職場の怖い先輩

水鳥聖子

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第6話 初めての出張

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月曜日。職場につくと、既に松風先輩、もとい松風次長と影野さん、もとい影野部長、そして加賀屋課長が仕事をしていた。

「ん~? 重役出勤かね、ちみ~?」

ωのような口で影野さんがからかってくる。
もちろん始業前で遅刻ではないし、ギリギリに駆け込んだわけでもない。
というより、余裕を持って出社している。
だけど、影野さんの言い方だと私がわざと遅れて来たように聞こえる。
実際、そういう意図があったのかもしれない。
でも、私は別に怒ってはいなかった。むしろ、逆である。
私は笑顔を浮かべて影野さんに挨拶する。
そして、席に着くなり、私は言った。

「松風先輩、加賀屋課長。これ、パワハラですかね?」
「パワハラ」
「パワハラだね」
「ちょっと二人共!? 姫ちゃんの味方するの!?」
「いや、流石に影野の味方が出来る部分無いでしょ」
「同意」
「勝訴ですね!」
「おのれ姫ちゃん~!」

そんな朝のやりとりを経て、私はパソコンを立ち上げる。
旭川営業所支部各位からメールが来ていた。
私はその一つ一つに目を通していく。特に急ぎの仕事は無いようだ。
良かった。これで安心して仕事に取り組める。
それからしばらくして、皆が集まったので朝礼ミーティングが始まる。
今日の議題は営業方針についてだ。
私はホワイトボードの前に立つと、意見を出す。
まずは現状の確認からだ。
私は手元の資料を見ながら話す。
それによると、現在、札幌エリアの営業成績は中位らしい。
上位とは言わないが、下位という訳でもない。
まぁ、普通と言ってしまえばそれまでだ。
そこで私は提案をする。
この機会に、もう少し支社の成績を上げるべきだと。
具体的には支店を増やすとか、担当地域を広げるとかかな。
そんな風に考えていると、加賀屋課長が挙手した。
私は発言を許可する。すると、影野部長は私を指差した。
それから、堂々とした声で宣言する。
どうせなら、君が本部長になればいいんじゃないか、と。
私は苦笑いしながら首を横に振る。
残念ながら、私は誰かの上に立つタイプではないので、正直向いていないと思う。
私はあくまで補佐役だ。
なので、私はこう答えた。

「私は誰の下に就くつもりもありません」
「ほら、こういうところがもうダメだと思うんだよ」
「私は私のやり方でやらせてもらいます」
「あー、はい、分かりましたよ、好きにすれば?」
「ありがとうございます」

私は影野部長に頭を下げる。
それから、影野部長は私に呆れたような視線を向けた後、他の人達に向き直る。
そして、改めて提案した。

「まぁ冗談はさておき、一回は各支部の現場は見てみたいね。北海道は道央、道北、道南、道東の四区域に分かれてる。今丁度4人居るから、最広域の道東を私、道北を松風次長、道央を加賀屋課長、一番狭域の道南を姫野課長が1週間かけて回る形で視察。以降は各担当地域の札幌、函館、旭川の北海道三大都市を見て回る。情報戦ってわけじゃないけど、逆に情報が無ければ何も始まらないからね」
「半月の出張を4人か……」

影野部長の言葉に、加賀屋課長が渋い顔をする。
出張費が気になるのだろう。

「もちろん、交通費や宿泊代は会社持ちです。これは、専務常務に既に了承済みです」

加賀屋課長は上層部から許可を得ているのであればと納得してくれたのか、それ以上は何も言わなかった。
こうして、私達は初めての長期出張をすることになった。

その日のランチ、今までと異なり自分達の営業部でお弁当を広げれるようになったため、3人でお弁当を食べる。
ちなみに加賀屋課長は外食だ。

「それにしても、半月出張か~」
「寂しい?」
「影野さんが居ない分には良いんですけど、松風先輩が居ないのは寂しいです!」
「ん」

松風先輩は短く返事をして、黙々とご飯を食べ進める。
相変わらずクールだ。でも、それがまた魅力的だったりする。
私は松風先輩に見惚れつつ、自分の分のおかずに箸を伸ばす。
そして、食べようとしたところで、横から伸びてきた手に邪魔された。

「ちょっと待った姫ちゃん! それは私の唐揚げだよ!!」
「私のですから! そもそも、勝手に人のおかず取らないでください!!」
「だって、姫ちゃんの料理美味しそうなんだもん!!」
「子供ですか! だいたい、いつも同じものばかりじゃ飽きちゃいますよね? たまには違うものも食べたくなる気持ちはよく分かりますけど、だからといって他人の物に手を出しちゃいけません!」

