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うさぎ、憂さぎ
しおりを挟む「丑雄従兄さまの誕生日パーティーをする、ですって?」
三輪卯月は不機嫌だった。
事の発端は三日前。上海から帰国した兄――このこと自体は、珍しくもなんともない。彼が恋人と別れるたびに傷心帰省と称して帰国するのはいつものことであったし、それでなくとも移り気で計画性などあってないような兄なのだ。
「至急帰れ、なんて連絡を寄越すからどんな面白いことをするのかと思えば丑雄従兄さまの誕生日パーティー! しかも父さまと母さまを旅行にまで送り出して? ほんっとうに、兄さまってば丑雄従兄さまと仲がよろしいこと!」
流石に、丑雄とは仲の悪い弟――辰史を呼ばないだけの分別はあったようだが、それでも卯月は何故自分が! と脳天気な兄を罵りたい気分だった。その兄はといえば従兄の誕生日に浮かれきって、
「お、よく帰ってきたね。うーちゃん。昨日は従兄さんの誕生日だったでしょ? 今年はぱーっとお祝いしようと思ってさ。学生時代みたいにさぁ、飲んで愚痴吐いてすっきり歳取ろうってわけ。あ、日にちをずらしたのは俺なりの気遣いってやつだよ。昨日は伊緒里ちゃんと特別な一日を過ごしたのかなぁ、従兄さん。あとで聞いてみよう」
そう言いながら、さっさと買い出しに出かけてしまった。その上、あのせっかちな従兄が早めに来てはいけないから――と卯月だけを邸に残していったのだった。
「ほんっとうに呑気なんだから。丑雄従兄さまだって、よりによってわたしと二人きりじゃ気まずいでしょうに……」
毒づきながら、しかしそうして部屋の中でじっとしていても仕方がないので裏庭に出る。
実を言えば、卯月は昔から従兄のことが苦手だった。辰史のように彼と確執があるわけではないが、どうにも彼にはそっぽを向きたくなってしまう。そんな従兄への態度を窘められたことも、一度や二度ではない。
(でも、仕方がないじゃないの)
卯月は広い庭を見回しながら、呟いた。あたたかな五月の陽射しに、きらきらと輝く――思念の欠片はこうして帰省するたびに消しているのだが、それでもすべてが片付くことはない。もしかしたら、同じように帰省する兄弟や従兄が落としていくのかもしれない。まるでいたちごっこね、と肩を竦めながら卯月は池へと足を向けた。視界の端に、一つの思念が引っかかったのだ。ゆらゆらと揺らめく、シャボン玉のような美しい球体。消し去ってしまう前に、なんとはなしに覗き込んでみてハッと息を呑む。そこには随分と懐かしい少年の姿があった。
***
三輪卯月は、もう一ヶ月も前から憂鬱だった。兄の秋寅は寝ても覚めても今日のこの日――従兄の誕生日のことばかりで、ろくに構ってくれなかった。従兄を驚かせる何かを企んでいるのか、卯月を置いて出かけて行ってしまうこともしばしばだった。面白くない。兄さまがいないと、つまらない。そう言って姉の初子を困らせ、しまいには父にまで叱られて、卯月はますます面白くなかった。
「わたし、悪くないのに」
爪先で石を蹴り上げる。ぽーんと飛んだ石は父が手入れしている池に音を立てて飛び込んだが、知ったものか。あんな池、干上がっちゃえばいいんだわ――と悪態を吐く。
「なんで丑雄従兄さまのお誕生日をうちで祝うのよ。うちの子じゃないのに。わけが分からない」
「うーちゃんは、兄さんのことが嫌い?」
「嫌いよ。だいっ嫌い」
答えながら、振り返る。そこには、従弟の姿があった。
丹塗矢辰季。卯月と歳は同じだが、彼の方がほんの少しだけ卯月よりも遅く生まれた。だから、辰。卯の次。にこにこと笑っている辰季を見て、卯月はしかめっ面をした。
「どうして笑ってるのよ」
「だって、うーちゃんにも笑ってほしいから」
「だから何よ。あんたたち、兄弟揃ってわけが分からない」
あっち行ってよ、と片手で追い払う。今は独りになりたいのだ。或いは、あの気の利かない兄が呼びに来たら少しくらいは機嫌を直してやってもいい。などと思いながら、池の周りをぐるぐると回り続ける――そうしなければならなかったのは、相も変わらず微笑を浮かべたままの辰季がぴったりと隣に張り付いていたからだった。四周もすると、卯月はすっかり疲れてしまった。
「もう、なんなのよ! わたしに言いたいことでもあるわけ!?」
噛みつくように怒鳴りつける。まったく同じ速さで歩きながら――半ば小走りだったはずだが――辰季は涼しげだった。そんなところも気に入らないのだと卯月は密かに舌打ちをした。丹塗矢の子供たちは二人とも出来がいい。年寄り連中がそう話しているのを聞いたことがある。どこと比べて出来がいいのか、卯月はすぐに察してしまった。
(本当に、馬鹿みたい! いつか絶対に後悔させてやるんだから。兄さまと姉さまを侮ったこと、謝らせてやるんだから。だから、丑雄従兄さまとたっちゃんには負けられないのに!)
