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青葉、薫る刻 捌

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    「……」誤魔化せてるのか?

    僕の心の中の問い掛けに答えたのは、琴璃――ではなかった。

    船縁にもたれる僕の後ろから、琴璃ではない声がした。

    音量を抑えた囁くような会話が、背後に神経を集中している僕の耳にはっきりと聞こえる。

    「ミズキ、あの人超ビビリだね。そんなに怖いかな」
 
    「ヒナ、あっ、指差さないのっ!聞こえるよ」

    先刻さっき、ウミネコに餌を与えていた女子高生二人組が囁く。

    「……龍兄たつにぃ、滅茶苦茶恥ずかしいんだけど。他人の振りしようかな」

    「すまない。取り乱した。でも、急に目の前であんな風にバッサバッサされたら驚くって」

    「それにしても、だよ。子供の頃もそうだったよね。ザリガニに指挟まれるし、犬にオシッコ掛けられるし……動物とのトラブルネタには事欠かないよね。ぷふっ!思い出しちゃった。ウケるわぁ」

    確かに昔からこの手のトラブルは多かった気がする。

    「さあ、龍兄たつにぃ。もう一度チャレンジしますか」

    「え?もう一回するの?もういいよ」

    「だってまだあげてないじゃない。落としちゃったでしょ?私は龍兄たつにぃがウミネコさんに餌付けしてるとこ見たいの」

    琴璃の言葉に耳を傾けその表情を窺うと、意外なくらい真剣な顔をしている。

それを見て、大人しく手にした小袋からかっぱえびせんを一つ摘まみ出した。

    今日来たのは、琴璃の希望を叶える為なのだから琴璃の言うことにも一理ある。

    再び船縁に立ち、恐る恐る手を伸ばした。

    すると後ろからまたが音も無く近付いて来る。

    今度は落とさないよう細心の注意を払い、深呼吸してその時を待つ。

    次の瞬間、指先のかっぱえびせんを嘴で挟み、スッと掠め取ると風に乗り去って行った。

    それは『あっ』と言う間の出来事で、僕はぼんやりと飛び去るウミネコの姿を見送った。

    何だ、全然怖くないじゃないか――そう思って振り返ると、琴璃が満足気に満面の笑みで親指を立てた手を突き出していた。

    「龍兄たつにぃ、やれば出来るじゃん!」

    あれ?何かこれと似た光景、見たことある気がする……ような。

    何だっけ?あ、思い出した。

    真坂と桜を観に行って、幼児に指を握られた時の真坂の笑顔――それに初めて名前を呼んだ時の真坂の仕草――それと重なったんだ。

    ……今頃、どうしてるんだろう?最近は連絡もメールだけだし、向こうが忙しい所為かその連絡自体もまばらになってるし……。

    何だろう……あの時のことを思い出したら急に気になってきた。

    何だろう……何か胸の中が窮屈で、苦しい感じは。

    今、何してる……?

