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第三章

第11話

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 俺が想像したとおり、八朔の部屋は「あの超人気若手俳優の八朔レオが住んでいそうなクールな部屋!」そのものだった。

 俺が間借りしている部屋の三倍くらいはありそうなだだっ広いリビングは、黒やグレーのモノトーンインテリアでまとめられている。どれも高価そうだが華やかさはなく、どことなく冷たさも感じられて、八朔のクールな性格を表しているようだった。

 壁はほほ全面が窓になっていて、都心部の色鮮やかな夜景と、白とオレンジにライトアップされた東京タワーが見える。こんな夜景を毎日見られるなんて、贅沢すぎて羨ましい。

 一目で高級だと分かるカウチソファーに八朔がどかりと座り込み、ポンポンと隣を叩いて合図したので、俺もそそくさと腰掛ける。その前に置かれた一人掛けのレザーソファーには、八朔に負けず劣らずの美貌の持ち主が、悠々と足を組んで座っていた。

「え、えーと、八朔のお兄さんですか? 初めまして、俺、仁木義嗣と言います」

 俺が緊張しながら挨拶すると、八朔の兄さんは気品のある華やかな笑みを俺に向けた。

「初めまして、レオの兄の八朔ランです。テレビで何度も拝見してますよ。すごいな、芸能人だ」

 俺をおだてるようなことを言ってくれるが、彼の方がどう見たって半端ないオーラがある。俺がお世辞にも「中の上」くらいだとすると、この兄弟は「上の上」のそのまた上の「特上」クラスだ。

 室内が少し暗めの落ち着いた光量に抑えられているせいか、美しい顔に陰影ができて、どこか妖しく艶めいて見える。明らかに男性なのだが、線が細くてスレンダーな体型だ。後ろ姿だと女性だと見間違えるかもしれない。

 八朔に似て肌は滑らかな陶器のようで、唇はうっすらと赤みが差しているように見える。女性用の着物が似合いそうだと勝手に想像してしまった。浮世離れした妖艶さだ。

「もしかして、僕と同じくらいの年齢じゃないかな、仁木さん」
「あ、俺はいま、二十七です」
「じゃあ、僕の方が二つ上だ。驚きましたよ、弟が友人を自宅に招くのを初めて見たので」

 ランさんが嬉しそうに八朔を見やると、八朔はにこりともせず真顔で返した。

「友人じゃなくて、恋人だよ」
「……八朔!」

 度肝を抜かれて、俺は思わずソファーから飛び上がりそうになった。本当に数センチは尻が浮いていたかもしれない。

「おま……、な……、な……っ」

 なんでこのタイミングで言うんだと目を剥くが、八朔は平然と俺を横目で見る。

「隠す必要ないだろ、本当のことなんだから」
「そうだけど……っ」

 勢い余って肯定してしまい、俺はあわわとランさんの顔色を窺った。彼は少しも驚いた様子を見せず、「おやおや」と楽しげに腕を組んだ。

「その様子だと、お前の方が惚れ込んでるな、レオ」

 にやりと揶揄うように笑うランさんに俺は唖然とする。え、弟がいきなりカミングアウトしたっていうのに、こんなに余裕があるもんなのか? 
 俺の頭が追いつかないうちに、八朔はさらに畳みかける。

「やっと見つけた、俺の前世からの恋人だから」
「おぉい‼」

 さすがに俺も勢いよく突っ込んで、ガッと八朔の首にヘッドロックをかました。

「ちょーっと黙ってくれるかなあ、八朔くん? お兄さんの前だから! いきなりそんなこと言っても意味不明だから!」
「痛いって、仁木」

 顔をしかめる八朔の首を、「これ以上何も言ってくれるな」という意図を込めて締め上げていると、ランさんが可笑しそうにクスクスと笑った。

「仲がいいなあ。僕以外に弟をそんな風に扱える人がいるとは思わなかった。しかも前世の話まで知ってるなんて、すごいな」
「え?」

 きょとんとする俺に、ランさんは憐れむような、慈しむような目を向ける。

「事故に遭ったときに、ちょっと頭を打ったらしくてね。あまりに突拍子もない話だから、無闇に人に話すなって言っておいたんだけど。レオの妄想につき合ってくれてありがとう」
「はは……」

 俺は引き攣った笑みを返すしかない。

 妄想か。誰だってそう思うよな。まさか俺まで前世の夢を見て、八朔と同じように信じてるなんて言ったら、さらに憐みの目で見られるかもしれない。

 八朔が俺をじっと見つめてきて、「妄想なんかじゃない」と目で訴えている。分かってるよ、俺だってそんなふうに思っちゃいない。だけど今は我慢しろ、と俺も目で訴える。
 伝わったのか、八朔はしぶしぶと話の矛先を変えた。

