亡国の王子の復讐

朝日

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恋しくて、切なくて Ⅲ

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「――っ!」

イリスは一瞬のうちに迫りくる剣を避け切れず、身を貫く痛みを覚悟した。

これは、罰だと思った。剣を向けられて当然だと。甘んじて受け入れるべきだと。

ごめんね、シンディ……と声にならない声が震える。


その時ディルは、身代わりになるようにイリスを抱きしめた。強い力が掻き抱くように、ディルの胸板へイリスの顔が埋まっていく。


「え――…」

しかし、自分以外の血が飛び散るのを見て、言葉を失った。

ディルの胸から、シンディの方へさっと目線を変える。


目の前にいたのは、急所を剣で突かれて口から血を零す、シンディの姿があった。



「シンディ!!」

カハッと口から吐き出される真紅の血。体を貫通した細い剣は、無情にも鈍い音を奏でながらシンディから引き離される。


それを見て、父の最期の光景が重なり合う。全身の血が一気に冷えていく錯覚がした。

痙攣するシンディの身体。剣を持つ力が一気になくなり、彼女が崩れ去るところをイリスが支えた。

誰がこんなことを!と怒りが湧き、前方を睨んでシンディを狙った相手を視界に映す。


「貴方は……」

――刺したのは、ライアンの側近であるレインだった。

息を切らせて肩を動かす彼は、いつもの冷静さが少し欠けているように見えた。

慌てて駆けつけた様子で、痛みで呻くシンディを無感情の目でとらえている。


「かは……っ…あぁ…!」

激痛に悶え苦しむシンディはイリスのドレスをぎゅっと握り、目は血走っていた。

一気に甦る父の姿に冷や汗が出て全身の力が抜けそうになる。ディルはイリスの隣に座ると一瞬で険しい顔をして無言になった。


「シンディ……ッ」

イリスは素早く彼女の傷を直視して、真っ蒼になって絶望する。レインの剣は寸分の狂いもなく、命の源を狙っていた。

シンディは掠れた声しか出せないまま、浅い息を何度も吐き出して生に縋りつく。
 
何とか彼女を助けようするため、イリスは出血を止めようと粘るが、無駄な努力に終わってしまう。頭の隅でもいい、この傷を治癒できる方法はないかと絞り出すが、何も浮かんでこない。


