【完結】追ってきた男

長朔みかげ

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第二章

第7話

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「お疲れ様、仁木くん。今日の撮影はだいぶ押しちゃったけど大丈夫? 疲れてない? 明日も八時入りだから大変だけど、ちゃんとお風呂入って、睡眠もきちんと取るんだよ」

 スケジュール帳を手にした遊間さんが、ホテルの俺の部屋の前で早口に言った。

 時刻はすでに深夜零時を回っている。

 二ヵ月ほど続く長野での撮影の間、キャストやスタッフは全員が同じホテルに滞在していた。それぞれスケジュールが違うので、ホテルに戻る時間もまちまちだ。すでに就寝中の人もいるだろう。騒がしくしないようにと、俺と遊間さんはヒソヒソ声になる。

「俺は全然平気。なんか撮影が楽しくてハイになってるみたいだから」

 俺が笑顔で答えると、遊間さんも嬉しそうに破顔した。

「進行も順調だし、チームもいい雰囲気だし、明日も頑張ろう! じゃあ僕も部屋に戻るから。おやすみ」
「お休みなさい。また明日」

 静かにドアを閉め、部屋の灯りではなく、机上のスタンドライトだけを点ける。疲れた目にはちょうどいい光量だ。俺はドサッとベッドに腰を下ろした。

 遊間さんにはああ言ったけれど、日に日に疲れが蓄積しているのは間違いない。このまま寝てしまいたいのを我慢して、俺はホテルの清掃員が毎日変えてくれる浴衣と羽織りを手に取り、すぐに部屋を出た。

 疲れたときほどゆっくり風呂に浸かって癒されたい。ホテルには温泉の大浴場があり、確か一時まで利用できたはずだ。簡単に部屋風呂で済ませる日がほとんどだが、たまには贅沢気分に浸るのもいいだろう。

 ホテルの廊下でもエレベーターでも、スタッフはおろか、他の宿泊客にも誰にも会わなかった。こんな夜更けなので当然か。案の定、辿り着いた大浴場にも人の気配はない。温泉を独り占めできるなんて最高だ。

 さっさと全裸になり、洗い場で念入りに頭と身体を洗う。タオルを頭の上に置いて、熱めの湯船にゆっくり浸かった。檜風呂のいい香りが鼻の奥にすうっと入ってくる。
 ガラス窓の向こうには、竹垣で囲まれた日本庭園風の小さな庭があり、綺麗にライトアップされていた。小雪がちらついて、風にふわふわと舞っている。これぞまさに冬の温泉といった情緒ある景色だ。こんなに素敵なホテルに滞在できるなんて、スタッフに感謝しなければ。

「ふふふーん。んん~」

 貸し切り状態なのをいいことに、調子に乗って鼻歌を口ずさんでいたら、いきなり出入り口の引き戸がガラっと開いた。

「ひえっ!」

 びっくりして変な声が出た。ぬっと入ってきた男の姿を見て、俺はますます「ひえっ!」と硬直する。

「ほ、八朔……?」

 タオルを首にかけ、堂々と大股で入ってきた八朔は、湯船で固まっている俺を見て僅かに目を瞠った。脱衣所に服があるので先客がいることには気づいただろうが、俺がいるとは思ってもみなかったという顔だ。

 まさかこんなところで鉢合わせるとは、気まずすぎる。いざ現場以外で遭遇すると、いつにもまして緊張してしまうのは何でなんだ。

「お、お疲れ……さま」

 俺は引き攣った顔のまま、何とかそう声を掛けた。

 八朔はむすっとしたまま突っ立っている。当たり前だが全裸だ。タオルであそこを隠したりしないところは、さすが八朔レオである。いや、俺も隠さないタイプだけど。

 それにしても、こいつはどうして身体まで男前なんだ。学生の頃からモデルをしていただけあって、均整の取れた体型をしているし、いつもは着痩せして分からないが、ほどよく筋肉もついている。ムキムキのマッチョではないが、腹筋なんか綺麗なシックスパックだ。
 
 湯気ではっきりとは見えないが、ナニも俺よりでかい気がする。男同士ならそこは気になるところだよな。あ、俺を無視して、目の前を通り過ぎていきやがった。後ろから見ると、お尻も引き締まってるし、お前はダビデ像か何かなのか? 俺が監督なら絶対ダビデ像の役を演ってもらう。

「……じろじろ見んな」

 風呂椅子にどかっと腰を下ろした八朔が、不機嫌そうに言った。しまった、凝視しながらダビデ像の八朔まで想像してしまった。さすがにやりすぎだ。八朔だっていい気はしないよな。

「わ、悪い」

 素直に謝って、俺は顎辺りまで大人しく湯船に浸かった。八朔は俺に背を向けたまま、頭や身体をガシガシと洗い始める。

「きょ、今日の撮影も大変だったな。お前、バイクアクションの撮影してたし、怪我とかしなかった?」
「――――」
「俺はさ、屋内の撮影だったから楽だったんだけど、外はすごく吹雪いてたもんな」
「――――」
「…………」

