3 / 3
殺阿羅漢
しおりを挟む
男は荒く息をしながら、ようやく目的地に辿り着いた。
中々の坂道で息が上がってしまっていた。
河川の上流というより、森と言った方が似つかわしい風景で、そこいらの草むらから鹿なり熊なり、飛び出してきてもおかしくないくらいの森林だった。
深い緑の匂いと、微かに花の香りが鼻孔に届く、深遠な空間。
もう少しもう少しと自分を励まし、疲れて言う事を聞きづらくなっていた脚に鞭打ち、一本の大木の元に行き着いた。
大木の枝に結われた縄の下、その人は居た。
男の先輩であり、同じ時間を共有してきた研究者であった。想い人であった。
彼女はふと男に気づく。
泣き腫らした眼、無惨に刻まれた栗色の髪、蒼くなった節々。細い白い腕にも痣が点々と見える。
見すぼらしい―
男の、素直な感想だった。美しくないと思った。
彼女はそんな姿を見られたくないのか、薄いパーカーを慌てて羽織り、震えていた。
見ないで、と小さく呟いた。
己のした事、恋人にされた事。様々に渦巻いているのだろう。
今まで回想を紡いでいた男とは違う男性と交際し、その男性が嫉妬深過ぎた上で暴力を振るうと発覚したのは最近の事だった。
彼女が僥倖だったのは、スマートフォンを使えた事と、一時的に交際相手からの監視から抜け出せた事だった。その隙に彼女は思い入れのあるこの場所を死に場所と決め、そして、死に際に気づいた本当の想い人に連絡を取ったのだ。
かくして、男はここまで来たのだが、本当に落胆していた。
多少彼女と話す気にはなるが、男にとってこんなクリシェの様な展開は興醒めにも程があった。
輝いている彼女なのに―
多少の翳りと月明かり。宵の明星。
それらが男が彼女の好いていた部分だったのに―
今は、闇の深く、悲哀が見える。
鼻の奥がつんとする。男にはこういう時に上手く振る舞える程の、器量も器用さも無いのだ。
「ここで、星を見たね―」
男は唐突に言った。
彼女は黙した。
「そして、初めて関係を持った―」
「色々な人に囲まれて生きて、性格が良くて、君の発見が世界の人々の役に立って、君はまるで聖人だよ―」
「いや、僕には君が女神に見えていたんだ―」
「けれど、そんな女神も、僕の幻想だったって知ったんだ」
男は冷めた調子で話しながら近寄り、彼女の頭上から声を降らす。
それからの言葉は、彼女にとっては、天使の囁きにも似た様なものだったのであろう、男の足元に縋り、涙を溢れさせた。必死に謝罪を口にした。
だからこそ、男は彼女の体を起こす。
起こしつつ、耳元で尚も囁いた。
その言葉達は彼女の脳で、百足の如く這い回った。
僕が足場になるから、と男が一言告げ、縄の下で彼女を抱き上げると、彼女は躊躇も無く首に縄をかけた。
抱き締めた体を離すと、嗚咽が響いた。
彼女は男の中で、聖人として亡くなったのだ。決して女神などと言ってはならないのだ。
男は地獄に落ちる事を承知で、彼女の体躯を、吊り下げられた縄一本に託した。
彼女の遺体は森林にとても良く映えた。油絵にでもしたいくらいだったが、この風景は男だけの物だ。男だけの宝だ。
疼く心を呑み込んで、男もまたこの世から旅立った。
きっと地獄で一緒になれるのだから。
中々の坂道で息が上がってしまっていた。
河川の上流というより、森と言った方が似つかわしい風景で、そこいらの草むらから鹿なり熊なり、飛び出してきてもおかしくないくらいの森林だった。
深い緑の匂いと、微かに花の香りが鼻孔に届く、深遠な空間。
もう少しもう少しと自分を励まし、疲れて言う事を聞きづらくなっていた脚に鞭打ち、一本の大木の元に行き着いた。
大木の枝に結われた縄の下、その人は居た。
男の先輩であり、同じ時間を共有してきた研究者であった。想い人であった。
彼女はふと男に気づく。
泣き腫らした眼、無惨に刻まれた栗色の髪、蒼くなった節々。細い白い腕にも痣が点々と見える。
見すぼらしい―
男の、素直な感想だった。美しくないと思った。
彼女はそんな姿を見られたくないのか、薄いパーカーを慌てて羽織り、震えていた。
見ないで、と小さく呟いた。
己のした事、恋人にされた事。様々に渦巻いているのだろう。
今まで回想を紡いでいた男とは違う男性と交際し、その男性が嫉妬深過ぎた上で暴力を振るうと発覚したのは最近の事だった。