    「……ちょっと龍兄たつにぃ龍兄たつにぃってば!聞いてる?!」

    やばい、真坂のこと考えてたら、琴璃の話聞いてなかったっ。

    「あ……ごめん。まったく聞いてなかった」

    琴璃……?頬っぺた膨らませて……。

    口は災いの元、その諺の意味を数秒後身をもって知った。

    「はあ?何考えてたの?上の空でっ!あっ、でしょっ?!そうだ!そうなんでしょっ?!」

    上の空なのは当たってるけど、人は違うんだよな……。

    「悪い、悪い。上の空……な訳じゃないんだけどさ」

    「上の空でしたっ!第一、聞いてなかったって言ったじゃない!何考えてたのっ?!でしょっ?」

    琴璃、何かヤバいかも……目が座ってきてるし。

    「は無いだろ。失礼だろ」

    相手が違うと言っても、椎名さんを呼ばわりされ、つい言い返してしまった。

    「を庇う訳?何度だって言うわ!布団、布団、布団!!」

    「だから布団じゃないって。椎名さんじゃないって!」

    何だか子供の喧嘩みたいになってきたのを止める為に言った一言が、また火に油を注ぐことになってしまった。

    「……?じゃないって?まだ他にいる訳?誰よ?」

    痴話喧嘩染みたことで騒いでいると、デッキにいた回りの観光客が何事かと様子を窺い、僕達に視線を注いでくる。

    「ほら、ミズキ。あのウミネコにビビってた人、今度は喧嘩してるみたい。あの二人、恋人同士かな」

    「いいから、ヒナもう見ないで。場所変えて船の前の方に行こ」

    どうやら先程の女子高生達にも変な目で見られていたようで、この状況を切り抜ける為にも、琴璃を落ち着かせないと……。

    「琴璃、上の空だったのは悪かった。ただ誰かのこと考えていた訳じゃないんだ」

    「本当かなぁ?まだ怪しいけど。ちゃんと謝ってくれたからいいけど……」

    いいけど……って、まだ疑ってるだろ?

