BL短編集【R18】

有喜多亜里

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旅路の果て

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 その世界に転移したとき、いつもと違う感覚がした。
 魔力はあるが彼のようには使えない男もさすがに何かを感じとったのか、転移が完了しても彼を抱きしめる腕の力をゆるめなかった。
 この男は常に体を張って彼を守ろうとする。彼がいた世界でも、それ以外の世界でも。美麗な顔をほころばせつつ、自分たちの周囲に結界を張る。
 もちろん呪文など唱えない。異世界への転移すら無詠唱でこなす彼にとって、結界魔法など呼吸するのと同じくらいたやすいことだった。
 いつもより少しだけ速い男の鼓動を聞きながら、ゆるく一つに結んだ髪と同じ金の目を、あらゆる攻撃を弾く結界の外に巡らせる。
 意外なことに、そこはいつもと同じような場所――木々の隙間から青い空を望める緑地帯の中だった。
 湿った土の臭い。葉擦れの音。小鳥たちのさえずり。地表に視線を落とせば、明らかに人によって踏み固められた小道もある。
 いくら彼でも、未知の世界に転移するときには転移先を指定できないが、大まかな条件をつけることはできる。彼が男と共に何度か転移してつけた唯一の条件が〝森林の中〟だった。
 人間が生きられる世界なら森林は必ず存在する。そして、そこで自分たち以外の人間といきなり遭遇したことは一度としてなかった。時には魔物の群れのど真ん中に転移してしまったこともあったが、人で溢れ返っている広場や食事中の人家の中よりはるかにましだ。どの世界でもいちばん厄介なのは、自分たちと同じ人間なのだから。

「ここか?」

 異世界に転移するたび、男を見上げてそう訊ねる。
 彼より頭半分背の高い男は、少し考えてから「わからん」と答えた。

「何となくいつもと違う気はするが……別に懐かしいって感じじゃないな」

 やはり、男もそう感じていたらしい。嬉しくなって男のたくましい胸に何度も頭を押しつけたら、右手で簡単に止められてしまった。戸外での男はかなりつれない。

「とりあえず、今は昼で、魔物はいないみたいだな」

 そう言いながら、今度は彼の頭を優しく撫でる。
 彼が元いた世界では、褒めるときや慰めるときに人の頭を撫でるという習慣はなかった。しかし、初めて男にそうされたとき、彼は戸惑いよりも強い喜びを覚えたのだ。

「そうだな。熱帯でもなさそうだ」

 目を細め、自分と揃いの黒い外套に白い指を滑らせる。
 場所は絞れても、そこの気候まではわからない。だが、暑ければ脱げばいいだけだと、転移前にはいつも冬用の装備をしていた。それで特別暑くも寒くもないのだから、少なくとも夏ではないのだろう。もっとも、季節がない可能性もなきにしもあらずだが。

「とにかく、移動しないか? 街があるなら、そこで飯食いたいだろ?」

 転移先の安全が確認できると、男はすぐに人間のいるところへと行きたがる。今までその人間にさんざん嫌な思いをさせられたくせに。
 思わず眉間に皺が寄ってしまうが、男が自分のためにそう言っていることは知っているので渋々うなずく。

「一応、迷彩魔法はかけておく。いつものとおり、私の手は離すなよ」

 本当は手などつながなくても、二人分の迷彩魔法はかけられる。しかし、男と堂々と手をつなぐ理由が欲しくて、いつも不本意そうに自分の右手を突き出す。
 多少鈍感な男だが、きっともう気づいている。何も言わずに苦笑いして、左手で彼の右手を強く握ってくれる。彼よりも温かくて大きな手。
 男は右利きだが、左手にも剣ダコがある。一時期、右手が使えなくなったときに、左手でも剣が使えるように訓練したのだ。彼を守るためだけに。
 斥候がわりの黒蝶を何匹か放った後、昔のように男の手を引いて、わざとゆっくり小道を歩いていく。
 時々振り返って男を窺えば、出会ったときと変わらない顔で、何だと問い返すように微笑んでくれる。
 男の口癖は〝俺は凡人〟だが、それは顔立ちだけに限った話で、しかも彼自身はまったくそう思ってはいない。やや癖のある黒髪も、切れ長の茶褐色の瞳も、見かけよりも柔らかい薄めの唇も、もちろんそれ以外も〝特別〟だ。

(私の騎士だ。私だけの騎士)

