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第三章
第8話
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窓の外で、ドサッと何かが落ちる音がした。ホテルの周りを囲むようにして立つ木々から、降り積もった雪が落ちたんだろう。
カーテンの隙間から朝日が差し込んで、まったく疲れの取れていない目に突き刺さる。
結局、一睡もできなかった――――。
俺はベッドに仰向けになって、シミ一つない部屋の天井をぼうっと見上げる。
昨夜の出来事は一体何だったんだろう。温泉で八朔に遭遇してから、蹴り倒して逃げるまでを、何度も何度も頭の中で反芻してしまう。
可能性としては「ドッキリ大作戦」が一番有力だが、カメラらしきものは見当たらなかったし、作戦とはいえ、あの八朔が俺なんかにキスまでするだろうか?
本人もかなり切羽つまった感じだった。何より、同じ男だからこそ分かる。あいつ、キスするうちに反応してなかったか? 触れ合った下半身にその兆しを感じたような……。俺の思い過ごしだと思いたい。
最悪なのは、俺自身も下半身が反応しそうになったことだ。カメラに勃起する姿を撮られるなんて冗談じゃない。それにあの八朔を蹴りつけたことがばれたら、事務所の力関係でどうにかされるんじゃ……と心配にもなる。
八朔レオは想像の上をいくとんでもない男だった。あんな質の悪いキスを……、年下なのに、俺が歴代の彼女にしたこともないような巧みなキスを仕掛けてくるとは。男としても負けた気がして悔しいじゃないか。
「ちくしょう。八朔のやつ、何してくれてんだ……」
今日も撮影で顔を合わせるというのに、気まずくてしょうがない。
だが、いつまでもこうしてベッドで悶々としているわけにもいかない。そろそろ仕度をして部屋を出なければ。自分の出番がある日は、誰よりも早く現場に着いておきたいというのが俺の流儀でもある。
男にキスされて一睡もできず、考えすぎて時間を忘れてました、なんて理由で遅刻するのは、社会人としても失格だよな。
俺はもそもそと起き上がり、頭を一振りして、何とか重い腰を上げた。
『なぜなんだ。どうして君は俺を追ってくるんだ……?』
『何を今さら。あの研究所の火災を起こしたのはお前なんだろ? あのとき、お前が研究所のブロック同士を行き来できないように防護壁を下ろした。誰も逃げられないようにな。お前ら兄妹以外は、全員が部隊に射殺されるか、逃げ遅れて焼き殺された。俺の両親もな……!』
『そんな……。俺はそんなことはしていない! 逃げる人を閉じ込めるなんて!』
『だったら、どうしてお前ら兄妹二人だけが生き残ったんだ! 奴らとグルだったんだろう!? そうとしか考えられない!』
『違うんだ! 話を聞いてほしい!』
『俺は絶対にお前を逃がさないからな。ずっとお前だけを追ってきたんだ。地の果てまで追いかけて、お前をこの手で殺してやる……!』
『君に憎まれても仕方がないと思ってる。だけど今捕まるわけにはいかないんだ。俺にはまだやり残したことがあるから。全部終わったら……君の好きにして構わない』
『待て……! 行かせるかよ!』
「――――だめだ、ストップ! ストップして!」
椎名監督の激しい制止に、俺と八朔はハッと我に返ったように演技を中断した。
珍しく、八朔の息が上がっている。目も充血して、どこか演技以上の感情が籠っている感じだ。
八朔と絡むシーンの撮影が始まってすぐに、これはカットがかかりそうだと俺は予感していた。八朔の演技が不自然なのだ。明らかに、今このシーンで求められる役の解釈とはかけ離れた演技をしている。
「だめだめ八朔くん! 相手は憎い相手なんだよ? このシーンではまだ、両親の仇だと勘違いしているんだよ? そんなに切なげに言う台詞じゃないんだ。そんな表情で「お前を追ってきた」なんて言ったら、まるで愛を囁いてるみたいだよ!」
最後は冗談めいて椎名監督が言う。その場を和ませようと、数人のスタッフが合わせて笑ってくれる。だけど俺はちっとも笑えない。昨日の八朔の言葉が頭に甦ったからだ。
――――あんたをずっと探していたんだ。前世で死に別れてからずっと、あんたを追いかけてきた。あんただけを……っ。
あれはまさしく、愛を囁くような「追ってきた」だった。椎名監督の指摘があまりにもタイムリーすぎて俺はくらくらする。
八朔はニコリともせず、疲れたように額に手を当てた。
「すみません……。少し時間をくれませんか」
「どうしたんだ、珍しい。具合でも悪いのかい?」
「いえ。ただ――――」
八朔が縋るような目つきで、俺の顔をちらりと見る。俺はう、と思わずヒクついてしまった。
