた。恐ろしい人だと再確認させられる。

自分の知らない所で様々な思惑が交差している。今でも見えない何かが蠢いているのか。


「俺に敵うと思わない方がいいぞ、イリス。お前がどれだけ屑を望んでも、もうあいつの心はミレイアに注がれる。王家のしきたりに加え、離れられない理由もあるからな」

「離れられない理由……?」

「後に知ることになるさ。屑でさえ知らないかもしれないがな」

そう言って濃厚色のワインを飲む姿は妙に色っぽかった。その横顔を見てからイリスはただ前を見据えていた。


これから先、何が起こっても毅然として受け止めることが出来るのか心配になる。

自分のことは自分がよく分かっていると思っても、脆さや弱さは奥へと押し込んでしまう。


ミレイアはディルと会話をしている。空いた時間を埋めるかのように二人でいるのを見ると、荒んだ心が剥き出しになる。

そんな優しい顔で話さないで。私には見せない表情で、笑わないでほしい。なんて、そんなことを考えてしまっていた。


「イリスは温かいな」

激しい想いを抱えていることを知ってか知らずか、ライアンは気紛れにイリスの髪で遊び始める。いきなりイリスを膝の上に抱き上げ、首筋に顔を埋めた。

人数の多い所で、こんな恰好は恥ずかしいに決まっている。何人かがじっと覗いていた。


「ライアン様、人目が……!」

「気にするな。見せ付けてやればいい」


悠長に抜かしているこの男に一発お見舞いしてやりたいと思った。さすがに胸に手が伸びた時は身動きをして嫌がる。

密着した距離に耳元で感じる吐息。イリスは全力で抵抗できないまま、顔を赤くさせて震えた。それが周りの男が欲望を孕んだ目で見つめている事など知る由もなかった。


「お前の熱い息遣いをあいつに聞かせてやりたいものだな」

「だから、なぜッ……や、め……」

「本当に可愛い奴だな、イリスは。ここで押し倒して喘がせたくなる」

冗談じゃないと蒼くなったが、本気の目をしていないと分かると顔をしかめた。

猫のように自由なライアンに、どこまでも惑わされて……自分が滑稽に思えてくる。


「新しい奴がきたな」

銀の舞に引き続き他の舞踊が入場してきて、室内は活気に満ちてきた。しかしイリスは集中できず、心あらずといった様子でぼんやりとしていた。 


ああ、もう嫉妬でどうにかなりそう。あんなに仲睦まじく話しているのを見ると、人目を気にせず泣きそうになる。

ディルたちは見せ付けているはずもないのに、どうしても視線の端に入ってきてしまう。

高らかに鳴り響く音楽も耳に入らないくらい、孤立した自分の世界が広がっていく。


「どうしたイリス。気分でも悪いのか」

「なんでも……ありません。大丈夫、です」

伏し目がちになって、無理やりディルたちから目を離す。この場にいたくなくて、ぎゅっと手を丸めた。


「……そんなに気になるか?あの二人のことが」

「っ違います、気にしてなんかいません。別に、ディルのことなど……」


ほう?と試すように見つめられる。馬鹿な事をしたと言ってから後悔した。こんな反応を返したら図星だと言っているようなものだ。

何をしているのだろう。声を荒げて、ムキになって、子供のようで恥ずかしい。


「ならば今、何を考えていた?」

「っライアン様……ぃ、やっ……」

首筋に這う指がするりとドレスの中に侵入してきて焦るイリスは胸を押さえて隠す。

ライアンは無垢な肌を堪能するかのように感触を確かめ、膨らみに手を伸ばした。熱が顔に集中して唇を噛む。


「余計なことを考えている暇があるのなら、俺を喜ばせる方法でも考えたらどうだ」

「……どうしたら、喜んで下さるのですか?」

どうせ、性的な行為を要求してくるのだろうと先を見通す。ライアンが気紛れにドレス越しから胸を触れて、声を押し殺して我慢した。


「そうだな、この場でキスをしたら気分がよくなるかもしれないぞ」

「またそんな……んっ」

「別にこのままでも俺に文句はないさ。恥ずかしがるお前を見ていられるんだからな」

「どんな趣味、ですか……っ!も、本当にやめ…」


子供のような笑顔で、困る様子を楽しんでいる。

解放されないライアンの手が煽るように動かしてきて、イリスは見られていると思い、体が硬直していった。

室内から感じるたくさんの視線に下半身に力が入る。イケナイ気持ちがどんどん膨らんでくる。


「ひどい、人……ッ」

ぎゅっとライアンの服を掴んで涙目で睨みつけるが、返ってくるのは不敵な笑み。


「何とでも言え。お前が惑う姿を見るのが一番楽しい」

「……っ、キスを、すれば…いいんですか?」