 うっとりと心の中だけで呟いて、男の左手の感触を久しぶりに味わった。

 ***

 六歳になった初夏のある日、彼は男と出会った。
 まったくの偶然だった。だが、今でも彼は運命だと固く信じている。
 その頃にはすでに中級魔術師程度の魔法は使えるようになっていた彼は、上級魔術師でも扱える者は滅多にいないという転移魔法に強い興味を抱いていた。
 しかし、導師である魔術師には、殿下にはまだ早いと一蹴されてしまった。彼はわかったと答えつつ、独学で習得することを心に誓った。
 今でこそ無詠唱で異世界へも転移できるが、さすがにこの頃は転移用の魔法円を使って転移呪文を唱えなければ無理だった。とりあえず、自分専用の研究室の隅から隅へ転移しようとしたところ、魔法が発動しはじめた段になって、魔法円の一部にミスがあったことに気がついた。
 これではどこに転移するかわからない。せめてこの世界のどこかでありますようにと瞼を閉じて、転移が完了した後におそるおそる開いてみると、じっと自分を凝視している若い男と目が合った。
 幸いなことに、彼が転移したのは王城城下の市民居住区の一角だった。当時、市門の門番をしていた男は、仕事帰りに買い物をしてその居住区内にある自宅へ戻ろうとしていたのだが、とある路地裏で金髪の幼児が突然現れたのをたまたま目撃してしまったのだった。
 だが、無論このときはそうとは知らない。男が無表情のまま近づいてきても、彼は拘束魔法をかけられたかのように動けなかった。

「どこから来た?」

 男の第一声はそんなふうだった。
 低音だったが不思議と威圧感はなく、言葉に訛りもなかった。顔立ちからして明らかに異国人だったが、この王都ではそういった人間は珍しくない。
 しかし、城に引きこもっていた彼はそのことを知らなかった。どうして異国人がこの国の言葉を話しているのだろうとますます混乱した。

「まあ、いいか」

 男は軽く嘆息すると、それまで左肩に担いでいた布袋を右手に持ち替え、空いた左手を彼の目の前に差し出した。
 意味がわからず、無言で男を見上げる。と、男は困ったような笑みを浮かべた。

「いや、ここはそんなに治安は悪くないけどな。おまえみたいな子供が一人でいたら、悪い奴らにさらわれて、あっというまに売られちまうぞ。とにかく、うちに来い。詳しい話はそこで訊く」

 考えてみれば、この男がまさにその〝悪い奴ら〟の一人である可能性もあった。だが、彼はおずおずとではあったが、男の大きな左手の上に自分の小さな右手を重ねた。
 男の手はそれまで彼が触れたことがないくらい硬かったが、予想に反してとても温かかった。そのことに驚いていると、男は彼の手を柔らかく握って体の向きを変え、先ほどまで自分が立っていた表通りに向かって歩き出した。
 少し引きずられるような形にはなったが、それでもこの男が自分に合わせて歩幅を狭め、歩行速度も落としていることはすぐにわかった。その頃には大人に手を引かれて歩くことなどなくなっていた彼は、無性に懐かしい気分になって、我知らず男の指を握りしめたのだった。
 まだ日は高かったが、独身者向けの長屋が多い区域だったこともあってか――それももちろん後で知ったことだ――ほとんど通行人はいなかった。
 男の顔見知りに『どこからさらってきた?』などと声をかけられることもなく、やはり長屋である男の自宅に到着したが、そこは彼にはとても人が住んでいるとは思えない場所だった。
 明かりとり兼換気用の窓はあったが薄暗く、ほのかに埃と黴の臭いのする空気はひんやりとしている。粗末な家具こそ置いてあるものの、さながら当時は資料でしか知らなかった牢獄のようだった。
 その感想は口には出さなかったが、顔にはしっかり出てしまっていたのだろう。男は彼の手を離した左手で決まり悪そうに頭を掻くと、「とりあえず、ここ座れ」と言って、背もたれもない木椅子の座面をその手で拭った。
 この狭い室内に椅子はこれ一脚しかない。男はいったいどこに座るのだろうと椅子から男の顔に目を移すと、それを察したように男は布袋を四角い机の上に載せ、部屋のいちばん奧に横向きに置かれていた寝台の上に腰を下ろした。
 それなら自分もそこに並んで座りたい。そう思ったとき、男が両手を組んでこれ見よがしに大きな溜め息をついた。

