亡国の王子の復讐

朝日

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試される絆 Ⅰ

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ベルティーナは処分した。そうレインに告げられてから既に三日がたっていた。

その報告を聞いた途端、イリスは顔面蒼白でライアンに詰め寄った。しかし施行された後で、もう彼女はこの世にはいないことを知ると、呆然と立ち尽くし言葉を失うことになる。

イリスに向けた明確な殺意。知らなかったとはいえ将来王になる可能性を秘めた子まで殺めようとした。十分な理由だとライアンは冷たく命を下したらしい。


イリスは数日もの間、昏々と眠り続けていた。

あの後イリスが意識を失うと、駆けつけたアルトリアや代々サイの王族に仕える医者が、イリスの妊娠にすぐ気がついた。

今までに微熱状態にあったこと、子宮が痛んだり、立ちくらみの症状を隠していたことについてはかなり叱られた。


結局首を絞められた圧迫がお腹の子供に影響はないと判断されたが、様子見で療養が強制され、部屋から出るのも監視がつくようになる。

イリスがじっとできない性格を知っているのか、ライアンは一日に何回か部屋を訪ね、体に変化はないかを聞く。

食事も制限がかかるようになり、公務からも遠ざかってしまった。心配性なイリスは何度も口を挟もうとしたが、アルトリアに一蹴りされ、縮こまることが増えた。


「まったく……もっと自覚をお持ちください。もしかしたら大事な御子を流していたかもしれなかったのですよ」

「それは、そうだけれど……」

「貴方お一人のお体ではありません。イリス様のご意思でご懐妊のことは公にされてはいませんが、直に知れ渡ります。いつまた気がふれた人間が襲い掛かってくるか」

そう言われると、イリスも口を閉ざす。

未だに、新たな命が宿ったことを実感できていなかった。早期に発見されたため、腹部の膨らみはほとんど見られない。

そして懐妊したことで、今までとは違った波紋が拡がりそうだった。イリスが一番気に案じているのは――…一体、誰の子なのかということだった。


ディルとの最後の夜が甦る。

何度だって夢に現れた、優しさに包まれた時間。触れた温もり、繋がった思い、確かめ合った絆。離れている分、ディルの全てが恋しかった。

会いたくても逢えない。寂しさを抱いていないわけではなかった。毎夜毎夜、振り返る。身に迫るのは衝動的な切なさで、痛覚を感じながら唇をかみしめた。イリスにとって、交わした約束だけが支えだった。 


「きっとお転婆な御子なのでしょうね、イリス様とライアン様に似て」

アルトリアもディルと一夜を共にしたことは知っているのだろう。核心に触れた発言は避けていたが、多少不安に思っているのが伝わってきた。

イリスはお腹に触れ、ゆっくりと撫でる。命の胎動は静かに波打って、確かな心拍を刻んでいる。母親になる日はまだ先の未来だとしても、少しずつ近づいていた。

 
「そういえば、イリス様の姉君がいらっしゃるトルシア国から競技大会の招待状が届いていました。今年はトルシア国で開催されるのですね」

アルトリアの言葉に、イリスは頷いた。


主催国が中心となって、二年に一度だけ各国から武術に優れた者を国内から徴集し、剣術、槍術、弓術、体術などを競い合う行事の一つだった。

サイでも大会を開いたことがあり、その時は大きな盛り上がりを見せた。主催国は流れてくる人で活気にあふれ、物流の循環も良くなり、景気も上向きになるメリットがある。

規定された掟に基づき、公正に行う。毎年批判や野次が飛び交ったりするが、度が過ぎると国際非難を浴びるため、そこまで強く出れない者も多い。


「ライアン様は参加するおつもりだとか……血迷ってもイリス様を連れていくなどと仰らないか心配です」

「そのまさかだ。もちろんイリスは連れていく」

いつの間にいたのか、ライアンが会話の中に入ってきた。肩を上げて驚いたアルトリアは目を大きくさせて見る。


「周辺国の豚野郎共にイリスを見せ付けず観賞だけで終わらせるとでも?甘いぞ、アルトリア。これを機に格の差を教えてやる」

「ついに頭がおかしくなりましたか、ライアン様。妊娠されているイリス様をご同行させる?単細胞の馬鹿でもしませんよ」

「イリスの安全は確保するさ。滅多にない機会だからな、イリスも気晴らしになるだろう?」

どうだとライアンに問われ、イリスは考え込んだ。

エドームのような事件にはもう巻き込まれたくない。命の危険に晒されるのは勘弁だった。そして、守るべき存在ができた。何があってもこの子だけは守り通さなければいけない。