助かる見込みは、誰の目から見ても、限りなく低かった。


「いやよお願い、助けて……どうしてこんなことに……?そうよ、アルトリア様だったら、もしかしたら……!」

縋るような目でディルを見つめるが、彼は首を振って、無理だと小さく言葉を落とした。

徐々に瞳の光を失くしていく。命の灯火は、いつ消えてしまうか分からない。

シンディは、最期の力を振り絞るように何かを言おうとしている。いやよ、死んではだめ…とイリスは声にならない声を呟く。


「……姫君、お退き下さい」

レインはシンディの血がついた剣を払うと、決定的な止めをさすためなのか、再度剣を持ち直す。

イリスは目を見開いて首を振り、シンディを守るように抱き寄せる。紺のドレスが、真っ赤な血で染まっていく。


「これ以上苦しませるのはあまりにも酷です。慈悲として、一瞬の安楽を」

「来ないで!まだ、助かる方法があるはずよ……!諦めないわ、死なせはしない!」

イリス自身、もう残りわずかなのだと、心のどこかで悟っていた。それでも自分の元で散っていく命を、ただ見つめていたくなかった。

痛々しげに響く声と強い意志を持った目によって、レインは渋った様に立ち止まる。


「……リス、様……も…いいです。私は……死、ぬ……自分が…一番、分か…る…」

イリスの腕の中にいたシンディは、ひゅーひゅーと息をしながら、虚ろな目で口を動かす。


「そんなことはさせないわ!これ以上誰も失いたくないのに!」

「……かい、ほう…させて……くだ、さ…これで、も…う……楽に、なれる……」

何もかもなくなった空洞のような心を象徴するかのように、彼女は薄く目を開ける。

心の安寧を望み、健やかな眠りを欲していた。夢のような淡い影を追って、愛しい姿を探している。

行きつく先は死という暗闇でも、シンディはカーマに会えたらいいと、微かに微笑む。


「いやよ、お願い……お願いだから、生きて……」

「ごめ、なさ……い……イリス、様……貴方を、苦しめた……何も、悪くは…ないのに……独りよがりの……邪見に、とらわれて……」


もう、シンディは、生きる気力を失っていた。



「誰かの、せいに…しないと……どうしようも、なくて…結、局……傷つける、ことでしか…満た、され…なかった…」

後悔に揺れる瞳が、数度瞬きを繰り返す。

砂時計がはらはらと落ちていくように、彼女の命も時間も削られていく。どうにかして止めたいのに、もう何も出来なかった。


シンディの呼吸が、生きようとする意志が、すぐ傍で水泡のように消えていく。


「やめて、最期みたいに!もういいの、喋らないで……っ」

「許されない、罪を…犯しました……大事な人を…殺して、しまう…ところだった」

はっ、と萎んでいく息が、終わりを近づける。


「ねぇ、シンディ…罪なんかじゃないのよ……貴方は、悪くないの……悪いのは、私なの」

イリスはシンディの手を包みこみ、涙を溢れ出させて口にする。


「ごめん、なさい…イリス…様……ただ、カーマを愛して、いたかった、だけ…なんです……」

愛ゆえの。ただそれだけの感情だった。深い愛が大きな憎しみに変わり、正気を保っていられないほどのものになっていた。

表と裏のように、誰かを大事にする気持ちは、暗転するとこんな悲劇を生みだしてしまう。その思いが確かなほど、他者を傷つける原因に結ばれる。


彼女が爆発する前に、もっと早く行動するべきだった。今さら思っても仕方がないのに、悔しさが込み上げる。


「……これで、よかった…きっと私は、死ぬまで……憎しみに、蝕ま、れる……っ」

最期の時が、訪れようとしていた。シンディの手を握るイリスにもその瞬間がくるのが分かった。


「幸せ…でした…イリス様の…そばに、お仕え、でき…て……どうか、身勝手な…私を…許し、て…ください…」

手に伝わる鼓動が、ドクンと小さく音を響かせると――もう何も聞こえなくなった。

息絶えるその時まで、彼を思い続け、そして愛していった。伏せられた目が、もう笑うことはない。

夜空に光る星のように、儚く逝ってしまった。


「シンディ……!ねぇっ、返事をして!目を覚まして!」

静かな辺りに、イリスの悲痛の声が木霊していった。



「――彼女については、早々に火葬します。事態についても今日の所は内密に……イリス様」


誰かの声が遠くから聞こえてくるが、今は何も受けつけようとはしなかった。


自分のすぐ傍で命が消えていくところを見た。呼吸が、心臓が、完全に止まったあの瞬間、自分の鼓動も動かなくなったような錯覚がした。

もうどんなに願ってもシンディが還ってくることはない。とらえようのない現実が、秒を刻んで進んでいく。


