一緒に食べよう

河野彰

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 迎えた春休みは想像以上に大変だった。
 去年までは学童に預かってもらえていた。しかし、今年はそれが出来ないので、実咲貴は基本一人で一日中家にいる。仕事を休もうかとまで、一時は考えた。それほど実咲貴のことが心配だった。 
「もう三年生になるんだから一人で大丈夫よ」
「女の子でしょ? きっとおとなしく過ごしてくれるわよ」
 数少ないママ友は相談しても呑気なものだった。そう気楽に考えられるほど、自分は実咲貴とコミュニケーションを取れていない、とは言い出しづらかった。
 仕方ないので、一人で勝手に外出しないこと、ご飯(またもやナゲットだが)はテーブルの上にあること、玄関チャイムが鳴っても決して出ないことなどを「お約束」として冷蔵庫にでかでかと貼っておいた。
 それでも子供は何をするかわからない。ことに実咲貴は最近反抗期なのか成長したのか、貴史との「お約束」を破ってしまうことが増えつつあった。
 不安で不安で、仕事にならなかった。五時十五分の終業の合図で急いで会社を飛び出す。
 何事もなかったら良いが……。
 マンションまでたどり着くと、ちょうど下りてきたエレベーターに飛び乗ろうとして、はっと気付いた。先客だ。
「あれ、昨日の……お父さん?」
 おっとりとした声と大きな影がエレベーターから下りてきた。
 昨日会った修吾だった。
 修吾は襟の立った白いシャツに黒のパンツ、ロングの黒いチェスターコートを身に纏っていた。巨躯で濃い顔立ちのモデルのような修吾にはそのシックなコートが良く似合っていて、一瞬、貴史は目を奪われる。
 返事のない貴史のことを不思議そうに見つめ返して、修吾が首をかしげた。
「あの……?」
「あー……あ、一さん、でしたっけ」
 どうにか答えながらも不躾な眼差しだったと、瞬間、貴史の体温が上がった。思わず下を向いてしまう。
 修吾がほっとしたように笑みを深めると、眉尻が優しげに下がった。 
「そうです。僕、今から出勤なんですよ。店が六時からで。えと、お父さん……はお仕事終わりですよね、お疲れさまです」  
 修吾はさりげなく貴史に道を譲った。貴史は慌てて上着のポケットを探り名刺入れを取り出し、慣れた手際で名刺を差し出す。
「昨日はうっかりしていて、ご挨拶が遅れました。三坂と申します」
「これはご丁寧に。三坂、貴史さんとおっしゃるんですね。娘さんもいらっしゃるから、貴史さんとお呼びしても?」
「それは、ええ。……あ、今からご出勤なんですよね。お引き留めしてすみませんでした」
「全然構いませんよ。良ければ本当にいつでも、ご家族で食事をしに来てください」
「それは……はい、分かりました。ぜひ寄らせてください」
 家族という言葉に貴史の笑顔が一瞬ひきつった。だが、すぐにもとの外行きの笑顔に戻して修吾に別れを告げた。
 妻と娘と自分と……三人家族だと思われただろうか。いや、今はそんなことどうでも良い。実咲貴はきちんと留守番できただろうか。何事もなければ良いが……。
 しかしそんな貴史の願いは見事に裏切られたのだった。



