亡国の王子の復讐

朝日

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虚像の愛と蜜月 Ⅲ

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「――ん…」
 
イリスは、全身に感じる強い痛みで目が覚めた。
 
けほ、ごほっと溜まっていた水が口内から漏れ出す。手をつくだけでもつらく、体が石のように動かなかった。
 
高いドレスは滅茶苦茶に汚れて川の水を吸収し、髪もびしょ濡れで重く感じる。視点を変えれば岸と思われる場所で寝そべっているのだと分かった。
 
 
「ディル……」
 
真っ先に浮かんだ彼の顔を探すが、姿は見られない。自分の声かと疑ってしまう程、かすれた低い音しか出なかった。
 
砂が混じった水は顔や体に纏まりついて離れない。そのまま這い上がろうとしたが、流される時に硬い岩に体をぶつけて強打してしまったのか、まったく反応しない。
 
 
「寒、い…」
 
少しだけ休もうと上を見上げれば、もう夜の闇が近づいていた。
 
長時間冷たい水に浸かっていたせいで今度は寒気が襲い掛かってくる。ブルブルと痙攣する体を抱きしめながら、もう一度だけディル…と切なく呟いた。
 
あの時離れてしまった手。一体彼はどこまで流されたのだろう。見当もつかなかった。
 
 
ただ言えるのは、このまま震えていたら体温だけが蝕まれるということ。
 
動いて、私の体…とイリスは歯を食い縛りながら力を絞り出した。すると少しだけ前へ進めた。心に光りが見えてくる。
 
 
「早くディルを……探さ、なきゃ…」
 
何度だって助けてくれた優しい人。きっと、生きているはず。
 
危険を顧みずゼクスに立ち向かってくれた。さらには川に飛び込んでまで守ってくれた。
 
 
じわりと瞳に涙が滲んでいく。ディルを傷つけてばかりいるのに、どうしてここまで優しく手を差し伸べてくれるのだろうと思った。
 
本当は優しさに甘えるべきじゃない。お互いにとって一番いいのは距離を保つこと、そうじゃないと自分が一方的に求めてしまう。
 
このままではきっと、全てを投げ捨ててまで、ディルが欲しくなる。きっとそれは愛なんかじゃない。愛とは相手に代償を求めない、尊くて純粋な感情だから。
 
 
誰かが言っていた。大切なものは失ってから気付くと。
 
当たり前のように側にあるものだと、自分から離れていくわけがないと勝手に思い込んでしまって。永遠なんてものが、あるはずないのに。
 
実際、私の足枷から外れて自由になった彼は、本来の強い輝きを放っていた。
 
 
イリスは胸が潰れるような痛みを覚えた。
 
 
「隠すことなんて、できない…」
 
月を雲が覆うように、この気持ちも姿を消して欲しいと思う。
 
だって、どうすることも出来ない。何度だって湧き上がる。そう、星の数ほど男の人はいるけど、月はたった一つしかない。
 
胸を熱くさせる恋は、こんなにも身を焦がす。自分を破滅させてでも、縋りつきたくなる。どうか私だけを見てと、訴えたくなる。
 
 
今ならシンディの想いが誰よりも分かる気がした。イリスはぐらつく体を起こすと、涙を一粒零した。
 
しかし、ぐたりと弛緩した体は地へ落ちる。
 
 
「――……イリ、ス?イリス!」
 
遠くでディルの声が聞こえた気がした。
 
 
そんなはずない、と都合のいい幻聴を憎む。しかしダダダッと駆け寄ってくる足音は紛れもない、あの人のもの……?
 