何も反応を返せないイリスを見て、医務室のアルトリアは溜息をついて語気を強くした。


「聞いていますか?はっきりと申し上げますが、この女性が生き返ることはありません。嘆いても、悲しんでも、亡骸は何も答えない」

「……っ」

イリスは震える背中を向け、声を詰まらせる。


「お気持ちは分かりますが、今出来るのは遺体を灰にすることだけ。祭りの日に死臭は嗅ぎたくありません。冷たいかもしれませんが、ここで区切りをつけてください」

アルトリアも言いたくて言っているわけじゃない。

医者として人を救う立場にある彼女は、今まで何人も死を目撃してきたはず。無感情のように見えて、心の中ではやはりつらいのだろう。顔は曇っていて、血の気はなかった。

それでもすべきことを優先させて、自分の感情を殺している。


彼女の言うことは最もで、いつまでも泣いているわけにもいかない。

イリスは冷たくなったシンディの手を触れ、泣きながらも必死で立ち上がり、アルトリアに一礼した。


「……ごめんなさい。シンディを、お願いします」

「聡いようで助かります。酷なことを言いましたが、どうかご容赦を」

アルトリアはシンディを運んでいくために、廊下に待機していた何人かの男を呼びに行く。

その間イリスは、一生口を開かないシンディを見つめ、押し潰されそうな悲しみに包まれる。


許して下さいと呟いて、がくりと垂れた手。自分はどれほど無力なのか、悔しくてたまらなかった。


「……ごめんね」

謝るしかできない私を、許してなんて言えない。イリスは込み上げる痛みを感じ、うつむいた。



死者は何も語らない。

死は彼女を救ったのだろうか。暗くて寒い、無限の暗闇に放り込んだだけではないのか。

盲目になるほど憎悪に支配され、最期には破滅的な終わりを迎えた。追い詰めてしまったのは私。それなのに、生きていてもいいのだろうか。


全身を大きな布に覆われ、シンディの姿が見えなくなる。

担架に乗せられ、静かに医務室から運ばれていく様子を、イリスはぼろぼろになりながら逸らすことなく目で追っていた。

アルトリアはしばらく無言でいたが、やがて口を開いた。


「今回の件で、イリス様が自分を責める必要はないと思います。彼女は自らの心に勝てず、一人で暴走してしまったから……何処かで解放を、死を、望んでいたはずです」

「……本心は、本人にしか分かりません」

「そうです。残された者は残された現実で想像するしか出来ない」

遠くの星を見つめながら、感傷に浸るように言葉を繋げる。


「ライアン様を、恨みますか、憎みますか?あの人さえいなければ、こんなことにはならなかったのにと思いますか」

「……」

「そうかもしれません。心の底から貴方を欲さなければ、あの女性が死ぬこともなかった」


イリスはぐっと力を入れて手を丸める。決壊しそうな危うい心を保つには、少し時間が必要だった。

こうやって会話しているだけで、大声で叫んでしまいそうになる。どうすればよかったのだと、問いたくなる。

あの人の全てを憎んでしまったら楽なのに、そうすることが出来ない。なぜ…?

 
「――同情しろとは言いませんが……ライアン様はひどい境遇の中で育っています。イリス様の人生よりずっと孤独で、残酷な世界を生き延びてきました」

「……孤独」

イリスの身近に迫る影を復唱し、アルトリアの曇った表情を見つめる。


「母親殺しの汚名、兄である第一王子の殺害罪、王族の恥晒しとまで言われた血塗られた過去。すべてイリス様もご承知のはず」

「それは……」

イリスは以前に聞いた事があるライアンの噂を思い出す。

実の母親を自らの手で殺すには飽き足らず、国王への野心を燃やして兄にあたる第一王子の殺害まで計画したという根も葉もないものだった。

真実が語られることはなく、ただ自分たちの都合のいいように脚色されていくだけだとイリスは分かっていた。


確かにエドームは危ない国であり、暴力や権力で解決しようとする傾向がある。

それでもこれまでライアンが世間に示してきたのは、噂を打ち消すような圧倒的な人間性…自らの力だった。


「世の中で飛び交う、信憑性のない虚実を信じましたか?あの人は、お母さまを殺してはいない……逆に殺されかけた」

アルトリアの瞳が怒りで揺らめき、見えない真実を映し出しているようだった。

幼いころからライアンと近しい彼女が言うのだから、本当のことなのだろう。決して、あってはならない…親が子を殺す、なんて。


「母親が息子に手をかけたと……?」

「そうです。ライアン様が十一歳の時に、お母さまであるフィール様は彼の首を絞めて殺害にしようとしました。逃れても尚、ナイフを向けて襲い掛かってきた……それが実の母親であるのに」

