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第七章
第25話
しおりを挟む「……きくん! 仁木君! 大丈夫かい!?」
遊間さんの力強い声がして、沈んでいた俺の意識がゆっくりと浮上していく。
真っ先に目に飛び込んできたのは、眩しいほどに白い天井だった。目がチカチカして、すぐには直視できないほどだ。そこにぬっと入り込んできた遊間さんが、俺を心配げに見下ろしてくる
「良かった、目が覚めて! そんなに泣かなくても大丈夫だよ、君は無事だったんだからね!」
え、と驚いて、俺は自分の顔に手をやった。確かに頬が濡れている。悲しくて、だけどとても幸せな夢を見ていたから、知らぬ間に涙が出ていたんだろう。三郎と錦の夢だ。今度ははっきりと覚えていた。
夢は、目が覚めたら一瞬で忘れてしまうことが良くあるから。良かった、ちゃんと覚えていて。失くさなくて良かった。
俺は目を動かして辺りを見回した。ここはきっと病院だろう。部屋は暖かいし、清潔な布団に包まれているのが分かる。さっきまでいたあの空き家とは雲泥の差だ。助けを求めた警察官たちが無事に救助してくれたのだ。
「八朔は……どうなったんですか。まさか、死んだりなんてこと……」
俺はまだ少し呂律が回らない口を動かして、遊間さんに尋ねる。遊間さんは嬉しそうに破顔して、何度も頷いた。
「八朔くんも大丈夫だよ。脇腹の刺し傷は全治二、三週間かかるそうだけど、命に別状はないってお医者さんが。今は麻酔が効いて眠ってるんだ、ほら」
遊間さんが後ろを振り返る。部屋は二人部屋らしく、隣のベッドに八朔が横たわっているのが見えた。俺は何とか起き上がり、八朔の様子を窺い見る。顔色も悪くないし、本当にただすやすやと眠っているみたいだ。俺はほっと胸を撫でおろす。
八朔を見守るように、花ちゃんと伊達マネージャーがベッドサイドの椅子に腰掛けていた。花ちゃんは俺の顔を見て、あの華やかで屈託のない笑顔を見せてくれる。
「仁木さん、具合はどうですか? 頭、痛くないですか?」
花ちゃんに言われて、俺は自分の頭に包帯が巻かれていることに気がついた。殴られて出血もあったので手当してくれたんだろう。CT検査もされたかもしれない。それほど痛みもないし、意識ももうはっきりしている。
「俺は平気。花ちゃんも無事で良かった……」
「はい、私はピンピンしてます! 私や八朔が助かったのも、仁木さんが雪の中、助けを呼びに行ってくれたおかげです。本当にありがとうございました」
「花ちゃんにお礼を言ってもらえる資格なんてないよ。今回のことは、全部俺の責任だから……」
「いいえ、悪いのは全部あの犯人たちですから。指名手配犯を捕まえるなんて、お手柄ですよ私たち!」
花ちゃんは俺を慰めるように元気づけてくれる。俺が殴られたり、八朔が刺されたり、ショッキングな場面をたくさん見たはずなのに、ずっと気丈に振る舞ってくれていた。花ちゃんには本当に頭が上がらない。
「君たちが捕まえた犯人は警察に連行されたから安心して。まさか地方ロケの最中に、そんな事件に遭遇するなんて夢にも思わなかったけれどね。スタッフのみんなも、君たちが無事で安心したって大喜びだよ」
俺はハッとして遊間さんを見やる。気がかりなことがまだあった。
「すみません、遊間さん。俺も八朔もこんなことになって……撮影どうなりますか?」
これまで必死で取り組んできた撮影が中止になんてなってしまったら、俺はもう二度と立ち直れないかもしれない。映画はどうなってしまうのかと目で訴える。
遊間さんは俺を安心させるように力強く頷いた。
「大丈夫だよ。君たちが回復したら撮影を続行しようって椎名監督も仰ってたから。長野での撮影はほぼ終盤だったし、あとはスタジオ撮影を残すだけだからね。公開時期はズレるかもしれないけれど、問題ないよ。君たちが最後まで完走できるように、僕たちやスタッフがきっと何とかしてみせるから。ねえ伊達さん」
