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境界線
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あのペロンチェの日以降、私たちの仲は目に見えて変わった。
変わった、というより――それぞれの角砂糖が熱で溶けて、いつの間にか一つの塊になってしまったような、そんな不可逆な変化だ。
最初は確かに「菜月さん」だった。転入生という未知の、そして少しばかり扱いに困る「西側由来の黒船」に対して東側のマナーに基づいた…なんて教科書のような言葉を使った例えは横においておいて。とにかく私は正しく、ちょうどいい距離を置いていた。
それがいつの間にか「菜月ちゃん」になっていた。
あれはいつからだったろうか。
誰かが改まって決めたわけでも、「そう呼ぼう」と確認した記憶もない。ただ、休み時間の廊下を流れる無味乾燥な空気の中で、一緒にいることが増えて、帰りのタイミングが少しずつ重なって、教科書の端に書かれた落書きのような、どうでもいい話をして笑うようになって。
ある時、後ろから「なつきちゃん」と呼ばれて二人同時に「はい?」と振り返った。それがきっかけで周囲に茶化されるようになった――そんな、物語にするのも憚られるような、ありきたりな経緯だったと思う。
セーラー服を着た異性同士が、鏡に向かって喋るようにお互いを「なつきちゃん」と呼び合う。それが級友たちの目には、奇妙な喜劇(コメディ)のように映ったのだろう。
それ以来、彼女は「夏樹ちゃん、夏樹ちゃん」と、呼吸をするような自然さで、私の静かな日常に石を投げ込んでくるようになった。
菜月ちゃんは、よく笑った。
もちろん、これまでの私の日常が、耐えがたいほど退屈だったと言うわけではない。
教室を見渡せば、志織を筆頭に、皆がそれぞれの役割の中で、最適化された未来に向かって進んでいる。正しい規律の中で人生を謳歌している……少なくとも、目標をしっかり持って、自分の能力を正しく発揮している生徒の空気はそう報告している。
けれど、彼女がそこにいるだけで、教室の引き締まった空気がふっと軽くなるのを否定できなかった。
これからの進路、自分がどのパーツとして社会にはめ込まれるべきか。用意されたレールの上の汽車に、疑いもなく乗車していいのかと迷っている私には、そんな重力など端から無視しているような彼女の笑顔が、ひどく眩しく見えたのだ。
「ねえ、また“ダブル小泉”で内緒話?」
昼休みの喧騒の中、小春がニヤニヤしながら、わざと周囲に聞こえるような声で言った。
「本当に仲いいよね。もうセット売りじゃん。購買のパンみたい」
「…いいでしょ、別に」
私がそう返すと、横で菜月が楽しそうに頷いた。
「うんうん。私たちはもう“なつき姉妹”なんだから! セットどころかニコイチだよ」
菜月が私の横に立ち肩をポンポン、と叩く。
「はいはい、姉妹姉妹」
以前の私なら、その距離感に確実にフリーズして心拍数が異常値を叩き出していただろう。でも最近は違う。苦笑いで適当に受け流せる自分に、一抹の恐怖と、それ以上の驚きを感じるくらいには。
あるいは、こんな出来事もあった。
午後の、少し眠気が混じる現国の時間。
「えー、と…小泉さん、45ページの三行目から朗読を」
老教師が眼鏡をずらしてそう言った瞬間、私と菜月の声が、示し合わせたかのように重なった。
「はい」
「はーい」
教室が、一拍遅れてざわつく。
「どっち?」
「今の、どっちの“なつきさん”ですか、先生?」
先生も一瞬、チョークを持ったまま固まり、困ったように眉を下げた。
「……あ、えー、と…では、小泉なつきさん」
『私ですか?』
またしても、二人の声が完全にシンクロする。「二人で一緒に読んじゃえばいいのに」と、クラスのあちこちから、規律を少しだけはみ出した笑いが起きた。
「名前で呼ぶの、もう無理があるだろ」
「識別番号で呼ぶか? 」
「じゃあ女子は“なつき1号”」
「男子は“なつき2号”?」
「それじゃあ旧時代の戦隊ヒーローだよ。……それなら、色分けでもする?なつきレッドと、なつきピンクとか!」
もうどこまで真面目で、どこからふざけてるのが収拾がつかなくなりかけたところで、菜月が椅子を鳴らして立ち上がり、言い出した。
「なんかさ、昔の西側のSF映画で、男女の中身が入れ替わっちゃう有名なやつ、あるんだけど」
クラス中の視線が彼女に集まる。
「あれの、中身が入れ替わらなかったバージョンだと思えばいいんだよ。外見も名前も、だいたい一緒。……あ、それって結局、ただの『ドッペルゲンガー』か!」
教室が、どっと笑いに包まれた。
「意味分かんないけど、なんか納得した」
「ドッペルゲンガーなら仕方ないな。死なないように気をつけろよ」
「もう面倒くさいから、本当になつき姉妹の一括りでいいんじゃない?」
最初は、単なる冗談のつもりだった。この教室に、こんなにも「意味のない笑い」が充満したのは初めてのことかもしれない。
でも、悪い気はしなかった。
呼び名が軽くなって、境界線がぼやけて、距離が近くなって。
その分、これまで必死に守ってきた「自分はこうあるべきだ」という重苦しい演算を、一時停止できる気がしたから。