「それより、急に何しに来たんだよ、兄貴」

 それまで穏やかな表情を浮かべていたランさんの顔が、スッと氷のように冷たくなる。一瞬で目が据わって、顔が綺麗なだけに余計怖い。

「恋人と喧嘩したうえに、ちょっとゴタゴタしててさ。家に帰りたくないんだよな」
「はあ? またかよ」

(〝また〟なのか……)

 こんな現実離れした美しい人の恋人とは、さらに負けず劣らずの美女なんだろうな。しかも喧嘩が絶えないなんて、本当に人は見かけによらないものだ。俺がまじまじと見入っていると、ランさんはにこりと微笑んで言った。

「だから申し訳ないんだけど、今日、泊めてくれない?」
「「え!?」」

 俺と八朔はまるで示し合わせたように同時に声を上げてしまった。八朔が動揺を隠せない様子で身を乗り出す。

「いや、帰れよ兄貴。仁木が来てるんだぞ!」

 ランさんは心外だというふうに顔をしかめた。

「兄ちゃんに対して、そんなつれないこと言うなよ。仁木さんも一緒に泊まればいい。三人なら会話が弾みそうだ」
「邪魔だ。帰ってくれ」

 情け容赦なくきっぱりと断る八朔だが、ランさんも負けてはいない。

「嫌だ。帰りたくない」

 そう言って、子供のようにフイっと顔を背けてしまった。八朔は珍しくわなわなと怒りに震えている。

「兄貴の恋人が探し回ってるかもしれないだろ!」
「ここにいることはバレてるだろうし、弟の家なら浮気も疑われないだろ? それに、お前も僕に話したいことがあるって言ってたじゃないか」
「それは……っ」

 八朔が言葉に詰まる。兄弟で何やら積もる話でもあったのだろうか。それ以上何も言えなくなった八朔に、ランさんは余裕の顔でソファーから立ち上がると、

「じゃ、ちょっと風呂借りるよ」

 と告げて、颯爽と部屋から出て行ってしまった。

「――――」

 俺と八朔は呆然としたまましばらく見つめ合う。
 お前に抱かれに行くから! と啖呵を切って乗り込んできたのに、思わぬ妨害(と言ったら失礼だが)が入って、出鼻を挫かれた感じだ。
 憮然として黙り込んでいる八朔に、俺はしょうがないか、と肩を竦める。

「お前の兄ちゃん、お前に負けず劣らずの、超美形だな」

 その場の空気を取り繕うように、俺は八朔の肩をポンと叩いてランさんを褒めた。すると胡乱うろんな目つきで睨んでくる。

「……ああいう顔が好みなのか」
「お前、兄ちゃんに妬くなよ」

 俺は呆れて苦笑した。

「兄弟仲良いんだな。お前、普段けっこう人見知りと言うか、愛想いい方じゃないからさ。兄ちゃんとの掛け合いが見れて貴重だよ」

 八朔は溜息をつきながら言う。

「母親が早くに死んだからね。兄貴が俺の面倒を見てくれたようなものかな。俺たちは愛人の子だから、父親はとくに無頓着だったし」
「愛人? そうなのか?」
「本妻は別にいて、その人との間に一番上の兄貴がいる。二人いるって言っただろ」

 つまり八朔とランさんよりも年上の異母兄弟が、もう一人いるってことか。あのとき、「似てるかどうかは分からないけど」と言っていたのは、母親が違うからという意味だったんだろう。八朔の冷めた横顔からは、複雑な家庭環境が窺えた。

「あのとおり、だいぶ変わり者なんだよ。俺のトラウマの原因は、ほとんど兄貴が作ったようなものだし」
「どういう意味だ?」
「ガキの頃、俺は身体が弱くて、ほとんどベッドから出られないときがあった。兄貴は俺が一人で退屈しないようにって、俺の枕元で自分がハマってたホラー話を延々と話してくれた。おかげで俺は、今も電気を消して眠るのも苦手だし、入院なんてもう二度とごめんだ」

 俺は八朔が刺されて入院したときのことを思い出す。一人で病院に泊まるのはごめんだとごねていたっけ。暗闇で寝るのも苦手だとは知らなかった。

「それだけじゃない。外に出て遊べない俺を元気づけようとして、兄貴は山で捕まえてきた昆虫を俺のベッドの周りに放ちやがった。だから俺は――――」
「アハハハ! だからお前、虫が苦手なのか! なるほどな」

 合点がいった、と俺が大笑いすると、八朔は恨みがましく毒ついた。

「そうだよ。全部、兄貴のせいだ」
「ランさん、お前を溺愛してるんだな。ちょっと裏目に出ちまってるけど」

 ランさんはあの見た目に反して、意外に男らしく怖いもの知らずのようだ。茶目っ気もあって魅力的な人なんだな。八朔にあんな兄ちゃんがいて、俺は何だかすごく嬉しくなった。

