蛟堂/呪症骨董屋 番外

鈴木麻純

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虚妄と幸福

2.ペットショップの事件簿

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 十二月二十四日 A.M 7:00



 そこは青の部屋だった。
 空の蒼ではない。もっと厳かで静寂に満ちた、深い、深い海の色。海底神殿のごとき部屋だった。窓はなく、地上の光は一条さえ差し込むことがない。けれど天井に取り付けられたペンダントランプの煌めく光がショーケージに反射して、空気を揺らめかせている。沈黙の中では時折、空気清浄機が生きものの呼吸音にも似た唸りを上げるのだった。
 四方の壁と天井は青く塗られ、床だけが夜空を思わせる藍色。入り口を除く三方の壁に沿ってぐるりと嵌め込まれたショーケージが、その部屋を円柱型に見せている。
 天井までそびえるケージの枠は、美しい白銀。ガラスは厚みがあるが防音ではない。何故ならそこに保管された生きもの――の姿を借りた美しい記憶たちが音を発することはないからだ。
 だが、今は別の理由で静まり返っている。

「うそ……」

 灰守雅は部屋の入り口で呆然と立ち、およそ彼らしくない呟きを発した。
 慌てて部屋の中に駆け込み、円柱型水槽のごときショーケージをぐるりと見回す。何度も何度も目をこすり、見間違いでないことを確認する。だが、

「いない……」

 夜は明けたばかりである。外では東の空がようやく白んで、鳥が鳴き始めた――そんな時間である。もしかしたら自分は寝ぼけているのかもしれないと二度、三度、両手で頬を叩いた。だが、頬がひりひり痛むばかりで目の前の光景は変わらないのだ。
 すなわち、

「メモリーがいない……」

 ガラスに手を付き、雅は愕然と呟いた。顕現していたメモリーが、一つ残らず消えている。影も形もない。まるで初めから、なにもなかったかのように。

「なんで」

 なにが起こったのか、雅にはまったく分からなかった。どうしたらいいのかも分からず、しばし硬直し――ハッと気付く。以前までは相談相手代わりだった月光さんも今はいないが、身近に一人だけいまだメモリーを残している知人がいたことを思い出したのである。弟、ギンの友人。赤羽茜のメモリー。シロと名付けられた気まぐれな白猫は、まだ彼女とともにある。
 地上階へ戻り慌てて彼女に電話をかける。日課の巡回――という名の散歩中だったらしい彼女は、すぐに出た。

「もしもし、雅さんですか?」
「赤羽さん、シロはいる?」
「シロ? いますけど……」

 受話器から、にゃあと猫の声が聞こえてくる。拍子抜けし、雅は言葉を失った。

「なに、それ」
「なにそれって、こっちがなにそれですよ。どうかしたんですか?」
「いや……どうかしたにはしたんだけど、俺にもよく分からなくて……」

 呆然としたまま、けれど世界の謎を解き明かしたがっているオカルトマニアの彼女に首を突っ込まれても余計に話がややこしくなりそうだと察して。申し訳ないと思いつつ、雅はそっと通話を切った。

「シロは、いる。でも、店にいた他のメモリーたちは消えてる……」

 どういうことなのだろう。
 元よりメモリーの主たちから金を取っているわけでもなく、両親の遺産とペット用品の売り上げとで細々と経営しているため、商売あがったりということもないのだが。
(あの人たちが遺したものに、なにか手がかりがあるといいんだけど)
 死んだ両親とは店を通じて繋がっていた。そんなふうに感じていたのは事実だ。改めて大切なものを失ってしまったような、そんな喪失感があった。
 四畳ほどの事務所へ引っ込み、アルバムや日記の類を突っ込んでいた棚の戸を開ける。まめな両親が残していたおよそ十年分ほどの記録。
 灰守家の養子になってからは、ほとんど見返すこともなかった。
(メモリーのことも、ほとんど月光さんが教えてくれたようなものだもんな)
 口ばかり達者なゲンカクトカゲモドキのことを思い出す。
 或いはメモリアルゲッコー。彼が自分でそう名乗ったのだ。一緒にいた頃は辟易させられることも多かったが、今思えば彼に随分と助けられていたような気もする。
(駄目だな。感傷的になってしまう)
 かぶりを振り、ひとまず相棒のことを頭から追い出す。
 不動産の書類を漁っていると、中から一枚の書状が出てきた。礼状だ。過去に夢幻楼でメモリーを取り戻した人から送られたものだろう。そのまま額に入れて飾っておきたくなるほどの達筆で、世話になったことへの礼がしたためられている。
 文章の末尾は、こう結ばれていた。
 ――同じく日々異能と接している者として、もしご夫婦の身に困難が降りかかるようなことがありましたらご相談ください。今度はわたしが、助けになりましょう。
 皇明館大學学長、皇逢司。
(皇明館大學?)
 名前は聞いたことがある。百年余りの歴史を持つ古い大学で、確か特別な学部が設立されていたはずだ。教育神学部、だったか。