欲を言えば、トルシア国にいる姉のフローラには会いたかった。心配を掛けて何度も手紙を交わしたが、まだ会えていない。フローラがサイに行こうとしても、ライアンが入国を許可しなかった。


半月後には開催される。行こうと思えば、行けないわけではなかった。

もしかしたら、ディルに会えるかもしれない。イリスの中で小さな希望が生まれ、手が震えた。


「まあ、イリスが何を言っても連れていくさ」

それでもライアンは、全力で止めるアルトリアを無視して言った。



「子宮に赤ん坊入れたまま剣を振り回す王女がこの世界のどこにいるってんだよ!ちったァ大人しくできねぇのか!」

「ここにいるわ。それよりルド、耳元で怒鳴らないで……頭に響く……」

「誰だよこんな無茶苦茶に育てた奴は!姫様が出る幕なんかねぇ。何のために俺がいるんだよ。あんたの身を守る盾にくらいはなってやる」


トルシア国へ行くことを決めたイリスは、護身用に剣を持ち歩くと呟いた瞬間、ルドの叱咤が飛び込んできた。

頭おかしいんじゃねぇのとルドが冷たい目で見る。イリスは言ってみただけよと口を尖らせて拗ねた。と、ルドの発言を思い出し、意外そうに首を傾げる。


「私を守ってくれるの?何だ、税金泥棒かと思っていたけれど、用心棒になってくれるのね。ありがとう、頼りにしてるわ!」

「……姫様ってさり気なく毒を吐くよな。しかも税金泥棒って何だよ」

ルドから訝しげな視線を送られるが、イリスは気にも留めず華麗に無視した。


「ルドは今まで剣奴として生きてきたのよね…実力は、本物でしょう?なら貴方がいれば安心ね」

「おいおい、信用していいのかよ。あんなに疑ってたくせに」

「これだけ心配してくれるんだもの。見た目によらず世話焼きなところも好きよ、ルド」

イリスがにこりと微笑めば、ルドは渋い顔をして顔を逸らした。

いいように使われて気に入らないのか、どんどん不機嫌になるルドが可愛く思えたイリスは、くしゃくしゃと頭を撫でる。そしてゆっくり手を離すと、少し真顔になって口を開いた。


「貴方のお友達はもうここにはいないみたいね。長年連れ添ってやってきたのに、ルドは良かったの?」

「別に。テオなら実力を試すためにエドームの下っ端騎士からやり直すってよ。ラグレムは特にやりたいこともねぇから、ディル王子のところに雑用志願しに行ったぜ」

ディルの、ところに。

そう聞けば、一瞬にしてイリスの動きが止まった。その分かりやすい態度に、ルドはフッと笑みをこぼす。

いつだってイリスがぐらつくのはディルの話題だった。


「内心ではどうせ、ディル王子目当てだろ?一目でも会えたらそれでいい、みたいな純情可憐乙女心……」

小馬鹿したような口振りだったが、ルドはイリスの表情を見て、言葉を喉に詰まらせた。


イリスは悲しそうな、泣きそうな、切なそうな、今にも消えかけそうな顔をしていた。それは普段誰にも見せることがない、女としての綻びだった。

思わず抱き締めたくなるような危うさに満ち、萎みかけた花のような儚さを感じた。イリスの心にわだかまっている物憂いが音もなく浮上し、隠れた弱さが姿を現す。


ルドは面食らったように困惑し、続きを言えず頭を掻いた。

いつもは気丈に振る舞っているイリスが度々見せるこんなしおらしい一面には、胸の頂を突くようなむず痒さがある。

全身で追い求めているものを掴めないもどかしさに苦悩し、それでも健気に待ち続けるイリスの思いの強さは決して干渉することは出来ない。

つらいのならやめてしまえばいい。ルドは何度も口にしたが、イリスは微笑を浮かべたまま、ただ静かに首を振るだけだった。



「そう、ね。私の我が儘もあるわ。この子の安全を考えたら、サイにいるのが一番いいでしょう」

か細く震える手を丸め、イリスはグズッと鼻を赤くさせると声を絞り出す。


「でもね……やっぱり、どうしても、逢いたいの。声が聞きたい、顔が見たい……ディルに、触れたい。面影だけじゃ、胸が苦しくて……どうにかなりそうなの」


ツゥッと、イリスの頬に涙が伝っていった。



ライアンの行動は早かった。

イリスが知らない間にエドーム内で選りすぐりの者を集め、その中から更に絞っていく。サイからも剣術に優れた人物を呼びだし、トルシア国へ出立する準備が進められた。 

選び抜かれた強靱な騎士から受ける、日増しに高まってくる興奮に、イリスも出発の日が近いのだと実感する。サイで行われた競技大会を思い出すと、少し悲しい気持ちになった。


