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夏虫の鳴く刻

夏虫の鳴く刻 壱

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    琴璃が帰ってからというもの、僕は同じ夢を見た。何度も、何度も。夢の中で『美玲』と呼ばれた真坂に僕は訊く。

    「何で真坂じゃないの?何で美玲なの?」

    僕の問いに、真坂は眉を寄せて困った顔をする。そして目線を落として俯くと、何処からか真坂の声が聞こえる。

    「ごめん。ちゃんと話すから……」

     その声に琴璃の「龍兄たつにぃ、自分で見つけなって言ったでしょ?」そんな言葉が重なる。

    そして夢はいつもそこで終わった。そういう夜があの日から続いている。真坂との連絡も、こちらからの返信こそあれ、あの時の僕の問いへの答えに関しては沈黙したままだ。

    かと言って、自分から真坂を問い質す勇気など持ち合わせている訳でもない僕は、悶々と日々を見送っていた。

    そんな僕の鬱々とした気分をなぞるようなどんよりした梅雨の季節は、酷く長く感じられた。

    いつまでも続くのではないかと思われた、その梅雨の季節は唐突に終わりを告げた。気象予報士の梅雨明け宣言と、真坂からの一通のメールによって……。

    【えと、龍之介。この前はごめん。心配掛けたよね。私ね、今ようやく落ち着けたの。勝手ばかりで悪いけど、来月上旬の七夕祭り……どうかな。あ、空いてれば、だけど。返事待ってるね】

    正直、ここ数ヶ月身の回りに起きたことを思うと少し怖かった。その反面、これを待っていたはずで……まあ、兎に角断る要素は何処にも無かった。
 
    そう、断る理由も根拠も無い――それは良しとしても、僕には真坂に確かめたいこと、訊きたいことが幾つか……いや、沢山ある。

    桜を観に行った時、話の流れで僕自身の話しはした。これまで他人ひとにあれほど自分を曝したことは無いという程に。

    だけど、真坂の事となると僕は何も知らない。知っていることは――?名前が唐澤真坂という事、僕と同じ自傷行為リストカットをかつてはしていた事くらいだろうか。

    一方、知らないことは枚挙に暇がない……。仕事は何をしているのか、何故、真坂自身は自傷行為リストカットをしたのか、左頬のフェイスペインティングは何か意味があるのか、街角で見掛けた時に一緒にいた男性ひとは誰なのか、『美玲』と呼ばれていたのは?分からない事だらけだ。

    そんな風に考えていて気が付いた。

    今まで自分自身の事を訊かれても、殆ど他人ひとに話したことの無い僕が、真坂には心の内の事まで話した。

    氷が溶けていく様に――。

    そして僕は気になっている。

    僕は知りたがっている。

    他人ひとと深い関わりを持つ事を避けてきた僕が、真坂の内面や為人を知りたがっている。

    そこまで辿り着いた僕は――もう迷う事なく、ディスプレイの送信を押した。

    僕自身が変わる為に、そして誰かを変えられる人間《ひと》になる為に――。

    【真坂、会って話したいことが沢山あるんだ。だから、会おう】

    夏らしい熱気の籠った風が街路樹の葉を揺らす――この気節になると僕達の街は一年で最も活気に満ちて来る。

    それはこの地方でも指折りのお祭りが催されるからだ。夏の七夕祭り――アーケード街の広い通りに所狭しと吊られた大きな七夕飾りが織り成すこのお祭りには、全国から何百万人もの人々が集まる。

    夏の一大イベントだけど、僕にとっては別の理由で一大事だった。

    久しぶりに真坂と会い、一緒の時間を過ごす――いや正確に言うなら繁華街で一度見掛けて、そしてもう一度出会しているけど……兎に角、春に桜を観に行って――僕が少しずつ変わる切っ掛けをくれた真坂と一緒に同じ時間ときを刻めることに心は波立っていた。

    待ち合わせのアーケード街入口の街角に佇み気持ちを落ち着かせようと、建物の間から覗く雲の無い青空を見上げる。

    その空の青さから空の高みを感じている僕の後ろに聞き覚えのある声がする。

    「龍之介、待った?ごめんね」

    振り返り――そこに佇む真坂の姿を認めた。

    その人は春より少し伸びた髪を上げ、打ち上げ花火らしい模様の浴衣に金魚の泳ぐ帯びを締めていた。

    何となく夏祭りなのだから、浴衣姿――そんな予想はしていたけど、実際見てしまうと再び心の中は波立った。波を鎮める様に「いや、今来たところ」平静を顔に貼り付けて答える。