紅潮した顔からもれる温かい息ははぁはぁと漏れていく。

やめて、これ以上したら……声が出そうで、怖い。感じているなんて思われたくない。


縋るように見つめてくるイリスの熱っぽい眼差しを受け、ライアンはゆるゆると微笑んだ。


「さぁな。今よりましな状態になるかもしれない」

「……ッ」

イリスは切羽詰まり、意を決したように目を閉じた。


「――っ」

むず痒いような感覚に耐えきれなくなって、イリスは身を乗り出して唇を重ねると、すぐに離れて羞恥で堪え切れず下を向く。


周りの人間がおおっと声を上げるのが聞こえた。それにも怒りを感じる。

いつからこんな敏感になってしまったんだろう。人に見られていることが恥ずかしくて仕方ない。自分が軟弱な女だと突きつけられているようで、悔しい気持ちもある。


「珍しいな、お前からなんて。そんなに良かったのか?」

コツン、とおでこを当てられてむっとする。


「良くなんてありません……!公共の場で、こんな行為をする貴方の神経を疑うわ」

「いい目だな、なかなかソソるぞ」

その言葉に呆然となりながら、はぁと溜息をついた。


「……もう!」

何もなかったかのように話を逸らされ、振り回されて。王族ならもっと慎みある行動をしろと教われるはずなのに、この人はいつだって自由で我が儘だ。


不機嫌なままライアンの腕の中から降りようとしたら、またぐっと留められる。


「……何が、したいのですか?」

「別に、何も。お前を愛でていたいだけだ」

「もう十分です。こんなことをしていたら、ライアン様の評判が下がりますよ」


女に入れ浸りな人として甘くみられるかもしれないのに。

それでも、この人は簡単に噂や印象を打ち消すだろう。自信と威厳は誰にも負けない。きっと私に足りない物をたくさん持っている。羨ましくもあり、憎くもある。

イリスは口を尖らせてライアンから視線を逸らした。


「可愛いな、お前は」

そしたらなぜか頭を撫でられ、びくっとなる。くつくつと笑うライアンは予測不能でどうにもならない。 

 
「俺が嫌いか、イリス」

「……」

素直に答えればいいのか、一瞬迷って言葉が出ない。


「それでいい。気付いたら俺だけになっているだろうからな」

「……どこからその自信はくるのですか」

「どこからでも」

呆れた。




 
「……にいさま、お兄様!大丈夫ですか」

「……あ、ああ。すまない」

ミレイアはぼんやりとするディルにずいっと迫る。どこか上の空な兄を不思議に思ったのか近距離で話をした。

もうすぐでくっつきそうな口の近さにディルは一歩足を下げる。


視線の先にいたのはライアンと会話するイリスの姿だということをミレイアは十分なほどに分かっていた。

熱いキスを交わしていたのをディルはちゃんと見ていた。その瞳が陰ったのを見逃さなかった。

腹の底から込み上げる嫉妬を隠しながら、不安そうな顔をして上目遣いでたずねる。


「どうしたのです、先程から違うところばかり見て…考え事ですか?具合が悪いようでしたら早々に退室しましょう」

「大丈夫だ、心配掛けたな……久しぶりで戸惑ったんだ。ミレイアに会えて本当に嬉しい」

ぽんぽんっと優しく頭を撫でるディルにミレイアは自然と笑顔がこぼれる。過去にこうやってされたと思い出しながら、またぎゅっと抱きついた。

恋人のように寄り添い合い、ディルの胸板に顔を沈めて離れない。


ミレイアはさり気なく胸を押しつけ、魅惑的な表情で誘うように顔をかたむけた。


「毎晩、お兄様の腕の中を思い浮かべていました。ずっと、ずぅっと……もうこの心は、お兄様だけのものですから」

「……淋しい想いをさせたな。すぐにでも向かいに行けば苦しむこともなかったのに、悪かった。何年も探したが、情報が回ってこなかったんだ」

「いいんです。もう一度、お兄様に会えたんですから。これ以上の幸せはありません…これからはお傍にいます」

掠れた声で求めるように見つめる熱い視線はディルだけに注がれる。

情熱的で扇情的な空気を醸し出し、妖艶に目元を緩ませた。


「憎きサイに復讐するために、私は生きてきました。お兄様のためなら命も惜しみません。身も心も捧げますわ……」

「ミレイア」

「さぞ苦しい想いをされましたね…奴隷のような生活を強いられ…さらにはイリス様にこき使われ、尊厳を踏みにじられた」


ぼわっと蝋燭の炎が揺らめくように、ミレイアの瞳の奥は燃え上がった。


「決して許しはしません。生涯を通してでも、あの方を陥れてやります。お兄様が受けた傷に勝る痛みを経験させてやりたい…苦痛に歪む顔が見られると思うと今から楽しみでなりませんわ」

