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第1章 溺愛が解き放つまで
03.試される理性
しおりを挟む公爵家に嫁いで数日。リシェルは、いまだに自分の立ち位置をうまく掴めずにいた。広大で豪奢な屋敷での生活は、エルノワーズ伯爵家でのそれとは何もかもが違っていた。形式的な挨拶、礼儀作法、そして何よりも、夫であるジュリアン・ヴァレリオ公爵との、掴みどころのない距離感。
「奥様、朝食の準備が整っております」
朝の支度を整えていた侍女のエミリアが、いつものように穏やかな声でリシェルに声をかける。
「う、うん。ありがとう、エミリア……今日も、頑張る」
リシェルの声は、かすかに震えていた。もちろん、それは可憐でか細い声という“演技”の範疇だ。公爵夫人として、完璧な令嬢として振る舞うための、彼女なりの努力だった。だが実際は——
(はぁぁあああぁぁぁ~! 胃が痛い……)
演技疲れもさることながら、ジュリアンとの距離感がどうにも掴めないのだ。彼は優しい。しかし、その優しさは、まるで氷の壁の向こうから届けられる熱のように、触れることができない。彼の表情は常に冷静沈着で、内心を読み取ることは困難を極めた。彼女は、ジュリアンが自分に何の感情も抱いていないのではないかと、密かに不安を感じていた。
「演技をおやめになればよろしいかと……」
エミリアは、リシェルの内心を見透かしたように小さく溜息をついた。彼女は、幼い頃からリシェルと共に育ってきた、唯一の理解者だった。リシェルの“男前な内面”を知る数少ない人間でもある。
「ダメよ、エミリア。旦那様が完璧と呼ばれているのだから、夫人である私もそうでなければ……! 誰もが私を、エルノワーズ家から来た政略結婚の道具だと思っているわ。ここで気を抜いて、本性を見せてしまったら……」
「ありのままの奥様も素敵ですのに……」
エミリアは小さく溜息をつき、これ以上は無駄だと悟ったのか、それ以上は言わなかった。リシェルについて、彼女は静かに食堂へと向かった。
リシェルが食堂に入ると、整った顔立ちに銀の髪、静かに朝日を浴びるジュリアンがすでに席に着いていた。彼の横顔は、まるでルネサンス期の彫刻のように完璧で、朝の光がその銀髪をきらめかせている。彼は新聞に目を通しているようだったが、リシェルの気配を感じたのか、ゆっくりと顔を上げた。
「おはよう、リシェル。今日もよく眠れたかい?」
彼の声は、いつも通りの穏やかな響きだった。しかし、リシェルにはその声が、どこか遠くから聞こえてくるように感じられた。
「お、おはようございます、ジュリアン様」
ぱちぱちと瞬きをして、にこりと微笑む。最大限の可憐さを込めた笑顔だ。
ナイフとフォークを優雅に操りつつ、小さな口で朝食を運ぶリシェル。その姿を、ジュリアンはグラス越しにちらちらと盗み見ていた。彼は新聞の影に隠れて、彼女の一挙手一投足を見逃すまいとしていた。
(……パンを一口かじって、ほっぺが少し膨らむ……なんだあれは……あんな仕草、反則だろ……)
ジュリアンは顔に出さぬよう努めつつ、心のなかでは理性を押しとどめるのに必死だった。彼の脳内では、警報が鳴り響いている。
(ダメだ、落ち着けジュリアン。公爵だろう君は。可愛い新妻を見て悶えるなど……いやむしろ正常だが、それを表に出すな……! 彼女を怖がらせてはならない。あくまで紳士的に、冷静に振る舞うのだ)
だが、ナプキンで口元をぬぐう仕草、ふとした瞬間に前髪を耳にかける指先の動き——そのすべてがジュリアンを惑わせた。彼の瞳の奥では、理性と本能が激しい戦いを繰り広げている。彼女の存在そのものが、彼にとっての最大の試練だった。
