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毒にも薬にもならない
しおりを挟む僕はイベントが嫌いである。このバレンタインデーというやつは特に、嫌いだ。何故かといえば一ヶ月後にはホワイトデーなどという厄介な日が待ち受けているからで、返礼をしなければ女性から酷く責められることは身に沁みて分かっている。義理であれ本命であれ、向こうが勝手に押し付けてきたものに対してどうしてなにかを返さなければいけないのか。悪友である九雀蔵之介に訊ねたところ、それは義理でさえあまりもらえない自分への嫌味かと皮肉で返されてしまった。
まあ、見るからにもてない蔵之介にそれを訊いたのは確かに嫌味だったかもしれない。女などどうでもいいと思う僕が女受けのする顔をもって生まれてきてしまったあたり、神も意地が悪いなと思う僕である。
「おい、石川鷹人」
と――呼ぶ真田律華の声に、石川鷹人はだんまりを決め込み、現実逃避をしていた。酷く嫌な予感を覚えたのだ。いや、予感ではなく経験則からそう感じたといった方が正しいのかもしれない。
その一。仕事以外では滅多にこの〈天鷹館〉に立ち寄らない彼女が、どうしてプライベートで訪ねてきた。
その二。いつもは頑なに「石川」と呼んで訂正にも応じようとしない彼女が、自分をフルネームで呼んでいる。
(怒らせるようなことは、まだしていなかったはずだけれど……どうだったか。あまり自信はないな)
なんせ彼女は気難しいのだ。獲物を追い詰める警察犬のように執拗で、しかも融通が利かないときている。嘘や誤魔化し、おべっかも通じない。
(いや、おべっかを使ったことはなかった。もしかしたら少しくらいはほだされてくれるかもしれないな)
どうだろう。
ちらっとそんなことを考えて、鷹人は初めて律華に視線を向けた。もう十分近く無視された彼女が、苛々と、まるで獲物を前に待たされ続ける犬のような顔で突っ立っている。控えめに言っても不機嫌な、はっきりと言ってしまえば次の瞬間にでも噛み付いてきそうな――その顔のどこを褒めるべきか迷いつつ、鷹人は口を開いた。
「やあ、律華くん。相変わらず八津丸に似ているな」
「……………………まさかお前は、十分もかけて喧嘩の売り文句を考えていたのか?」
警察官らしい顔つきだと褒めたつもりだったのだが、どうやら言葉選びを間違ったようだ。
律華はぴくりと頬を引き攣らせつつ、けれど犬に似ていると揶揄されることには慣れているためか、少し呆れたような顔をしただけだった。
「開口一番に悪口を言われて正直愉快な気持ちではないが、まあ呼ばれてもいないのに押し掛けたのはこちらだ」
そんなことを言って、デスクの上に紙袋を載せた。
「これは?」
不作法を承知で中を覗き込む。丁寧にラッピングされ、リボンまでかけられた箱が二つ。本気で分からず訊き返す鷹人に、律華は軽く肩を竦めてみせた。
「差し入れだ。お前と、一色に」
「差し入れ?」
はて、差し入れをされるようなことをした覚えもないが。気味の悪ささえ感じながら二つの箱を眺めていると、頭上からふーっと溜息が聞こえてくる。
「今日は」
声が。鷹人は視線を上げた。目が合う。
「そういう日だろう」
答えになっていないなと言い返そうとして。気づいた。
二月十四日。
「…………」
確かに、そういう日ではある。
どう言っていいものか分からず、鷹人は視線をそれに戻した。穴が開くほどに見つめ、やはり不作法を承知で一つ取り上げてみる。
「あなたでも、こういったイベントに便乗するのだな」
素直な感想を告げると、律華はまた溜息を零した。
「わたしでも、というのは余計だ」
それも確かに。余計だったかもしれない。
彼女が続けてくる。
「こういった機会でもなければ、感謝を伝えられないものでな。日頃、世話になっている礼だ」
律華のそういった素直さが、鷹人は苦手である。
「……毒など入っていないだろうね?」
思わず茶化すと、彼女は肩を竦めてみせた。
「さあ、どうだろうな」
「僕が死んだらあなたを犯人と思ってくれと、遺書を作って蔵之介に送っておく必要がありそうだ」
「冗談だ。既製品で買った状態のままだから、毒物混入については心配しなくていい」
「それはそれで、なんというか味気ない」
なんとなくぼやくと、律華は唇の端をつり上げた。
「お前でも、そういったことを気にするのだな」