イリスは自分の目を疑うようにディルを見つめる。ディルはほっと安堵した表情を浮かべ、心配そうにイリスを引き寄せた。
 
 
「こんなところまで流されていたのか…怪我は?体が冷え切っている…」
 
「貴方、こそ……血が…」
 
夢ではないかと瞬きを繰り返す。ディルの温かい体温を感じて、イリスは安心したように震えながら、首に腕を絡ませて抱きついた。
 
 
よかった、生きている。ちゃんとここにいる。そう分かれば、体の底から嬉しさが込み上げてくる。目から涙が溢れて止まらなかった。
 
ディルは拒むことなく、嗚咽を出すイリスの頭を慰めるように撫でた。その仕草はまるで、愛しい存在に語りかけるようで……
 
 
「大丈夫だ、体は動かせる。それよりも、今は体を温めた方がいい。夜の温度は危険だ」
 
「ごめん、なさい。体が、動かないの……」
 
情けない、とイリスは自分を恨んだ。
 
 
「怪我をしたのか?」
 
「打撲、程度だと思うわ……私はここでいいから、ディルは早く近くの民家に……」
 
 
足手まといの私なんか放って、傷の手当てをした方がいい。時間がたつとさらに悪化してしまうかもしれない。
 
元々私が傷つけたのに厄介事に巻きこんでしまって、ディルを追い詰める形になってしまった。
 
 
「……お姉さまを置き去りにするほど冷たくありませんよ。さっきまで歩いていたら何戸か灯りが見えました、服くらいなら貸してくれるでしょう」
 
はーと溜息をつくディルは、いつの間にか普段通りの言葉遣いに戻っていた。
 
怪我など気にもしないように軽々とイリスを抱き上げるとそのまま歩きだした。



「ディルはいつ、目が覚めたの?」

これ以上困らせるわけにもいかず、好意に甘えさせてもらう。イリスはすぐ近くの胸板を感じながら、ディルに身を預けて静かに問いかけた。

幼い頃はすぐ隣にあった懐かしい香りに安心したのか、体の力が抜けていく。


「あぁ……夕暮れが迫っている時間帯でした。すぐに暗くなっていたので焦って探しましたよ。最悪の事態も想像しましたね」

きっと何時間も探しまわってくれたのだ。傷だって痛いはずなのに、自分を優先してくれた。

ディルは目の前で困っている人を放っておけない優しい性格だと知っている。例え憎い相手だろうとも、無視はできないのだろう。


「助けてくれて、探してくれて、本当にありがとう。星夜祭のときも守ってくれた……もっと早くに言うべきだったのに、なかなか言い出せなくて、ごめんなさい」

きゅっとディルの服を握り、頭を下げて謝った。

こんな陳腐な言葉で誠意は伝わらないかもしれない。今言っても時間は経ってしまっている。それでも後悔する前にと口が動いていた。


「いいえ。お姉さまに死んでもらってはこれからが困りますから……昔から思っていましたが、貴方はもっと自分を大切にした方がいいですよ」

「そうかしら。でも、ディルに言われたくないかも……」


カモーアが反旗を翻した時だって国が戦いに巻き込まれていくのを見ないように、自分だけ違う場所に隔離しようとした。

星夜祭ではシンディの剣を避けようともせず、自分を盾にして守ってくれ、ゼクスや部下の人間に襲われた時も逃げ道を作ってくれた。

今まで悲しくなるほど冷たくされたこともあったが、自分がどうなっても構わないとさえ思えるほどの優しい心に何度も救われた。


「ディルには迷惑をかけて……私は貴方に癒やすことのできない傷と痛みを背負わせたのに、いつも助けられてばかり」

思い返せば、どれだけの負担をかけていたのか。

初めて出会ったときから耐えがたい生き恥を晒され、地獄の日々を乗り越え、やっとの思いで平穏を取り戻したのに。


「何を勘違いされているのか……私は善意で動いていません。お姉さまのような心が綺麗な人間ではありませんから。いつだって損得を考えて自分の利益ばかり求めています」

「そんなことないわ。もしそうだったら、今ここにディルはいないでしょう?」

「私が今何を考えているかも知らないくせに。お姉さまの中でどれだけ私が美化されているんですか」

呆れたような視線がおりてきて、イリスは一瞬だけ心臓が高鳴った。

久しぶりに長い会話が出来て、嬉しいと思ってしまっている。ずっとこの時間が続けばいいのにと願ってしまう。


「お姉さまのお人好しの自己犠牲なんて、自己満足の一つでしかありません。いくらよかれと思って行動しても、逆に傷つける時だってあります」

「そうね……」


シンディの場合が当て嵌まる。追い詰めることを言って、結局は傷つけてしまった。

いくら後悔しても彼女が還ってくることはないけれど、死後の世界は優しいものであってほしいと心から思う。


「少し熱っぽいですね。急ぎましょうか」

突然イリスは額に冷たい感触を感じる。焦点が歪んでぼんやりと見つめると、ディルは歩く速度を上げた。

ディルに抱かれていてもやはり夜の温度は低い。イリスは上下の重低に揺られながら、ディルと共に暗い林を抜けていった。


 
「……まずい」
 
ディルの呟きが聞こえ、イリスは首を傾げた。
 
やっと灯りが見えてほっと息をついたのも束の間、目の前の建物の中から聞こえるのはガヤガヤと賑わう男たちの声だった。
 
時々ガシャーンッと食器が割れる音や楽しそうに暴れている様子が外からでも伝わってくる。こんな外れに人が寄りつく場所があるのだとイリスは不思議に思った。
 
 
先程ディルが言っていたことば。ディルが何を危惧しているのか分からない。確かに中にいるのは喧嘩早い血気盛んな者ばかりだと思うが、それとは別に何か問題のあるような言い方だった。
 
 
「どうしたの?」
 
「ここは酒場でしょう。一応宿屋としても構えているのだと思います」
 
「剣技大会の後でよく皆で飲んだわね。大人しくしていれば手出しはされないと思うけれど……何か、あるの?」
 
「少し、不安が……でも迷っている暇はありませんね。お姉さまは熱を出し始めていますから」
 
気乗りしないままで、ディルは一人自己完結してしまったようで、イリスを抱えたまま中に入ろうとする。
 
このままの状態では中にいる人間の視線を集めてしまう。慌てて下ろして、と言おうとした時に後ろから誰かに話かけられた。
 
 
「おいっ!そこのガキ、こんな場所に何の用だ?」
 
大きな体で顎髭を長く伸ばした中年手前の男が、腕組をしたまま目を細めて見つめていた。
 
腰には剣が三本携えており、エドームの下位が着るような薄汚れた服を纏っていた。しかし佇まいを見ても隙がなく、剣を抜けばどんな腕を隠しているか想像もつかない威圧ん漂わせていた。
 
