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青葉、薫る刻 玖

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    二人のやり取りを暫し傍観者然として眺めていた僕は、二人の話が落ち着いたところを見計らい漸く間に入ることが出来た。

    琴璃との話の後、俯く真坂の耳許で声を押さえて訊いてみた。

    「……琴璃が色々とごめん。二人の会話の意味がイマイチ分からないんだけど。何?」

    真坂は明らかな困り顔になり、目を泳がせる。

    言葉を探しているんだろうな、と思い僕はジッと真坂が口を開くのを待った。

    「龍之介、ごめん。いずれ必ず話すから。ちゃんと絶対に。だから今は、ごめん」

    真坂はそう言ってまた俯いたけど、僕はそれで良かった。

    答えを求めている訳ではなかったし、真坂はいずれ話すと言ってくれた。

    それは、これから先があるって言うこと。

    僕は一瞬目を閉じ、自分に向けて言い聞かせた。

    『今はそれでいいじゃないか。そうだろ?』

    あ、もう一つ真坂に訊いておくことがあった。

    もう一度、真坂の耳許に口を寄せる。

    「……あの、真坂。これもいずれでいいんだけど……美玲って名前のことも教えて」

   「 ……う、うん」

    今度は顔を真赤にして、コクリと頷いた。

    真赤過ぎて左頬のハートのが霞むくらいに。

    「コホンッ!もう、いいかな?」

    今度は蚊帳の外に置かれた琴璃が僕達の間に入ってきた。

    「私は言いたいことは言い切ったし、訊きたいことも訊いた。龍兄たつにぃと真坂……さんも取り敢えず今日はこれでいいならお開きにしませんか?」

    確かに人の往来も多いこの街角でこれ以上騒ぐのも如何なものか……。

    そうは思ったが、このまま別れたらもう真坂には会えないんじゃないか――漠然とした不安感が僕胸の中を満たして行く気がした。

    「あの、真坂。時間があるなら一緒に食事とかどうかな。ここで立ち話も何だし」

    「ちょっと!龍兄たつにぃ、お開きだって……」

    「あ、あの……龍之介。私も今日はちょっと……それに琴璃さん、せっかく来てくれてるんだし」

    明らかな戸惑いの色を浮かべ、明朗闊達の欠片も無い真坂の反応を前に、僕はそれ以上何も言えなかった。

    「……だから、ごめん」俯き呟く真坂に僕が今出来るのは、この場から解放してあげる事だけだった。

    「わ、分かった。無理は言わないから。また連絡だけ……しても大丈夫かな」

    「も、勿論。全然大丈夫。大丈夫だよ」そう言って見せる笑顔が精一杯の作られた物なのはすぐ分かる。

     雑じり気無し、天然の笑顔を何度も見てきたのだから。

    「うん。じゃあ、またね」真坂に作り物の笑顔を強いている後味の悪さが、僕を足早にこの場から立ち退かせる。

    「琴璃、行こう」そう促し二、三歩歩き始めて、琴璃がその場に立ち止まったままなのに気付いた。

    「どうした?」振り返ると――無表情、と言うか、色の無い顔付きの琴璃が僕を見返す。

    「ううん、何でもない……」一瞬、真坂を見やると踵を返して僕に近付き、目の前をスタスタと通り過ぎた。

     そして――街に灯り始めたネオン看板を見上げる。雑踏の中、その横顔のラインを見詰める僕の耳に張りのある声が飛び込む。

    「龍兄たつにぃ、行くよ」

    真坂と別れ、日の暮れた繁華街を琴璃と肩を並べて歩き出した。ただ、真坂と別れた後も僕の気持ちはそこに残ったままだ。

    二度、街角で出会って――各々違う男性ひとと一緒で。美玲と呼ばれて……一体何だろう?僕は真坂に自分の過去を話してきたけど、僕は真坂の何を知っているんだろう?