「さて。これでやっとまともに話ができるな。今度こそちゃんと答えろよ。……どこから来た?」

 ――どうして先に名前を訊ねない?
 自分のことは棚に上げ、彼は幼いながらも整った眉をひそめた。
 確かに、自分がどこから来たかは気になるだろう。他国から〝魔法国〟と呼ばれるほど魔術師の数は多いが、それでも転移魔法は滅多に見られるものではない。
 しかし、男の関心はあくまで彼がどこから来たかであって、どうやってあそこに来たかではない。今ならその理由は痛いほどよくわかるが、当時の彼にわかるはずもなく、かと言って正直に王城から来たと話すこともできなかった。
 男に自分の正体を明かすのはかまわなかった。ただ、導師に禁じられた転移魔法を使ったと知られて怒られたくなかった。
 返答に窮した彼は、ふと今の自分が魔術師用の黒いローブを着ていることを思い出し――ちなみにそれは彼の普段着だった――苦しまぎれでこう叫んだ。

「じ……実は私は魔法使いなのだ!」

 これにはさすがに男も驚いたようだったが、〝それで?〟と視線で続きを促した。

「お……おまえの目には今の私は子供に見えるかもしれないが、魔法研究の副作用でこうなっただけで、実年齢はおまえよりも上だ! 今日は転移魔法の実験をしていて、たまたまあの場所に転移してしまった! しかし、もう一度魔法円を描いて呪文を詠唱すれば、今すぐにでも家に戻れる!」

 もちろん、彼は本当に見た目どおりの子供だった。だが、そんな子供が転移魔法を使ったと言っても男に信じてもらえないだろう。そう考えた彼は、自分でも無理があると思いつつも、そんな嘘をついてしまった。
 しかし、実は彼が年齢を偽る必要はなかったのだ。転移魔法の存在を知っていたのはごく一部の人々だけであり、それ以外にはその行使が難しいことすら知られてはいなかったのだから。幼いうちから魔法に慣れ親しんでいた彼は、自分が知っていることは他人も知っていると頭から思いこんでしまっていたのだった。
 一方、男は転移魔法どころか、魔法に関する知識自体、ほとんど持ち合わせてはいなかった。だが、転移魔法とは何かと問うこともなく、ほっとしたようにうなずいた。

「そうか。おまえは帰れるんだな」

 一瞬、彼はその言葉に違和感を覚えた。が、男が自分の嘘――年齢以外は真実だったが――を信じてくれたことのほうに安心してしまい、すぐにそのことを忘れてしまった。

「ああ、帰れる」

 自信満々で答えたところ、男はにこやかに笑った。

「よし。じゃあ、今すぐ帰れ」

 ――だから、どうして私の名前を訊ねない!
 よっぽどそう怒鳴りつけてやりたかったが、どうやらこの男は自分が知っている大人たちとは種類が違うようだ。
 彼は自分が好む略称を名乗り、それと同じくらい短い男の名前を知った。
 男を拾った元騎士がつけた、まるで記号のようなその名前を。

 ***

 この世界がこれまで巡った世界とはどこか違っていることは、ここに転移してきた瞬間から感じとってはいた。
 しかし、まさかこういう方向で違うとは。彼は思わずあの日のように男の手を強く握ってしまった。

「あれ、どんな仕組みで動いてるんだ? やっぱり魔法か?」

 もうたいていのことには動じなくなっていた男も呆然として目を見張っている。だが、彼を安心させるように手を握り返すことは怠らなかった。
 この男のこういうところも彼は好きだ。戯れに一匹の黒蝶を男の眼前で舞わせ、とろけるような笑みをこぼす。