イリスの空いた隙間を埋めるために、ライアンは影で新体制を整えていく。

国内に精通した大臣から、器量、才覚、人脈などを総合的に判断して、最後に信頼に足るかを見極め、次の宰相を決定する。イリスも納得がいく人物で、それを承認した。

エドルフの二の舞にはさせたくないと、慎重に人選の機会を窺っていたイリスも、妊娠が発覚すると思うようにいかなくなり、ライアンの指示に従うことになる。


やはり、一人では無理があると認めざるを得なかった。ライアンの力を借りて、細部に至るまで各大臣の実質的な権限を定めた。

基盤となる政治構成を明示し、よく議論したうえで納得のいく答えを導き出す。エドームの支配下にあることは変わりなかったが、意外に譲歩される部分も多く、ライアンの政治的な手腕を間近で見つめ、改めてその力に驚かされた。

抜かりがない。強引に採決されることもあったが、しっかり裏付けされているため反論の余地がない。サイとエドーム、どちらにも有益になるように事が運び、均衡が保たれる流れが作られていった。




「……ロズ、どうしても行くの?」

「当たり前です。必ずついていきますよ。フローラ様にもご挨拶に伺いたいですし、イリス様が危険な目に合わないように目を光らせておかねば」

トルシア国へ参加の意向をまとめた書状を送り、後は出発するだけとなった時、ロズは共に行くと頑なに抵抗した。

イリスは何度も説得したが、エドームの一件があるため、ロズが折れることはなかった。


「もしものことがあっても、ルドがいるから心配ないと思うけれど…」

「あんな胡散臭い男は信用できません。御子に大事がないよう、私がお傍にいます」

何だとババァ、と部屋の隅にいたルドから怪訝な声が介入する。ロズはフンと鼻を鳴らして睨みつけた。


「二日後には出発よ。少し遠いけれど、大丈夫?」

イリスは不安そうに眉を落とす。


「何を仰いますか。まだまだ若いので問題はありません。道中のお世話もお任せください」

「鏡で顔見てから言えよな。今にも腰曲がりそうなくせして、何が若いだババ……」

そこでロズから恐ろしい眼力が飛ばされる。ルドはやべえと口を押さえ、口笛を吹いて誤魔化す。一度ロズを怒らせると大変な目に合うことを学んだのか、それ以上は何も言わなかった。


「とにかく、私はご同行いたします。毎年必ず何らかの問題が生じる競技大会です。ご一緒でないと心配で眠れませんわ」

「そうね。じゃあ、今回はお願いするわ」

味方がいると心強いのは確かだった。

エドームでは誰ひとりとして助けを求められる人はいなかった。トルシア国に行けば、各国の王族はもちろん要人まで集まってくる。一人では心細かったが、ロズがいれば安心できる。


「何事もなければいいわね」

平和に終わればいいけれど、と小言をもらす。イリスは、出発のその日まで十分に体を休めていった。




トルシア国は海に面した国だった。

暖流から受ける風によって、年間の気温差は目立たない。国土はサイよりも大きく、人口も多かった。

夏は涼しく冬も温和。過ごしやすい土地として有名なため、周辺国から移り住む人も多い。肥沃な土壌が分布し、国内自給率も高かった。


開催されたのは、冬期に入る前の季節だった。競技大会にはうってつけで、体力維持がしやすい時期が幸いした。

サイから約五日かけて入国したイリスたちは、その間も夜盗による襲撃や過激派の暴走も見られず、平和な日々を送ることができた。

トルシア国の首都にはすでに各国から集められた凄腕の騎士や護衛兵が街を歩き、異様な高揚感に包まれている。エドームの団体だと分かると、すぐに目付きを変えてこちらを見てきた。


「エドームの荒っぽさは周知の事実ですが、実力は群を抜いています。敵対心を燃やす方も多いのでしょうね」

「本当……皆こっちを向いてるわ」

ギラついた顔で通り過ぎていく人々を眺め、イリスは圧倒された。

年々凄みを増している。大会に雄志を燃やす者達が、迫力に満ちた戦いを繰り広げるのは、イリスとしても影響を受けるものがある。

今まで費やしてきた剣技も最近では遠い存在になっていた。公務に追われる日々で、手につける余裕もなかったことを思い出す。それがもどかしくも感じられた。


「城内へ入ったらフローラ様にご挨拶に参りましょう。と言ってもあの方なら自らお越しになるでしょうが……」

「城門近くで待ちかまえていそうで怖いわ。お姉さまならやりかねないもの」

イリスの予想は、現実になった。

立派な城門が見えると、白亜の城が出迎える。サイやエドームの城とは違い、窓が多い造りになっていた。尖った小さな塔がいくつも突き出し、その窓からは壮観な眺めを一望できるのだろう。