 おい、八朔、この野郎。そこまで無視しなくてもよくないか? 俺が必死でこの場を取り繕おうとしているっていうのに。俺は結構我慢強い方だと自負しているが、少しも反応を示さない八朔の背中を見ていると、だんだん腹が立ってきた。

「あのさあ、もうちょっと仲良くやんない? お前のその態度、かなりやり辛いんだけど」

 俺は悶々とした気持ちをそのまま口に出した。八朔の動きがぴたりと止まる。やっと肩越しに俺の方をちらりと振り返った。いつもの冷たい目でじろっと睨みつけてくる。う、と俺は尻込みしたが、ここで負けてなるもんかと腹を括る。

「もっと俺とコミュニケーション取れよ。俺だけじゃなくて他の人ともだけど……。でもまずは俺とだろ! 俺たちW主演なんだぞ? 俺たちの関係が悪いと、他のキャストやスタッフにも迷惑がかかる」
「必要ない」

 にべもなく八朔は断言した。

「追う者と追われる者なんだから、その方がやり易いだろ」

 そう反論されて、俺はなおのこと言い募った。

「台本読んで知ってんだろ? 今は敵対してるけど、そのうち一緒に協力して真実を追うことになるんだぞ? 命を預け合う大事な相棒になるわけだ。そうなったら仲良くするって? それまで今みたいに無愛想なままでいるってのか? まだだいぶ先なんだけど?」
「よく喋るな、あんた」

 否定も肯定もせず、八朔ははぐらかそうとする。くっそ、若いくせに適当にあしらう方法を知ってやがる。俺は檜風呂の縁に手を組んで顎を乗せ、盛大に溜息をこぼした。

「……嫌われてるのは分かってるけど、地味に傷つくんだよマジで」

 俺だって人間なので、何か嫌がらせをしたわけでもないのに敵視されるなんてごめんだ。なんたって俺はお前の隠れファンだし、とは口が裂けても言えないけれど。

「――――嫌い?」

 八朔はたっぷり間を取ったあと、なぜか疑問形で問い返してきた。

「俺のこと嫌いだから、そんな態度なんだろ?」
「それは……」

 また八朔は黙り込む。

 え、そこで言い淀むってどういうことだ? てっきり嫌われてるんだと思ってたけど、そうじゃないってことか? じゃあその頑なに心を開かない態度は一体なんなんだ?

 俺もわけが分からなくなって、二人して無言になってしまった。先に沈黙に耐えられなくなったのは八朔のほうだったようで、シャワーで泡を洗い流すと、また俺の前を横切って大浴場から出ていこうとする。

「え、もう出るのか? せっかく来たのに浸からないのか? なあって!」

 俺も慌てて湯船を出て、そのあとを追いかけた。
 八朔は脱衣所に戻り、バスタオルで身体を拭き始める。何だか俺が追い出してしまったような気がして、急に罪悪感に襲われた。

「浸かっていけよ。俺が出るから」
「!」

 思わず八朔の二の腕を掴むと、途端に八朔がビクッと震え、驚いたように俺を見返してきた。その視線が俺の顔から身体へとすうっと降りていく。胸やらあそこやらを視線が這っていき、動揺したように揺らぐ。目のやり場に困っているような様子だ。

 八朔のことはじろじろと観察しておいて、いざ自分の裸体が八朔の前に晒されていると思うと、急に居た堪れなくなって、俺は慌ててバスタオルを手に取った。八朔の完璧なプロポーションの前では薄っぺらい自分の身体がやけに恥ずかしい。

 八朔の横に並んで、そそくさと身体を拭き始めると、

「あんた、その痣――――」

 なぜか八朔が、俺の腰付近をものすごく険しい顔つきで凝視していた。

「え? ああ、これは……」

 左側の腰骨の辺りに赤黒い大きな痣があるのだ。丸い車輪のような不思議な形をしていて、八つの突起みたいなものが外円に沿って等間隔に突き出ている。物心ついた頃からあるので、いつもはその存在を忘れているが、初めて見る人には大抵驚かれるのだ。

「ガキの頃に何かで火傷した痕らしい。俺は全然覚えてないけど、こんなにくっきり残るなんて災難だよな。……って、そんなにジロジロ見んなよな。恥ずかし……」
「ほうりんだ」
「え」
「ほうりんの形をした痣だ」

 八朔の目が、なぜか大きな衝撃を受けたように見開かれている。俺の痣に釘付けになったように、まったく視線が離れない。

 ほうりん、って何だっけ? 法輪か? 確か仏教用語だったような。

 俺が頭を悩ませていると、何の前触れも無しに突然、八朔の両目からつうっと涙が零れた。

「え、八朔!?」

 文字通りはらはらと涙を流し始めた八朔に、俺は人生で最大かというくらいぎょっとする。八朔が泣いている。超クールで俺様で、まったく愛想のないあの八朔レオが。

「ど、どうしたんだお前……?」

 どこか具合が悪くなったのかと心配になり手を伸ばしかけると、その手を力任せに掴み返された。強い力でぎりぎりと締め付けられる。

「い……ッ」

 あまりの痛さに俺は顔を歪めたが、八朔はますます感情的に力を込めてきた。

「見つけた……。やっと見つけた。あんただったのか。どうりで気になって仕方ないはずだ」
「な、なに言ってんだ?」
「あんたをずっと探していたんだ。前世で死に別れてからずっと、あんたを追いかけてきた。あんただけを……っ」