 
「川に落ち流されてここまで辿りつきました。連れが熱を出しているので助けを求めようと」
 
ディルは慎重に答えて、相手の出方を待つ。
 
 
「おいおいまたかよ。この前はどっかのボンボンと貴族の娘が駆け落ちして流されてきたぞ。呪われてんのかあの川は」
 
面倒臭ぇなーとボリボリ頭を掻いて、再度こちらに目線を合わせる。
 
ディルとイリスの顔を交互に見て、なぜか憐れみを感じさせるような、同情するような表情をする。イリスは違和感を拭えきれずにいた。
 
 
「……どっちもいい面してんな、惜しいくらいだ。常人に見えないところがますます怪しい。若いのに訳ありってとこか?」
 
「深く詮索しない方が身のためだと思いますよ。私たちに関与しない方がいい」
 
ディルは反応を窺うように顎髭の男に言った。イリスは無駄に口を挟まない方がいいと思い、黙ったまま成り行きを見守っていた。
 
小声で下ろしてとディルに囁き、覚束ない足でゆっくりと地面に立つ。体に痛みが走り、頭に靄がかかったようになるが、そこは耐える。
 
 
「とんでもねぇのが来ちまったな。まぁいい、行くところがないならここの店主に話をつけてやる。来いよ」
 
手をくいっと曲げてついてこいと促すと、酒屋のドアを開けてカランッと鈴を鳴らす。 
 
ディルとイリスは顔を見合わせたが、後をついていこうと一歩踏み出す。しかしディルはイリスの手を掴み、一言耳元で喋る。
 
 
「嫌でしょうが、ここではあくまで恋人として……何かと都合がいいので、お願いします」
 
「分かったわ」
 
言う通りにすると頷けば、ディルも首を縦に動かす。
 
きっと今から踏み入れる場所は、心を落ち着かせられるような安息を手に入れられるわけではなく、混沌が待ちかまえている気がした。
 


「これはこれはっ!ずいぶんお若いのが来たもんだ、歓迎するぜ!しかも美男美女とは今夜は眠れねぇなーあ!」

顎髭の男が話を通してくれていたのか、店主はガハハッと豪快に歯を見せてイリスたちを引き入れた。


「銀髪か、また珍しい。お前さんカモーアの出身なのか」

店主はディルの鮮やかな髪に見惚れるように呟いた。

酒場は思ったよりも広く、酔い潰れた男が地面に死体化していたり、真っ赤になった男が全裸になって机の上で踊りながら歌を歌っている。

慌てて視線を逸らしたイリス。その様子にニヤニヤと笑う男たちは別嬪なお姉さんが来たなと集まってきて品定めを始めた。


ディルはイリスを庇うように後ろへやると、店主と会話をした。


「川に落ちて流れてくるなんて災難だったな!ここは滅多に若いのはうろつかない場所でよぉ、華やかさが増すってもんだ!」

「今日一晩で構いません、宿は提供して頂けるのですか」

「勝手に使ってくれ!二階に何部屋かあるぜ」

鍵はどこにやったっけなーと鼻歌を歌いながら、ガタガタと盛大に音を鳴らして引き出しを開けている。


「おい店主!俺達には華がないって言いてぇのかクソ野郎ー!」

気にくわないと叫ぶように、ぶつぶつ文句を言う男がいた。


「当たり前だろ下品な面しやがって!あ、元からだったな悪ぃ悪ぃ!おい客の前で鼻の下垂らしてんじゃねえよ見っとも無ぇ!」

「なんだとー!言いたい放題いいやがって、表へ出ろお!」

もう何でもありな酒場は乱闘騒ぎにまで発展しそうだった。サイの剣技大会の後もこうやってワイワイ楽しんだものだとイリスは懐かしくなる。

ガタイのいい店主は錆びついた鍵をディルに投げると、奥の階段を指さして適当にくつろげ~と放置してしまった。


「おい若造!一段落したら降りて酒に付き合えよー!」と何人が声をかけるのにディルは返事をして、イリスの手を絡ませて握る。

ドキリとして戸惑って見つめれば、他の奴らが物欲しそうに見てると目で教えてくれた。確かに危険な色を宿したもので、怖くなってディルの手を握り返す。


「俺が案内してやるよ。鍵は何番だ?」

顎髭の男が親切にも話しかけてくれた。


「202です」

「あぁ、まだ綺麗な部屋でよかったな。中には埃だらけでとてもじゃねぇが寝れない場所もある」

何事もなく順調に進んでいることに安心したイリスは、ディルの後をついていく。もちろん警戒を解くことはしないが、何とかありそうだとほっとした。


ギシギシと軋む階段を上って行けば、薄暗い廊下を通り越して、202と書かれ古びたドアがあった。

ノブを回して部屋を見てみれば、簡素なベットと机があるだけで殺風景なものだった。 

しかし体を休めるのには十分で、二人のスペースは余るほどに確保できる。イリスは肌にはり付くドレスが体温を奪っていくため、違う服に早く着替えたかった。


「服ならボロいやつしかねーぞ。だけどそのドレスは着替えた方がいいな」

「ありがとうございます。ここまでしていただいて」

「気にすんなよ。前のボンボンの威張った態度とは大違いだからな、まだあんた等の方が謙虚さが見える」

ちゃんと守ってやれよ、とディルに一言だけ残して去っていった。



階下から賑やかな音が響いてくる。顎髭の男がいない今、部屋に満ちるのは静けさだった。

無言のままディルは収納に入っていた服を探すと、パサッとイリスに差し出した。


「でも、ディルの分が」

「私は大丈夫です。濡れたままでは風邪をひきますからお早く」


着替えたらお呼び下さい、と部屋を出て行ってしまう。

イリスは数秒迷ったがじっとしていても仕方がないと思い、川で打ちつけた足や背中が痛んだが、何とか着替えようと行動を開始した。しかし後ろのファスナーが下げられないことを思い出すと、どうしようかと右往左往する。