遊間さんが伊達さんに同意を求めると、それまで黙っていた伊達さんもクールな笑みを返した。
「ええ、そのとおりです。諸々の手続きや、関係者への対応はすべて私たちに任せて下さい。仁木さんは一日も早く回復することだけを考えて」
売り出し中の俳優を事件に巻き込んだ挙句、怪我までさせたとあっては、大目玉を食らうかと覚悟していたのだが、そこはさすが大人の対応だ。伊達さんは誰を責めるでもなく、今最も大切なことが何なのかを教えてくれる。
さて、と遊間さんが一息ついた。
「八朔くんは怪我の具合を見つつ、数日入院する予定だよ。仁木君も、念のため今日はここに泊まって安静にね。僕たちはホテルに戻るけど、一応芸能人だし、廊下の先には警備の人がずっと居てくれるから」
「分かりました」
「あ、それから事件のこと、君の家族にも知らせておいたんだ。最悪の事態になることも考えて、警察の人にそうしろって言われたから。申し訳ないけど、きっと心配してると思うから、すぐに電話してあげて」
「何から何まですみません。ありがとうございました」
俺はベッドの上で頭を下げる。「いいからいいから」と手を振りながら遊間さんが椅子から立ち上がった。
「さ、私たちもホテルに戻りましょう」
伊達さんが花ちゃんを促しつつ、遊間さんと肩を並べて病室を出て行く。花ちゃんは名残惜しげに八朔の寝顔を見つめていたが、意を決したように俺の元へとやってきた。立ち尽くしたまま両手をぐっと握りしめて、ぽつりと呟く。
「……私、仁木さんと八朔のこと、誰にも言いませんから安心して下さい」
「それは……」
俺が口ごもると、花ちゃんはいじけたように俺を睨んできた。
「そもそも、あのとき二人が一体なんの話をしてたのか、まったく意味が分かりませんでしたし。前世がどうのこうのとか、大切なのは今の俺たちだ、とか……。は? なに言っちゃってんの、この人たち、って内心思ってました」
「しょ、正直だね……」
「あんなの見せつけられて、そうでも思わないとやってられませんでしたから」
彼女の本心を聞いて、俺は苦笑いを返すしかない。花ちゃんは諦観とも取れるような口調で言った。
「だけど、レオって名前で呼ばれたのに怒らない八朔、初めてみました。ファンの子にだって嫌な顔するのに。仁木さんのことが特別なんだって、分かり易過ぎですよ、あいつ」
――――八朔のこと、絶対レオって名前で呼んじゃだめですよ。激おこするから。
地方ロケの初日に、初めて俺にそう教えてくれたのが花ちゃんだった。だけど、八朔が名前で呼ばれることを赦した相手も俺だった。きっと悔しさや悲しさや、複雑な想いが胸中を吹き荒れているに違いない。
「君も八朔のこと……」
俺が囁くと、花ちゃんは笑って肩を竦めた。
「やっぱりバレちゃいましたよね。でもこれからどうするかは自分で決めます。諦めて次に行くか、告白してなんとか仁木さんから奪っちゃうかも……」
俺は一瞬ぽかんとしたが、花ちゃんの男前さが堪らなくいじらしく感じてしまった。
「さすが花ちゃん。強敵だな」
俺がつい笑みを零すと、花ちゃんは少しだけ涙目になって、きりっと睨んでくる。
「ほんと、仁木さんてズルい。ライバルでも嫌いになれないなんて、ズルいですよ……」
「俺も、ライバルだけど花ちゃんのこと好きだよ。八朔には内緒だけどね」
花ちゃんが照れたように「べっ」と舌を出し、
「じゃあ、また現場で」
と颯爽と去って行く。俺はその後ろ姿を見送り、ちらっと八朔の方を見た。何も知らずにすやすやと眠っている。
あんな素敵な子を惚れさせるなんて、本当に八朔は罪な奴だ。俺は苦笑しつつ、しばらくその寝顔を眺めていた。
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