待っていた騎士達の歓迎を受け、イリスがゆっくりと馬車から降りると、周りからどっと歓声が湧く。トルシア国にもイリスの美貌は轟いていたのか、たくさんの人間が熱い視線を送っていた。

イリスが乗っていた馬車の近くには眠そうな顔のルドが馬から降り、ぼうっと突っ立っていた。ロズがギラッと鋭い目をすれば、面倒臭そうに背筋を伸ばす。


「イリスッ!!」

え、と思った一秒後、イリスは豊満な何かに顔が埋れていた。ぎゅっと圧力が加わり、酸欠になりそうなほど抱きしめられる。

苦しすぎてトントンッと手を背中に当てたが、本人は気づいていないのか、最初の勢いのまま感動を口にした。


「ああ、イリス!やっと、やっと会えたわね!この日をどれだけ待ったかしら!指折り数えながらずっと楽しみにしていたのよ!予定より遅れていたから心配で心配で落ち着かなかったわ!とにかく会いたかったわ!」
 
これは駄目だと分かれば、プルプルと震えながら、隣にいるロズに助けを求めた。


「フローラ様。イリス様が……」

「あら、ロズじゃない!久しぶりね。元気だった?その様子じゃ大丈夫そうね。よかった、変わりがなくて安心したわ!」

やっとのことで解放されたイリスは、片目を閉じて息を吐き出した。胸元に手を当て、荒い呼吸を繰り返す。その時、笑いを噛み殺しているルドがチラッと見えた。


「お久しぶりです、お姉さま。お会いできて嬉しいです」

イリスの目の前には、綺麗に着飾った姉のフローラがいた。巻き髪を丁寧にまとめ上げ、フリルが多めな蒼いドレスを身に纏っている。首元にはトルシアの象徴である白い宝石が輝いていた。

こうやって会うのは何年振りになるのか。イリスは感慨深くなって、思わずじっと顔を覗きこんだ。


「やだ、堅苦しい挨拶なんていいのよ。さぁ、客室を用意してあるからそこでゆっくりお話しましょう」

にこやかに微笑みながらフローラは城内へ案内してくれる。護衛の者に一言入れると、イリスたちはその後をついていった。



「いらっしゃい」

フローラに案内された部屋は奥が長い客室だった。長方形のテーブルにはあらかじめ紅茶が用意されている。広い窓に視線を移せば、白い石造りの家々や商店が軒を連ねるのが見えた。

イリスの後ろにはロズが歩き、さらにルドが続く。しかし、客室に入ることが出来たのはイリスとロズだけで、ルドは外で待機となった。

ライアンは姉妹の久しぶりの再会に口を出すこともなく、自由にさせてくれた。この後、また落ち合う約束をしている。それまでは好きにしていいと言われた。


「まず、イリス……すぐに駆けつけられなくて本当にごめんなさい。祖国が混乱の最中にあったのに、私は傍観しているだけで…こんなにも歯がゆい思いを感じたことはなかったわ」

城門付近で見せた態度とは一変して、真面目な顔つきで頭を下げるフローラに、イリスは首を振って微笑みかけた。


「お姉さまが謝る必要なんてないわ。私が引き起こしたんだもの…それに、最善を怠った私に非がある」

「お父さまのこと、本当に残念だった。聞いた時は涙が止まらなかった。今までイリスばかりに負担がかかって、散々苦しい思いをでしょう。本当に、ごめんね……」

ぎゅっと抱きしめられ、イリスは胸が詰まった。

フローラは何度も手紙を送り、心配をしてくれた。労わりや励ましの言葉、時には助言もしてくれた。遠く離れていても、フローラの思いはしっかり伝わってきた。


「何度も入国申請を出したのに、あのクソ王子、絶対に許可しなかったわ。私が行くと不都合が生じると思ったのかしらね」

怒りを口にするフローラは抱きしめていたイリスを離す。そして、痛みを感じるかのように顔をゆがめた。


「イリスは、変わったわ。いいえ、変わらされた……『女』の表情をしているもの。無理やり、大人にされたのね。拒否権だって与えられなかったんでしょう」

フローラは涙を湛えて、イリスの頬に手を添える。


「つらかったでしょう、苦しかったでしょう…貴方一人に全てを抱え込ませてしまったわ」

「お姉さま…」

イリスも涙腺が緩み、声が震えそうになった。


フローラがトルシア国に嫁いだ時点で、サイとの縁は切れていると考えてよかった。王族にとって妃となるということは、己の身をその国へ捧げることだった。

イリスは姉が羨ましかった。まるでおとぎ話のように、相思相愛で結ばれた二人は理想だった。お互い一目で恋に落ち、自然の流れのように結婚した。

誰かを傷つけることもなく、誰かを幸せに出来るような優しさで包まれている。未だにフローラは子宝に恵まれていないが、穏やかな生活を送っていると聞いた。


「皮肉な話ね……カモーアは王政復古に向けて奔走していると風の便りで聞いたわ。一気に立場が逆転するなんて。イリスが大事にしていたあの子も、今ではもう立派な王でしょう?」