数分の間悩んで結局ディルを呼ぶ結論に達し、言いにくそうにドアの扉を開けた。


「終わり…どうしたのですか?」

「あの…ごめんね、後ろのファスナーに手が届かないの。悪いけど、下げてくれないかしら?」

「………分かりました」

イリスは長い髪を左に寄せて後ろを向いた。

暗がりにさらされた白磁のようなうなじが無防備にうつる。曲線を描いて下を辿れば、ライアンがつけたと思われる紅い痕が散らばっていた。


「見える?暗くてよく分からないかもしれないけど」

イリスの金の瞳が下を向き、睫毛が伏せられる。ディルの手が一瞬だけ宙を横切って止まった。しかし思い直したようにジジジ、とゆっくりと下げていく。


「ありがとう、これで着替えられるわ」

笑顔のイリスはもう少しだけ待ってねと残し、静かにドアを閉めた。



「……何も、知らないくせに」

ディルの耐え忍ぶような顔が小さく歪む。目の上に手を当て、思い悩むようにはー…とかすれた息を漏らした。

やがて数分もすれば、質素な服を身に纏ったイリスが顔を出した。男物だったが、普段から着こなしていたイリスに違和感は少なかった。


「ディル、傷の手当てを。ずっと我慢していたでしょう」

「後で自分で処置するので結構です。それより、お姉さま…熱を出しているので、眠ったほうがいい。ベットをお使いください」

「大丈夫よ、少しくらいなら。ここに座って」

確かにイリスは体が熱く、立っているのもふらついたりする。髪は半分以上は乾いているが、まだ水が染みついているような気もした。

ディルの手当てが終わったら少し横になった方がいいと考えている。ここに長居はしていられないだろう。エドームの城まで戻る体力を戻しておかなければいけない。


イリスはなかなか動かないディルの手を握ると椅子に座らせる。何も言わないディルは成されるがままになってイリスを見つめていた。


「ごめんなさい、少し痛いかも……」
 
包帯が巻かれていた傷口は薄っすらと赤が滲んでいる。塞がっていて治りかけた傷口がさらに開いたのだろう。

申し訳なさと罪悪感が浮かび、イリスは自分が着ていたドレスを迷いもなく引き千切ると、包帯を解き手慣れた動作で止血の処置に入った。


幼い頃、サイの見習い騎士達に受けた傷をこうやって手当てしたものだと記憶が蘇る。その時とは比べ物にならないほど、大きく逞しくなった。

ディルは九年前からずっと一人で孤独と戦い続けたのだろう。寄り添う人もいなくて、ただ、一人で。

憎い仇の一族でもある自分のそばで業火に焼きつくされるほどの痛みを経験させた。そう思ったらイリスは涙が込み上げてきた。


「何も、言わないのね」

手を動かしながら、呟いた。


「九年前、私は貴方を生き地獄に引きずり込んだ……逃れようのない暗くて冷たい道に、ディルを閉じ込めた。それが貴方のためだと勝手に信じて、何年も苦しめた」

今ここで思いのすべてを吐き出してくれたらいいのに、と声にならない声が空をさまよう。


「……いきなり、何ですか」

「――私は、貴方を苦しめるしか、出来なかった」

ぎゅっとドレスの切れ端を結ぶと、イリスはどうにかなりそうな心臓を無視して、止まらない言葉を続けた。


「なのにどうして、私を助けてくれるの?」

星夜祭の夜、ディルの首元に手を引き寄せられた。憎いのだろうと問われて、完全に否定はできなかった。

例えライアンがディルを憎むように仕向けたとしても、一度向けた感情に偽りはない。


『どれだけ私が傷つけられたか、お姉さまに分かりますか?やっと手に入れた自由で私が満足しているとでも?馬鹿にしないでください』

そう、言っていたのに。


「何度も言いましたよね。お姉さまに死んでもらうと今後に支障が出ますから」

ディルは手当ての礼を言うと立ち上がり、窓の外を見つめる。


イリスはこの距離がもどかしくて仕方なかった。

近づこうとしたら離れる。離れれば恋しくなる。恋しくなれば止まらなくなる。そう、そんな単純なことで……一歩が踏み出せない。


ディルは自分を心の綺麗な人間だと言った。そんなこと、あるわけがないのに。

今だってどうにか触れられないかと望んでいるのに。ミレイアが側にいないことを嬉しく感じているのに。何度も自覚する、ああ私はなんて汚い人間だろう。

いくつもの夜を越えてライアンに体を捧げたときだって、ずっと欲しかったのは目の前にいるこの人だけだった。


「嫉妬していたの」

イリスは突発的に口が動いていた。


「は……?」

「兄妹という繋がりがあるミレイア様を。誰よりも近くにいて、ディルの愛情を向けられるあの人を、私は羨ましく思ったの」

突然何を言い出すんだとディルは顔をしかめる。


「ディル」

もう何でもいい、発作のように苦しい思いをこの場で吐き出してしまおうと思った。きっとこの先、二人でゆっくり会う時間もない。ならば今、限りある時の中で区切りをつけたくなった。

思い通りにならない欲求を飼い馴らす自信がない。このままではもう、私は私でいられなくなる。

人はこんな獣のような感情を、どうやって縛りつけているのだろう。一瞬で起爆しそうな危うい脆さをどうやって保っているのだろう。


情けない表情をしているのだろう。どうすればいいかも分からない私は。


イリスは抑えられない気持ちが言葉として溢れてくるのを止められなかった。

熱で頭が正常な働きをしない。重い体とぼうっとする意識の狭間では、ディルの険しい顔が見えた。


「貴方に、触れたい……」

「っ!」

封印してしまえばよかったのに。す、と音もなくイリスの右目から涙が頬を横切って落ちていく。

言ってしまったらもう後には戻れない。ディルが鈍感でもない限り、自分の隠していた想いに気付くだろう。


「ねぇ、どうして……こんなにも、心が痛いの」

窓際に立ちつくすディルの元へ逃げ道を奪うように近づいていく。数歩もすれば、夢でも見ているかのような目で視線を向けるディルが迫る。

背の高い彼に少しでも追いつきたくて、イリスは足先に力を入れ胸元の服を引き寄せて距離を縮めた。ディルは戸惑っているのか、避けようとはしない。


「ずっと、ずっと……こうしたかった……」

目を閉じれば、お城の人が思い浮かぶ。それでもこの甘い熱が思考に靄をかけて鮮やかな銀に染めていく。

イリスはそのまま流れるようにゆっくりとディルの体に手を回した。


「ちょ……っ、何のつもりで!」

「嫌なら離してくれたらいい!貴方の力なら、十分可能でしょう……?」


イリスは振り絞るように声を詰まらせた。

今この時だけは地位や責任を放り投げてもいい。私は王女である以前に、ただ一人の女なのだと分かってほしい。 


夢にまで、見たの。目が眩むほど、身が引き裂かれそうなほど、どうしたって手が届かない貴方を。


この瞬間だって馬鹿だと思いながら期待してる。助けてくれたのは、私のことを心のどこかで特別視してくれているんじゃないかって。

あるわけがないのに、そうすることでしか、惨めになる自分を慰められなかった。誰かに浅ましいと言われたとしても、私はディルのことが好きだという事実は変えられない。

ディルと繋ぐ関係が崩れ去ったとしても仕方がないと思えた。諦めることが出来なかったのだから。


「もう、離れたくないの……!」

こんなに緊張して震えていることを彼は知らない。心臓なんて爆発しそうなほど打ちつけている。

とくん、とくんとディルから聞こえる鼓動の音が耳から離れない。乱れることのない心音が……早くなって、いる?


イリスは、え、と思って顔を上げた。


「――……どうなっても、知らないぞ」

イリスはディルの目の色が変わったのを間近で見た。


それはライアンと似ている……雄を思わせるような、体の内側から出る激しい衝動が揺れる。

自分に向けられるわけがないと思っていた感情がディルの中で燃え上がっているようで……そんなはずがないとイリスは現実を受け入れられずにいた。


「え、ディル……?どうしたの」

ディルは早い動作でイリスの体を抱き上げ、簡素なベットに押し倒す。混乱したまま、背中に感じたベットの感触にイリスはゾゾッと鳥肌が立った。

彼が何をしようとしているのか。どんなことがあっても性の対象で見られないと確信していたイリスは性急に覆いかぶさるディルから反射的に逃げようとした。


「イリス」

その低い一声で、全身が、痺れた。ガッと強い男の力で腕を握られ、小刻みに揺れるイリスの手が緊張を物語る。

銀の目が真っ直ぐに突き刺されば、心が掻き乱された。このまま全てを預けてしまいたいと願っている自分がいることも分かった。


走馬灯のように今までの日々が甦る。

惹かれ合い、求め合い、愛し合い、そんな純粋な過程を望んでも生きてきた道筋を変えることはできない。

今欲しているのはディルの熱。それだけであり、他には何もいらない。



「ん、う……っ!」

微かに湿った吐息が甘い声とともに口内を飛び出していく。

重なり合う唇がこんなにも柔いなんて。蒸発しそうな頭は沸騰しそうに熱く、胸は痺れて芯から疼く。


求めずにはいられない。待ち望んでいたと言ってもおかしくないほどの歓喜に包まれ、動悸のような快感が全身の血をざわつかせる。

イリスは霧雨のように降ってくる口付けに体の力が徐々になくなっていき、イリスは僅かに瞳を濡らして息を弾ませた。


「ディ、ディル……っ、ん!」

動と静。もし相反するこの二つがあるなら、ディルは静の属性を持っているだろう。しかし今この時、彼を支配しているのは奥底に隠れた動の力かもしれない。

抑えつけられた手首は動かせないほどに強く、ディルの体重が圧し掛かる。ギシ、と揺れるベットからさらに奥深くまで詰め寄ってきた。


「あ、待っ……」

温度を含んだ息がディルの顔にかかる。

ぴちゃ…くちゃっと響く水温が耳元から溶け込み、荒ぶるような性感を加速させていく。

ついにはディルの舌が中に進入し、歯列をくすぐるように触れると、酸素を奪うように絡ませる。じゅくっと唾液が交わるとイリスは体の核を突かれたように反応してしまい肩が跳ねる。