思えば今朝顔を合わせてから様子がおかしかった。昨日と同じ、熱っぽく、痛いほどひたむきな目で、ずっと俺のことを見ている。いつもは自分の出番がない時間はどこかに姿をくらますくせに、今日は俺の撮影を始終遠くからじいっと見つめてくるのだ。
俺は嫌々ながらも、しょうがないという思いが勝って、椎名監督に向き合った。
「監督。向こうで八朔くんと話をしてきてもいいですか? 俺たち二人の重要なシーンなので、ちゃんと調整してきます」
「しょうがないな。じゃあ、他のキャストのシーンを撮るから、ちょっと休憩しておいで。頼むよ仁木くん」
ぽんと肩を叩かれて、八朔を託される。
「ちょっとついて来い」
俺はぼそっと八朔に呟いて、指でちょいちょいと合図をする。八朔は無言のまま大人しくついてきた。
撮影現場から少し離れたところに、スタッフの休憩場所として使用しているロケバスが停まっている。俺たちと行き違いに休憩していたスタッフが出ていき、車内には誰もいなくなった。八朔と二人きりという状況に警戒心を抱くが、逆に話し合いをするには都合がいい。
「ほら、座れよ」
そう促すと、八朔は重い足取りで最後尾の四列シートに腰掛けた。このロケバスはいわゆるサロンバスというやつで、後部座席を回転させ、テーブルを囲むようにコの字型に配置されている。八朔から見て左側の席に俺も腰掛けた。もちろん、若干距離を取ることを忘れない。
「椎名監督も言ってたけど、どうしたんだよ、お前。なんか演技に迷いが見えたぞ。撮影始まって何日か経つけど、そんなこと今まで無かっただろ?」
慎重に声をかける。怒ったり不満を抱いているわけではないと伝えたい。俺は芸能人としての経験は浅いけれど、舞台人としてはそれなりに数をこなしてきた。調子が悪かったり、心配事があったりして、役になり切れないときもあることを十分理解しているつもりだ。
これまで、自分がそういう状況に陥ったときは、劇団の先輩がよく相談に乗ってくれたものだ。六歳も年下の八朔に、今度は自分が少しでも年上らしいことをしてあげたいと思うのは当然である。
「何か悩みでもあるのか? その……」
言い淀むと、俯いていた八朔が、ちらと俺の顔を見た。眉間をぎゅっと寄せ、どこか切なげな表情だ。なんて目で見るんだと思わず逸らしそうになるのを何とか我慢して、思い切って切り出した。
「……き、昨日の夜から、お前様子が変だぞ?」
あえて自分から話題に出したくはないのだが、八朔の様子が一変したのは、やはりあの脱衣所キス事件からである。
「あんなドッキリ仕掛けてくるなんてさ。お前、誰か先輩とかスタッフに、無理やり強要されてやったとかじゃないよな?」
「……ドッキリ? 何言ってんだ、あんた」
八朔がどこか不思議そうな、呆れたような顔をしている。「ドッキリ大作戦」という俺の読みは見当違いだったようで、
「え、じゃあ、あれは何だったんだ。なんでお前、俺にキスなんか……」
と俺はつい真面目に聞き返してしまった。八朔は前屈みになって膝の上で両手を組み、床の一点をじっと見つめて言う。
「あれは……つい感情が昂って抑えられなくなったんだ。俺にとっては青天の霹靂だったから」
「青天の霹靂? 何が?」
滅多に聞かない言葉だ。一体こいつの身に何が起きたんだと、思わず八朔の方へ身を乗り出すと、八朔が突然俺の脇腹に手を伸ばし、ぐいっと服をめくり上げた。
「うわっ!」
「その痣だ」
八朔が言うところの「法輪」みたいな痣が、露わになった腰骨の辺りに見える。急に空気に触れて冷やっとしたのと、また何をするつもりだと慌てたのもあって、俺は即座に八朔の手を払いのけた。急いで服を整えて、さっきよりもさらにまた八朔から離れる。
「だからこれが何なんだよ! ただの火傷の痕だぞ!」
外に聞こえないように声を押さえつつ怒鳴ると、八朔が真剣な顔で俺に向き直った。
「本当にそうなのか? 俺はその痣とまったく同じものを見たことがある。多分……俺の前世の記憶だ」
俺は唖然として、八朔の顔をまじまじと凝視した。
「またそれかよ。前世ってお前、なに意味不明なこと言ってるんだ。ちゃんと分かるように説明してくれ」
そう促すと、八朔は重苦しい溜息をつき、長い逡巡のあとにぽつりぽつりと話し始めた。
カーテンの隙間から朝日が差し込んで、まったく疲れの取れていない目に突き刺さる。
結局、一睡もできなかった――――。
俺はベッドに仰向けになって、シミ一つない部屋の天井をぼうっと見上げる。
昨夜の出来事は一体何だったんだろう。温泉で八朔に遭遇してから、蹴り倒して逃げるまでを、何度も何度も頭の中で反芻してしまう。
可能性としては「ドッキリ大作戦」が一番有力だが、カメラらしきものは見当たらなかったし、作戦とはいえ、あの八朔が俺なんかにキスまでするだろうか?