    まあ、琴璃の言ってるのは間違いじゃないんだけど……何はともあれ真坂の存在を知られずに済んで良かった。

    ウミネコの餌やりやら何やらで騒々しくしているうちに、湾内の島々を巡る巡航クルーズも終わりを迎えて遊覧船は元の桟橋に静かに横付けした。

    船を下りて桟橋に立つと、そこは午後の陽射しと湾内を渡って来た海風の調和ハーモニーが心地良かった。

    「風が気持ち良いなぁ」 「ウミネコさんにご飯あげられて良かったね」 「うん!ウミネコさん可愛かった!」「やっぱり景色良かったぁ」

    遊覧船の乗客達は桟橋に下り立つと、楽しげに会話を交えながら、三々五々に駅や次の観光スポットに向かって行く。

    「遊覧船、どうだった?楽しかった?」そう僕に訊く顔は『楽しかったでしょ』と言っている。

    「まあ……色々あったけど、楽しかったかな……って、それこっちが訊くことだろ?」

    「まあ、いいじゃない。私は楽しかったし。龍兄たつにぃも一つ壁を越えられた」

    「壁って、何の壁だよ?琴璃が満足したのはいいけど」

    「ふふふんっ。それでいーの。今日は私をもてなす日なんだから、ねぇ?」ニンマリとした笑みを浮かべて小首を傾げながら覗き込んでくる。

    『何処でそんな仕草覚えたんだ?……まさか、彼氏とか?いやそれは無いか……ははは』

    「ん?龍兄たつにぃ、私の顔に何か付いてる?」

    「あ?いや、何も。何も付いてないよ」危なっ!何考えてるかバレるかと思った。

    下らなくて他愛もない、穏やかな時間が一段落する頃、海岸近くの駅に戻ると駅前も中も観光を終えた人達で込み合っていた。

    人混みの間を縫うように歩いていると、琴璃が急に肘を引っ張り込むものだから、バランスを崩し思わず立ち止まってしまった。

    途端に行き交う人と危うくぶつかりそうになる。

    「わっ!危ないって。急に引っ張るな、琴璃」

    「先刻さっきから話し掛けてるのにぃ。聞こえない振り?」

    「周りがザワついてるから聞こえないって。で、何んだ?」

    肘を掴まれたまま振り返り見ると、僕の態度が不満なのか、少し唇を尖らせて睨まれた。

    「お腹空いたぁ。今日こそは名物の牛タンご馳走してよね」

    「豚カツも旨かっただろ?それに昨日カレー作るって言ったの琴璃だぞ」

    「昨日の夕飯は龍兄たつにぃの為、今日の夕飯は私の為ってことだよ」

    海岸の駅からターミナル駅まで戻ると、僕は約束させられた通りに琴璃を連れ立ち、牛タン店が軒を構える繁華街へと向かった。

    建ち並ぶ飲食店や飲み屋の前にもチラホラ人が集まり、この地方一の繁華街が賑やかになろうかという刻を告げる。

    「龍兄たつにぃ、何処のお店に入るの?当然美味しいよね?」

    期待に胸も胃袋も膨らませているな……弾む声がそう思わせる。

    「うん。自分の中では一番美味しいと思うけど」

    「お店、どの辺り?」

    「あ、ああ、次の大きな通りに出たら右に曲がってすぐの所」

    琴璃の方を向いて、その通りを右に曲がろうとした時、通りを真っ直ぐ歩いて来た通行人と危うくぶつかりかけて立ち止まった。

    「あ、すいません」慌てて軽く頭を下げて相手を見返す。

   「あ、いえ、こちらこそ。美玲ちゃん、大丈夫?」 相手の男性が傍らの連れ合いの人を気遣うように声を掛けた。

    「あ、大丈夫です……」その人は男性に答えると、こちらを伏し目がちに見返した。

    「あ……」僕は咄嗟のことに言葉を失った。

    「あ……。どうも……」相手も僕達を一瞬見ると俯き、口籠った。

    まるで曲り角で立ち止まる、二組四人の刻が止まったように感じた。

    「あの、美玲ちゃん、お知り合い……かな?」

    声を掛けられた、俯くその人はゆっくり顔を上げて僕達をしっかりと見返した。

    迷いを消した瞳を開いて。

    そこには久しぶりに見るがあった――。

    左頬を彩る紅いハートマーク。

    曲り角で歩みも時間も止まった四人を静から動へと揺り戻したのは、琴璃の一言だった。

    「龍兄たつにぃ……こちらは?ひょっとして?」

    言葉と共に視線を送られたは僅に眉間に皺を寄せながら、口角を上げて読めない表情を見せた。

   「……」その表情のまま僅かに小首を傾げる。

    四人の間を疑問符と沈黙が行き交う。


    「あ、あのお知り合い同士でしたら、私はお邪魔しないよう失礼します。美玲ちゃん、ここでいいから。それじゃ、また」

    僕にとって恐らくは初対面であろう、曲り角で出会ったその男性は、愛想の良い笑顔を浮かべると会釈一つ残して去って行った。

    呼ばわりされた当人は慌てて、立ち去る男性の背中に深々と一礼して、明るく良く通る声で送った。

    「桂木さん、またお待ちしてます。ありがとうございました」

    頭を下げていたも長かったが、殊更ゆっくりと頭を上げる仕草からの迷いが読み取れた。

    こんな形で再開したことをどんな顔で何て言うのか、きっと戸惑っているんだろうな……真坂。