おかしく、なりそうだった。


「は、ぁ……ん、う…やあっ」

キスだけで、こんなにも熱い。激しくて、乱れて、止まらなくなる。

ここはどこか、一体何をしているのか。イリスは考えることさえ出来ずに、迫りくる波に飲み込まれていく。


欲しい。ただ貪欲にこの人が、ホシイ……全てを越えて繋がりたいと心から思った。

こんなケダモノのような感情を抱えていたなんて。抑制の檻から外されれば、自分が求めるままディルに縋りついてしまう。


「あ…っ!?」

つー…と首筋にディルの舌が移動する。その生々しい感触に背中が反り返り、恥ずかしくなるような高い声が漏れた。

顔は赤く火照り、腹部に感じるディルの体は自分よりも大きくて…壊れそうなほどイリスの心臓が速くなった。


数秒だけ間が空き、見つめる眼差しに息が詰まった。壮絶なまでの色気と張りつめたような空気。垂れる銀髪が艶やかに闇に光る。

この視線に逃れることなんてできない。どこまでも深く貫いてくる目は魔性の孕みさえ感じさせた。


「煽った、イリスが…悪い……今まで、散々焦らしておいて…狂うまで抱いても足りない…!」 

「な、にを……」

感情を剥き出しにしているディルなんて、数えるほどしか見たことがない。故にディルではない誰かと対面しているかのようで怖くなった。

全身から溢れ出る、触れたら火傷しそうな激しさにイリスは縛られたように動けず、グッと握られる手が強くて痛いことだけしか分からなかった。


「どんな思いで、俺が耐えてきたのか……何も、知らないくせに…」

「ディ、ル…?」

「何度だって頭の中で犯した……泣き叫ぶ顔も、握りしめる細い手も、長い髪ですら、全部俺だけのものだった。他の奴になんて目移りさせないくらい、満ち足りるまでずっと焦らして、ぐちゃぐちゃにして、啼かせて……」

ドンッとイリスの顔のそばに拳を当て、苦しみを吐き出すように低い声を出す。


「どれだけ時間がたっても…っ、どれだけ、離れていても……お前が……」


続きが、語られることはなかった。



「…っあ!」

イリスが身に纏っていた男用の服はディルの手によって皺を作り上へ伸びていく。片方の手はイリスの手首を掴み、素早く頭上で固定させた。

晒された腹部は白く細く滑らかで、暗がりでもよく映えた。呆然として動けないイリスは目を大きく開けたままディルを見つめ続ける。


「信じられないといった顔だな……」

ディルの長い手がすぅっとお腹を横切り胸に向かえば、ビクンッと敏感に身体が跳ねる。ディルの触れる全てが性感帯になったように痺れた。


「こんなの、ディルじゃ、ない……だって…私のこと…っ」

ずっと、憎んでいたはず。イリスは目の前の現実を否定するように顔を振った。


「俺が健全な男とでも思っていたのか?」

穢れを許さないような白磁の肌に動くディルの手が、焦らすように二つの膨らみへと向かう。

鎖骨に這うディルの舌がゾクゾクと這い上がる感覚を呼び寄せ、逃げたくなるような恥ずかしさが襲った。

耳にディルの息がかかり、そのまま甘噛みされる。ひっとくぐもった声が抑えきれず、顔に熱が集まっていった。


ダメ……力が、抜けて……いく。


「っ……ディ…やめ、あッ…」

「甘いんだよ、すべてが」

ガッと強い力によってついにイリスの上半身がはだけた。 ディルに見られていると羞恥が込み上げてきて、足や手を動かしてジタバタと暴れる。

外界にさらけ出された胸はディルの視線を容赦なく受け入れ、膨らんだ先端部分は震えを刻んでいた。

迷うことなくディルはイリスの胸元に口を運び、舌先でコロコロと桃色の突起を転がした。ペロッと唾液を絡ませて反応を窺うと、イリスの顔を覗きこむ。


「――ッん、あ!」

ディルは、ぐっと息を呑み込む。


大きな瞳を涙で濡らし、眉根を下げたイリスの顔と服を弄られ乱れた姿。どこか切なそうに求めるように見つめられると、触れることを躊躇いそうになる。

繊細で小さい。傷つきやすく、ほんの少しの弾みで消えてしまいそうな儚さ。そんな脆さを壊してしまいたくなる、破壊衝動。

到底、簡単には片付けられない胸の内を、こうやって力で押さえ付けることしか出来ない歯がゆさ。全てが蓄積され、ディルはイリスを追い詰めていく。


そして至る所に付けられたライアンの紅。肌に浮いた赤はイリスの体の干渉を示していた。


「舐められるのは、好きか……あいつに毎日こうやって愛撫してもらって喜んでいたんだろうな」

「……ちが…っあ、う…」

「こんなところにまで付けて…あの、クソ王子…」

ディルが悔しそうに顔を歪めると、イリスの胸を片手でやんわりと揉み始める。

ふ、う…っと悩ましげな息を落とし、イリスは露わになった胸を隠すように身体をくねらせる。その動きさえディルの理性を奪っていくとは知らずに。


「も……っ、恥ずかしい…」

頭から、身体が溶けていきそう。 ずっと焦がれていた甘い刺激だとしても、触れているディルの全てに物足りないと感じてしまっている。

満ち足りない、もっと彼を独占したい。誰にも邪魔されず、私しか考えられなくなるように。余裕なんて置いて、本当のディルで心を覆い尽くしてほしい…


そんなことを、一瞬でも思い浮かべた。

その真っ当ではない思考は、獣とどう違うと言うのだろう。


「怖いの……っ」

イリスはしゃくり上げながら、嗚咽を吐き出した。


「……」

ディルは黙ったまま、下にいるイリスを見つめた。


「これ以上…ダメ…っ…ディルしか、見えなくなる…私が、私で…いられなくなる…」

だから、もう…とイリスは弱弱しく首を振った。


「だから何?」

イリスは、ディルの言葉に息が止まった。


「いくら壊れようが、泣き喚こうが、俺には関係ない」

「……っ!」

「ただ、抱きたい。それだけのことだ」

男女の欲は生々しい。美しいも醜いもない、人間の繁殖本能。それはただディルの性欲処理のため?それとも純粋に私を求めているから?