イリスは背筋が凍りそうになって、息を飲んだ。なぜそんなことが起こりうるのか…想像しただけで恐ろしかった。


「絶対的な存在である母が何度も殺そうと向かってくる。フィール様が死なない限り、自分がやられる。ライアン様は混乱の末に剣で応戦し……母を手にかけた」

「――っ…」

「フィール様にどんな命が下っていたのか分かりません。ただ、息子が誰かに命を奪われるならいっそ自分の手で、と思ったのかもしれないですが」

アルトリアは小さく嘆息して、言葉を続ける。


「お兄様の殺人罪の件も、まったく身に覚えがないものばかり。これは憶測ですが、次期国王争いを恐れた第一王子派の誰かが自分たちの都合のいいように流した噂に過ぎません。それなのに……周りの環境は劣悪で、ライアン様を追い詰めることしかしなかった!」

「アルトリア様……」

「あの方の気持ちが分かりますか?心の支えである母親に命を狙われ、兄弟にも王位のために恨まれ、誰ひとりとして救いの手を差し伸べようとしなかった耐えがたい孤独を。心を許した相手にも裏切られ、毒を盛られ、剣を向けられた過去を……」


話された内容はイリスが生きてきた環境とは、かけ離れているものだった。



「そこまでだ、アルトリア」

突如背後から聞こえた鋭い声にイリスはさっと反応する。

アルトリアの話を聞き入っていたせいか、後ろからやってくるライアンに気付けずにいた。パッと視線が合うと、反射的に逸らす。


悲惨な過去を知ったせいか、彼に対して今までと同じように見えなくなる。育ってきた環境が自分との明らかな違いを突きつける。

ライアンの内側から溢れる自信も、我を通す強引さも、なぜか悲しく思えた。


「余計な話をするな。過去の話を持ち出すなんてお前らしくない。勝手な行動は慎め」

「……申し訳ありません、ライアン様」

素直に頭を下げて謝ると、アルトリアは一瞬迷ったように顔をしかめ、一礼して医務室から出ていった。

二人になりたくなかったが、ライアンの強い威圧に耐えきれず、イリスは無言で顔を合わせる。


「侍女如きがこの俺に牙を向けたか。事切れずにいたら洗いざらい吐かせてやったのに、もう死んだとはつまらないな」

血で染まるドレスを見ると、ゆるりと口角を上げた。シンディの死を何とも思っていないような笑みだった。


イリスの中で小さな怒りが浮上して、キッとライアンを睨みつける。


「あの時、毒が盛られている事を分かっていたのですね……私を試す為に、ぎりぎりまで騙されているふりをした」

「その通りだ」

事前に分かっていたなら、運ばれた時点でライアンはシンディを捕まえていた。


そうしなかったのは違和感に気付くか。そして、どんな反応をするのか見たかったから。

身を守るために毒の香りを見分ける術を身につけたのだろう。幼いころから命を狙われた彼だからこそ、あれだけ冷静でいられた。


確かに毒を仕込んだ時点で、シンディは危うい立場にあった。イリスが異変を察知出来なくとも、相応の罰は下っていたはずだった。

それでも、あんな事態にならずに済んだかもしれないのに。


「満足ですか?私の苦しい姿を見られて……っ!貴方は痛くも痒くもないけれど、私は違います!もう誰も失いたくなかったのに目の前で消えてしまった!」

思わず近寄って、ライアンの胸倉を掴んでいた。


八つ当たりでも、ライアンに怒りをぶつけてしまいたかった。

この人がいなければ、こんなに苦しい思いをしなくてよかったのに。そんな都合のいい転換が出来たら楽なのに。何を言い訳にしても、私が根底にいる。

イリスは張り裂けそうな思いを抱えて、力を強めた。


「じゃあ殺せばいい」

そう言われて、視界が白くなり、スッと息が止まる。


ライアンは腰にあった剣を抜き去り、強い力でイリスを引っ張り、柄を握らせる。そして己の首元へ突きつけ、低い声でイリスに語りかけた。


「俺が憎いなら、殺せばいい。そうすれば気が晴れるんだろう?」

「――…っ」

イリスの表情がみるみる絶望に染まっていく。

違う、そんなことがしたいんじゃない。ただ、行き場のない怒りを誰かにぶつけたかった。そうしなければ、自分を保っていられる自信がなかった。


「躊躇う必要はない。どうした?この位置なら、少し力を入れれば、簡単に首を落とせる」

「もう、いいです……」

やめて…と、力なく言葉を呟く。これ以上、追い詰めないでほしかった。

ひたすら自分を責めても、望んでいる未来は用意されていない。真っ暗の中で孤独に耐えても、欲しいものは何も得られない。


「逃げるのか?ここで命を奪ったら全てから解放される。何も縛られることがなく、自分だけの自由が確立できるぞ」

嫌でも聞こえてくるライアンの声が、身体に痺れを与えていく。心がめちゃくちゃになりそうで、イリスは強引に手を離すと派手な音を立てて剣を落とす。

このまま馬乗りになって、彼の脈動を絶ち切ってしまいたい。でも、でも…出来ない。何度その光景を思い浮かべても、実践できる覚悟がなかった。


「だって……どんなに憎くても、貴方を殺すなんて出来ない。死んでほしくないもの!生きていて、ほしいの……」

相反する感情が、イリスの中で暴れていた。

分かっている。ワインを落とした時から、自覚せずにはいられなかった思い。


私は、この人を……言ってしまえば、イリスの中で、全てが変わりそうだった。


「俺に惹かれているんだろう」

ライアンから零れた言葉が、イリスの身体を熱くさせた。


いざ本人から言われると、頭を鈍器で殴られたような衝撃を受ける。認めたくないのに、心臓はどんどん強くなっていく。 

ライアンは女性を落とすことなど造作もないはず。惹き付けられる引力に流されてしまった?弱っている時に優しくされたから、心が揺れ動いた?