「僕でも、というのは余計だ」
言い返してしまってから、それが先程の会話を綺麗になぞったものだと気付く。渋い顔で律華を見返すと、彼女は愉快そうに声を立てて笑った。
「その顔が見られただけでも十分待った甲斐はあった。用事も済んだから、わたしはそろそろお暇させてもらう」
「もう帰るのかい?」
「なんだ? いてほしいのか?」
「待たせたお詫びにコーヒーの一杯くらい、と思っただけだよ。別に、いてほしいわけじゃない――というか、その言い方。蔵之介にそっくりだ。ペットは飼い主に似るというが、まさしくそのようだね」
唇を少し微笑ませている律華から顔を背け、鷹人は毒づいた。それを聞いた彼女が笑いながら言ってくる。
「それは素直に褒め言葉と受け取らせてもらおう」
「皮肉も通じない!」
「通じている。でも、日頃の感謝を伝えに来て喧嘩をして帰るというのも気が利かないだろう?」
それを言ってしまう気の利かなさは、律華らしい。
「ふうん。で――」
もう一度、それを訊き返してやるのは酷く気が進まなかったが。鷹人はちらりと彼女の顔を見上げ、訊ねた。
「コーヒーは、どうする?」
「では、いただこう」
「甘いものも一応、あるにはある。余所でおやつをもらうなと、あなたが飼い主に躾けられていないのなら出してやってもいい」
「そういう言い方をされると、どう答えたものか迷うな。返答によっては、九雀先輩がわたしを教育していないように思われてしまいそうだ」
皮肉に皮肉で返したというわけではなく、律華は気難しげに眉根を寄せて、本気で悩んでいるようだった。彼女を相手に複雑な言い方をした僕が馬鹿だったなと嘆息し、鷹人は言い直した。
「甘いものが嫌いでないなら、出してやってもいい」
「嫌いではない」
「そうか」
今度は即答してきた律華に、こちらも一つ頷いて立ち上がる。奥の部屋に、一慧が買ってきた焼き菓子の残りがあったはずだ。律華に店を任せ奥で湯を沸かしながら菓子を探していると、彼女の声が聞こえてきた。
「かえって気を遣わせてしまったようで、悪いな」
「別に――」
僕も暇を持て余していたから。
とでも言うのだろう、普通は。あるいは悪友あたりだったら、素直に気にするなと言ったのかもしれない。
「あなたに気を遣っているつもりなんて、これっぽっちもないから勘違いしないでくれ。自意識過剰だ」
「そうか。ならば、コーヒーには砂糖を二つ。ついでにポーションミルクも付けてくれ」
今度こそ怒るだろうと思いきや、そんな注文を付けてくる。意外と心が広いのか、それとも単純に厚かましいだけなのか。分かりかねて、鷹人はケトルの傍を離れると、部屋の入り口からそっと律華の様子を窺った。
彼女は別段不機嫌な様子もなく、物珍しげに店の中を見回している。
(……厚かましい方だったか)
なんとなくほっとしながら、ようやく見つけた焼き菓子の残りとインスタントコーヒーを淹れたマグカップ二つ。彼女の希望どおり砂糖二つとポーションミルクを添えて、店へ戻る。
「ほら、僕が淹れてやったコーヒーだ」
「インスタントか」
「文句でも?」
「文句はない。ただ、なんとなくお前はサイフォンでも使っていそうに見えるから意外だった」
「なんだ、その勝手なイメージは」
「こだわりが強そうだからな、お前は」
知ったふうなことを言って、律華はカップの中に砂糖を二つ。そっと落として、スプーンで掻き混ぜている。
「勝手なイメージといえば、あなたが砂糖とミルクを使うのは意外だった」
「八津坂署に転属してから、缶コーヒーを飲む機会が多くてな。あの甘さに慣れてしまった」
「缶コーヒーにだって、無糖はあるだろう」
「先輩が差し入れてくださるのは、いつも甘いんだ」
砂糖の溶けきったカップの中にミルクを注いで、律華が少しだけ笑う。鷹人は顔をしかめた。
「飼い主自慢なら他でやってくれたまえ」
「飼い主ではなく先輩だが……まあ、そうだな。本人のいないところで噂話をするのも礼を欠くか」
彼女はあっさり頷いた。それからカップに口を付け、
「うん、美味い」
また、少しだけ口元を綻ばせた。
――たかがインスタントなのに、大袈裟な。
舌先に生まれたいつもどおりの憎まれ口を呑み込んで、鷹人はどうにか頷いた。
「それは、どうも」
END.
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