フローラは座って、とイリスにうながす。


「……はい。エドームと協定も結びました」

ソファに腰を下ろしたイリスの顔に、微妙な光が陰る。後ろでひかえていたロズはイリスの姿を見て、悲しそうに目を伏せた。フローラはそんな二人の様子を敏感に察知した。


「――…イリスは、恋をしていたのね。いいえ、今も?」

フローラの真っ直ぐな言葉に、イリスは目を見張る。ドキッと心臓が跳ね、戸惑った。


「分かるのよ。どうしてかって言われたら、はっきりとは答えられないけれど……イリスの表情を見ていたら伝わってくるの。全力で、その人を愛していることが」

不思議ね、とフローラは頬を緩ませて笑んだ。それは、慈愛に満ちた笑顔だった。


「隠さなくていいの。愛するということは、尊いことだわ……堂々と胸を張って、貴方は貴方の思いを貫いたらいい。たとえどんな方向に向かったとしても、それがイリスの愛した証になるから」

イリスは胸が一杯になり、声を出さずに何度も頷く。フローラはイリスに手を重ね、優しく頭を撫でた。


「ディル王子にも今回の競技大会の招待状は届いているはずよ。解答は、最終日のみの参加だったわ。明後日の夜の晩餐会には間に合うみたいね」

「最終、日……」

「カモーアとして各国に顔を出す最初の機会になるでしょう。少しの間だけれど、顔が見れると思うわ」

よかったわねと言うフローラに、イリスは涙目で感謝を口にした。



競技大会は三日間かけて行われる。イリスたちがトルシア国についたのは大会の前日で、参加国のほとんどが既に準備を整えていた。

イリスたちが入国した夜には交流を含めた食事会が開かれた。近隣諸国の王族やその要人と久しぶりに会話したが、隣には必ずライアンがそばにいた。

まるで見せ付けるように肩を寄せられ、常に密着した状態で食事会を参加する。イリスは嫌がったが、強引なライアンには逆らえなかった。


サイが属国に下って今までと立場は違う。しかし、態度を変えて話しかけてくる王族は誰もいなかった。

非難めいた視線をライアンに送ることはあっても、イリスに向けられることはない。同情的に見られることが多かった。良心的な応対の礼儀正しい人ばかりで、イリスはほっと安心した。


会話の内容は近況の報告や、今年の優勝者の目星などだった。妊娠したことは伏せておき、イリスは消化のいいものを食べ、無理をしないように心がけた。そうでもしないとロズの鋭い眼光が飛び込んでくる。

その日は大会に備えて食事会は早くに終了となったため、各自はすぐに解散した。


次の日の朝には宣誓の儀式があり、すぐに競技が開始された。戦いの広場には人が溢れかえり、前に進めないほどだった。

白熱した戦いが何度も繰り返され、勝者と敗者が決まっていく。原則として殺し合いは許されていないが、中には重症を負う騎士もいた。

サイからも騎士長になったグータンが出場したが、二回戦の際に先を深読みしすぎて隙が生まれ、地面に崩れ去る結果となる。エドームから出た騎士は順調に勝ち進んでいった。


ライアンと共にいたイリスは腹部の痛みに襲われることもなく、落ち着いた場所で見ることができた。

気が付けばライアンと個々の戦いの分析を語り合っていた。近くにいた小国の姫がポカンとしていて、イリスがしまったと思ったがもう遅い。ライアンはその様子を面白そうに笑っていた。


一日目は無事終了した。夜は男たちが戦いの話で盛り上がり、なかなか高揚感も消えなかった。朝まで喧騒のように暴れる者もいれば、戦いのために早く休む者もいる。

夜が深まる頃、イリスは小さなバルコニーで濃藍空に散らばる星を眺めていた。上には羽織るものを用意して、冷えないように防寒をしている。ロズとは一時間ほど前に別れたが、なかなか寝付けずにいた。


「落ち着かないか」

後ろから、ライアンが声を掛けてきた。

尊大な笑みを浮かべ、夜着を着崩す姿は妙に色っぽい。 左に分けられた金髪は、組まれた腕の先まで伸びている。近づいてくる距離を意識しながら、イリスは口を開けた。


「落ち着き、ません……」

それが何を意味するか、ライアンには分かるはずだった。イリスは言葉を詰まらせ、胸が苦しくなって視線を逸らす。

するとライアンはイリスを引き寄せ、前を向かせたまま腕の中に閉じ込めた。ゆっくりと大きな手が伝い、イリスは腹部に揺れるような温かさを感じる。ライアンの顔が見えない分、その熱の動きが切なく思えて仕方なかった。