 ぜ、前世? 何のことだ。何を言い出したんだ、こいつは。

 八朔のいつもは冷めた切れ長の瞳が、熱に浮かされたように潤んでいる。何の冗談かと思ったが、まったく冗談を言っているような雰囲気ではない。なんというか、正常じゃないというか、狂気じみているというか。

「え、なにこれ、ドッキリ? どっかにカメラがあるのか? だよな、じゃなきゃ急にそんなわけ分かんないこと言い出さないよな。ったく、どういう設定の台本なんだ」

 あの八朔が俺の前で涙を流すなんて、演技じゃないとありえない。急にスイッチを切り替えて本気マジな顔で迫ってくるなんて、さすがは八朔だ。

「カメラどこだよ、なあ」

 こんな真っ裸の二人を撮ったって使えないよな、と笑って八朔の手を振り払おうとしたら、今度はいきなり抱き寄せられた。

「ひえっ!」

 口から心臓が飛び出しそうなほど仰天して、俺はピシッと硬直した。一日でこう何度も「ひえっ」を連発したのは初めてだ。胸やら下半身やらが密着して、俺はドッキリどころではない。

「お、おい八朔……!」
「会いたかった……っ。本当に会いたかったんだ……!」
「わ、分かったから! もう演技はいいからっ。離せって……んぅ!」

 涙で目を濡らした八朔の顔がやにわに接近してきて、俺の口に何かがぶつかる。それが八朔の柔らかい唇だと気づいたときには、もう舌まで侵入してきていた。

「んん!? んん――っ!」

 熱くて分厚い舌がぐいぐい押し込まれてきて、俺の口内を縦横無尽に這い回る。キスされていることは理解できたが、なんでこうなったのかは全く理解できない。
 俺は八朔の胸板を押して引き剥がそうとしたが、筋肉量の違いなのかまったくビクともしなかった。

「や、め……んん……ッ」
「仁木――――」

 唇が離れた一瞬の隙に、八朔が俺の名を呼んだ。切羽詰まったような、狂おしいほどの愛を囁くような声で。

 初めて名前を呼ばれて、ぞくっときた。背筋に電流が走ったような、痺れにも似たものが。それは嫌悪感を示すぞわぞわっとしたものじゃなくて、明らかに快感と呼ばれるものだ。

 いつもあんたって呼ぶから、ちゃんと俺の名前覚えてたんだ、とか。
 俺の方が年上なのに、「仁木さん」じゃなくていきなり呼び捨てかよ、とか。
 色々つっこみたいところはあるのに、それどころじゃなくなる。

「仁木、仁木」
「ま……っ、待てって……! ん……む」

 唇を重ねたまま腰をぐいっと引き寄せられて、さらにきつく拘束された。風呂上がりで火照ったお互いの身体が、さらに上昇していくかのように熱くなる。

「逃げないで。俺を拒まないで。俺を受け入れてくれ……」

 恋愛ドラマのようなクサい台詞を八朔が囁いた。その間にも、俺の下唇を甘噛みしたり、舌を強く吸い上げたり、俺が今までしたこともないようなキスを仕掛けてくる。

「は……あ……っ」

 腰の辺りがずくんと疼いた。身に覚えのある感覚に動揺する。
 嘘だろ。まずい。マズイ。このままでは――――。
 八朔の手が伸びてきて、反応しそうになっていた俺の下半身に触れようとした。

「!」

 咄嗟に俺は八朔の横腹に拳を突き入れ、怯んだ身体を思い切り蹴りつける。無防備だった八朔は、どたっと床に尻餅をついた。

「う……ぐ……っ」

 身体を丸めて痛みに呻いている。僅かに残っていた俺の理性が、八朔の顔ではなく腹を攻撃したのは褒めてほしいくらいだ。顔を殴って青痣でもつけたら、明日からの撮影に響いてしまう。

 俺は怒りに血管がブチ切れそうになりながら、わなわなと身を震わせた。

「馬鹿野郎! なに血迷ってやがる……!」
「仁木……」

 苦しげに見上げてくる八朔を、マッパで仁王立ちのまま大声で怒鳴りつけた。

「いくらドッキリだからって、やっていいことと悪いことがあるだろ! ふざけんな!」

 八朔の顔が、またもや泣き出しそうに悲しげに歪む。
 泣きたいのはこっちだ。とんでもないことしやがって。

「……っ」

 俺は猛スピードで浴衣を身に着けると、取るものも取り敢えず、脱兎のごとく脱衣所から逃げ出した。追いかけてきたらどうしようと背後を振り返るのも怖かったが、幸運なことに八朔が追ってくる気配はなかった。

 せっかくの温泉でゆったりタイムが、一体全体どうしてこんなことになったのか。
 ありえない事態に、部屋に戻ったあとも俺はしばらく呆然としていた。
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