乱れた呼吸を整えて、唇を噛む。来年から祖父の知人の許で市子修行を始めることになっているが、少し時期を早めてもらった方がいいのかもしれない。兄が陰陽道を習い始めた時期は丑雄とそれほど変わらなかったはずだが、今や実力の差は歴然である。力の発現こそしていないが、辰季にも丑雄のような才能がないとも限らない。
卯月はまだ幼いが、力に対して貪欲だった。
物心付いたときには、丑雄と比べられる姉と兄の姿があった。まったく力を持たずに生まれて小さく縮こまっている姉や呑気な兄とは違って、卯月はずっと"三輪家"らしかった。随分と早いうちから市子の才能の片鱗を見せたこともそうであるし、負けん気も人一倍強かった。異能者として振る舞う大人たちの一挙一動を見逃さなかったし、兄たちの修行を盗み見ては一人で真似したものだった。祖父に見つかっては窘められたが、それでも卯月は懲りなかった。
今から修練を積んでおけば、祖父の手解きを受けられる歳になったときに大人たちは驚くだろう。そのとき自分は言ってやるのだ。
(これが本家の才能よ! 兄さまもまだ本気を出していないだけなのよって――)
思わず拳を握りしめていると、辰季がひょいと顔を覗き込んできた。
「うーちゃん? どこか痛いの?」
「痛くないわよ!」
「だって、辛そうな顔」
女児のように細い人差し指が伸びてきて、卯月の眉間にそっと触れた。
「そんなに兄さんのことが嫌い?」
「嫌いって言ってるじゃないの」
「どうして?」
「だって――」
少しだけ言い淀む。胸の内に秘めた激しい感情を辰季にぶつけてしまうのは躊躇われた。なにより、彼らに対抗心を燃やしているのだと言ってしまうことは悔しすぎたのだ。悩んだ末に、卯月は答えた。
「だって丑雄従兄さまが来ると、寅兄さまが構ってくれないんだもの。まるで弟みたいにはしゃいじゃって、ばっかみたい!」
それも一つの本音ではある。
「丑雄従兄さまはたっちゃんだけの兄さまでいいのよ。寅兄さまやわたしの兄さまじゃないわ。そして寅兄さまは、わたしだけの兄さま。丑雄従兄さまの弟じゃないし、たっちゃんの兄さまでもない。そうでしょ?」
「そうかな」
「そうよ。文句あるの?」
唇を尖らせて、辰季を睨む。それでも――どれほどこちらが喧嘩腰になろうとも、この従弟はどこ吹く風なのだ。彼でも怒ることはあるのか。せめて泣かせてやるくらいはできないか。
卯月が意地の悪いことを考えていると、辰季の指先がふっと眉間から離れていった。
「ぼくは兄さんが大好きだ。でも初子ちゃんのことも好きだし、寅ちゃんのことも好きだし、うーちゃんのことも好きだよ。みんな兄弟だって思ってる」
「わたしは、たっちゃんのそういういい子ぶったところが嫌いよ。大嫌い」
「本当に?」
なにを疑うことがあるのか、辰季は首を傾げている。本当よ、と卯月は歯軋りをした。
「たっちゃんだけじゃないわ。みんな嫌い。分家のおじいさまたちも、すぐに怒る父さまも、我慢してばっかりの母さまも、卑屈な初子姉さまも、寅兄さまを取っちゃう丑雄従兄さまも、嫌い」
「でも、寅ちゃんのことは嫌いだって言わないんだね」
穏やかにそう言い返されて、卯月は鼻白んだ。怒気を削がれて黙り込む――その空白に、辰季が続けてくる。