    男性を見送ったまま、僕達に見せていた背中をひるがえし振り返ったその人は、直前までの迷いを微塵も感じさせない笑顔を浮かべていた。

     「やあ、元気?桜観に行って以来だね」

    作ってます感満点の笑顔を添えて言ったその言葉を訊いて、目の前の人が真坂だと否応なしに認めざるを得なかった。

    「……真坂。そうだね、久し振り。元気?うん、元気かな」

    僕と真坂の間で、琴璃は疑念に満ちた表情を見せ僕達を交互に見詰めている。

    「……あの、ちょっと。真坂美玲さん、て言うんですか?貴女が布団くれた人じゃなくて?」

    「布団?龍之介、何の話し?」僕にそう訊いた瞬間、琴璃の目に鋭いギラつきを感じた。

    「ち、ちょっとぉ!今、龍之介って呼びましたぁ?!」真坂を一睨みすると、今度はギラついた目差しを僕に向けてくる。

    「龍兄たつにぃ?名前で呼ばせる相手居たんだぁ?!」

    「琴璃、そんなに大したことじゃないだろっ?」僕達の様子を見ていた真坂が急に目を見開いた。

    「あーっ!妹さんねっ!龍之介の妹さんでしょっ?ねぇ龍之介、前に話してくれたもんね」

    嬉しそうに声を弾ませ、一人ぜる真坂を目の当たりにして、琴璃は肩を落とし俯きなから真坂に歩み寄って行った。

    「ん?どうしたの?えと、琴璃さんだっけ」爆ぜたテンションのままに満面の笑顔だ。

    「どうして、ですか?どうして貴女は……」上目遣いに睨むように真坂を見上げた琴璃の言葉が途切れた。

    「え?どうしたの?琴璃……さん」真坂も戸惑いの顔色を見せる。

     琴璃は言葉を途切らせたままに瞳を大きく開いて、真坂を見詰めた。

    「……え?嘘、貴女って……」琴璃が言葉を溢すように呟いた。

    余りに長く見詰めるものだから、真坂もすっかり困り顔に変わっている。

    「あの……何か付いてます?あ、このフェイスペインティングのことかな?」

    琴璃の圧に押された真坂は、僕の知っている真坂とはまるで違い、神妙な面持ちでジッと琴璃を見詰め返している。

    「……やっぱり」琴璃も真坂を真正面から見詰めたままその場に固まった様に動かない。

    「やっぱり……?」

    「……違う」

    「え、えーと、違う?え、何が?」

    琴璃の言った意味が分からず真坂は戸惑い続けている。

    僕もそうだ。

    琴璃の言おうとする真意を理解出来ない僕達も琴璃同様にその場に固まる。

    真坂を至近距離で見上げていた琴璃が顔だけをこちらに向けて僕を凝視する。

    その琴璃の表情は複雑だった。

    何て言うんだろう……色々な感情が今、この瞬間に混ざり込んだような。

    真坂がよく見せる、一つの感情が目紛めまぐるしく変わるそれとは違う表情――僕が初めて見る琴璃がそこにいる。

    「龍兄たつにぃ?私は龍兄たつにぃが誰を好きになって、誰と付き合っても口を挟む気なんてない。龍兄たつにぃが自分で選択と決心をしたことが何より嬉しいから。それで一応確かめるけど、でのことだよね」

    正直、琴璃が何について言っているのか、僕には測りかねた。

    「分かった上で……って何を?」合点の行かない僕を目を丸くした驚きの表情が見返す。

    「え?えええぇぇぇっ?本当に分かってないの?」行き交う人々が振り返りそうな声が街路に響いた。

   実際、何事が起きたのか驚く人、振り返り怪訝な表情を見せる人等、数人が足を止めてこちらの様子を窺っている。

    「琴璃……さん、そんなに驚かないで。落ち着こうか」真坂が慌てて間に入り、琴璃の暴走?を止めに掛かった。

    そんな真坂を琴璃は再び見上げると、近過ぎなんじゃないかと思うくらい間近に顔を寄せ、今度は囁く様に何やら呟いた。

    「……私は兄に何も言いません。ただ、龍兄たつにぃの奴、鈍いから本当に知らないなら貴女からちゃんと話して下さい。私の言ってる意味分かりますよね?て言うか合ってますよね?」

   琴璃の真剣な表情を、目を見開いて訊いていた真坂は訊き終えると僅かに口許に笑みを浮かべ柔らかな顔で琴璃を見詰め返した。

    「……琴璃さん、貴女の言おうとしてることは分かったわ。約束する。直ぐじゃないけど、龍之介にはちゃんと話すわ。……琴璃さんは龍之介と違ってしっかりしてるのね」

    琴璃は下を向き、小さく何度か頷くと顔を上げ強い目差しを真坂に向けた。
    
    「そっか。やっぱりそうなんだ。兄と貴女のことを兎や角は言いません。でも、ちょっと不満です。だって貴女は私のことを知ってるのに、私は貴女のこと何も知らない。不公平じゃないですか」

    「……ごめんなさい」何か言おうと迷い躊躇っていた真坂は、たった一言それだけを呟くように返した。






    


    














    



    









   







   














    


    

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