「いや、魔法ではなさそうだ。というより、私の知る魔法ではないと言ったほうが正確かな。とにかく、私は魔法の気配は感じない」

 あの林は彼が思っていたほど広くはなかった。黒蝶たちの〝報告〟を基に、いちばん安全と思われる方角に向かってしばらく歩いたところ、誰とも出会うことなく林の端までたどりついてしまった。
 どうせなら深い森の中に転移したかったと自分ではどうしようもないことを思ったが、林の外にあったものが視界に入った瞬間、そんな甘い考えは吹き飛んでしまった。
 これまでは、林の外側にはたいてい草原や畑などが広がっていて、場合によって距離はまちまちだったが、歩けば必ず人家が見つかった。
 しかし、今回彼らが目にしたのは、林とその向こうに立ち並んでいる家々とを分断するかのように敷かれた青灰色の道と、その上を騒音を立てて行き交う馬も御者台もない馬車のような乗り物だった。
 乗り物だとわかったのは、その中には必ず人間――男と人種的に近いように見えた――がいて、手綱のかわりに円形状のものを両手で握っているのが、おそらくはガラス越しに見えたからだ。
 だが、それもすぐにわかったわけではない。どれも全力疾走している馬車並みの速さで、右から左、左から右へと走り抜けていくので――道の真ん中には白い直線が一定の間隔をおいて引かれていて、その線より手前を走る乗り物は左方向へ、その反対側は右方向へと走っていた――その速度に目が慣れるまでかなりの時間がかかった。
 乗り物の色や形状は様々だったが、そのほとんどは馬車よりもずっと車高は低く、四つの黒い車輪も小さかった。が、時々、見上げるほど巨大な乗り物がそれに見合うだけの爆音を轟かせて走り去っていった。
 道と林との間に、歩行者用の道――黒灰色の四角い石が、道との境界線のように並べられていたので、たぶん――がなかったら、あれに巻きこまれて轢かれていたかもしれない。乗り物の御者たちに一瞥もされなかったところを見ると、彼の迷彩魔法はこの世界の住人にも有効なようだ。

「ここまで勝手が違うとなると、どこかの家に潜りこんだほうが早いな」

 嘆息して彼が呟くと、男は嫌そうに眉をひそめた。

「またあれをするのか?」
「仕方ないだろう。少なくともこの世界の概況を把握するまでの間は、衣食住の心配はしたくない」
「まあ、それはそうだが」

 まだ不服そうだったが、それ以上は何も言わなかった。男もそのほうがいいとわかってはいたのだろう。彼もなるべくなら避けたいと思ってはいるのだが、あの乗り物を見て自力で学ぶ意欲を失ってしまった。

「しかし、ここは通行人がいないな。あちら側なら人もいるか」

 道を挟んだ向かい側を顎で指す。男は今度は悩むような表情を浮かべた。

「切れ間に走れば渡れると思うが……走れるか?」
「私だって、これくらいの距離なら走れる」

 むっとして返したものの、乗り物の往来はなかなか切れない。痺れを切らした男に横抱きにされて走られる前に、男の左手を強く握る。

「跳ぶから離すなよ」
「は?」

 と、男が問い返したときには、彼はあたりをつけていた場所に転移していた。
 先ほどまでいた場所のちょうど真向かいである。ここにも同様の歩道はあったが、男は条件反射のように彼を右腕で抱き寄せた。

「こんな短距離で転移するなよ……」

 呆れたようにそう言われたが、彼にとっては自分の足を動かすより転移したほうが楽なのだ。視認できる場所なら特に。
 しかし、拗ねた顔をして反論する前に、「で、左と右、どっちに行くんだ?」と男に笑われてしまった。本気で言ったわけではなかったようだ。
 基本的に、男は自分で行き先は決めない。いつも彼任せにしている。興味がないというよりは、特に行きたいところがないのだ。できれば戦争がない世界がいいと言ってはいるが、今までそんな世界に転移できたことは一度もなかった。
 この世界も一見何事もないように見えるが――あの乗り物はこの世界における馬車であって戦車ではないだろう――きっと今もどこかで戦争は行われているに違いない。

「そうだな……」

 男に抱かれたまま、まず左を見て、次に右を見た。
 たいていの人間は右より左に行きたがる。これはどの世界でも共通していた。
 だが、それでは面白くないような気がして、「じゃあ、右だ」と答えた。男の返事を待たず、また男の左手を引いて歩き出す。
 道沿いには、灰色をした細長い石柱が一定の間隔をおいて建てられていた。それらの先端は何本かの黒い紐でつながれていたが、何のためにかは見当もつかなかった。とりあえず、洗濯物を干すためのものではないだろう。あれでは高すぎる。
 この世界では、灰色系の石塀で敷地を囲うのが一般的なようだった。その敷地内にある家自体は、あの乗り物ほど奇異ではなかったが、外観に統一感はなかった。もしかしたら、建てられた時代が違うのかもしれない。
 さりげなく男を盗み見れば、男も物珍しそうに家々を眺めていた。その様子からすると、既視感はなさそうだ。失望と安堵とを同時に覚えて視線をはずしたとき、ちょうどそれが目に飛びこんできた。
 二階建てが多い中、淡黄色のその家は一階建てだった。塀はあったが来訪者を阻む門はなく、そのまま家の出入口らしきところまで、難なく侵入できそうだった。
 しかし、その入口から少し離れた左隣――こちらから見て右隣にある大きなガラス窓の前に、白髪の老婆が一人、背中を丸めて座っていた。
 正確には、彼女はガラス窓の前に設けられていた木製の長いベンチの上に座っていたのだが、それはともかく、彼らがこの世界に転移してきて初めて全身を見ることができた人間が、この小柄な老婆だった。
 薄茶色のセーターを着ていて、薄紫色のズボンを穿いていた。迷彩魔法を使っているのだから、当然と言えば当然だったが、彼女は彼らが庭先まで入りこんできても、まったく注意を払わなかった。
 ただただ、荒れ果てた狭い庭――あの林のほうが、よほど手入れされていたかもしれない――のどこか一角を、無表情に見すえていた。まるでそこに、彼らの目には見えない何かがいるかのように。