その様子を隣で見ていた執事長セドリックが、静かに紅茶を注ぎながら呟いた。
「……尊い」
セドリックの呟きは、ジュリアンには聞こえなかった。いや、聞こえても彼が自身の心境を悟られることはないだろう。彼の瞳は、ただひたすらに、目の前の可憐な存在に釘付けだった。エミリアは、セドリックの呟きに小さく頷いた。彼女だけは、公爵の内心の嵐を、朧げながらも理解していた。
食後、リシェルは庭園に出た。まだ誰も来ない時間帯を狙ってのことだった。朝食の席で張り詰めていた緊張を、ここでようやく解き放つ。花の香り、風の音、小鳥のさえずり——すべてが心を癒してくれる。ヴァレリオ公爵邸の庭園は広大で、手入れが行き届いている。様々な種類の花々が咲き誇り、色とりどりの蝶が舞う。
「ふぅ……ここだけが、気を抜ける場所」
ベンチに座って、ブーツを少し脱ぎながら一息ついたそのとき——。
「奥様」
不意に背後から声をかけられ、リシェルは驚いて飛び上がった。
「わっ!? トーマさん!?」
いつの間にか、寡黙な庭師トーマが隣に立っていた。彼の足音は、まるで風の囁きのように静かで、いつもリシェルを驚かせる。
「……足音を殺すのが得意なんで」
トーマは、平坦な声で言い放った。彼の表情は、常に読み取りにくい。
「それ、普通にびっくりしますから……」
リシェルは、苦笑いを浮かべた。トーマは、この屋敷に来てから数日ではあるが、リシェルにとって唯一、何の仮面も被らずにいられる相手だった。
「奥様は、柔らかそうで芯が固い植物みてぇなもんだ」
トーマは、不意に、しかし真剣な眼差しでリシェルを見つめた。
「……え?」
リシェルは、彼の唐突な言葉に目を丸くする。
「見た目は繊細。でも根っこは太い。簡単には倒れねぇ」
彼の言葉は、リシェルの本質を見抜いているようだった。リシェルが常に完璧な令嬢を演じ、その内側に隠している「男前な内面」を、トーマはわずかな時間で見抜いていたのだ。
「……ふふっ、ありがとう」
まっすぐな言葉に、リシェルは少しだけ気が楽になった。心の内を見透かされたようで、少し恥ずかしかったが、それ以上に理解されているという安心感があった。
「で? 旦那様とはどうです」
トーマの問いかけは、いつも唐突で核心を突く。
「いきなり核心!? えっと、その……まあ、ぼちぼち、ですかね……」
リシェルは、頬を染めながら言葉を濁した。ジュリアンとの関係は、彼女にとってまだ解けない謎のままだ。
トーマは「恋する男の足音は軽くなる……旦那様も然り……」と一言だけ呟き、新芽の手入れに戻っていった。彼の呟きは、庭園の静かな風に溶けて、リシェルの耳には届くことはなかった。もし届いていたら、彼女はきっと、さらに混乱していたことだろう。
その光景を、書斎の窓から見ていた者がいた。
「……なんて癒される光景……」
ジュリアン・ヴァレリオ。立派な執務机に座りながら、窓辺でこっそりカーテンを掻き分けていた。彼の視線は、庭園のリシェルに釘付けだった。彼女がトーマと話している姿、そして、その顔に浮かぶ、心からの安堵の笑み。
(あの笑顔……俺にはまだあんな顔、見せてくれたことがない……)
ジュリアンの胸には、微かな痛みが走った。彼は、彼女が自分に見せる“完璧な令嬢の笑顔”ではない、本当の笑顔を見たかった。だが、どうすれば彼女が心から笑ってくれるのか、彼には分からなかった。風に髪をなびかせるリシェルの姿を見つめながら、彼は無言で紅茶を煽った。
「……やばいな」
その呟きは、彼自身の理性の限界を悟る言葉だった。彼女の無邪気な姿が、彼の完璧な平静を崩壊させようとしている。
午後。図書室に向かう途中、リシェルはエミリアに付き添われていた。図書室はヴァレリオ公爵邸の中でも特に静かで、リシェルのお気に入りの場所の一つだった。