私は影野さんの手を払い除けると、素早く自分の口に放り込む。
そして、満足げな笑みを浮かべた。
う~ん、やっぱり美味しいなぁ。
私は幸せ気分に浸っていると、影野さんの鋭い眼光が向けられる。
そして、凄く低い声が聞こえてくる。
まるで、地獄の底から響いて来るかのようだ。
私は恐ろしくなって影野さんを見る。

「か~ら~あ~げ~……!!」
「やめい」
「いでっ!」

そんな影野さんの頭を軽く小突く松風先輩。
私はホッとして胸を撫で下ろす。
良かった、流石松風先輩だ。
私が尊敬の念を込めて松風先輩を見つめていると、松風先輩は溜息混じりに言う。
全く、食事くらい静かに出来ないのだろうか、と。
そんな松風先輩の姿はまさにお母さんだ。
私は思わず苦笑いしてしまう。
でも、松風先輩が私のことを心配してくれているのは嬉しい。
松風先輩の優しさを感じて、私は幸せな気分になった。……まぁ、その後で影野さんが暴れ出して大変だったんだけどね。
そんなこんなで、私達の初出張が始まった。

まずは道南エリアだ。それから1週間後に旭川へと向かう。
支社の近くにある駅から電車を乗り変えて、そのまま終点まで向かう。
そこから更にバスで移動して、ようやく目的地である函館営業所に到着した。
営業所はビルのワンフロアにある。
エレベーターに乗って、5階に向かう。
扉が開かれると、そこには沢山のデスクがあった。
そこで事務員と思われる人達が働いている。
私が入って来たことに気付くと、その人達はすぐに立ち上がった。
それから、私に向かって挨拶する。

「お疲れ様です。本部スーパーバイザーの姫野です。本日はよろしくお願いします」
「こちらこそ、わざわざ足を運んで頂きありがとうございます。函館営業部長の田中です」

私と部長は握手を交わす。
部長は私よりも少し年上といった感じの男性だ。
落ち着いた雰囲気と貫禄がある。
私は早速、函館の営業状況について尋ねることにした。
すると、部長は資料を見せてくれる。
それによれば、函館は中位の成績らしい。
これと言って問題は起きていないそうだ。
私は部長にお礼を言うと、続いて隣の席にいる女性に声を掛ける。

「初めまして、私は姫野です。よろしくお願いします」
「あっ、はい。あの、私は……」
「あー、自己紹介は後回しにしましょう。とりあえず、現状の話を聞きたいんです」
「えっと、分かりました」

彼女は戸惑いつつも応じてくれた。
それから、部長の方を見ると、部長は小さく咳払いをして話し出す。
現在、道南は道央に負けている状態だ。
なので、道央に追い付こうとしている最中なのだとか。
私はそれに相槌を打ちながら、質問していく。
すると、部長は苦い顔をしながら答えていく。
それから、私達は会議室を借りて話を続ける。

「……という訳です。何かご不明な点はありますか?」
「いえ、ありません」
「そうですか。では、今日はこれで終了ということで。お忙しいところお付き合いいただき誠にありがとうございました」
「いいんですよ。これも仕事ですから」

部長は爽やかな笑顔で言う。
それに対して、私はペコリとお辞儀した。
部長は良い人みたい。

「ところで、姫野SVはこの仕事長いんですか?」
「5年くらいですね」
「結構お若いのに、もう営業課長をやられているとか。すごいですよ」
「お褒めに預かり光栄です」

私は微笑む。
それから、最後にもう一度お礼を言ってから、その場を後にする。

私達は近くの喫茶店に入る。
店員さんが注文を取りに来ると、私はコーヒーを頼んだ。
流石に疲れた。肉体的というよりも精神的にくるものがある。
一人で出張と言うのも初めてなのに、本部のスーパーバイザーとして毅然とした態度で支部の方達と接しなければいけないのが辛い。
事務員さん、怖かっただろうな……。
私は先程の女性の怯えるような表情を思い出す。
きっと、彼女からすれば、私は突然やって来た得体の知れない人間だったに違いない。
それを思うと、申し訳ない気持ちでいっぱいになる。
まぁ、そんな風に感じる時点でまだまだなんだと思うけどね。
それにしても、本当に大変なのはここからだ。
私は松風先輩の顔を思い浮かべた。
そして報告書をまとめてメールで送信する。

その日の夜のホテル、私は喫煙室で煙草を吸いながら明日の日程を考える。

それから、道北の松風先輩、道東の影野さん、道央の加賀屋課長の報告書を思い出す。
正直、どの部署も問題は無いように見える。
ただ、一つだけ気になることがあった。
それは、道南の函館営業所。
ここは道央と道東に売上が追い付いていない。