「待て、ミレイアが手を汚す必要はない」

「何を仰いますか、お兄様。もう既に私は汚れています。取り返しがつかないほどに……今日のために私がどれだけのことをしてきたか…」


くすっと妖美に睫毛を伏せる仕草はとても十五歳には見えなかった。


「愛しています……お兄様」

そうして、ゆっくりと唇を重ねた。

 

――宴は終わりを迎え、地べたに寝転がる者、部屋に戻る者、談笑する者などに分かれ始めた。

盛り上がった室内は徐々に人の姿が消えていき、気付いたらディルたちはいなくなっていた。


イリスは常にライアンの側にいたせいで、心労が絶えなかった。

ワインを飲む彼なんて酔い潰れてしまえばいいのに、と思っていたがそんな柔ではなかったようだ。

ほんのり顔が赤くなっているの事実だったが、意識はちゃんとあるよう。結構飲んでいたからどうなるかと見ていたが、倒れる心配はなさそうだった。


「そろそろ引き上げるか。お前のドレスを脱がせるのが楽しみだな」

「……そんなことのために?」

「愉しみは最後までとっておくべきだからな。部屋に戻るぞ」

イリスはこの後の行為を疎ましく思いながら、何も言わずにしたがった。肩に寄せられた手は酒の影響なのか、少しだけ熱い。

この人が酔い潰れる所などきっと誰も見たことないのだろう。簡単に自制心を失う人ではない。しかし自信たっぷりなライアン様でもお酒に溺れてしまいと思うときはあるのだろうかと疑問が湧き、イリスは少しだけライアンを観察した。


「ライアン様、本日は終了でよろしいですか?」

ぼんやりとしていたらいつの間にか側近のレインが恭しく礼をして立っていった。イリスはいつからいたのかと思ったが、レインなら気配を消すことも容易いだろう。

バチッと目があったが自然の流れのように逸らされる。とことん嫌われているみたいだった。
 
特に好かれようとは思っていないが、あまりいい思いはしない。自分が王族だという理由で疎まれることだってあることは承知している。


「ああ、見回りご苦労だったな。後は任せた」

「はい、では失礼します」

早々と消えていく彼を目で追ったが、突然ライアンがぐっと顎を上げる。ぐっと近くなる距離に一瞬だけ息をとめた。

とんでもない色気を放ちながら、三日月形に浮かぶ口元に言葉が発せられる。


「何だ、そんなにレインが気になるのか?妬かせるじゃないか」

「違います。なぜあの人が私を嫌うのか気になっただけです」

「あぁ、そのことか。イリスは知らなくていい内容だ、深く考えるな」


そんなことを言われたら気になってしまうのは自然なことだ。イリスは直感的に深入りするとよくない気がして、それ以上は聞かなかった。

一旦この話は終わると、ライアンに導かれるままイリスは室内を後にしていった。




「ミレイア、様が?」

「はい、ぜひお目通り願いたいと連絡がありました。それが……誰にも話せない大事な要件があるのでどうかお一人でと」


翌日、腰の痛みを感じながらまだ早い時間にロズがやってきた。

当然の如く少し酔ったライアンは、部屋に辿りついた後にイリスのドレスを脱がしにかかった。


お約束の展開と言うべきなのか、昨日もライアンは己の欲求を満たした。それはもう、忠実に。それでもなぜか最後は大事そうに背中を引き寄せる。そこには確かな優しさを感じた。