「奥様、今日こそ伊達眼鏡をお試しになりませんか?」
エミリアが、真剣な顔で伊達眼鏡を取り出した。
「えええ!? また?何回目の提案かしら……」
リシェルは、思わず声を上げた。エミリアは、リシェルを“完璧な令嬢”に見せるため、日夜様々な提案をしてくるのだ。
「学びの令嬢という雰囲気が醸せて、旦那様の好みにドンピシャかと……」
「そ、そうかな……でも目立ちすぎない?」
リシェルは、少し躊躇した。伊達眼鏡など、今までかけたこともない。
「ご安心を。レンズは透明、フレームも上品な金縁です。さあ、装着!」
強引にかけさせられたリシェルは、鏡に映る自分を見て目をぱちくり。
「……あれ? 意外と似合ってる……?」
知的な雰囲気が増し、彼女の清楚な顔立ちによく似合っていた。
「でしょう? 完璧です! これで旦那様もイチコロですわ!」
得意げなエミリアに半ば押されるようにして、図書室の扉を開けた——。
「リシェル」
不意に名前を呼ばれ、驚いて顔を上げると、そこにはジュリアンがいた。彼は、図書室の奥にある書棚で本を探していたようだった。彼の視線が、リシェルにかけられた眼鏡に吸い寄せられる。
「しょ、書庫でお勉強をと……思い、まして……」
リシェルは、とっさに言葉が詰まる。彼の突然の出現に、動揺を隠せない。
「うん。可愛いね」
ジュリアンの唐突すぎる小さな一言の破壊力に、リシェルは本を探す手を止めた。彼の言葉は、まるで彼女の胸に直接飛び込んできたかのようだった。
「っ……は、はいぃ……?」
リシェルは、頬を赤らめた。彼の言葉の意味が分からず、ただ戸惑うばかりだ。
「その眼鏡。よく似合っている」
ジュリアンは、眼鏡をかけた彼女の姿を、まるで宝物を見るかのような眼差しで見つめていた。エミリアの言葉が脳裏をよぎる。確かに、ジュリアンの瞳は、いつも以上に輝いているように見えた。
「……あの、ジュリアン様?」
リシェルは、彼の視線に耐えきれず、そっと目を伏せた。
「君は、本当に……可愛い、守りたくなる」
無表情なのにどこか優しげに微笑むように見えるジュリアンの表情。その言葉は、リシェルの心臓を直接掴んだかのようだった。彼女の心臓は、跳ね上がった。
その瞬間、棚の上から数冊の本が音を立てて崩れ落ちた。リシェルが動揺したあまり、手が当たってしまったのだ。
「リシェル!」
咄嗟に彼が抱き寄せた。落ちてくる本から彼女を守るように、ジュリアンは反射的にリシェルを腕の中に引き寄せたのだ。
「っ……ご、ごめんなさい……っ」
リシェルは、彼の腕の中で震えた。本が落ちたことへの謝罪と、突然の抱擁への戸惑い。
「いいや、大丈夫だ。君を守れた、良かった」
抱きしめられたその腕の中は、あまりにもあたたかくて、胸がいっぱいになる。彼の体温が、彼女の薄いドレス越しに伝わってくる。彼女の心は、幸福感と同時に、激しい戸惑いに包まれた。
だが——。
(あれ!? 今の……ちょっと、近すぎた!?)
ジュリアンは、自らの行動にハッと気づき、即座に身を離した。彼は、彼女を抱きしめた瞬間の衝動に、背筋が凍りついた。
「えっと……あの……その、ありがとうございます……」
リシェルは、混乱したまま、お礼を述べるのが精一杯だった。
(……いけない。これは、我慢しないと)
ジュリアンは一歩距離を取り、深呼吸をした。彼の心臓は、激しく脈打っていた。
(いや、今のは危なかった……公爵たるもの、理性を——っ、いや、もう無理……)
彼は、自分が公爵としての冷静さを保てなくなっていることを自覚し、内心で頭を抱えた。リシェルも心のなかで必死に平静を保とうとする。
(ちょっと!? なにあの距離感! 図書室なのに図書が頭に入ってこないんですけど!?)