    そんな想いが頭の中をグルグルと廻っているくせに、全く違う言葉が口を衝く。人は意外と器用なのかもしれない。

    「で、琴璃、何処の店がいいんだ?」

    耳に届いていないかと思うくらいのタップリとした間を置くものだから、もう一度口を開こうとした――その時、意外な答えが帰って来た。

    「……いいよ。もう帰ろ。昨日のカレーも残ってるし」

    「どうした?先刻さっきの……あれ、か?」

    「まあ、否定はしないけど。でも、いいんだ。あ、怒ってはいないよ。今は龍兄たつにぃとお手製カレーが食べたいだけ」

    確かに怒っている様子は無さそうだけど、ショックはショックなんだろうな。自分は相手のことを何も知らないのに、その初対面の他人が自分の話を聞かされている……本当の、ではないけど――自分の兄から。

    口は災いの元、だよな。

    それも災いを被っているのが自分ではなく琴璃だと思うと、うしろめたさから帰り道は無口になり会話らしい会話も無いまま部屋のドアを開けた。

    琴璃は荷物を置くと淡々と夕食の準備を始め、鍋を火にかけた。

    そして二人分残ったカレーがグツグツと煮立つのを俯き加減に見詰めている。

    カチッ!コンロを止めると、俯いていた顔を上げこそしたが声のテンションはまだ……低い。

龍兄たつにぃ……カレー、準備出来たよ。いい具合だわ。何か薫りが仕上がってる感たっぷり」

    その低いテンションで言う……いや、呟いたことにどう返したらいいか分からないままに座布団代わりのクッションに腰を下ろし、スプーンを手に琴璃と向かい合う。

    「いただきます……」一口分スプーンですくって口へ運ぶと、同じ様にカレーを口に含んだ琴璃がごちる。

    「ん……美味しい。何で二日目のカレーって美味しいんだろ……?」

    「うん、そうだな。確かに。あれじゃないか。旨味が熟成されて、とか」

    「そっか、そうだね」琴璃のその一言の後は二人共会話が続かなくなり、カチャカチャと皿とスプーンが当たる音とカレーを咀嚼する音だけが部屋に響く。

    この静寂の中、押し潰されそうな僕のか弱い心臓が限界線に触れる刹那に、琴璃が全てを打ち壊した。

    「龍兄たつにぃ……明日、帰るわ」

    「帰るって……。まだあと二泊する予定だろ?」

    「友達と遊ぶ予定あったの忘れてた」

    嘘だろ、絶対嘘だ。

    友達との約束?そんなこと言ってなかったし、そういうの忘れないだろ、琴璃は。

    「琴璃、別に琴璃のこと色々話した訳じゃないから。妹がいるとは言ったけど、それだけだ」

    「龍兄たつにぃがそんなおしゃべりだとは思ってないよ。むしろ話好きな龍兄たつにぃがいたら驚きだよ」

    一口カレーをすくって、『はむっ』と頬張る。

    何処と無く嬉しげにカレーを頬張る琴璃の顔を見て、内心安堵の息を吐いた。

    ただ片付けをしている時も、ベッドに入った後も静寂なまま時間だけが過ぎ、いつの間にか眠りに落ちていた。

    翌日、琴璃は帰って行った。

    新幹線の改札まで送って行くと、一度改札に向けて歩き始めた足を止めて神妙な顔付きで振り返った。

    「何があっても驚いちゃダメだよ。龍兄たつにぃ

    「何に?」神妙な顔付きの意味深な言葉に訊き返したが答えは返って来なかった。

    代わりに琴璃は神妙な顔付きから『ニヤッ』と、ある意味これも意味深な笑顔を返して来る。

    「それは自分で見つける――と言うか、気付きなよ」琴璃はそう言って改札の向こうに消えて行った。

    こうして青葉薫る季節は、僕と僕の周囲を取り巻く人達の歯車を少しずつ動かしながら過ぎていった。






































    























   



    





    
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