「そう、一体どんなお話かしら。きっと断れないのを分かって言ってるのね……」

「イリス様、エドームの王子に昨晩も……?」

少し表情が曇るイリスは下肢に鈍い痛みがあるのを隠し、薄笑いを浮かべた。


「大丈夫よ、ロズ。十分に眠れたから。今日もやることがたくさんあるもの。法制執務なんて頭が痛いわ……」

「無理だけはしないで下さい。少しでも限界を感じたらお休みになられた方がよろしいかと……」


そうねと相槌を打ち、属国に下ってからの慌ただしい日々の経過を思い出しながら溜息をついた。

次々に出てくる書類に、ウィルの代用でサインし判子を押し、領土問題や防衛対策の強化、サイ各地の権力者への書状の作成などは信頼できる上位の騎士に助けてもらった。

とても一人じゃ出来ない作業で引っ切り無しに溢れる問題を一つ一つ対処していくのは大変で疲れる。一瞬三途の川の水面がキラキラ輝いているのが見えた。


心苦しかったのはエドルフやその部下の処罰。この件に関しては時間を賭けて議論し、結局地位剥奪、永久追放。

重い刑を望む声は多かったが、イリスは反対しこの結果に決まる事になった。


「エドームのことだから重い税を課すと思っていたけど、献上物や貢ぎ物の要求の他には目立ったものはなかったわね……」

「近々エドームの軍が合流します。宿泊施設の提供や持て成しの晩餐会の準備など当然のように求めてくるあたりは完全に見下していますね」

「仕方ないわ…悪影響を与えるまでに達していないからまだ我慢出来る」


まだまだ未熟で頼りないけど最低限の事は全力で取り組んでいる。周りの人間も動いてくれているから、ぼちぼち休んでいる暇はない。


不満や苛立ちが募っているのは皆おなじこと。高圧的なエドームの人間の発言が癇に障ることは日常的だ。

イリスは我慢よ、忍耐よと目で訴えて何とかやり過ごしているがいつ発火するか気が気ではない。

 