彼女の頭の中は、ジュリアンに抱きしめられた感覚でいっぱいだった。エミリアは壁際からその様子を見守り、メモ帳にさらさらと書きつける。
【旦那様、理性の限界突破】
リシェルは、ある届け物を手に公爵執務室へ向かっていた。セドリック執事長から、ジュリアンに直接渡すよう言われた重要な書類だ。ノックをして扉を開ける。
「リシェル。どうしたんだい?」
ノックして扉を開けた瞬間、ジュリアンが顔を上げて優しく問いかける。整った顔立ちに、少し眼鏡をずらしてこちらを見る仕草。執務に集中している彼の、普段とは違う無防備な姿に、思わずリシェルの心拍数が跳ねた。
「えっと、その……セドリックさんから、領主印の書類をお届けするようにって……」
リシェルは、声が上ずらないよう必死で抑えながら言った。
「ありがとう。そこに置いてくれるかな」
机に近づいてそっと書類を置いたリシェルは、ふと机の上の地図や資料に目を向けた。広げられた紙面には、ヴァレリオ領の村々の情報が細かく記されている。小麦の収穫予想、川の氾濫リスク、鉱山の生産量、新たな交易路の可能性……。どれもが、公爵領の未来を左右する重要な情報だった。
「……いつも、こんなにたくさんのことを?」
リシェルは、思わず呟いた。彼女が知っている公爵の仕事は、形式的な会議や社交がほとんどだったが、目の前の書類の山は、彼の仕事がどれほど多岐に渡るかを物語っていた。
「ああ。日々、変わる状況を把握しておかないとね。これは小麦の収穫予想、こっちは川の氾濫リスクの見直し。領民の生活、安全、そして公爵領の発展のために、常に最善を尽くす必要がある」
ジュリアンの言葉には、公爵としての強い責任感と、領民への深い配慮が滲んでいた。
「すごい……」
尊敬と驚きが混じるリシェルの瞳に、ジュリアンはふっと微笑みを浮かべた。彼女が、自分の仕事に真剣な興味を示してくれたことが嬉しかった。
「君の家も、南部で多くの文化事業を統括していただろう? きっと、そちらも大変だったはずだ」
「……恐らくは。でも私は、父の背中を見ていただけですから。実際に、これほど細やかに、一つ一つの事柄に目を配っていらっしゃるのだとは……」
リシェルは、彼の仕事の奥深さに感銘を受けていた。彼の完璧さは、ただ見栄えだけのものではない。確かな知識と、弛まぬ努力に裏打ちされたものだったのだ。
「その“見る力”がある人こそ、今後頼りになるんだ。リシェル、君は本当に……」
そこで言葉を止め、ジュリアンは軽く咳払いをした。もう少しで、また自分の本心を口にしそうになったのだ。
「いや、なんでもない。ありがとう、届けてくれて」
「い、いえ、こちらこそ……失礼しますっ!」
リシェルは深く頭を下げて部屋を後にする。彼の言葉の途中で止まった意味が分からず、彼女は混乱したままだった。扉が閉まると、ジュリアンは書類の山に視線を戻したが、その手は止まったままだった。
(……あれは……反則だ)
淡いピンクの頬、ゆるく揺れる髪、真剣な眼差し。理知的で、凛としていて、可愛らしい。彼女のあらゆる側面が、彼を魅了する。
(そんな顔を見せられて、平常心でいられるものか……)
彼は天を仰ぎ、小さくため息をついた。リシェルが彼の執務に興味を示したことは、ジュリアンの心を深く満たしていた。だが、それと同時に、彼女の無邪気な瞳が、彼の理性という名の防衛線を一層蝕んでいく。
夕餉の時間。長い食卓に並んだ料理は、今日も地元の食材をふんだんに使ったものだった。執事長セドリックの采配で、領民から届けられた新鮮な山菜や川魚が中心となっている。厨房のジャン料理長が腕を振るった、彩り豊かな料理の数々が、食欲をそそる香りを漂わせる。
