女ー男じゃない!

コスモ

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給油所

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 放課後。教室に残る人影が疎らになり、窓から差し込む夕日が長い影を落とし始めた。
​ 志織は、机を整えながら少しだけ間を置いてから声をかけた。
「菜月くん」
 菜月が、ぴたりと動きを止める。
「……?」
 その一拍の沈黙に、私は察するものがあって小さく口を挟んだ。
「あ、菜月さんのこと、呼んでるよ」
「え?」
 菜月は自分を指さして、首を傾げた。「私? ごめんごめん、夏樹くんのことかと思っちゃった」
​ 志織は、はっとして言葉を飲み込む。
 西側では、“くん”は男子につける呼称。それは彼女にとって、疑う余地のない呼吸のような常識なのだ。
「こちらこそ、ごめんね。紛らわしかったかな?」
「ううん」菜月は少し考えるように視線を泳がせ、それから柔らかく笑った。「ただ、呼ばれ慣れてなくて。……あ、じゃあさ! お互いの慣習で呼び合うのはどう?」
​「……慣習?」
「私のことは『菜月ちゃん』。志織さんは『志織くん』。お互いの地域で自然な呼び方。先生も制度の強要は良くないって言ってたし、どうかな?」
​ 志織はわずかにためらったものの、控えめに微笑んだ。
「……そうね。女子に『ちゃん』付けするなんて不思議な感じだけど。わかった、菜月ちゃん」
「私も! なんだかくすぐったいね、志織くん!」
 菜月が屈託なく笑う。完璧に見える志織が、少しだけ照れたように目を細めた。彼女がこんなに年相応な顔をするなんて、僕は初めて知った気がする。
​ 


 菜月がクラスに馴染むのに、三日もいらなかった。持ち前の人懐っこさに加え、同じく活発な小春と意気投合したのが大きかった。二人が笑いながら廊下を歩くだけで、窓から新鮮な空気が吹き込んだような錯覚すら覚える。今では彼女の明るさは、クラスに欠かせない『スパイス』として定着していた。

​「ねえ、放課後ペロンチェ行かない? 地図アプリで駅前にあるのを見つけたんだ」
 帰宅の準備中、菜月が声を弾ませた。
「え、ペロンチェ?」志織が思わず聞き返す。「……二人で?」
「 西側ではよく友達と寄ってたの。あ、それとも寄り道は禁止?」
「そういうわけじゃ……ただ、あそこは男子の方が詳しいし……」
 志織が困ったように視線を向けると、そこに弾むような声が割り込んできた。
​「あっ、ペロンチェ? いいねえ、賛成! ちょうど筋肉が糖分欲しがってたんだよね!」
 机を飛び越えんばかりの勢いでやってきたのは、小春だった。
「菜月ちゃん、ナイス提案! あそこの『ゴリ盛りブドウ糖シェイク』、結構好きなんだよねー」
「小春ちゃん、詳しいの?」
「まーね! 私達に馴染むコツは、メシを知ること! 夏樹ちゃんも行くでしょ? はい決定!」
​ 小春の強引な、けれど明るい勢いに流されるまま、私たちは四人で駅前へと向かった。