「さぁ、行きましょうか……」

約束は昼過ぎに庭園の噴水の前になっていた。さらさらとした日差しに包まれ、温かな空間がイリスは好きだった。

午前中はずっと閣議に追われて頭が痛かった。文字を格闘しながら、振り絞ってやっとまとまった意見を外部に伝えるのも時間がかかる。

時々会議に顔を出していたおかげもあって、何とかやっていける。こんな大仕事を父はこなしていたのかと今さら思い返すのがつらい。


ここ最近ずっと父の顔ばかり浮かんで胸が締め付けられる。

そばにいてくれたらと何度思ったことだろう。その度に止めを刺したディルが脳裏をちらつく。

憎んでいるわけじゃない。だけど、何も感じていない訳じゃない。この想いをどんな形で繕ってもどうにもならない。


毎日毎日心が悲鳴を上げているのが分かる。ライアンが自分を求めるたびに存在価値を考えてしまう。

叫ぶことも出来ず、ただベットの中で震えるだけ。誰でもいい、この不安定に沈んでいく心をすくいあげてほしい。


なんて、馬鹿みたいに考えてしまっている…


「おーう、亡サイ国のお姫様じゃないですかー。お供も連れずにどこに行くんですかぁー?」

「ライアン様のお気に入りが無防備にお出かけしててもいいんですかね」


イリスは突然話しかけてきたエドームの騎士にびくっと一歩後退した。普段なら気付くはずなのに、深く考え込んでいたらしい。

二人組に前を塞がれて訝しい顔をして見つめる。こうやってからかわれるのは初めてではない。中には壁際に抑えつけられ、顔を覗きこまれたこともあった。


「約束があります。先を通して下さい」

まだ若い騎士。イリスより少し年上ぐらいで経験は浅そうだが、威張った態度をしていた。

自分に自信を持っているのだろう、新品な服を着こなし、髪も綺麗に整えている。

最近、エドームの騎士がサイの侍女を誑かしていると報告が入っている。ライアンにも抗議したが、あまり効果がないのか……心配だった。


「深刻そうな顔をして、悩み事ですか姫君?綺麗な顔が台無しですよ」

「お気遣い結構です。急いでいますので、失礼します」


横にずれて先を歩こうとしたらまた阻んでくる。

鬱陶しく感じて目を合わせると、二人のにやついた顔にぶつかり、城の柱にぐっと押された。男の力に敵うわけでもなく、背中が柱に接触した。

頭の上に手を置かれ、動きを封じられる。イリスは臆することなく表情を変えなかった。


「困ります。いくら貴方方でもここまでは許されていないはずですが?」

ライアンのお気に入りなら、自分を軽々しく扱うことはできないのは分かっていた。それでも敗国のサイはエドームに逆らえないのも承知している。


「調子に乗っていませんか、イリス様?女なら女らしくビクビク脅えていればいいんですよ」

「あいにく、そんなか弱い性格をしていませんので。ご期待にそえなくて残念だわ」

「ずいぶん余裕があるんですね、こんな状態なのに」

普通ならこの辺で解放されるのだが、今日の相手はかなりしつこい。


 
「……ッ!」

油断していたのがいけなかった。

名前も知らない若い騎士は笑ったまま、イリスの鎖骨あたりに手を這わせた。強引に柱に手を回され、括りつけられる。

ここまでしてきたのは初めてでイリスはさすがに危機感を覚えた。ぐっと強い力でドレスを胸のギリギリまで下げられる。肌が空気に触れ、視線が集中した。


「やめてください。ここで声を上げてもいいんですよ」

忠告として伝えるが、あまり期待できない。興奮しているようで息遣いが荒い二人はふっと馬鹿にしたように笑ってきた。

ずれるドレスは本当に危ない位置にまできていた。何とか下がらないように体制を整える。


「いいんですか?こんなはしたない姿を他の奴らに見せることになっても。まぁ、俺らは貴方に誘惑されたと言ったら罪は逃れられますがね」

「誰が信じるというのですか?二人掛かりで抑えつけているのに、一目瞭然よ」

イリスは呆れながら言い返し、逃れようと躍起になる。しかしそれがさらに二人を加速させてしまったらしい。


「そんなの何とでもなる。エドームの中でも俺らは地位が高い方なので何をしても大目に見られるんですよ」

つーと首の筋を指で撫でられ、不快感が込み上げる。ぐいっと上げられたドレスからさらけ出されるイリスの足の間には騎士の足が割り込み、身動きが取れなくなった。

悩ましげに溜息をついて、じっと相手を見つめる。とりあえず出方を待つしかない。


「エドームは何でも権力で抑え込もうとするのですね。無抵抗な女を弄んでそんなに楽しいですか」

ライアン様といい、この人たちといい、力で支配しようとする気持ちばかりが先行している。実際のところ、女は男に力では勝てない。それは揺ぎ無い事実だと分かっていた。


「あぁ、愉しいですよ。貴方ほどの綺麗な方の脅える顔を見ると気分が高揚します」

「あら、ずいぶん正直なのね。あまりいい性格とは言えないけれど」

「男の本能に忠実なだけですよ、サイ国の王女様。その無垢な唇に今すぐ口付けをしたいなんて、誰もが思っています」

「私は今すぐこの手を離して欲しいと切願しています。穏便に済ませたいのですが納得して頂けないかしら?」


強行手段は好きじゃない。何年も前からこんなことが繰り返されていたから基本的な体術習っていた。


「強気な態度で平静を装っている姿は滑稽にうつりますよ」

と馬鹿にされ、イリスの怒りは少しずつ浮上してくる。この場面を切り抜けられるいくつかの体術を頭にイメージした。