分から、ない。ディルの心が遠くて、触れられない。イリスは通わせることの出来ない想いを感じていた。


ディルの手がイリスの足へと移動していく。太ももの内側を伝い、するっと伸びる指先が秘部へと向かい、イリスの聖域へ入った。

やはりそこは、濡れていた。クチャ、とした粘膜が絡みつきディルの動きが一瞬止まる。震えているイリスは真っ赤になって顔を逸らした。


「感じていたのか」

「――言わないで…ッ!」

この上ない羞恥に掠れた声しか出せない。

ディルが上にある蕾を押し潰すように擦れば、イリスの目に白い電気が走る。


「何だ、もうグチョグチョ……キスだけでも漏らしていたとか?」

「あ…っ、ア…ん…!」

「他の奴でもこうやって簡単に受け入れるのか?たいした淫乱だ…」

違う。ディルだからこそ、こんなにも感じている。

ライアンとは別の、火花のように反応する身体と奥にまで疼くじれったさ。抑えるのだけでも精神が削れそうなのに、ディルは何も知らないのだ。
 

敏感な部分にディルの指が往復し、ジュクッと音を立てて蜜を溢れ出させる。

クチュ、ピチャッ、ペチャ……卑猥に響く度にイリスの心拍数は上昇していく。

 
「ひぁ……っ…ア」

蜜の量を確認したディルはそのままグチュッと割れ目へ指を差し込む。

滑るように入った二本の指がバラバラに動けば、ピクリとイリスの身体が揺れ、快感によって腰が浮きかけた。


「ん…っ、あ……はぁ…っ」

感度を試すように抜き差しが始まり、緩急な動作で奥へ中へ、ディルの手が止め処なく押し寄せる。

気が狂いそうなほど恥ずかしくて、何とか足を閉じようとするがすぐに開脚させられる。じっと見つめるディルの視線に視姦されているような気分になった。

どんどん弄ぶスピードが増し、ジュポッと蜜が溢れ出て来る。イリスはあの感覚が迫ってきて、涙を散らせてディルに乞う。


「やだッ、お願い…抜いて、ぇっ…!」

ディルは目の前で顔を火照らして乱れるイリスの姿に加減を忘れて指を動かしていた。

甘い声を出して必死に絶頂を耐えるイリスの顔は、何とも言えないほど艶やかで厭らしかった。

この表情を目にして自制心を抑えることが出来る者はいないだろう。ディルでさえ歯止めが利かないほど、夢中になっていた。

 
「―――ッ!!」

イリスは体をピクピクと痙攣させて達した。じゅわっとディルの指に愛液が漏れ、グショリと濡れる。

黙ってその液を見つめ、ディルはペロッと味見をするかのように舐めた。その仕草は妖しい艶を溢れ出させていた。


「はぁ…っ、は……あ…」

放心状態で息を切らせるイリスは自分がイッたのだと気づくのに時間がかかった。

ディルの目の前で、私は。羞恥で今すぐ消えてしまいたいと思った。




「――…気持ちよかった、お姉さま?」

「っディ、ル……!」

ゾクッとなるような低い声で囁かれ、背中をのけ反らせる。

こんな卑しい姿を見られて、イリスは全身が熱くて仕方なかった。自分だけ快感に溺れて、もがいて、沈んで…堕ちていった。他でもない、ディルの手によって。


「も、いいでしょう……っ」

依然として息切れはおさまっていないが、脱がされかかった服を戻そうと力を入れる。しかし手が頭の上で拘束されたままびくとも動かない。

このまま解放を望むが、ディルは呆れたように溜息をついた。


「まさか、これだけで終わるとでも?寸止めで焦らせると思うな……」

こっちが治まり切らないんだよ…と呟くディルが、カチャッとベルトを外そうと動き出す気配がした。

イリスは素早く真意を理解して、慌てて首を振る。


「や、待っ、そんな……!」

「滑りも良い。十分慣らした……アイツのが挿入るなら俺のだって容易いだろ……」

あまりの直接的な表現にイリスの顔がカァッと紅潮する。


――本気だ、ディルは。いくら自分が拒否しても、きっと実行する。


「こんなことなら、あの時犯しておけばよかった……」

「だ、だめ……」

最後まで、シたら…きっと後戻りはできなくなる。


「焦らしはもうたくさんだ。我慢できない」

そう言ったディルは、もう一度だけイリスの唇に深いキスを落とした。

突然のことに油断して開いた口にはディルの舌が入ってくる。ねっとりとした唾液が間から漏れ、密着する顔の距離に息が遠くなる。
 

「ん……」

なんて、切なそうな顔をするの。

イリスは体の芯が疼く陶酔しそうな口付けに眩暈に似た感覚を覚えた。

このまま、身を任せてしまいたい。誰にも干渉されないところでディルを深く繋ぎとめておきたい。


醜い感情に振り回されて、己の欲求を満たす為だけに、ディルを恋う。

愚かしい。それでも、愛しい……まだどこか、夢の中にいる心地だった。


ディルは少し汗ばんだ上半身の服を簡単に脱ぎ捨てると、熱の籠もった視線を向ける。


「――…イリス」

そんなに優しい声で呼ばないで。

錯覚、してしまう。もしかしたら少しでも情を向けているんじゃないかと孤独な夢想をしてしまう。


この瞬間だけは、私とディルの世界だと…思ってもいいのだろうか。

蕩けそうな甘い余韻に浸っていたら、唐突にディルがピクッと何かに反応した。



今までの痺れるような空気が一転、ディルはイリスの服に手をかけ、目にも見えない早さで元通りに戻す。



え…と思った一秒後に、ドアを突き破るような派手な破壊音がした。














「おーーーーーーーーッい、クソガキ!何手間取ってんだよ早く飲めェ!ちんたらしてるから迎えに来てやったゼェ!!まさかこんな時間から盛ってんじゃねぇだろうなァァァ?んなの後回しだボケ!俺様の酒に付き合えねぇなんて言わせねェ!酔い潰れるまで競争だァ!これでも昔は酒王と呼ばれた黄金時代があるんだぜえ!女なんか放っておいてさっさと下りて来………アレ?」

「ばぁか!やっぱりお取り込み中だったじゃねぇか!」

「ワリィな~~!ドラムが待てねぇって言うから開けちまった!」

何事かと慌てて視線を向ければ、ガハハハッと大笑いする男達が酔っ払った赤い顔で悪気もなく立っていた。

凄まじい音がして強引に開かれた木製のドアは固定具が砕けるほどの勢いでぶち割れ、部屋の中で無残な姿となっていた。



「「……………………」」

氷のような空間に、ディルとイリスの無言は続いた。


 