「この家にするのか?」

 彼の耳許で男が囁いた。その声で我に返った彼は、迷彩魔法から結界魔法に急遽切り替えた。これならこちらの姿も声もあちらには関知できない。そのことを言外に伝えるために、彼は普通の声量で応じた。

「ああ。見た感じ、人づきあいはあまりなさそうだ」

 男はまた不快そうな顔をしたが――孤独な老婆につけこむような真似をするのかとでも思っているのだろう――反対はしなかった。そんな男から苦笑しながら手を離し、自分の分だけ結界魔法を解除する。それでも、彼女の目は彼を一顧だにしなかった。

 ――こちらを見ろ。おまえの待ち人が戻ってきたぞ。

 声には出さずに老婆に思念をぶつける。そのとたん、彼女は本当に声をかけられたかのように驚いて、初めて彼に顔を向けた。その隙を逃さず、彼女の細い目を通して頭に命令を叩きこむ。

 ――名前を呼べ。

ヨシ……』

 老婆はそう呟き、よろよろと立ち上がった。少し腰が曲がっている。
 今、彼女には彼がその〝ヨシオ〟に見えている。彼は続けて、自分が彼女にとっていちばん都合がいい返答をしたという暗示をかけた。

『そう。それはちょうどよかった。母さんも今、仕事休んでるんだよ。ちょっと風邪引いちゃってね』

 〝ヨシオ〟にどんなことを言われたのか、老婆は皺だらけの顔をさらに皺くちゃにした。彼女の話す言葉の内容は翻訳魔法でわかるが――ちなみに、男にもわかるようにしてある――彼女の頭の中にしかいない息子が何を話したのかまでは彼にもわからない。

『大丈夫。たいしたことないよ。とにかく、中に入って。昼はもう食べたの?』

 そう言いながらさっさと出入口のほうへと歩いていく。彼はあわてて〝ちょっと待て〟と思念を投げ、男にかけていた結界魔法を解いた。
 彼を振り返った老婆は、突如彼の背後に現れた男を見て、ぎょっとしたように小さな肩を震わせた。
 こんなことなら、男の結界魔法も自分と一緒に解いておけばよかったか。そう後悔しつつも、老婆の中の〝ヨシオ〟に男の説明をさせる。

『ああ、大学の友達なの』

 老婆は安心したように笑ったが、彼は真顔になって彼女を見つめ返した。
 確かに、その設定がいちばん自然だろう。だが――友達。

『連れてくるならそう言っといてくれればよかったのに……まあ、とにかく上がって』

 老婆の目には今の彼の表情は見えていない。一気にいくつも若返ったかのように弾んだ声を出すと、古さびた焦茶色の扉を開けて家の中に消えてしまった。

(せめて、友達は訂正……)

 彼がそう考えかけたとき、急に右肩をつかまれた。

「やめとけ」

 顔を見る間もなく、男は彼の右耳に唇を寄せた。

「あのばあさんが友達がいいって思ったんなら、それでもういいだろ。いじらなくてもいいこと、いじるなよ」

 実はこの男は心が読めるのではないかと疑いたくなるのはこういうときだ。男に言わせれば〝そんなことはおまえの顔を見ればわかる〟らしいのだが、ここまで正確に見抜けるものだろうか。
 しかし、そんなことは考えていないと否定するのも時間の無駄だ。彼は半ばふてくされて答えた。

「わかった。いじらない」

 〝いい子だ〟と言うかわりに、男は苦笑いして彼の頭を少々手荒に撫でた。
 傀儡魔法など使わなくても、今でもこの男はこうしてくれる。
 彼は笑み崩れると、念のため迷彩魔法をかけてから、両腕を伸ばして男に抱きついた。
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