護身術は身につけておいた方がいいとロズから聞くとすぐに騎士団の皆に頼み込んだのを覚えている。

ライアンからは何度も壁際に追い込まれ、ひどい時では足技で対処したこともある。あの時は単身だからよかったものの、こうやって複数だと面倒だった。


イリスは演技で脅えた表情を作り、相手の隙を作るため震えた声を出した。


「……こ、怖いです。だって二人に囲まれているんですもの。強がりを見せていないと不安で……貴方達だって分かっているでしょう?」


ああ、もう。いくら体術を学んでいるからと言って、手を固定され足が動かせないのでは意味がない。


とりあえず油断させるために恐怖しているふりをして目を伏せる。単純なのか、相手の二人はその様子にほくそ笑んだ。

甘いわねと心の中で呟くとその時、イリスの広い視界は誰かの影を捕らえていた。


――レインだ。ライアンの側近。一人でいるらしいが、こちらをじっと見つめている。貴方の国の騎士が好き放題にやらかしているのに注意の一つもないのかと考えた。

助ける気もないのだろう。イリスは人通りが少ない通路を選んだ過去の自分に文句を言いたくなった。


「そうそう、びくびく震えていればいいんですよ――」


顎を二つの指がすーっと横切り、ぐっと持ち上げられる。少しだけ力が緩み、足にかかっていた圧力が半減されるのが分かるとイリスは一瞬で行動を開始した。


動きにくいドレスなど気にしない。軸足となる右足を相手の左体側に踏み出し、何とか相手を右前隅に崩す。

次いで、自分の左足裏を相手の膝下に当て、ここを回転軸にして相手を前方に回転させる。イリスはこの難易度の高い技を条件が悪い中、数秒の内にやり遂げた。

手の拘束が緩み、イリスはもう一人にも違う技で地面へと誘導する。


「なんでも思い通りになると思わないでください。私だって温室育ちの王女ではないのですよ」

では失礼しますと言い、イリスはドレスを元の位置に素早く直し、その場を後にしようとした。約束の時間に間に合いそうでよかったと、少し安堵する。

何が起こったか分からない二人は一杯食わされたのだと今の現実を見て、頭に血がのぼったらしい。

ギリッと歯ぎしりをする音が後ろから聞こえ、張りつめた空気が変わった。


「……ッの、アマ!」

いきり立った青年は女の相手に容赦なく拳を突き出そうと足を踏み出していく。

待てやめろ!ともう一人が反射的に叫ぶがもう遅かった。そのまま突き進み、イリスの間近まで迫っている。

当人のイリスは分かり切った様に無表情でその攻撃を待っていた。


「……っ!」

パシッといい音が響き、何者かが殴りかかってきた騎士の手を握った。骨の音がギシギシと軋むほどの力で痛みを感じたのか叫び声を上げる。

イリスの目の前には、金髪に揺れるレインが冷たい顔をして立っていた。あの瞬間に気配を感じたイリスはレインが助けてくれることを見越して何もしなかった。


「ここで何をしている。自分がやろうとした事の重大さを理解できていないらしいな」

「な……ぜ、レインがここに」

萎んだ風船のように急に威勢がなくなっていく。あれだけ暴れようとしていたのにこの変わりようは何だとイリスも冷たい目を向けた。

静まり返った空間に流れる沈黙は痛いほど突き刺さる。さすがに同情する気にはなれなかった。


「黙れ、立場が分かっていない様だな。姫君に殴ろうとした罪は重いぞ。この件は直接私から報告しよう」

「ま、待て!イリス様が俺らを誘惑した揚句、暴言を吐いてきたからついカッとなって手を……」

「よくもそんな冗談が言えるな。一部始終、全部俺が見ていた。どんな言い訳も通用しない」


レインは乱暴に手を離し、凄みを利かせて睨みつける。まずい奴に見つかったと焦る二人はどうしようかと目が泳いでいる。

親のコネか知らないが、高い地位にあるのは本当だろう。しかしレインに見つかったのは運が悪かった。直接ライアンの耳にまで入り、厳重な処罰が下されるのは間違いない。

徐々に蒼くなっていく二人の顔を見ながら、イリスは少し気の毒に思えてきた。


「姫君、お怪我はありませんか」

「ええ。寸での所でレイン様が助けに入って下さったおかげで、何も」

出来れば最初の段階で助けてほしかったわと意味を込めてにっこりとほほ笑んだ。

形式だけの確認だと人目で分かる。この人は何も心配はしていない。距離感の問題じゃなく、レインは全身でイリスを嫌っている。


「助けて頂いてありがとうございました」

イリスは深々と礼をして、頭を下げる。


「この件はレイン様にお任せします。私は約束がありますのでこれにて」

この場にいても感じるのは敵意だけ。息が苦しい。

 
「いけない、時間がないわ」

ゆっくりとしている暇はない。今日の相手はかなりしつこかったと思い出しながら、イリスは小走りになった。

時間に余裕をもっていてよかった。ぎりぎりだと完全に間に合わなかった。


近道をして庭園の噴水の前へ急ぐ。あの騎士達の言うとおり、供をつけないで出歩くのはあまりよくなかった。すれ違い度に怪訝な目で見られている。

やがて見えてきた庭園には、立派な花々が風に揺れていた。庭師が丹精込めて育てているおかげで、色彩豊かな光景が広がっている。


「いた……」

少し息を切らしながら、三人で談笑している姿が目に入ってくる。

大事な話と言っていたから、一対一のものだと思ったがそうではないらしい。なにか深刻なことでも悩んでいるのかと気になっていたのにそれほど重要ではないのかと首をかしげる。