きっとこの人は、何もかも自分の思い通りにさせている。不安定な気持ちを図りながら、微妙な距離感を保って、最終的に自分のものにさせる。


その巧妙な罠に、まんまと嵌まって堕ちていったのか。


「違う……っ」

そうなりたくなくて、ずっと壁を張ってきたつもりだったのに。

不安な未来に押し潰されそうで、誰かの優しさに縋ってしまいたかっただけだと言い聞かせる。

一人で抱え込むにはあまりにも大きくて、曇る思いを抑え込むのに必死だった。だから、こんなにも動揺してるだけだと頭の中で唱える。


「ならば、俺を殺してみせろ」

なのに手が震えて、心が震えて、どうかしている。


「ひどい。貴方は、ずるいっ…!」

こんな方法で、無理やり惹かれていると思いこませている。人を殺すなんて、出来るわけがないのに。


「お前を手に入れられるなら、どんな手段も選ばない」

私の心まで、彼は。イリスは放心して、瞳を僅かに揺らした。


満足気な顔をしているかと思ったのに、どこか愛おしそうで、求めているような目で真っ直ぐに見つめてくるから、もう何も言えない。

言ったとしても、どれも自分を追い込むものだけだから。それにシンディを犠牲にして自覚させた思いなんて、いらない。


「どうして……どうして、なの」

イリスは悔しくなって、ぐっと服を掴んで声を漏らしながら涙を浮かべた。



それはまるで、夜空に輝く一等星のような光で。

それぞれに絡み合う想いを照らし出すかのようだった。





イリスが己の心と葛藤している同時刻で――


「どうして私を、置いていったのですか……お兄様」

満天の星が輝きを放つ夜空の下で、切なそうに声を絞り出すミレイアはディルの背中に抱きついていた。

もうどこにも逃さないという強さで、絡みつく腕をさらに引き寄せる。


周囲は人払いを頼んだせいか、静かで誰もいなかった。

イリスとの一件が済み、合流して城下におりた二人は無言のままこの場所へやってきた。星を見上げるのには絶好の場所で、穏やかな夜風が流れている。

遠くからは祭りのざわめきが微かに聞こえてきた。


「イリス様が駆け出すと同時にいなくなるなんて……あんなに必死そうなお兄様、サイが王都に攻めてきた日から見たことがありません。そんなに、あの人が大事ですか……」


「ミレイア」

悔しそうな表情を浮かべて、ミレイアは広い背中に顔をうずめる。


「お兄様、思い出して下さい。私たちが引き裂かれたのは、憎きサイのせい。イリス様はその中心にいる方…だからもっと苦しむべきです。人の尊厳を無視した生活を強いられ、地獄を生きることになった私たちよりも何倍も、何十倍も、苦しむべきです」

「気持ちはよく分かる。でも、あいつを憎んでも得られるものなんてないんだ。それに主謀者である王は俺がこの手で始末した。復讐は終わったんだ」


静かにミレイアの手を包んで重ねると、今度は見つめられるように向かい合わせになる。

