少女たちの地獄(カレイドスコープ)~価値なしと言われた令嬢たち~

宮野夏樹

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第4章 正義の地獄(エシカル・ヘル)~白銀の聖女は無菌の檻で、己の呼気すら嫌悪する~

第2話 潔癖の天秤あるいは灰色の祝祭

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 王が消えた。それは雷鳴のような衝撃ではなく、静電気のような微細な震えとして王都へ伝播した。気づいた時には、すべてが手遅れなほどに浸透していた。

 ―――暴君が死んだ。
 ―――腐敗が断たれた。
 ―――時代が変わる。

 広場は瞬く間に、膨張する肉の塊へと変貌した。酒樽の蓋が割られ、撒き散らされた液体の匂いが石畳を濡らす。重なり合う歌声、不揃いな足踏み、互いの汗をなすりつけ合うような抱擁。「自由」という名の熱病が、排気ガスのように夜気を濁らせていた。

 王宮の高いテラス。エルザ・フォン・アーレントは、その光景をただ「測定」していた。彼女の瞳に、歓喜の解像度は存在しない。網膜に焼き付いているのは―――不純物。

 転がる空瓶のラベルの剥がれ。踏み潰され、繊維を露出させた果実の残骸。吐瀉物の酸い臭気。湿った襟元の脂。泥を撥ね、規則性を失った靴先の動き。群衆が熱狂し、その輪郭を溶かすほどに、空気の純度は目減りしていく。

「……濁っています」

 吐き出された独白は、風に触れることさえ拒むように冷えていた。背後で、ヨアヒムが音もなく影を重ねる。

「祝祭ですから」
「祝祭とは、汚染の別名なのですね」

 それは嫌悪ですらなく、ただの検分だった。エルザは踵を返す。白銀の甲冑が、不快な月光を鋭く撥ね退けた。

「測定を行います。これ以上の濃度上昇は、生存圏の崩壊を招く」

 白銀の騎士団が、街へ降りた。民衆は「救世主」の到来に沸き立ち、その輝きを分かち合おうと手を伸ばす。

「聖騎士様だ!」
「国を救った英雄に触れさせてくれ!」

 伸びる手。安物の布の袖。黒ずんだ指先。熱を持った掌。エルザの足が、凍りついたように止まった。視線が、わずかに落ちる。触れてはいない。まだ。だが彼女の感性は、迫りくる「指紋という名の汚染」をすでに検知していた。

「下がりなさい」

 重低音の警告。だが、熱狂に浮かされた民衆はそれを冗談や謙遜だと受け取り、笑った。その時、一人の男の手が、彼女の腕の鎧に触れた。

  音が、消えた。聖騎士団が一斉に半歩、前へ。その機械的なまでの同時制圧行動が、物理的な圧力となって群衆を押し戻す。エルザは沈黙のまま広場の中央へと進み、ヨアヒムから差し出された羊皮紙を広げた。

「告示します」

 声は、透き通った剃刀のように広場を撫でた。

「本日より、新法を施行します。泥酔、罵声、不衛生な商い、根拠なき噂、無秩序な歓声。これらはすべて『公序純度』を著しく損なう行為と認定されました」

 ざわめきが波立つ。

「違反者は―――隔離、矯正、あるいは除去の対象となります」

 意味が浸透するまで、三拍。その一瞬の隙間を縫うように、間の抜けた声が上がった。

「うおっと」

 よろめいた酔漢が、騎士の鎧にぶつかり、持っていた安酒をこぼした。毒々しい紫色の液体が、白銀の曲線を汚しながら伝い落ちる。

「悪い悪い、ほら、今拭いて……」

 男が笑いながら、汚れを拭おうと手を伸ばした。その手首を、エルザの指先が固定した。氷の鉗子かんしで締め付けられたような感触に、男の表情が強張る。

「その手は」

 エルザは、男の顔を見ずに言った。

「先ほどまで、地面についていましたね」
「は……?」
「不潔です」

 広場が、息を止めた。

「拘束を。公共美観損壊。純度低下誘発。および、汚染拡大の危険」

 エルザの口調は、臨床記録の読み上げに酷似していた。男の腕が捻り上げられる。

「おい、待てよ! 冗談だろ、ただ酒をこぼしただけで!」
「黙りなさい」

 エルザの瞳が、初めて男を射抜いた。

「雑菌が飛散します。貴方の呼気さえも、今は不要なノイズだ」

 連行。悲鳴さえも、騎士たちの無言の圧力に削り取られていく。誰も動かない。誰も笑わない。そこにあるのは、ただ「正しい静寂」だけだった。

 その夜、王都では大規模な「清掃」が執行された。路上のゴミが消え、露店が撤去され、怒号が消えた。同時に、抗議の声も、人の気配も、その熱量ごと削ぎ落とされていく。ヨアヒムは、闇に沈んだ回廊を歩き、エルザの元へと赴いた。

「報告です、エルザ様。民衆の大多数は、新たな秩序に感謝しております」

 彼は情報を濾過し、彼女が望む「透明な結果」だけを抽出して差し出す。

「そうですか。順調ですね」

 エルザは頷く。彼女の視界にある世界は、一歩ずつ理想の「無機物」へと近づいていた。



 翌朝。広場は、白かった。染み一つない石畳。音一つない空気。人々は、定められた歩幅で、等間隔の列をなして歩く。靴音は一定の拍子を刻み、視線は垂直に落とされている。笑う者はいない。泣く者もいない。ただ、異様なまでに「整っている」。エルザはテラスからその静謐を見つめ、満足げに吐息を漏らした。

「美しい」

 その背後で、ヨアヒムだけが悦びに震えていた。この街はもう、温度を失っている。菌も、雑音も、逸脱も―――生物が生物であるためのゆらぎをすべて奪われた、巨大な無菌室。彼は、彼女の鎧に落ちた、目に見えない塵を指先で弾き飛ばした。

「次はどこを清掃なさいますか、我が団長」

 エルザは、迷いなく地平線を指差した。

「国全体です。すべての色彩を剥ぎ取り、白に戻します」

 昇る朝日は、祝福ではない。すべてを焼き切り、漂白する、巨大な滅菌灯として世界を照らし始めていた。
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