    「本当?良かったぁ。待たせちゃったかと思った」

    そう口角を上げてニンマリとした少しだらしない笑顔を見て『やっぱり真坂はこうだよな。久しぶりだね』鎮めていた僕の心はまた少しだけ波立った。

    「少し歩こうか」

     会っていなかった時間はそう長くはないはずなのに、感覚の中の時間の流れは酷く長く感じている。それを真坂に感じ取られたくなくて、日常を意識し平静を全身に纏おうとした。

    今は全く日常じゃないのに。

    日常でもなく、平静でもない自分の顔色を窺い知られたくないから――という訳ではないけど、手を上にかざし顔に掛からんばかりの七夕飾りを退けながらゆっくり歩く。

    真坂は僕の前を――流石に歩いてはいない。僕が退ける七夕飾りが、ヒラヒラと揺れ動く間を器用に避けて、時折結った髪に当たらないか気にしながら後を付いて来る。

    「今日は前を歩いて振り返ったりしないんだね」

    自分でも久しぶりに会ったのだから、他に何か言い様があるだろうに……。でも僕はそんな事を口にする。あまり成長していないのかも。

    真坂が振り返り、口角を上げニンマリ笑う。『そうそう、その笑い方。春に何度も拝んだヤツだ』

    「逃げない、でしょ?」

    「逃げた事はないと思う」

    「そお?いつも逃げてた気がするな。で、捕まって最終的には素直になる……違う?」

    どの事を言ってるんだろう。幼児の手を握って人の温もりを確かめた時?大道芸の賭けに負けて名前を呼ぶ羽目になった時か?うん……認めざるを得ない。確かに最期は大人しく言う事聞いてるな……。

    「そういう事もある」

    「そういう事が多い。圧倒的に」

    「…………」

    『沈黙は心に纏う鎧』そう決め込んで様子を窺う。

    「でも、龍之介はその後ちゃんと一歩成長するし、私を幸福ハッピーな気分にしてくれる。いやぁ、嬉しかったなぁ」

    言いながら、ニヤついた顔が更に弛む、弛む。

    そのニヤけた顔を視界の中に納めてぼんやり眺める。そうか、そうなんだ。真坂と出会う前には知らなかった――当たり前に行き過ぎる時間とは違う、特別な時間。ありふれた雑踏の様な関係とは違う、唯一無二の存在と関係性。だから、何だかんだと言っても受け入れてきたんだ。
    
    真坂は、僕自身が知らない僕の全部を知った上で、何処かふわりと僕を包む。

    待てよ、再会に浮かれかけたけど……思い出した。僕は真坂に訊きたい事が山ほどあったんだ。思い出した途端、暑さの所為ではない変な汗が噴き出して来た。

    「ん?龍之介どしたの?めっちゃ汗かいてるけど。何か冷たい物とかいる?」

    良からぬ事を考えている所に覗き込まれたものだから、驚き慌てて口は変な形に半開きになって一言も出ない。

    そんな僕を傍目に真坂は目を輝かせて、アーケードの道端の一点を指す。

    「あ、あれ。冷たくて美味しそうじゃない?あれ食べよっかな」

    春に散々聞いた食欲を誘うフレーズの先には地元で有名なフルーツ屋さんの露店があった。

    「知ってる?……」
 
    「知らない……」

     「まだ、言ってないって。知ってる?あれ美味しいんだよ。パイナップル!めっちゃ冷えてて甘いんだぁ」

    確かに店先には棒状にカットされ串に刺さったパイナップルを頬張る人集ひとだかりが見える。

    数分後、僕達が手にしたパイナップルをかじりながらフルーツ屋さんの列を抜け出したのは言うまでもない。

    「串ものにかぶり付くの、相変わらずなんだね」奥歯に冷えたパイナップル果汁が沁み込むのを我慢して、隣を窺い呟く。

    「おおっ!?春に食べた焼き鳥串の事を覚えてるとはっ!……って、龍之介も牛タン串頬張ってたじゃない?」同じく奥歯にパイナップルが沁みている様子の隣人は食って掛かってきた。

    「発言の二ヶ所訂正を要求する。覚えていないみたいだけど、あの時君が食べてたのはカツ串で、僕は串ものだって品良く食べるから」

    久しぶりに会ってかなり緊張していたけど、軽口を叩きやり込めるとは調子が出てきた――そう思ったのだが……。

    隣にいるやり込めたその人は、何か尻尾を掴んだかの様な得意気な表情を浮かべニヤついている。

    「私も訂正を要求する。ちゃんと名前を呼び合うって約束したよね?あんなに大勢の前で宣言したのに。忘れちゃったかなぁ」

    分かっていた。忘れた訳ではないし、と言うかあんな出来事を忘れようがない。それに呼びたくない――というのでもない。ただ――呼ぶ事で僕の中にある、真坂への疑念とか知りたいという欲求が一気に噴き出してしまう気がして……それが怖かった。





    


    

    



    
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