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雪に落涙
3.
しおりを挟むそれから、何故です――と、一言。
訝る声だった。伊緒里の頑迷さを窘めているようでもあった。やや、哀れんでいるようにも聞こえた――恐らく彼は、信じているのだ。伊緒里が一族の老人たちにすっかり毒されきっていることを。家のために生きる必要はないと、彼の瞳は告げていた。本人すら詳しくはないであろう、恋愛の自由さを説いてもいた。その顔は、旧式のやり方に不満を零すときの妹の顔と少し似ていた。
(どうしてです、と訊きたいのはわたしの方だわ)
羽黒伊緒里は恋を知らない。
その瞬間、胸の内に生じたものも一般的に言う恋の類ではなかったかもしれない。しかし、彼女にとって初めての感情であることに代わりはなかった。
仮に彼がつまらないただの男だったとしても結婚を拒んだりはしなかっただろう。羽黒の長女として生まれた身には、彼の言うとおり様々な制約が課せられていた。彼の言うとおりだ。自分で決められることがあまりに少ないと、自分がなにをできるかも分からなくなってくる。ならば定められたことを期待された通りにこなした方が、いい。誰も落胆せずに済む。
そういうふうに、考えてきた。妹がごねにごねて小言をもらいながらも僅かな自由を勝ち取るたびに、そうすることになんの意味があるのかと首を傾げてきた。
けれど頭の固そうな目の前の男の口から“人生を捧げる”という言葉を聞いたとき、伊緒里は初めて執着らしきものを覚えたのだった――彼の言う“三輪家の次男”ならば代替案としては上々、むしろ両親は喜んだだろう。彼の申し出に甘えるべきであると言っただろう――だが、それでも。伊緒里は答えた。
「わたしに個としての人生を説いたのは、あなたが初めてなんです」
少し哀れむ顔をした、彼に告げる。
「成程。あなたの言うような“もっといい相手”は確かに存在するでしょう。でも、その“もっといい相手”は、あなたのように羽黒伊緒里としてのわたしを尊重してくれるかどうか」
「…………」
丑雄は答えない。答えられないのかもしれない。
伊緒里は続けた。
「あなたがそれを説いたんです。だから、気になってしまった。わたしはこれまで一度も個としての幸せを考えたことなんてなかったのに、あなたならきっとわたしの人生を悪いようにはしないのだろうなと思ってしまった。それが、理由です。あなたでなければいけない理由。わたしに妙な期待をさせたからには、責任を取ってください」
これは、少しずるい言い方だったかもしれない。
彼の誠実さに、人をして融通が利かないと言わしめるほどの生真面目さに賭けたのだ。結果はどちらでもよかった。責任という言葉に、挑発に、尻込みをするような男であればそれはそれで諦めも付く。
果たしてどちらか。
伊緒里は丹塗矢丑雄を見つめた。彼の瞳を。
「……責任」
彼は唸った。酷い失敗でもしてしまったような、深刻さを顔に浮かべている。とはいえ、彼は迷わなかった。すぐに顔を上げて、伊緒里に真摯な瞳を向けてきた。これから愛の告白をするというより、まるで心中してくれと言わんばかりの重々しさではあったが。
なんにせよ、彼は答えてくれたのだ。
「勿論、責任は取りましょう。俺にどれだけのことができるかは分かりませんが、あなたに期待を抱かせてしまったというのであれば、俺はこれから常にあなたを一人の人間として尊重し続けましょう」
予想した以上の生真面目さだった。生真面目すぎるほどだった。
プロポーズとはほど遠い。しかし誓約には違いなかった。それがこの縁談への了承であると気付くのに、伊緒里はおよそ五秒を要したのだった。
後にこのやり取りを知った妹は、こう叫んだ。
「なにそれ! お義兄さん、ぜんっぜん気が利かない! ロマンチックじゃない!」
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