「痛むか?」

「いいえ……」

質問ばかりを繰り返すライアンに、イリスの声はどんどん萎んでいく。

縮こまっていく体を、ライアンはさらに強く抱きしめた。そして対面になるように向かせ、グイッと顔を上げさせる。戸惑うイリスは逃げ場を失う。次の瞬間には啄ばむような口付けが降ってきた。


まるで、酸素を共有させようとしているかのように、激しい。ライアンは妊娠が発覚してから手を出すのを控えていたため、いきなりのキスにイリスは驚いた。

内側に潜む思いをぶつけるかのようにライアンは唇を重ね続ける。唾液が絡み、吸われ、交わる。勢いは衰えることはなく、巧みな舌使いに翻弄され、イリスは脱力していきそうになった。

ライアンにもたれ掛かる体勢になり、解放してほしいと潤んだ目で訴えても、なかなか離してくれない。イリスの足がガクッと折れそうになる頃、ようやく止まった。


「いつまでたっても慣れないな」

息を乱さず口にするライアンを、イリスは恨めしそうに眉を寄せた。

頬を上気させ、呼吸を整えようと必死になるが、なかなか上手くいかない。ねっとりと降り下りる、嫣然としたライアンの熱視線を受けて、イリスは困り顔になった。


「もどかしい。赤ん坊なんて、さっさと産んでしまえ」

「そんな簡単にいくものではありません……」

イリスはお腹に手を添える。


「男だと色々と面倒臭い。出来るなら、女がいい。姫なら心配も少ないからな…と言っても、そればかりは天のみが知ることか」

続いて、夜風は体に悪いな…と言うライアンはイリスを抱きかかえ、バルコニーから室内へと入った。

そのまま歩き、広いベットに下ろすと、もう眠れと小さく呟く。イリスはぼんやりとした目で、ライアンを見つめ返す。今日はもう手を出さないと分かると、ゆっくりと体の緊張を解いた。

しばらく沈黙が流れる。どうするか迷っていたイリスだったが、人に酔った疲れもあり、すぐに眠くなってきた。やがて背を向けているライアンに一言入れ、重い瞼を閉じた。


「耐えるのも根気がいる」

静かに寝息を立てるイリスを見つめ、ライアンは前髪を掻き上げる。そして薄闇に目を移し、音を立てずに立ち上がった。


二日目も、大きな賑わいを見せた。

ぶつかり合う剣の音を聞いていると、午前中にイリスは吐き気が込み上げ、途中で部屋に戻ることになった。ロズが心配そうに具合を確かめ、ずっとそばにいてくれる。さきほども忙しい身分のフローラが予定を突っぱねて大量の果物を持ち見舞いにやってきていた。


「やはり旅の疲れが出ましたね。微熱です。昨日もたくさんの方にご挨拶されましたから、負担も大きかったのでしょう」

「そうね。何をしても、体力が削がれるわ」

薄紅に火照った顔のイリスは、気だるそうに低い声を出す。冷えた布を額に当て、体内に分散している熱を追い出そうとするが、夜の晩餐会に出られるかは分からなかった。


「今日は大人しくしとけよ、姫様」

ルドもくぁーっと伸びをして、イリスを見る。


「さすがに今日は寝ていた方がよさそうだわ……でも、晩餐会には出席、する」

「そんな体で何言ってんだよ。部屋の見張りは俺がしといてやるし、ライアン様だって無理に出ろとは言わないだろ」

と、ルドは何かを思い出したように、口を止めた。

なぜイリスがそこまで晩餐会にこだわるのか、考えたら答えは一つだった。今日の夜にはカモーアの団体が到着する。イリスはディルと会える機会を逃したくないのだ。


「大丈夫。姉さまにも、伝えておいたわ。お願い、無理はしないって、約束するから……今日だけは、許して……」

切実に、懇願するように言われれば、ロズもルドも渋ってしまう。

普段から自分の欲求を抑え付けてきたイリスの、ただ一つの願いを叶えさせてやりたいという気持ちはある。しかしこんなことを繰り返していても、イリスの幸せに結びつくとは思えなかった。