「オイオイオイ。やっぱりまずかったんじゃねぇのか……?あの餓鬼、今にも射殺しそうな目をしてるぞ」
 
「やべぇって…ずら下がった方が身のためだ……空気が半端ねぇよ、確実に殺られる!」
 
「どうもお邪魔しました~…後はごゆっくり~…」
 
ディルから放たれる絶対零度の殺気に、本格的な身の危険を感じた男たちは酔いも覚めたのか愛想笑いで立ち去ろうとした。
 
イリスは気まずいこの空間に耐えきれず、真っ赤でフルフルと震えながら小さく縮こまる。
 
 
「――…わざわざご足労頂きまして。どうせなら酒に溺れたくなるような苦しみを味わいませんか?」
 
「いやァ、出来ればご遠慮願いたいナ…」
 
「大丈夫ですよ、出来るだけ永く苦しく痛めつけますから。死んだ方がマシだと思えるような地獄を経験できる貴重な機会ですし、ね……さぁ、」
 
冷たい笑顔でパキッと手を鳴らす音が響けば、酒を持った男たちは真っ蒼で冷や汗をかきながら後退した。
 
冗談じゃねぇと視線を彷徨わせ、背中を向けてバタバタと我先に逃げ出していく。
 
 
「…………」
 
ドアの残骸と静かになった部屋には沈黙が支配し、イリスはどうにも出来ずに放心していた。
 
先程の甘い雰囲気も消えうせて、ディルから発せられる禍々しい負のオーラと鉛を乗せたような重量感のある空気に何も言えなかった。
 
 
ディルの上半身の裸が目に入り、イリスはドクドクと打ちつける心臓を落ち着かせようと必死だった。
 
背中越しからでも分かる、筋の整った綺麗な体。ほどよく鍛え抜かれ、無駄のない筋肉がさらけ出される。 
 
 
もしあの時――…あの人たちが止めに入らなければ。
 
あのしなやかな腕に抱かれて、自分の中にディルが入っていた。
 
 
「ディ、ル……」
 
「――本当…いつも邪魔ばかり入りますね、お姉さま。呪われてるのかしら…」
 
猛りを鎮めるため、噛みしめるように口にするディルは、冷めた笑いを零す。なぜだかその言葉が切なく響いてイリスは泣きそうになった。
 
と同時に頭に鈍い痛みが走り、熱が悪化してきたのだと悟る。意識の外にあった体の痛みもやってきて、思いのほか体調が良くないようだった。
 
どうして今更こんな鈍痛がと、頭を押さえて顔を歪める。
 
 
「……もう、何もしませんから。安心してベットで体を休めて下さい。見張りは私がします」
 
放り投げた服を拾い、素早く袖を通したディルは、いつものような声で口を開いた。
 
先程まで見てきた荒っぽいディルはもう姿を消した。今目の前にいるのは、長年共に過ごしてきた冷静なディルで…
 
 
「貴方の足手まといには、なりたくないから……そうした方が、いいみたい」
 
夢のような、時間だった。そして一気に現実へ引き戻された感覚。
 
甘い逃避だったのかしら。都合良く創り出した自分の幻想だった…?そんなはずはない。今だってむず痒いようなじれったさが秘部に疼いているのだから。
 
そんなこと言っても、今出来ることは体を休めて万全の体調に戻すこと。
 
 
「店主と部屋をかえるように話をつけてきます。破壊されたドアの部屋じゃ安心できませんから」
 
「ありが、とう……」
 
どうやったって、私たちを結ぶのは憎しみと因縁の鎖。離れていく距離がそう叩きつけているかのようで、イリスは胸が苦して仕方が無かった。
 
 
「この部屋には誰にも近付けさせないように目を配ってます。また呼びに来ますから…少しお休みください」
 
そう言ってディルは部屋から出ていった。
 


「おーいクソガキ、やっと下りてきやがったな!いつまで待たせるんだよ!」

「ドラム達がお楽しみを邪魔しちまったみてぇで!?一体何したんだよ、端っこで惨めに震えてやがるぜ!」

「まァ飲もうか!あのお嬢ちゃんとの話を聞かせてくれや!」

ディルは澄ました顔で階段を下りていくと、ガヤガヤと騒いでいた何人かが気付いて声をかけた。


「後で付き合いますから」

機嫌が悪そうに素っ気なく言えば、カウンターにいた店主と目が合い、スタスタと足を進めていく。


「ドアが壊れたので、部屋を変えて頂きたいのですが。言っておきますが、破壊したのは私ではありません」

「おいおいマジかよ!ドラムがブチ壊しやがったのか…あいつ酔うと見境ないからな~待ってろよ、違う部屋の鍵も探してやるから」

くっそー修理代高ぇの請求してやると呟きながらガサゴソと漁り出す。

ディルは周囲に目線を配り、特に階段に注意を注ぐ。途中で顎髭の男が壁際からこちらを見つめているのに気付き、少し眉を顰めた。


しかしひっそりと階段に向かおうとする男がいるのを確認すれば、ディルは近くに落ちていたナイフを拾い、数秒の内に真っ直ぐ投げた。

ナイフは男のすぐ前を通り過ぎ、ボスッと壁に突き刺さった。いきなり現れた凶器にひッ…と掠れた声を出して男は尻もちを着きディルを見る。

見守っていた顎髭の男は、意外そうに目を見開いていた。全員の視線が集中し、今まで騒がしかった酒場に一旦静寂が生まれた。


「そんなに死にたければ今度は心臓を狙いますけど?」

「――…っ」

「仲間の方にもお伝えください。命が惜しければ、イリスを攫おうと考えるな」

ごくん、と何人かが息を呑む音が聞こえた。

ディルの目に宿るのは底知れない闇で、凡人が容易く纏える空気ではなかった。ディルの生きてきた道筋が暗い色で染まっていたのだと勘がいい者は悟る。

男の動きを捉えた無駄のない剣の操り方を見る限り、相当の鍛錬を重ねてきたと思っていい。アホ面の何人かの目の色が変わり、本来あるべき姿が顔を出す。


「クソガキ、やるじゃねぇか~!どんな芸を隠し持ってるのかと思えばとんでもねぇ奴だったな!」

張りつめた空気が流れていたが、近くにいた店主がガシッとディルの首を掴んでグリグリと頭を撫でる。

すると一瞬で警戒が緩和され、いつものようなうるさい雰囲気に戻った。しかしディルはこの酒場の秘密を見破っていた。


「ほらよ、新しい鍵だ。保証はしねぇが多分使える部屋だぜ~」

「ありがとうございます」

前よりは綺麗な鍵が出てきたらしく、少しは期待は出来そうだとディルは礼を言い踵を返した。

背後から突き刺さる視線を感じながら、足早に階段を上っていき、イリスのいる部屋へと歩いていく。


――…ここは、危険だ。

いつ矛先が向くか分からない。イリスの体調を窺いつつ、早めに立ち去るべきだとディルは鍵を握りしめた。


「お姉さま」

ディルの声が聞こえ、ベットに横たわっていたイリスは目を開ける。安心したように息をつき、ディルの無事を確認した。


「鍵をもらってきました、移動しましょう」

ディルの手がイリスの肩に触れようとした…が、反射的にイリスはそれを避けてしまっていた。

ベットに抑えつけられた記憶を思い出し、体が脅えてしまったのか。ディルは宙に手を止めたまま、ほんの少しだけ傷ついた表情をする。