「ふぅ~……」

私は煙と共に大きな溜息をつく。
まさか、ここまで大きな問題を抱えているとは思わなかった。
やっぱり、自分の目で確かめないとダメだよね。
私はそんなことを思いつつ、部屋に戻った。
それと同時にスマホが震える。

「? もしもし、松風先輩、どうされたんですか?」
『今日、どうだった?』
「どうって、報告書に書いた通り、函館営業所が道央や道東と比べて結構悪いんですよね……」
『それもそうだけど、そっちじゃなくて……』
「あ、はい! 大丈夫です! 一応書類の不備とかは大丈夫そうでした! 人間関係も良好そうでして――」
『だから、姫野』
「はい?」
『今オフ。姫野のことを聞いてるの』

私はキョトンとした声を上げてしまう。
松風先輩は何を言っているのかよく分からない。
私が何をしていると思っているのだろうか。
私は困惑しつつも答える。
すると、松風先輩は呆れたように言った。

『初めての出張、初めてのお偉いさんとしての仕事。不安とプレッシャーで圧し潰れてるんじゃない?』
「……えっ!?」

私は思わず素の声を出してしまった。
それから、慌てて口を塞ぐ。
でも、手遅れだったようだ。
電話越しにクスリと笑うような音が聞こえて来た。

「わ、笑わないでくださいよ!!」

私は顔を真っ赤にして抗議する。
しかし、笑いを堪えきれないようで、暫くの間、ずっと肩を震わせていた。

「酷いですよ、先輩!」
『ごめんごめん。だって、姫野の反応が可愛くて。それで、実際のところはどんな感じなの?』
「……実はちょっと緊張しています」

私は正直に話すことにした。
すると、松風先輩は優しい声で囁く。

『最初は誰でもそうだから』
「先輩も……?」
『私はそうでもないけど、私が初めて担当した担当部長は、私の一挙手一投足に血の気が引いてた』
「あー……。何となく想像出来ます」

私は苦笑いを浮かべる。
松風先輩は凄い人だ。
私なんかより、ずっとキャリアがある。
それでも、初めて担当する時は、やっぱり怖い思いをしたのかな。

「あの、松風先輩」
『ん?』
「先輩はどうして、今の会社に入られたんですか?」

私は軽い気持ちで尋ねてみた。
それに対して、松風先輩は少し黙り込む。……あれ、聞いちゃいけないことだったかも。
後悔し始めた時、松風先輩は答えてくれた。
別に隠すつもりは無かったらしい。
寧ろ、話したいと思っていたとか。
私になら話せると思ったとのこと。
私はドキドキしながら耳を傾ける。
松風先輩は入社当時、意外にも仕事に対してやる気が無かったらしい。
適当に仕事をこなせばいいと考えていたのだ。
だけど、ある出来事があって、仕事に対する意識が変わったと言う。
それから、今まで以上に仕事に真剣に取り組み始めたのだとか。
その話はとても興味深かった。
私は聞き入ってしまって、質問するタイミングを失う。

『ま、だから、あんなでも影野先輩はすごいと思うよ』
「確かにそうですね」
『ただ、姫野には姫野の良さがあるから。今は無理に変わらなくてもいいんじゃないかな』
「そうなんですかね?」
『ん。姫野は自分のペースで頑張ればいい』
「分かりました。ありがとうございます」

私はお礼を言う。
すると、松風先輩小さくあくびをする。気付けば結構な時間が経っていた。

「すみません、こんな時間まで付き合わせて」
『ううん、気にしないで。私も楽しかったから』
「またお話しましょうね」
『もちろん。それじゃ、おやすみなさい』
「おやすみなさい」

私は通話を切る。
そして、再びベッドに横になった。
さっきまでの疲れが嘘のように消えている。
これも先輩のお陰なのかもしれない。
本当にすごい人だ。

翌朝、目を覚ました私は身支度を整えると、早速朝食を取るために食堂へ向かう。
そこには既に何人かの観光客の姿があった。
そんな中、私は一人、ボーッとしていた。
昨日、松風先輩と話したことで、色々と考えることがあったからだ。
私はこれからどうすべきなのか。
今の部署で頑張り続けるべきか、それとも異動願い出すか。
正直、異動願いを出すのが正しいのだろう。
だけど、私はこの部署で働きたいと思っている。
その理由は簡単。
ここが私にとって一番働きやすい場所だから。
そして、私はここにいる人達と一緒に働くのが好きだ。
だから、異動なんてしたくない。
その想いを胸に、明日からも続けて行くことにする。
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