「わぁ、これって……ツィルの丘の山菜じゃないですか? 子どもの頃に食べたことあります!」
リシェルが目を輝かせて嬉しそうに声を上げると、料理長ジャンが嬉しそうにうなずいた。彼もまた、公爵夫人が自分の料理を心から喜んでくれることに、大きな喜びを感じていた。
「ええ、お嬢様……いえ、奥様のお里の方でも親しまれていると伺いまして。懐かしい味を再現してみました」
ジャンは、リシェルの故郷の味を再現するために、セドリックを通して密かにエルノワーズ家から情報を聞き出していたのだ。
「とっても香りがいいですね。……あっ、このお出汁、干し椎茸と……笹の葉も?」
リシェルは、一口食べて、その繊細な味覚に驚いた。彼女は、一つ一つの食材が持つ個性を、丁寧に感じ取ろうとしていた。
「さすが奥様、お気づきになりましたか。まさにそのとおりです」
ジャンは、リシェルの洞察力に感嘆の声を上げた。これほど細やかに味覚を理解できる人物は、そうはいない。
一口食べて、にっこりと頬をほころばせるリシェル。その姿を、ジュリアンは向かいの席から黙って見つめていた。彼の漆黒の瞳は、彼女の笑顔から一瞬も離れない。
(……なんて愛らしいんだ)
目を細めて微笑む様子、少し食べにくそうにして小首をかしげる仕草、皿の隅まで丁寧に食べる律儀さ。そのすべてが彼の心に刺さる。彼の理性は、もはや風前の灯だった。
「……ジュリアン様?」
エミリアが紅茶を注ぎながら、ひょいと覗き込む。彼女の視線は、ジュリアンの内心を正確に射抜いていた。
「っ、な、なんだい?」
ジュリアンは、慌てて視線を逸らした。
「……また、奥様のことを見惚れていらっしゃいましたね」
「そ、そんなことは……ない。たぶん」
ジュリアンは、苦し紛れに言葉を絞り出した。彼の頬は、わずかに紅潮しているように見えた。
「素直になられたほうが、理性に優しいと思いますよ?」
エミリアの言葉は、まるで彼の心を読んでるかのようだった。
「きみ、それ以上言うと、今夜から食後の菓子が出なくなるかもしれないよ」
ジュリアンは、冗談めかして言ったが、その声には少しばかり焦りの色が見えた。
「まぁ、それは困りますね」
エミリアは、飄々とした態度で言い放った。彼女の存在は、ジュリアンにとって、ある意味で最高の壁であり、ある意味で最高の理解者だった。
2人のやり取りをよそに、リシェルは料理長と山菜の下処理談義に花を咲かせていた。彼女の笑顔は、この屋敷の食卓を、いっそう明るく彩っていた。
(……本人が気づいてないのが、いちばん罪深い)
ジュリアンは静かにそう思った。彼の愛情は、彼女の知らないところで、どんどん深まっていた。
(だが……それでこそ、君だ)
夕餉の後、執務を片付けていたジュリアンがふと手を止める。机の隅に置かれた、リシェルが午後に届けた書類と、彼女の筆跡。丁寧な文字に、ほんのり香る花の香り。それは、彼女が庭園で触れていたであろう、春の香りだった。
彼はその場に座り直し、ふうっと息を吐いた。
「……君が来てから、この屋敷が本当に明るくなった」
静かにそう呟いて、そっと目を閉じた。彼の心には、リシェルの笑顔、彼女の穏やかな声、そして彼女の真摯な眼差しが、鮮やかに焼き付いていた。完璧な公爵ジュリアンは、彼女の存在によって、少しずつ、人間らしい温かさを取り戻しつつあった。
——次第に、夜が更けていく。
公爵邸の窓から漏れる明かりは、春の夜の闇に静かに溶け込んでいった。リシェルとジュリアン。すれ違いながらも、互いを想い、互いに惹かれ合う二人の日々は、まだ始まったばかりだった。
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