「あっ、ごめんなさい……」

「……いえ、立てますか?」

極力触れないようにするディルは、イリスを気遣いながら次の部屋に移動していく。

二つ部屋を跨いで、205と書かれた鍵を穴に入れ、中へ入っていく。さほど内観に変わりがなく、必要最低限の物だけが置かれていた。

ベットは今にも支柱が壊れそうな古いもので、二人分の体重が掛かればすぐにでも地面に崩れてしまいそうだった。


「熱は?」

「ん……少し、上がってきたわ。大丈夫、少し眠ればよくなるから」

ギシッと軋むベットに座り、イリスは熱い体を休ませる。


「眠って下さい。本調子に戻さないと後がきついですよ」

「そうね。早く、王城に帰らないと。あの人が何をするか分からないもの…」

ライアンの領土に火種を撒いてきたと言っていた。きっと彼は強引にでも事を成し遂げ、血眼になって自分を探すだろう。

今頃どうなっているのか考えても想像がつかなかった。

そして兄であるゼクス。もう一度会うのは身が竦むほど怖い。しかしそれは避けられないだろう。


「……無事に帰れたら、の話ですけどね」

ディルは先行きが怪しい空を見つめ、目を細めて呟いた。 


「どういうこと?」

「不安要素が多々……とにかくお姉さまの体調を戻して一刻も早くここから離れた方がいいかと」

「危険、ということね?」

階下の彼らを見る限り、好意的で悪い人のようには見えない。しかしディルが言うとおり、何か臭わせるものがあった。


「確信はありませんが、かなり危ないと思います」

ディルの言う通りなら、今すべきなのは最善を尽くすこと。ただでさえ重荷となっているのにこれ以上は迷惑をかけられない。

思った以上に深刻だ。きっとこの場所は敵陣の中のようなもので、いつ襲われるかも分からない。ディルが警戒を解こうとしないのはそのためだったのか。

こんなふらふらの体で、もし追われても逃げ切れると思えない。万全にはほど遠くても、いざとなって戦える体力が残っていたらいい。


「少しだけ横になるわ……数時間したら起こしてくれる?そうしたら、逃げましょう」

「はい」

ディルが頷くのを見てイリスはありがとう…と呟き、気を失うように眠りへ落ちていった。

今日一日を振り返り、イリスにかかった精神的負荷は相当なものだろう。疲れたような表情をするイリスは、時折苦しそうに息を吐き出した。

 
「――……今だけは、良い夢を」

顔にかかったイリスの前髪に触れ、小さな声でディルは呟いた。



「そんなところで、何をしているのですか?」

ディルはイリスの傍らで、人の気配を感じて隠れている来訪人に話しかけた。


「……反応も上々か。びっくりしたぜ、あそこまで剣を扱えるとはな。それにお前ら、単なる恋人同士じゃねぇだろ。いや……恋人という関係でもねぇな?」

「余計な詮索をすると命を落としかねない。私たちはそういう身分の者です」

ディルは忠告して振り返り、正面を向いてドアに佇む顎髭の男と目線を合わせる。


「んな警戒するなって。俺は害を加えるつもりはねぇんだからよ」

「俺、は……成程、他の奴らはそうも言ってられないということか」

ディルは冷え切った瞳を向け、面倒臭そうに溜息をついた。


「おいおい、まったく、鋭いな。今までに死線の一つや二つを乗り越えてきたような面構えだ。綺麗な生き方はしてきてねぇな?」

「穢れた者同士、感じるものはあるようですね」

「あァ……ピリピリ伝わってくるぜ。とは言っても、そこのお嬢ちゃんは純粋さしか感じねぇ。対極にあるお前らが何で一緒にいるか謎だよ」

その言葉を受けてディルは伏せた目でイリスを見つめ、儚げな表情をした。


「……元々、一緒にいてはいけない人だ。いつだって手の届かないところにいて、触れようとしたら傷つけてしまう。それでも無茶ばかりするから放っておけない」

「ずいぶんと、まあ……大事そうに見つめるんだな。自分の命よりも大事だって目をしてるぜ?」

顎髭の男は、真冬の湖面のようなディルの、暗く翳った光を見逃さなかった。

幼少からつらい思いしかしなかったのだろう、この歳でこれほど大人な顔をする少年はなかなかいない。


「私の命など生き恥を晒して、たまたま永らえたようなもの。救ってくれたこの人の未来でさえ踏みにじって、低俗の価値しかないですよ」

「過小評価しすぎじゃねぇ?俺から見たお前らは心の底では通じ合っている気がするけどな。表面上では深い隔たりがあって何かしらの距離を感じるが…」


この短時間でイリスとディルの関係をどう捉えたのか分からないが、顎髭の男は考え込むように呟いた。

余計なことを言ってしまったとディルは息をつき、今の事は忘れて下さいと言う。


「そういや、名前を聞いてなかったな。俺はラグレム、お前は?」

「……リリィ」

「おいそれは……サイの言葉の意味じゃ、罪人だろ?何でまた」

「これ以上は聞かない方がいい」

ディルは有無を言わせない口調で、遮るように言った。
 

「そう言われると深入りしたくなるな。例えるならお前らは光と影だ。対照的なのに、お互いが向かい合っていないと基盤が成り立たない不安定な存在だなァ」

「……詩人ですね。趣味で書いているんですか?」

「少しな。これでも周りのウケはいい方だぜ」

にやりと口端を吊り上げるラグレムに、ディルはふっと笑みをこぼした。


「悪い事は言わねぇ、今すぐにでもここを立ち去れ。お嬢ちゃんを守りたいならな」

「そうしたいのは山々ですが、この人が熱を出している以上、厳しい選択ですね。抱えながら走るのは無理がある。馬があれば撒ける自信はあるのですが」

「あー…まぁそうなるか。時機を見て俺が誘導してやりたいが、なにぶん扱いにくい身分だからな。助けてやりたいが、俺には無理だ」

忠告だけでもありがたいですよ、とディルは口を動かす。


「お嬢ちゃんがちょっと眠っても具合がよくなるとも限らないだろ?」

「少なくとも今よりはマシになりますよ。この人は昔から体力だけはありますから」

「……楽観的だな、リリィ。勝算でもあるのか」

「正直に言えばまったく、ありません。まぁでも……この人の寝顔を見ていたら何とかなるような気もします」

寝ている姿を覗きこむディルの姿勢は愛おしさを感じるもので、ラグレムはうーん…と唸るように溜息をついた。


「俺が言えるのもここまでだ。後の結果は保証しねぇ。最悪の事態になっても、恨みっこなしな」

「わざわざ、どうも。疑われるといけないので戻った方がいいですよ」



「……お前らに、幸運の星がついていることを願うよ」

顎髭の男はイリスを静かに見つめ、じゃあなと言ってその場から消えていった。

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