 複雑な家庭環境だったとしても、幼い頃から八朔の傍には頼もしい兄がいた。口では文句を言っている八朔も、その実、ランさんのことを信頼しているんだろう。

 風呂場からは機嫌の良さそうな歌声が聞こえてくる。しばらく二人で聞いていたが、いつまでもこうしているわけにもいかず、俺は「よし」と気合を入れて八朔の方を向いた。

「じゃあ、俺、今日は帰るな」
「――――」

 俺がそう言い出すことを見越していたのか、八朔はムスッと沈黙している。「怒るなよ」と俺は宥めた。

「仕方ないだろ、兄ちゃんが来ちゃったんだから。家族は大切にしないと」
「兄貴は来客用の部屋に泊まる。あんたは俺のベッドで寝ればいい」
「いやいやいや」

 俺が苦笑しながら首を振ると、八朔はこちらへと身を乗り出してきて、ぐっと俺の手を掴んだ。

「俺に抱かれに来たんだろ。あんた、そう言ったよね」

 真剣な様子で俺の目を覗き込んでくる。引き込まれそうになる魅惑的な視線から、俺は逃れるのに必死だ。

「それは……そうだけど」
「やっとあんたの覚悟が決まったのに、こんなチャンス逃したくない。一歩もここから出したくない。今すぐ抱きたい」

 矢継ぎ早に想いを吐露されて、俺はどっと顔が熱くなるのを感じた。

 俺だって、ついさっきまではそのつもりだったんだ。八朔の言うとおり、こいつに抱かれる覚悟でここまで来た。男とそういう関係を持つのは初めてで、未知の世界だから恐怖や戸惑いもある。だから余計に勢いってやつも必要で。

 八朔に対する恋情と覚悟と勢いと、その三拍子が揃って、俺としてはかなりの行動力を発揮したつもりだったのだが。

「俺、お前との初めてが兄ちゃんと一つ屋根の下なんて、ハードルが高すぎるよ……」

 本心を口にすると、八朔はぐっと言葉に詰まった。きっと八朔としてもそれは同感なんだろう。俺の手を握りしめたまま、これ以上ないというほどの重くて長い溜息を吐く。俺の胸に頭をごつんと押し当ててきて、

「初めて兄貴を殺したいと思ったよ。タイミングが悪すぎる」

 と物騒な悪口を呟いた。俺は八朔をあやすように、慰めるように、その頭をぐっと抱きしめてやる。

「そう言ってやるなって。合鍵ももらってるんだから、またいつでも来れるだろ」
「あんたのことだから、遠慮してなかなか来ないくせに」

 見透かされている。俺が何も言えないでいると、八朔は俺の胸から顔を上げて、そっと下から口づけてきた。優しく触れるだけの儚いキスだ。本当はこのまま抱きしめ合って、もっと激しく、息もできないくらいのキスをしたいのに。

 お互いに名残惜しくて、しばらくじっとそのままでいた。

「レオ~。もう出るよ~。タオルと着替え持ってきてくれ」

 ランさんの大声がして、俺たちは弾かれたように顔を離した。「あの早風呂が……!」と舌打ちする八朔に、俺はいそいそとソファーから立ち上がる。

「もう、行くわ」

 ランさんが風呂から上がる前に退散しようと、慌てて玄関へ向かうと、追ってきた八朔が、

「待って、仁木。あの新田ってやつに近づいてないよね?」
 と突然聞いてきた。

「なんでそんなこと聞くんだ?」
 俺が訝しむと、八朔は一瞬視線を逸らし、取り繕うように言った。

「別に。あいつ馴れ馴れしそうだったから、あんたにちょっかい出してないかと思って」
 まだそんなことを言っているのかと、俺は呆れて笑う。

「大丈夫だよ。仕事でしか会ってないし、お前が心配するようなことは何も起きてない」
 八朔は安心したような顔をすると、切なげに眉間を寄せて、優しく微笑んだ。

「仁木、来てくれてありがとう。嬉しかった」

 俺は「……うん。またな」とだけ告げて、急いで扉を閉めた。足早に廊下を過ぎてエレベーターに乗り込み、意味もなく何度もフロントのボタンを連打する。なんだか今にも泣きそうだったからだ。

 あんなに寂しそうな八朔を置いて帰るのも嫌だったし、ここまで来てすごすごと帰路につく自分も情けなくなってくる。

 だけどどうしようもない。まさか兄ちゃんより俺を泊めろって言うわけにもいかないじゃないか。俺はあいつより年上なんだから、困らせるようなことは言いたくない。今こそ、物分かりのいいフリをするべきだと自分に言い聞かせる。

 俺の家では大家さんが、今度はランさんが、俺たちの勇気と覚悟に待ったをかけた。もしかして俺たち呪われてるんじゃないだろうな、と恨み言を吐きたくなる。
 八朔を好きになればなるほど、こうやってままならないことが増えていくんだろうか。

 フロントでタクシーを呼んでもらい、とぼとぼと乗り込んだ。俺の沈んだ気持ちを写し取ったみたいな、星一つない暗い夜空が広がっていた。
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