……ドッペルゲンガーに会うと死ぬってジンクスがあるけど。たぶん、死ぬのは私の『これまでの常識』かもしれないな……なんて。
変わった、というより――それぞれの角砂糖が熱で溶けて、いつの間にか一つの塊になってしまったような、そんな不可逆な変化だ。
最初は確かに「菜月さん」だった。転入生という未知の、そして少しばかり扱いに困る「西側由来の黒船」に対して東側のマナーに基づいた…なんて教科書のような言葉を使った例えは横においておいて。とにかく私は正しく、ちょうどいい距離を置いていた。
それがいつの間にか「菜月ちゃん」になっていた。
あれはいつからだったろうか。
誰かが改まって決めたわけでも、「そう呼ぼう」と確認した記憶もない。ただ、休み時間の廊下を流れる無味乾燥な空気の中で、一緒にいることが増えて、帰りのタイミングが少しずつ重なって、教科書の端に書かれた落書きのような、どうでもいい話をして笑うようになって。
ある時、後ろから「なつきちゃん」と呼ばれて二人同時に「はい?」と振り返った。それがきっかけで周囲に茶化されるようになった――そんな、物語にするのも憚られるような、ありきたりな経緯だったと思う。
セーラー服を着た異性同士が、鏡に向かって喋るようにお互いを「なつきちゃん」と呼び合う。それが級友たちの目には、奇妙な喜劇(コメディ)のように映ったのだろう。
それ以来、彼女は「夏樹ちゃん、夏樹ちゃん」と、呼吸をするような自然さで、私の静かな日常に石を投げ込んでくるようになった。
菜月ちゃんは、よく笑った。
もちろん、これまでの私の日常が、耐えがたいほど退屈だったと言うわけではない。
教室を見渡せば、志織を筆頭に、皆がそれぞれの役割の中で、最適化された未来に向かって進んでいる。正しい規律の中で人生を謳歌している……少なくとも、目標をしっかり持って、自分の能力を正しく発揮している生徒の空気はそう報告している。
けれど、彼女がそこにいるだけで、教室の引き締まった空気がふっと軽くなるのを否定できなかった。
これからの進路、自分がどのパーツとして社会にはめ込まれるべきか。用意されたレールの上の汽車に、疑いもなく乗車していいのかと迷っている私には、そんな重力など端から無視しているような彼女の笑顔が、ひどく眩しく見えたのだ。
「ねえ、また“ダブル小泉”で内緒話?」
昼休みの喧騒の中、小春がニヤニヤしながら、わざと周囲に聞こえるような声で言った。
「本当に仲いいよね。もうセット売りじゃん。購買のパンみたい」
「…いいでしょ、別に」
私がそう返すと、横で菜月が楽しそうに頷いた。
「うんうん。私たちはもう“なつき姉妹”なんだから! セットどころかニコイチだよ」
菜月が私の横に立ち肩をポンポン、と叩く。
「はいはい、姉妹姉妹」
以前の私なら、その距離感に確実にフリーズして心拍数が異常値を叩き出していただろう。でも最近は違う。苦笑いで適当に受け流せる自分に、一抹の恐怖と、それ以上の驚きを感じるくらいには。
あるいは、こんな出来事もあった。
午後の、少し眠気が混じる現国の時間。
「えー、と…小泉さん、45ページの三行目から朗読を」
老教師が眼鏡をずらしてそう言った瞬間、私と菜月の声が、示し合わせたかのように重なった。
「はい」
「はーい」
教室が、一拍遅れてざわつく。
「どっち?」
「今の、どっちの“なつきさん”ですか、先生?」
先生も一瞬、チョークを持ったまま固まり、困ったように眉を下げた。
「……あ、えー、と…では、小泉なつきさん」
『私ですか?』
またしても、二人の声が完全にシンクロする。「二人で一緒に読んじゃえばいいのに」と、クラスのあちこちから、規律を少しだけはみ出した笑いが起きた。
「名前で呼ぶの、もう無理があるだろ」
「識別番号で呼ぶか? 」
「じゃあ女子は“なつき1号”」
「男子は“なつき2号”?」
「それじゃあ旧時代の戦隊ヒーローだよ。……それなら、色分けでもする?なつきレッドと、なつきピンクとか!」
もうどこまで真面目で、どこからふざけてるのが収拾がつかなくなりかけたところで、菜月が椅子を鳴らして立ち上がり、言い出した。
「なんかさ、昔の西側のSF映画で、男女の中身が入れ替わっちゃう有名なやつ、あるんだけど」
クラス中の視線が彼女に集まる。
「あれの、中身が入れ替わらなかったバージョンだと思えばいいんだよ。外見も名前も、だいたい一緒。……あ、それって結局、ただの『ドッペルゲンガー』か!」
教室が、どっと笑いに包まれた。
「意味分かんないけど、なんか納得した」
「ドッペルゲンガーなら仕方ないな。死なないように気をつけろよ」
「もう面倒くさいから、本当になつき姉妹の一括りでいいんじゃない?」
最初は、単なる冗談のつもりだった。この教室に、こんなにも「意味のない笑い」が充満したのは初めてのことかもしれない。
でも、悪い気はしなかった。
呼び名が軽くなって、境界線がぼやけて、距離が近くなって。
その分、これまで必死に守ってきた「自分はこうあるべきだ」という重苦しい演算を、一時停止できる気がしたから。
……ドッペルゲンガーに会うと死ぬってジンクスがあるけど。たぶん、死ぬのは私の『これまでの常識』かもしれないな……なんて。
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