ディルは労わるような柔らかい目をして、頬を撫でながら慰めた。ディルもミレイアの思いは誰よりも理解していた。


「どうしてですか!?私は、納得できません!あの人は今まで何の苦労もなく楽しい人生を送っていたのに、私は体を穢されて家畜同然の扱いを受けていたのですよ!思い出すたびに叫びそうになるのに…お兄様だけが心の支えで歯を食い縛って何とか生きてきました!その過去を忘れろと…なかったことにしろと…?」

涙ながらに訴えかけるミレイアは真剣で、少しでもディルの同意を求めていた。


「そうは言わない。ただ、俺達には自由な未来が待っている。過去に囚われる必要もないし、振り返って痛みを思い出すこともしなくていい」

「そんな、簡単に片づけられる問題ではありません!あの人がボロボロになって傷つくまで、この怒りはおさまらない…!」

ディルをぐらぐら揺らしながら、怒りをぶつけるかのようにミレイアは大声を上げる。


「ミレイア、もうあいつは十分苦しんでる」

「そうでしょうね。こんな有様になって多少は堪えているでしょう。それでも私は満足しません。出来る筈がない!」

そこで嗚咽が交ざり、肩を震わせるのは演技ではなかった。ミレイアの中で黒雲のように湧き上がる憎しみは、広がって行くだけだった。


「復讐に囚われても、自分が傷つくだけだ。俺もずっと恨んできたけど、残ったのは虚無だけだった。ミレイアだけは、俺のようになってほしくない」

「それはイリス様がいたからでしょう!あの人がいたから、罪悪感が残っただけ!」

嫌でも思い浮かぶ、微笑みを湛えたイリスは、ミレイアにとって憎しみにしか映らない。


「……そうかも、しれない。でも他人を傷つけて、安らぎは得られない。これだけは事実だ」


ごめんな、と謝るディルは涙が止まらないミレイアを抱きしめた。そうされるとミレイアは言葉に詰まり、膨らむ思いを堪え切れずに、ただ温もりを欲してディルの胸に縋りつく。

愛しい人に悲しそうな顔をさせたくて、こんなことをしているのではない。ディルのためでも、自己満足でも、イリスが苦しんでいる様を見たかった。

いつまでも純粋な幼少期とは違う。臭い馬小屋の藁を頼りに生きてきた過去をなかったことにはできない。復讐と記憶の兄だけが生きる理由だったのだから。

しかし兄は離れていた九年間でイリスに心を奪われ、自分を置いて走り去ってしまった。優先させたのは、イリスだった。それが何よりも悔しい。


「お兄様……それなら……私の横に、いてくれますか。死ぬまで、守ってくれますか?」

消えることはない。イリスへの嫉妬と恨みは、生涯残り続ける。ミレイアは消すつもりもなかった。

今は隣に歩んでいける未来を示してほしかった。いつか自分の元を離れていってしまうのではないかと怖くて仕方がない。


「ああ。二人で築いていこう、カモーアの未来を」

ディルは薄っすらと微笑んで、そう呟いた。


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