卑濁の朝日

花屋敷奏

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天の川

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細雪の降り止まぬ夜であった。
年の明けから十日と余日過ぎた頃、町外れの教会で男女が婚姻の誓いを取り交わした。静謐な時間であった。
教会の長椅子には空白が目立つが、二人にはそれでよかった。お互いに親友という存在はいなかったし、知り合いも少なかったからだ。
滞りなく進む美しき儀式と、誓いの口づけ。新婦のドレスの純白が、バージンロードの赤を塗り替えて行く様が天の川の様で、男はその星々の煌めきにせいを感じた。
『バージンロードなんて』と彼女は恥じらいを見せたが、男にはそれが照れ隠しだと判っていた。元々とやらに憧れていたのだ。お城で舞踏会、とまではならなくても、カトリックの教会でこのように式を挙げられるのは彼女の中で強い喜びになるだろうし、根強く心に残るだろう。口づけの際に少しの悪戯心で薄目を開ければ、彼女は本当にうっとりとした表情をしていたし、細い指に指輪を通す瞬間さえ、彼女は恍惚に頬を染めていた。
式は、幸福な雪と闇に包まれて無事に終了し、男女は引っ越したばかりの新居に戻るとダイニングの電気も点けずに、キャンドルの灯りに縋る様にワインを飲み交わした。キャンドルの火の揺らめきが、消してはならない幸福の灯火に見えていたからだった。ワインの濃い赤が灯りに照らされれば、さながら血の色に見えた。
「本当、夢みたい」
「お城じゃなくてごめんな」
「ぜったいバカにしてるでしょ」
ダイニングに反響する緩やかで温かな笑い声。彼女の舌は、ワインより先に飲んでいたアルコールによって、千鳥足の様になっているようだった。顔が赤くならない彼女だからこそ、舌の回転の滑らかさに酔いの度合いが見えるのだ。
「お風呂に入れるくらいには平静かな?」
「は・い・れ・ま・す!」
酒が入った時の彼女は、歳を忘れる程に子供じみた言動をした。その姿が可笑しくて、いじらしくて、愛らしかった。
「先に入って来なよ。俺はもう少し飲むから」
「うん。じゃあお先しますわよね~」
「言葉がおかしくなってるぞ」
元々酒に強くない彼女を、で風呂場まで半ば介助して、自分はダイニングに戻る。事実、もう少しワインを味わいたかったからだ。そうして三杯目を飲んでいた頃、浴室のシャワーの音に紛れて、ダイニングの扉が開いた。
「おや、どうしたんだい?
扉を開けたのは寿だった。
「お母さんがお風呂に入ったみたいだから」
「そうか。お母さんの目を掻い潜ったんだね?」
男―寿松正が言うが早いか、美花が抱きついてきた。
「だって最近、お母さんばかりで・・・」
「今日は結婚式だよ?勘弁しておくれよ」
「そうだけど、私、寂しい」
「本当、親子で寂しがり屋だな」
「そうしたのはでしょ?」
苦笑がただしの口の端から漏れる。
彼は美花の前髪を撫で上げ、額に唇で触れた。
「もう少しだけ待っておくれ、お姫様。ちゃんと美花との時間も作るから」
「・・・約束よ?」
「もちろん。お父さんが約束を破った事があるかい?」
答の代わりに返ってきたのは、美花からの接吻―鼻腔に抜けたのは、ワインと唾液の合わされた純白の蜜の様な香り。舌がもつれあって、彼女の首の白い線が艶めかしかった。その場の、濃厚な粘度を持った甘い空気を唇に纏わせる様に、美花と正の唇は離れた。お互いの瞳が、恋慕に燃ゆる互いの姿を映していた。







寿松正が行ったのは、まず彼女―美花の母親である陽然毬かげなしまりに近づく事だった。片親である事に目をつけ、自分が家族に加わろうとしたのだ。彼女もまた見目麗しい女性であり、それ故に、人を信じきれなくなっていた。見た目や肉体ばかりに関心を寄せられ、いつからか心を開かれる経験もなくなっていった彼女は、心理学を用いて、時間さえかければ寿松に心を許し、若人の如く肉欲にも従順になった。その後はひたすらに―あくまで合法的なやり方で―快楽の坩堝に堕として囲ってしまえば、寿松の腕の中で恍惚に溺れる乙女となった。
だが、もちろん、寿松の真の狙いは美花であり、毬という母親は中継点にしか過ぎなかった。
毬に呼ばれて美花と出会った時、寿松は心臓が喉から飛び出るのではないかと思った程に緊張していた。電車の中で目が合った事を覚えているのではないかという期待が大きかったからだ。
しかし彼女は、はじめまして、と堅い響きで挨拶をしてきたのだ。
憶えていない―
その真実は微かに寿松の心を抉ったが、即座に思考は切り替えられた。彼女との関係がゼロから始められると理解できたからだ。
今の今まで、夢にまで見た、少女と、関係を、構築できる―
こんな幸福があるだろうか!
胸は喜びに高鳴り、全身の血肉が躍動するのが分かった。
母親である毬と、娘である美花との関係を昇華させていくのは中々苦しくはあったが、それでも美花の心を愉悦で侵食し、良識を背徳感でくびり潰し、彼女の心に居座ったと実感した時は、絶頂にも等しい心持ちだった。
初めてと呼ばれた時―
初めて口づけを交わした時―
初めて彼女の髪を結った時―
初めて彼女の奥底を玩弄した時―
初めて彼女の瞳に自分しか映っていないと知った時―
初めて睫毛を観察した時―
そのどれもが、赤子が手にした希望の如く新鮮でつややかで、海に浮かぶ満月の様に、慈しみを以て受諾せしものだった。いつかそんな美しいと迎えた朝は、それまでの鬱屈とした卑濁ひだくの朝日に蝕まれた朝などでは無く、清廉に象られた船出の様であった。
今も彼女の内腿には、小さく紅い、花の様な印が刻まれている。
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