​*

​ どうやら駅前のペロンチェは、菜月の知っているものとはあまりにかけ離れていた様子だった。
 当然ながら西側にあるはずだろう可愛い看板も、ゆったりしたソファもない。
​「……うそ、ここがペロンチェ?」
 菜月が絶句する。
 そこにあるのは、手術室のように明るすぎるLED照明と、無機質な立ち飲み用カウンター。
 壁にはメニューの代わりに、巨大な文字が躍っている。
『高効率糖分補給』『即効性ブドウ糖200%』『集中力持続30分保証』
​「なんだか、カフェっていうより……給油所みたいだね」
 菜月が小さく呟いた。
「実際、そういう扱いだよ」私は淡々と答えた。「私達男子にとって、糖分はただの燃料だから」
「そうだね」志織も頷く。「楽しむものじゃない。労働者達が次の作業を効率的にこなすために、素早く摂取するもの」
​ 店内では、作業服を着た男たちが黙々とドロドロのドリンクを喉に流し込んでいた。会話は一切ない。皆、片手にスマホか新聞を握りしめ、数分で「チャージ」を終えて店を出ていく。
​「そんなの、寂しいよ……」
 菜月は、自分の知るペロンチェを思い出すように店内を見回した。
「もっとこう、新作の味にびっくりしたり、どうでもいいお喋りをして長居する場所だったから」
​「あはは! さすが西側、のん気だねえ」
 小春が笑いながら、プロテインシェイカーのような容器を受け取った。
「でも、こっちのスピード感にはこれが一番! ほら菜月ちゃんも飲みなよ、甘すぎてびっくりするからさ!」
​ 小春の明るい声だけが、無機質な店内に響く。
「世界が違うと、同じ場所でも、役割が変わるんだね」
 それは、ただのカフェの話ではないのだと、私はなんとなく思った。
 場所も、言葉も、そして人間でさえも。この世界では、あらかじめ決められた「役割」を演じるためのパーツに過ぎない。
​ 菜月の瞳には、今の私たちがどう映っているのだろうか。
 口に含んだ飲み物は、暴力的に甘く、けれど今日はどこか味気なかった。

店を出ると、外はすっかり夜の帳が下りていた。駅前の街灯が無機質な白い光を放っている。
「……あ、そうだ!」
 ふいに、菜月が顔を上げた。沈んでいた表情を無理やり明るく塗りつぶすような、そんな勢いだった。
「みんなで写真撮ろうよ! 記念にさ!」
「えっ、写真?」
 志織が足を止めて、困惑したように聞き返す。
「……ここで? 何の記念?」
「何でもいいの。こうやって四人でここに来た、っていう記念!」
 菜月は半ば強引に、私たちを街灯の下に集めた。スマホを高く掲げ、インカメラを自分たちに向ける。
​「ほら、みんな笑ってー。はい、チーズ!」
 シャッター音が響く。画面の中に収まったのは、どこかぎこちない顔の私と志織、ピースサインを出す小春、そして――。
​「……なんか、これ。卒業写真みたいだね」と、志織がポツリと言う。
 小春が画面を覗き込んで、何気なく笑った。
「あはは、確かに! 菜月ちゃん、まだ転校してきたばっかりなのにさ。まるで、今からどこか遠くへ行っちゃうみたいじゃん」
​ 小春のその冗談に、菜月の指がピクリと止まった。
「……え?」
 私が異変に気づいた時には、もう遅かった。
 菜月の大きな瞳から、ぽろりと、一粒の雫がこぼれ落ちた。
​「えっ、ええ!? 菜月ちゃん、どうしたの!?」
「ご、ごめんね! 私、何か変なこと言っちゃった!?」
 志織と小春がパニックになって詰め寄る。私も言葉を失って、ただ立ち尽くすことしかできなかった。
​ 菜月は慌てて手の甲で目元を拭うと、鼻をすすりながら、ふにゃりと力なく笑った。
「ううん、ごめん……。違うの。ちょっと、西側の友達との約束を思い出して。……期間限定なんだ、って思ったら、なんだか急にね」
「期間限定……?」
 志織が不思議そうに首を傾げる。菜月は深呼吸を一つして、さっきよりもずっと自然な、晴れやかな笑顔を僕たちに向けた。
​「ううん、何でもない! ……やっぱり、ペロンチェはどこに行ってもペロンチェだったよ」
「ええ? なにそれ、意味わかんない!」
 小春が呆れたように笑い出し、志織もつられて小さく吹き出した。
「本当に、菜月ちゃんは不思議な人だね」
​ 笑い声が夜の街に溶けていく。
 菜月が何を思い、なぜ泣いたのか、僕たちにはまだ分からない。
 けれど、スマホの中に保存されたその写真は、さっき飲んだ味気ないドリンクよりもずっと、確かな「心を満たす甘さ」を持っているように見えた。
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