本人もかなり切羽つまった感じだった。何より、同じ男だからこそ分かる。あいつ、キスするうちに反応してなかったか? 触れ合った下半身にその兆しを感じたような……。俺の思い過ごしだと思いたい。
最悪なのは、俺自身も下半身が反応しそうになったことだ。カメラに勃起する姿を撮られるなんて冗談じゃない。それにあの八朔を蹴りつけたことがばれたら、事務所の力関係でどうにかされるんじゃ……と心配にもなる。
八朔レオは想像の上をいくとんでもない男だった。あんな質の悪いキスを……、年下なのに、俺が歴代の彼女にしたこともないような巧みなキスを仕掛けてくるとは。男としても負けた気がして悔しいじゃないか。
「ちくしょう。八朔のやつ、何してくれてんだ……」
今日も撮影で顔を合わせるというのに、気まずくてしょうがない。
だが、いつまでもこうしてベッドで悶々としているわけにもいかない。そろそろ仕度をして部屋を出なければ。自分の出番がある日は、誰よりも早く現場に着いておきたいというのが俺の流儀でもある。
男にキスされて一睡もできず、考えすぎて時間を忘れてました、なんて理由で遅刻するのは、社会人としても失格だよな。
俺はもそもそと起き上がり、頭を一振りして、何とか重い腰を上げた。
『なぜなんだ。どうして君は俺を追ってくるんだ……?』
『何を今さら。あの研究所の火災を起こしたのはお前なんだろ? あのとき、お前が研究所のブロック同士を行き来できないように防護壁を下ろした。誰も逃げられないようにな。お前ら兄妹以外は、全員が部隊に射殺されるか、逃げ遅れて焼き殺された。俺の両親もな……!』
『そんな……。俺はそんなことはしていない! 逃げる人を閉じ込めるなんて!』
『だったら、どうしてお前ら兄妹二人だけが生き残ったんだ! 奴らとグルだったんだろう!? そうとしか考えられない!』
『違うんだ! 話を聞いてほしい!』
『俺は絶対にお前を逃がさないからな。ずっとお前だけを追ってきたんだ。地の果てまで追いかけて、お前をこの手で殺してやる……!』
『君に憎まれても仕方がないと思ってる。だけど今捕まるわけにはいかないんだ。俺にはまだやり残したことがあるから。全部終わったら……君の好きにして構わない』
『待て……! 行かせるかよ!』
「――――だめだ、ストップ! ストップして!」
椎名監督の激しい制止に、俺と八朔はハッと我に返ったように演技を中断した。
珍しく、八朔の息が上がっている。目も充血して、どこか演技以上の感情が籠っている感じだ。
八朔と絡むシーンの撮影が始まってすぐに、これはカットがかかりそうだと俺は予感していた。八朔の演技が不自然なのだ。明らかに、今このシーンで求められる役の解釈とはかけ離れた演技をしている。
「だめだめ八朔くん! 相手は憎い相手なんだよ? このシーンではまだ、両親の仇だと勘違いしているんだよ? そんなに切なげに言う台詞じゃないんだ。そんな表情で「お前を追ってきた」なんて言ったら、まるで愛を囁いてるみたいだよ!」
最後は冗談めいて椎名監督が言う。その場を和ませようと、数人のスタッフが合わせて笑ってくれる。だけど俺はちっとも笑えない。昨日の八朔の言葉が頭に甦ったからだ。
――――あんたをずっと探していたんだ。前世で死に別れてからずっと、あんたを追いかけてきた。あんただけを……っ。
あれはまさしく、愛を囁くような「追ってきた」だった。椎名監督の指摘があまりにもタイムリーすぎて俺はくらくらする。
八朔はニコリともせず、疲れたように額に手を当てた。
「すみません……。少し時間をくれませんか」
「どうしたんだ、珍しい。具合でも悪いのかい?」
「いえ。ただ――――」
八朔が縋るような目つきで、俺の顔をちらりと見る。俺はう、と思わずヒクついてしまった。
思えば今朝顔を合わせてから様子がおかしかった。昨日と同じ、熱っぽく、痛いほどひたむきな目で、ずっと俺のことを見ている。いつもは自分の出番がない時間はどこかに姿をくらますくせに、今日は俺の撮影を始終遠くからじいっと見つめてくるのだ。