二人だけの約束を、ロズとルドが知ることはない。イリスの心の中核を支えているのがディルの存在だということは、ひしひしと伝わってくる。見ていて、痛々しいほどに。


「分かりました。しかし、今日一日は安静にしましょう」

ロズは折れたように言った。


「ありがとう……」

イリスはそう聞くと、安心したように笑った。それから目を閉じ、気を失ったように眠りにつく。ロズとルドはしばらく黙ったまま、イリスの寝顔を見つめていた。


「おい、ババ……ロズサマ。あんた、姫様のこと見逃してるよな?こんな終わりも見えねぇような、報われない恋なんて虚しいだけだろ。何で、止めない?」

ルドは壁に背中を預けたまま、斜め前のロズにたずねた。

ロズはじわりと汗ばんだイリスの前髪を分けてやる。ルドはその動作に母親の優しさを連想した。


「何も知らないからそう言えるのです。イリス様はどんな時もカモーアの王子を気にかけていました。それが恋心だと、自覚されたのは最近ですが……カモーアの王子も嫌々ながら、イリス様に惹かれていくのが分かりました。その時点で引き離すべきだったと、今になっては後悔しか浮かびません」

ロズは唇を真一文字に結んで、間を置いた。ルドは珍しく真剣に聞いていた。


「カモーアの王子は憎しみと恋心に揺れて、何年も葛藤していました。その時まだ、イリス様は家族愛に近い目でしか見ていませんでした。それでも二人でいれば、仲睦まじく幸せそうに笑っていましたね。時の悪戯か……今こんな事態に陥って、引き裂かれる運命になってしまった」

ロズの目がイリスに移り、悲しそうに細められた。


「……一度だけでもいいから、二人で幸せな時間を過ごしてほしかった。それが泡沫の夢でも、刹那の時でも、私はよかったのだと思います。どこまでも思い合う二人を見ていたら、止めることなど出来はしなかった。だからライアン様もあのとき解放してしまったのでしょう」

「あのとき?」

ピクリとルドが反応する。ロズは小さく頷いた。


「カモーアが国に戻る前の夜、二人は…」

「おいちょっと待てよ。そんなこと言ったら今姫様が妊娠してる子だって、どっちの子か分からねぇだろ!カモーアの王子は何も知らないまま、ずっと放っておいてるのか?姫様はこんな細っせぇ体で全部耐えてんだぞ。ふざけんな、今日来るんなら俺がぶん殴ってやる」

「お待ちなさい。貴方が出ても何もなりません。それに私たちが干渉できる問題でもありません」

ロズの強い声が、ルドを抑えつけた。ぐっと何か言いたそうに口を噤むが、ルドは頭を掻いて顔を歪める。


「意外なのはライアン様のことです。動揺もしなければ、問い詰めることもない……普段と変わらずに過ごしています。何をお考えなのか分かりません」

「そんなこと知るかよ。どうせ自分の子だって思ってんだろ。あんだけヤってれば、そりゃ自信もつくはずだ」

「言葉を慎みなさい、ルド。とにかく、今日の晩餐会は気を緩めず、姫様の護衛に務めなさい。何か起こりそうで怖いです」

ロズは不安そうに、まだ明るい空を見上げる。あと数時間もすれば用意しなければいけないと考え、イリスの熱を確かめた。


「いつも真面目にやってんだろ。言われなくても守ってやるよ」

ルドはふっと嘆息して呟く。それから、夜の晩餐会に思考を移し、考え事を始めた。


イリスは何とか持ち直した。気合で熱を下げれば、ロズから信じられないと言われる。ルドには呆れたように見られた。

夕刻になれば、トルシア国の侍女が化粧道具を持ってやってきた。部屋にはフローラ自ら選んだというドレスが用意されている。

イリスの髪は綺麗にまとめられ、爪は先まで丁寧に磨かれた。少し濃いめの化粧が念入りに施され、イリスは鏡と長時間向き合う。ここまでは…と思ったが、血走った侍女の目を見ていると声もかけられそうもなかった。


「少しやりすぎじゃないかしら……?」

終わりが見えた頃、イリスは戸惑いながら口にした。


「フローラ様からとびきり可愛くしろと仰せつかっております。もうすぐ終わりますので後少し耐えて下さいね」

「わ、分かったわ……」

気圧におされ、イリスは返事をする。


出来上がりは見事なもので、イリスの美しさが最大限まで引き出されていた。ロズも素晴らしいと絶賛し、ルドはまぁいいんじゃねぇのとぶっきら棒に言った。 イリスが感謝を伝えると、侍女たちが恭しく礼をして出ていった。

やがてあたりも暗くなり、戦いを勝ち抜いた騎士たちも引き上げてくる。晩餐会に参加するのは王族に限らない。騎士も汗を流してから、参加することが許された。


イリスは落ち着かない思いを抱えながら、ただその時をじっと待つ。心臓は高鳴り、恋焦がれるその姿が脳裏に浮かんでは胸が締め付けられた。

最後に別れてから、三ヶ月は経過していた。三年のことを思えば、短いことは分かっていた。しかし、会えると分かればもう止められない。忘れたことなどなかった。忙しく過ごしていても、片隅には必ず存在していた。