「ただいまー。実咲貴、良い子にしてた、か……」
 鍵が開いていた。
 真っ青になって貴史は部屋へと思わず土足で踏み込んだ。
「濡れ……?」
 すぐに異常事態なのが分かった。
 まず玄関へ入ってすぐのところに、宅急便らしき包みが置かれていた。中身は開けられ、梱包材の発泡スチロールが周囲へ飛び出し、そして何故か「要冷凍」の中身──蟹鍋のセットは、上がり框に置きっぱなしで半分以上溶けかけていた。
 動転していた貴史はびしょ濡れの蟹パックを手に廊下を進む。
「実咲貴、実咲貴ー!?」
 開けっぱなしのリビングダイニングまで来た。
 貴史は嫌な予感がしつつ、中を覗き込んだ。
 何故かダイニングテーブルの上に椅子が置いてあった。
 そして、ティッシュだろうか……細かくちぎられた紙片が何かの儀式さながらにテーブルを中心に沢山ばらまかれていた。
 目を転じれば、キッチンも燦々たる状態だ。鍋がひっくり返り、中のうどんが付属の出汁とともに床やシンクへ飛び散っている。
 当の実咲貴は──いた。ベランダに近い部屋の角でタブレットを見つめている。無事だ。
「実咲貴! 大丈夫だったか!?」
 思わず駆け寄り、抱き締めていた。
 タブレットには実咲貴のお気に入りの魔法少女のアニメが流れていた。
「……カニが、冷凍してくださいって、ばぁばから」
 ぼそっと実咲貴が呟いた。目はタブレットに向けられたままだ。
「お義母さんから!?」
 義理の実家は、確かに東北だった。けれど十一月も早々に蟹が届くなんて思ってもみなかった。何となく状況を察して、貴史は蟹を床に置いた。どうやら事件ではないらしい。
「うん、だから部屋の鍵を開けたの。宅急便のおじちゃんが、溶けちゃうよって……けど、開けたら冷蔵庫に入んなくて……」
「だから、置きっぱなしに……?」
「ん……」
「ティッシュは……?」
「テレビで、お山が初雪ですって……だから、真似してお部屋を真っ白にしようと思って」
「……なんで、チキンナゲット食べなかったんだい? うどんが良かった?」
「だって、実咲貴も……お料理できるも、ん……」
 貴史は出来るだけ優しく静かに尋ねていたはずだった。けれど実咲貴はとうとう泣き出してしまった。うえええん、としゃくりあげて大粒の涙をこぼしながらすがり付いてくる。その手は蟹とうどんの出汁の匂いと、あとはともかくよく分からない臭いがして、貴史はぎゅっと実咲貴を抱き締め返した。
「怪我がなくて、良かった……」
「っ実咲貴、一人でっ、できる、もんっ……」
「分かったよ。……頑張ったな」
 頭を撫でると余計にしがみついてくる我が子が愛おしくまた哀しかった。一人で留守番を頑張ろうとした我が子を嬉しく感じたし、また明日からもこうなのかと辛くも思った。そしてやはり実咲貴を一人にしておいてはいけないと強く心に念じた。
 ひとしきり泣くと、実咲貴は下を向きながらおずおずと付け加えた。
「……おトイレ、詰まちゃった……」
 貴史はもう笑うしかなかった。
 
 

 翌日から一週間。貴史は残りの有給を全部取り、実咲貴と一緒に過ごすことに決めた。
「……パパ、お仕事は?」
 有給初日、少し遅めに実咲貴を起こしに部屋へと行くと実咲貴は眠たげな眼をぱちぱちと瞬かせて不思議そうに聞いた。貴史が普段着のままだったからだろう。普通ならとっくにスーツに着替えているところだ。
「仕事はお休みだよ。……実咲貴が頑張ったご褒美だ」
「ほんとう?」
 眠そうだった実咲貴の目がぱっと輝き、笑顔になってすぐに走り寄ってきた。抱き上げ洗面に向かうと、機嫌良く鼻歌を歌っている。やはりいきなり一人は寂しかったかとしみじみ頬ずりしてやる。
 顔を洗いご機嫌なまま歯磨きをする実咲貴は足元がやはり楽しげにステップを踏んでいる。それを見て小さく笑いながら貴史は一応と聞いてみた。
「実咲貴、朝ご飯なにが食べたい?」
「おうどん!」
「え、」
 驚いた。ナゲットやポテト以外のリクエストはこの二年間で初めてだった。
「……なんのうどんが良いんだ?」
「玉子! お月見の!」
 実咲貴が歯ブラシを握りしめ、飛び跳ねるように言った。
 合点がいった。それは生前、妻の咲良がよく作っていたうどんだった。咲良は料理が上手とはお世辞にも言えなかった。だが、市販の出汁と冷凍うどんで作るうどんは手軽だからとよく作っていた。
 貴史は懐かしく思いながら、昨日、実咲貴がどんな思いで台所に立ったかと思いを馳せた。
「分かった。月見うどんだな」
「うん!」
 髪をくしゃりと撫でてやってから貴史は洗面所を離れた。
(市販の出汁にみりんを少し入れるの。お出汁が少し甘くなって美味しいのよ) 
 咲良の声がふいによみがえった。
(覚えてるよ……)
 リビングの端の小さな仏壇に目を向ける。位牌と遺影、焼香用の小さな鉢が置かれているだけの空間。そこからさりげなく目線を逸らして、貴史はキッチンへと立った。
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