……それに、敵国だったイリスに対していい思いはしていない。好意は抱いていないはずだ。

嫌がらせだってあり得る。きっと友人同士のような関係にはなれない。それを分かった上でイリスは会うつもりでいた。


ゆっくりとミレイアがイリスの方を見る。交わる視線に思わずぞくっと背中が震えた。

やはり、欠点がないような綺麗な方。ディルと同じの、銀の長い髪の毛の先にウェーブがかかって光に反射している。

意志が強そうな鋭い瞳はイリスを見た途端、すっと姿を消した。


「まぁ、イリス様。本日はご足労いただきましてありがとうございます。お会いできて嬉しいですわ」

「いえ。予定の時間ちょうどになってしまいました。お待たせしましたか?」

「いいえ、先程ついたばかりですわ。ではこちらでゆっくりお話しましょう」

楽しそうな声を弾ませてイリスの手を握って誘導する。その無邪気な様子を見れば十五歳らしさが出ている。

しかし時折見せる氷のような表情をイリスは知っていた。大人でさえなかなかしない複雑な雰囲気を容易く纏ってしまう。


ミレイアの手は柔く、爪の先まで磨かれていた。一方イリスはディルとの戦いで怪我をした手には未だに包帯が巻かれている。


「こちらにおかけくださいな、色んなお話がしたいんです」

「失礼します」

用意されていた白い机と椅子に腰かけ、ゆっくりと深呼吸した。

純粋無垢な王女なら怪しく思わずにわくわくしながら座っただろう。しかし、イリスはそんなに甘くはなかった。何かしらの攻撃があるはずだと構えていた。

 
「ずっとイリス様にお会いできる日を楽しみにしていました」

ミレイアはふふっと親しげに笑いながら、イリスの横に座った。

机の上に並ぶ洋菓子は甘い香りを放っている。紅茶も用意されていて、貴婦人たちのお茶会のようだと思った。

毒でも入っているんじゃないかと疑ったが、他の二人が食べているのを見て安心した。


「さぁ、イリス様も遠慮なくどうぞ。お兄様にお願いしてたくさん用意してもらいました。お兄様はお優しいからすぐに甘えてしまいます」

嬉しそうに肩を傾げて可愛らしくお菓子を口に運ぶ。お兄様、の言葉が愛らしく響き、特別なものを感じさせた。

まるで自分のものだと示し、独占しているかのような……とは考え過ぎだとすぐに思い直す。自分はなんて図々しい女なのだと嫌悪感が体を満たす。


「昨晩は思い出話に花を咲かせましたわ。眠るまでずっと側にいて下さったんです。とても、温かかった。久しぶりに良い夢が見れました」

ディルがミレイアに優しく寄り添う。そして慈しむように頬を撫で、ゆっくりと語りかける。そんな様子が鮮明に思い浮かんで、イリスは胸が苦しくなる。


自分には見せた事のない顔で何を話したのだろう。愛しい存在に、何を想ったのだろう。

心の中で込み上げる恋しさ。すぐそばにいられるミレイアが本当に羨ましい。こんなこと、思ってはいけないのに。


「イリス様、どうかしましたか?」

「あ、いいえ。このお菓子、とても美味しいですね。珍しい味だわ」

柔らかい生地のクッキーが口いっぱいに味が広がる。いい焼き加減でふわりとした弾力だった。


「お兄様のお好きなお菓子だそうですよ。ふふ、可愛い所もありますね。何年も離れていたので、お兄様の好みも忘れていましたけれど」

と、ミレイアに間があく。ちょっとした沈黙が流れていった。

他の二人は依然として何もしゃべらず黙々とお菓子を口に運んでいる。


「今回の件はイリス様にとっては心苦しいものになってしまいましたね。エドームは野望を秘めた国。でもまさかここまでするとは思いもしませんでしたわ」

「そうですね。出来れば夢であってほしかったです」

同情するような言い方に、内心暗い気持ちが湧いてくる。ミレイアは笑みを崩さぬまま、静かに言葉を続けた。


「突然変わった日々、命を奪われた家族……少しは痛みを感じていますか」

ミレイアの纏う空気の温度が一気に冷えたのが分かった。


「痛、み……」

イリスは泣きそうな顔をして小さく呟いた。

 

何も、言えなかった。

戦によって最愛の家族と引き離されたミレイアが感じるのは強い憎しみだと十分伝わってくる。それから九年もの間、ディルとも会えず生きてきたのだ。

言葉に出さずとも、視線に思いが結ぶついている。イリスはただ悲しそうな顔でミレイアを見つめていた。


例えここで口を開いても、通じるものは何もない。もたらした現実が変えられることなんて、ない。

憎まれて当然だと思った。もしこの人の立場なら、自分だって迷いなく恨んだはずだから。


どうしたら、いいのか。何も出来ない。抱えるのは息が詰まるほどの苦しさだけ。手に入れられたのはただの虚無。


「貴方に分かるかしら?轟音が徐々に近づいてくる恐怖、血で染まっていく城内、絶望だけが満たされるあの日のこと……突然闇に放り出された孤独なんて、きっと分からないでしょうね」

「ミレイア様が感じる思いは最もです。戦なんて、引き起こさなければよかった……」


どうしようもなかったと言えば楽なの?この込み上げる痛みから解放されるの?