「初子ちゃんや寅ちゃんやおじさんやおばさん、みんなの代わりに怒ってるんでしょう? ぼく、うーちゃんのそういう優しいところが好きだよ。だから、ぼくや兄さんのことも好きになってほしいな。ねえ、うーちゃんはぼくが弟じゃいや?」
「いや。わたしよりいい子で可愛い弟なんていらない」
「うーちゃんより嫌な子で生意気な弟だったらいいの?」
「いいわ。だって、嫌な子なら兄さまも可愛がったりしないでしょ?」
自棄気味に言い切る。と、辰季は意外にも落胆したようだった。肩を落とす従弟を見て、卯月は少しだけ機嫌を直して唇を緩めた。彼は子供だ。無邪気な子供。同い年でも、自分とはこんなにも違う。脅威に感じるような相手ではない。今は、まだ。ねえ、たっちゃん――と捨てられた仔犬のような目をしている彼に声をかける。
「気が変わったわ。丑雄従兄さまとたっちゃんのこと、今日だけは好きになってあげる」
「本当?」
「丑雄従兄さまの誕生日だから特別に、よ! 明日になったらまた嫌いになるんだから」
「それでもいいよ。嬉しいよ」
言って、きゅっと両手で手を握りしめてくる。どこか落ち着かなくなるあたたかな体温に、卯月はやはり小さく歯噛みしたのだった。
***
「まったく、嫌になるわね。よりにもよって優しい――だなんて」
一人呟いて、卯月は顔をしかめた。
落ちていた思念の欠片を、指先でそっと摘み上げる。この思念に気付いたのが自分以外の誰かでなくてよかった――と、珍しくほっとしながら。
(よくもまあ、二十年以上も消えずに残っていたものね)
口の中で小さく呪を念じて吐息を吹きかける。不安定に揺らめいていた思念は、一瞬にして空に溶けて消えた。
「思い出を残しておくのはよくないのよ」
やはり誰に言うでもなく呟く。
幼い過去の思い出には、いつだって辰季の姿があった。なにが起こったのか、わけも分からないうちに隣から消えてしまった、もう一人の"弟"。彼がいなくなってから丑雄も笑わなくなって、秋寅は以前よりもいっそう"兄"らしく振る舞うことを止めてしまった――ような気がする。
(今の兄さまったら、まるで丑雄従兄さまの"弟"よ)
それを口に出して指摘したことはないが。
「誰も彼も、兄弟離れできないんだわ。後から生まれた辰史以外は……ね」
卯月はふっと息を吐いて、自分とよく似た性格の悪い弟の顔を思い浮かべた。
――うーちゃんより嫌な子で生意気な弟だったらいいの?
他愛もない子供同士の会話が現実のものとなってしまった皮肉に唇を歪める。
「卯月、従兄さんが来たよ! ほら、お出迎え!」
いつの間に帰っていたのか、年甲斐もなくはしゃぐ兄の声が聞こえてきた。どうして、わたしまで付き合わされなくちゃいけないのかしら。毒づきながら邸に足を向ける――と、正面から吹いてきた風が長い髪の一筋をさらって、卯月を引き留めた。小さな子供に縋り付かれたような錯覚に、足を止めて嘆息する。
「分かったわよ。あんたの代わりに祝ってあげるわ。一年に一度だけだから、ね」
さよなら。いい子ぶった、可愛い弟。
そっと囁いて、背後を一瞥する。そこにはなにもない。あるはずがない。過去の思い出の結晶は、自分で吹き消してしまった。感傷かしら――と苦く笑って、卯月は歩き出した。風にこすれ合う木々のざわめきは、まるであの日の少年の笑い声のようにも聞こえた。
END
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