準備が整うと部屋から出た。ロズは何も言わずに後ろをついてくる。ルドも距離をあけながら後を追う。

ざわざわと音が聞こえる大広間に足を踏み入れれば、一斉に視線が集中した。イリスは体を震えを抑えられないまま、銀色の髪を探す。一番に見つけられる自信はあった。しかし大広間にディルの姿はいなかった。


「イリス様っ!具合はいかがですかっ!」

イリスを見るなり、肥えた腹を揺らして、太った王子がやってきた。

ライアンが隣にいないのを確認すれば、目を輝かせてこちらへと手を握って案内する。イリスは断りすら入れられず、そのままついていく。


「お陰さまで、体調も戻りました」

イリスが愛想笑いを浮かべれば、王子は頬を赤らめてさらに距離を縮めてきた。


「やはり、イリス様はお美しいですね……惚れ惚れします。ライアン様に羽交い締めにされてお可哀相に……僕が癒して差し上げたいです」

でっぷりと脂肪で膨らんだ頬にイリスの手を持ってくると、スリスリと擦りつける。

思わずゾワッと悪寒がしたが、イリスは何とか微笑みを崩さずに耐え抜いた。剃り切れていない髭に加え、不快にしか感じない脂汗がじわりと浮かんでいるのが分かると、心の中で悲鳴を上げる。


「あぁ……この柔い感触、何とも言えないです。これだけ綺麗な人を独り占めできるなんて、ライアン様も罪な人だ…僕が奪い去りたいくらい、勿体ない……」

終いにはくんくんと匂いを嗅ぎ、熱い吐息を押し付け、白い手を堪能する。ドン引きするイリスは、ひくひくと唇が動くのを止められなかった。

イリスと話す機会を窺っていた周りにいた男たちもやり過ぎだと睨みつけ、今にも飛びかかりそうな気迫を醸し出していた。


「おいデブ!何やってんだよ!姫様が嫌がってるだろうが。その汚い手を離せ!」

後ろにいたルドが、礼儀という言葉を知らないのか、容赦なしに突っかかる。

デブ?と目を見開いた王子は頭に血を上らせ、怒りの表情を浮かべた。これはまずいとイリスの腹が冷え、慌ててルドを引っ込める。背中でロズがゴツンと頭を叩いているのが分かった。


「失礼しました。腕は確かなのですが、口は達者なもので。それよりもこのタキシード、素敵ですね。よくお似合いです。今季の新作ですか?」

「あ、はい。最高級の素材で作らせました。仕立て屋には僕しか似合わないと言われてー」

気を良くした王子はすぐに自慢話をはじめた。内心安堵したイリスは、時々相槌を打って最後まで付き合う。長い話のあいだに大広間へ視線をやったが、ディルの姿は一度も見られなかった。



その後もイリスはたくさん声をかけられ、瞬く間に時が過ぎていった。

疲れを見せたイリスに気付き、ロズは人の少ない中庭へ誘導する。落ち着いた場所に出ると、イリスは星を見上げ、しばらく放心した。

到着が遅れているだけかもしれないと、逸る心に言い聞かせた。焦る必要なんてない。それでも、ただディルに会いたかった。こんなにも体は求めていた。届くはずもないのにディル、と心の中で呼びかける。


「戻りましょう……」

声が小さくなる。期待しすぎた分、空虚感は大きくなった。

切なそうに目を伏せるイリスにかける言葉が見つからず、ロズは頷くしか出来なかった。


大広間に戻る際も足止めをくらい、イリスは笑顔を保ったまま、辛抱強く対応した。話に集中していれば、胸の切なさから少しだけ解放される。夜も更けるにつれ、ディルが姿を見せる可能性も低くなっていった。

夜は冷えますから大広間へ参りましょうと言うロズの提案を受け入れ、話したまま歩きだすと何やらガヤガヤと騒ぐ音が聞こえ、イリスは不思議に思った。

もう晩餐会も終わりに近づいている。部屋へ帰る人も多かった。姫たちの甲高い歓声は、この光景にそぐわない。隣にいた紳士も何事でしょうと首を傾げている。


まさかと思って、イリスは心臓が加速していくのが分かった。進む足が自然に早くなる。耐えきれなくなり、最後には駆け出していったイリスに、紳士がどうしましたと叫んだ。

そんな声を振り切り、息を弾ませ大広間へ飛び込めば――…たくさんの姫に囲まれる、誰かが、いた。その姿をとらえた途端、イリスの体が歓喜に震えた。


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