「同じく日々異能と接している者として……か」

 異能という言葉の意味は分からないが、文面から捉えるならば〈夢幻楼〉で扱うメモリーのような特殊なもの、ということになるのだろう。人の記憶が動物の姿を取るのだ。世の中には、他にも人智を越えたなにか存在しているのかもしれない。
(って、赤羽さんの好きそうな話になってきてしまったな……)
 頬を掻きながら、雅は封筒をひっくり返した。名刺が一枚、落ちてくる。そこには皇明館大學学長の名前と連絡先が記されていた。

「……頼ってしまっても、大丈夫かな」

 日付を見た限りでは、三十年前の手紙だ。学長というからにはそれなりに齢を重ねているだろうし、仮に存命だったとして皇明館大學の校務から遠ざかっている可能性の方が高いが。藁にも縋る心地で、記されていた番号に掛ける。
 番号はまだ使われていたらしい。呼び出し音が聞こえた。ややあって、

「はい、皇です」

 若い声が聞こえてきた。

「朝早くにすみません。〈夢幻楼〉の灰――いえ、鹿野という者ですが、皇逢司さんのお宅でしょうか」
「はい。祖父にご用ですか? 少々お待ちくださいね」

 十秒ほど保留音が流れ、その後に老人の声が聞こえてくる。

「鹿野さん、お久しぶりです。以前は娘がお世話になりました」

 夢幻楼の客は、彼の娘だったらしい。機嫌良く挨拶する相手に、雅は告げた。

「すみません。自分は息子の雅です。両親は二十年前に他界しました」

 朝からそんな話を聞かせるのも、申し訳ないと思いつつ。

「おや、そうでしたか。二人とも、まだお若かったのに……」
「事故だったんです。今は、自分が店を継いでいます。父の残した書類の中から、皇さんの送ってくださった書状を見つけました。それで……その、急にこんなことを申し上げるのは不躾だと思いますが、相談に乗っていただきたいんです」
「どうしました?」

 どこか父性を感じさせる老人の声だ。
 雅は珍しく、昂ぶった感情を抑えきれずに告げた。

「メモリーが……店のメモリーが、すべて消えてしまったんです。自分は異能というものに明るくないので、なにが起こっているのかまったく分からなくて……」
「ふむ……」

 皇が唸った。

「メモリーが消えた、ですか。昨夜の様子は?」
「いつもと変わりませんでした」

 考え、即答する。異変らしい異変は、なかったはずだ。ケージの中の彼らがざわついていたということもなかった、はずだ。見慣れた光景の中にひそんでいた小さな異変を、本当に見逃さなかったかと考えると次第に自信もなくなってくる。

「皇明館大學まで足を運んでいただくことは可能ですか?」
「大丈夫です」
「では、本日の十三時に――それまでに現学長の緒田原とわたしの知っている異能者の何人かに声をかけておきましょう。異能者の中にも異変を感じている者がいるやもしれません」
「異変、ですか」

 少し大袈裟な言い方だな、と雅は思った。辺鄙な場所にひっそりと佇む店から、記憶が消えた。他人からしてみれば、ただそれだけのことである。
 が――老人は大真面目な声で頷いた。

「メモリーは人の記憶。感情とも密接に関係しています。人の感情とは異能の根本とも呼べるもの。姿なき想いを視るところから、異能は始まったのです」

 朗々とした声が異能の始まりを語る。

「姿なき想いを……」

 それはメモリーの顕現と、よく似ている。両親の他は身近にそういったことのできる人がいなかったため、この特殊な現象について誰かと語らったことはなかったが。もし逢司のように姿を得た感情について語ることのできる人がいるのなら、話を聞いてみたいような気もする。彼らはどんな想いを目にしているのだろうと。

「十三時に、伺わせていただきます。ええと、場所は」
「特神タワー――皇明館大學の敷地内でも一番高さのある建物の最上階、学長室にて待っていますよ」
「分かりました」

 頷き、通話を切ってから。雅は弟を同伴させてもよかったか訊き忘れたことを気付いた。一人で向かうのが心細い、というわけでもないが。店の大事だ。告げておかなければ、あの弟はまた頼ってもらえなかったと気にするだろう。
(……うん。もう俺一人だけの店、じゃない)
 頷き、雅は履歴から弟の番号を呼び出した。


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