俺は嫌々ながらも、しょうがないという思いが勝って、椎名監督に向き合った。
「監督。向こうで八朔くんと話をしてきてもいいですか? 俺たち二人の重要なシーンなので、ちゃんと調整してきます」
「しょうがないな。じゃあ、他のキャストのシーンを撮るから、ちょっと休憩しておいで。頼むよ仁木くん」
ぽんと肩を叩かれて、八朔を託される。
「ちょっとついて来い」
俺はぼそっと八朔に呟いて、指でちょいちょいと合図をする。八朔は無言のまま大人しくついてきた。
撮影現場から少し離れたところに、スタッフの休憩場所として使用しているロケバスが停まっている。俺たちと行き違いに休憩していたスタッフが出ていき、車内には誰もいなくなった。八朔と二人きりという状況に警戒心を抱くが、逆に話し合いをするには都合がいい。
「ほら、座れよ」
そう促すと、八朔は重い足取りで最後尾の四列シートに腰掛けた。このロケバスはいわゆるサロンバスというやつで、後部座席を回転させ、テーブルを囲むようにコの字型に配置されている。八朔から見て左側の席に俺も腰掛けた。もちろん、若干距離を取ることを忘れない。
「椎名監督も言ってたけど、どうしたんだよ、お前。なんか演技に迷いが見えたぞ。撮影始まって何日か経つけど、そんなこと今まで無かっただろ?」
慎重に声をかける。怒ったり不満を抱いているわけではないと伝えたい。俺は芸能人としての経験は浅いけれど、舞台人としてはそれなりに数をこなしてきた。調子が悪かったり、心配事があったりして、役になり切れないときもあることを十分理解しているつもりだ。
これまで、自分がそういう状況に陥ったときは、劇団の先輩がよく相談に乗ってくれたものだ。六歳も年下の八朔に、今度は自分が少しでも年上らしいことをしてあげたいと思うのは当然である。
「何か悩みでもあるのか? その……」
言い淀むと、俯いていた八朔が、ちらと俺の顔を見た。眉間をぎゅっと寄せ、どこか切なげな表情だ。なんて目で見るんだと思わず逸らしそうになるのを何とか我慢して、思い切って切り出した。
「……き、昨日の夜から、お前様子が変だぞ?」
あえて自分から話題に出したくはないのだが、八朔の様子が一変したのは、やはりあの脱衣所キス事件からである。
「あんなドッキリ仕掛けてくるなんてさ。お前、誰か先輩とかスタッフに、無理やり強要されてやったとかじゃないよな?」
「……ドッキリ? 何言ってんだ、あんた」
八朔がどこか不思議そうな、呆れたような顔をしている。「ドッキリ大作戦」という俺の読みは見当違いだったようで、
「え、じゃあ、あれは何だったんだ。なんでお前、俺にキスなんか……」
と俺はつい真面目に聞き返してしまった。八朔は前屈みになって膝の上で両手を組み、床の一点をじっと見つめて言う。
「あれは……つい感情が昂って抑えられなくなったんだ。俺にとっては青天の霹靂だったから」
「青天の霹靂? 何が?」
滅多に聞かない言葉だ。一体こいつの身に何が起きたんだと、思わず八朔の方へ身を乗り出すと、八朔が突然俺の脇腹に手を伸ばし、ぐいっと服をめくり上げた。
「うわっ!」
「その痣だ」
八朔が言うところの「法輪」みたいな痣が、露わになった腰骨の辺りに見える。急に空気に触れて冷やっとしたのと、また何をするつもりだと慌てたのもあって、俺は即座に八朔の手を払いのけた。急いで服を整えて、さっきよりもさらにまた八朔から離れる。
「だからこれが何なんだよ! ただの火傷の痕だぞ!」
外に聞こえないように声を押さえつつ怒鳴ると、八朔が真剣な顔で俺に向き直った。
「本当にそうなのか? 俺はその痣とまったく同じものを見たことがある。多分……俺の前世の記憶だ」
俺は唖然として、八朔の顔をまじまじと凝視した。
「またそれかよ。前世ってお前、なに意味不明なこと言ってるんだ。ちゃんと分かるように説明してくれ」
そう促すと、八朔は重苦しい溜息をつき、長い逡巡のあとにぽつりぽつりと話し始めた。
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