殺してしまいたいほど憎いと心底思っているのは分かってる。こうやって向き合っている今だって押し潰されそうなほど怖い。


勝者と敗者、この世は白と黒だけ。残酷すぎるほどはっきりしている。

数秒見つめあっただけなのに、縛られたように動けなかった。


「よくも、のうのうと姿を見せられましたね」

ミレイアは冷え切った目で立ち上がる。そのまま目を追えば、コップに注がれた紅茶が容赦なくイリスにかけられた。反射的に下を向いたので顔にはかからなかった。

一瞬の出来事だったが、神経が熱いという感覚をとらえるのに時間がかかった。イリスは声もあげずにゆっくりと上を向く。

髪が濡れ、ドレスにも紅茶がポタポタと落ちていった。

 
「……ごめんなさい」

そう呟くしかできずに俯いた。虚しく雫となって伝っていく紅茶はまるでイリスの涙のようだった。


「謝れば済まされる問題ですか?ずっとお兄様を縛って、傷つけて、痛めつけたくせに。貴方なんて、地獄に落ちればいいのよ」

ぐっと首元を掴まれ、息が苦しくなる。

ミレイアの言葉がずっしりと胸に突き刺さり、涙が出そうになって鼻が痛くなった。


「今まで何にも苦労せずに楽しく生きてきたのでしょう?挫折も苦しみも知らずに、穏やかに暮らしてきたのでしょう?私は、この世の地獄を味わったのに…」

間近で迫られると、言いようもない感情に包まれる。唇をかみしめて震えるしかできなかった。


ミレイアの整った顔は崩れ、荒々しいものに変わる。イリスはダンッと乱暴に引き離され、背中に衝撃を受けた。

 
「モモ、セーラ」

ミレイアが他の二人の名前を呼べば、即座に動き出す。

ガタッと音がしたと思えば、イリスは他の二人に動けないように椅子の上から抑えつけられた。ミレイアに顔を上に向けられ、鋭い眼差しが降ってきた。


「何、を……」

「イリス様、貴方は子供のように無知ではないはず。こんな目に合うのかもしれないという危機感はあったのでしょう?」

「それ、は……」

ミレイアはイリスを射殺すように見つめたまま、机に置いてあった銀のフォークを取り出した。

絶対零度の瞳が冷たく輝き、イリスに目に向かってフォークがゆっくりと近づいていく。目の前に迫る凶器にぞわっと鳥肌が立ち、息を呑んだ。全身から恐怖が湧いてきて肩が小刻みに揺れる。


「今ここで、目を抉り出してもいいんですよ。そうしたらライアン様も興味を失くすかもしれませんよね……無残な姿になったイリス様を気味悪く見つめるでしょう」

冗談じゃないと冷や汗をかくが、身動きが取れない分、今イリスに出来ることはなかった。不安を煽るようにフォークが光り、イリスは目をそらせない。

一歩間違った発言をすれば、ミレイアは簡単に手をかけてしまいそうだった。


「ふふ、その脅えた瞳……やっと見られたわ」

狂気が入り混じった表情は魔性の魅力を感じさせるような恐ろしいものだった。ギラついた切っ先の尖った刃物の如く、その激しさに吸い込まれていきそうになる。


「ねぇ、イリス様……?今までお兄様を独占できて、幸せでした?玩具のように弄んで、愉しかったです?」

「私は……っ」

「心のどこかで優越感に浸っていたのでしょう?お兄様を自分の手中におさめて、どこにもいかないように束縛して」


怖い。目が、笑っていない。


「今すぐに、殺してやりたい……」

ミレイアの心は、真っ黒に染まっていた。十分すぎるほど、分かった。


「その喉を切り裂いて、朽ち果てるまで何度でも痛めつけてやりたい……」

妖美に微笑むと、イリスの目からフォークを離していく。ガタガタと縮こまるしかないイリスは目を大きく開けたまま呆然となっていた。


「お兄様は、渡さない。どんな手を使ったとしても、私だけのものよ」

ずっしりと響くミレイアの声音。そこには深い執着心が見え隠れしていた。

ミレイアは再度睨みつけると、他の二人にイリスの解放を許可した。自由になったが、イリスはしばらく動けずにいた。

 

「心に刻みつけてあげましょう……骨の髄まで、罪の証しを」


そう言ってミレイアは机にフォークを突き刺し、立ち去って行った。

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