彼女が僥倖だったのは、スマートフォンを使えた事と、一時的に交際相手からの監視から抜け出せた事だった。その隙に彼女は思い入れのあるこの場所を死に場所と決め、そして、死に際に気づいた本当の想い人に連絡を取ったのだ。
かくして、男はここまで来たのだが、本当に落胆していた。
多少彼女と話す気にはなるが、男にとってこんなクリシェの様な展開は興醒めにも程があった。
輝いている彼女なのに―
多少の翳りと月明かり。宵の明星。
それらが男が彼女の好いていた部分だったのに―
今は、闇の深く、悲哀が見える。
鼻の奥がつんとする。男にはこういう時に上手く振る舞える程の、器量も器用さも無いのだ。
「ここで、星を見たね―」
男は唐突に言った。
彼女は黙した。
「そして、初めて関係を持った―」
「色々な人に囲まれて生きて、性格が良くて、君の発見が世界の人々の役に立って、君はまるで聖人だよ―」
「いや、僕には君が女神に見えていたんだ―」
「けれど、そんな女神も、僕の幻想だったって知ったんだ」
男は冷めた調子で話しながら近寄り、彼女の頭上から声を降らす。
それからの言葉は、彼女にとっては、天使の囁きにも似た様なものだったのであろう、男の足元に縋り、涙を溢れさせた。必死に謝罪を口にした。
だからこそ、男は彼女の体を起こす。
起こしつつ、耳元で尚も囁いた。
その言葉達は彼女の脳で、百足の如く這い回った。
僕が足場になるから、と男が一言告げ、縄の下で彼女を抱き上げると、彼女は躊躇も無く首に縄をかけた。
抱き締めた体を離すと、嗚咽が響いた。
彼女は男の中で、聖人として亡くなったのだ。決して女神などと言ってはならないのだ。
男は地獄に落ちる事を承知で、彼女の体躯を、吊り下げられた縄一本に託した。
彼女の遺体は森林にとても良く映えた。油絵にでもしたいくらいだったが、この風景は男だけの物だ。男だけの宝だ。
疼く心を呑み込んで、男もまたこの世から旅立った。
きっと地獄で一緒になれるのだから。
0
この作品は感想を受け付けておりません。
あなたにおすすめの小説
婚約破棄から50年後
あんど もあ
ファンタジー
王立学園の卒業パーティーで、王子が婚約者に婚約破棄を宣言した。王子は真に愛する女性と結ばれ、めでたしめでたし。
そして50年後、王子の孫の王子は、婚約破棄された女性の孫と婚約する事に。そこで明かされた婚約破棄の真実とは。
『お前を愛する事はない』なんて言ってないでしょうね?
あんど もあ
ファンタジー
政略結婚で妻を娶った息子に、母親は穏やかに、だが厳しく訊ねる。
「『お前を愛する事は無い』なんて言ってないでしょうね?」
元恋人が届けた、断りたい縁談
待鳥園子
恋愛
シュトルム辺境伯の末娘ソフィに隣国の帝国第二皇子から届けられた『縁談』の使者は、なんと元恋人のジョサイアだった。
手紙ひとつで別れることになったソフィは、素直になれずジョサイアから逃げ回る。
「私に届けなければ、彼は帝国に帰ることが出来ない」
そう思いようやく書状を受け取ろうと決意したソフィに、ジョサイアは何かを言い掛けて!?
サレ妻の娘なので、母の敵にざまぁします
二階堂まりい
大衆娯楽
大衆娯楽部門最高記録1位!
※この物語はフィクションです
流行のサレ妻ものを眺めていて、私ならどうする? と思ったので、短編でしたためてみました。
当方未婚なので、妻目線ではなく娘目線で失礼します。
妻を蔑ろにしていた結果。
下菊みこと
恋愛
愚かな夫が自業自得で後悔するだけ。妻は結果に満足しています。
主人公は愛人を囲っていた。愛人曰く妻は彼女に嫌がらせをしているらしい。そんな性悪な妻が、屋敷の最上階から身投げしようとしていると報告されて急いで妻のもとへ行く。
小説家になろう様でも投稿しています。
巻き戻される運命 ~私は王太子妃になり誰かに突き落とされ死んだ、そうしたら何故か三歳の子どもに戻っていた~
アキナヌカ
恋愛
私(わたくし)レティ・アマンド・アルメニアはこの国の第一王子と結婚した、でも彼は私のことを愛さずに仕事だけを押しつけた。そうして私は形だけの王太子妃になり、やがて側室の誰かにバルコニーから突き落とされて死んだ。でも、気がついたら私は三歳の子どもに戻っていた。
ユーザ登録のメリット
- 毎日¥0対象作品が毎日1話無料!
- お気に入り登録で最新話を見逃さない!
- しおり機能で小説の続きが読みやすい!
1~3分で完了!
無料でユーザ登録する
すでにユーザの方はログイン
閉じる