一緒に食べよう

河野彰

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 翌日の夕暮れ時だった。  
 荒廃した生活を立て直す気力も湧かぬまま、貴史は実咲貴を連れてスーパーからの帰り道を歩いていた。  
 商店街の入り口を通りかかったとき、貴史の足が凍りついた。
 数メートル先、買い出しの大きな紙袋を抱えた修吾が、こちらに背を向けて歩いていた。  あの時駅で見かけた別の誰かはいない。一人、いつもの少し猫背気味な、けれど大きな背中。  
 貴史の心臓が、喉から飛び出しそうなほど激しく鳴った。逃げ出したい衝動と、追いかけたい衝動が脳内で激突する。
 その葛藤に決着をつけたのは、実咲貴だった。 
「あ、いっちゃ、ん……!?」  
 かすれた、けれど切実な娘の声。  
 修吾が弾かれたように振り返った。  
 一瞬、彼がいつものように破顔するのではないかと期待してしまった。だが、修吾の顔に浮かんだのは、見たこともないような怯えと、深い拒絶の色だった。
 修吾は貴史と視線が合うなり、まるで幽霊でも見たかのように目を見開き、踵を返して走り出した。 
「待って……待ってください!」  
 考えるより先に身体が動いた。実咲貴を抱き上げて、貴史は修吾の背中を追って商店街の雑踏を駆け抜けた。
「修吾さん!」  
 ビストロの勝手口に逃げ込もうとする修吾の腕を、貴史は背後から全力で掴んだ。  がっしりとした、けれど震えている二の腕。
「……離して、ください」  
 修吾の声は、ひどく掠れていた。彼は貴史の方を向こうともせず、ただ固く目をつむっている。
 「あ、あの……昨日は、その、駅前で……貴方を見ました」  
 言い訳にもならない言葉を並べようとする貴史の手を、修吾がゆっくりと、けれど確かな拒絶の力で振り払った。
「はは、見られてましたか。……俺は、汚いでしょう?」
 修吾がようやく振り返った。その瞳には、あの夜、貴史が投げつけた「異常者」「汚い手」という言葉の刃が、今も深く刺さったままだった。 
「あなたが言ったんです。まともじゃない、娘に触れさせるなと。……その通りです。だから、もう追ってこないでください。あなたの正しい世界を汚したくないんだ」
 その言葉は、どんな罵倒よりも鋭く貴史の胸を抉った。  
 修吾はそのまま店の中に消え、重い鉄の扉が閉まった。ガチャン、という鍵の閉まる音が、決定的な別れを告げる鐘の音のように響いた。
 貴史は、冷たく閉ざされた鉄の扉に額を押し当てた。
 指先は震え、膝は今にも崩れ落ちそうだった。
 背後では、実咲貴が不安げにパパの背中を見つめている。
 この場所で、修吾がどれだけ心を込めて料理を作り、自分たちを待っていてくれたか。
 それをおぞましいものとして切り捨てた己の傲慢さが、鋭い痛みとなって胸を抉った。

「修吾さん……。聞こえていますか」
 貴史の声は、夜の帳が下り始めた裏路地に低く響いた。
「身勝手なのは分かっています。あんなに酷い言葉を投げつけて、あなたを……一修吾という人を、この世で一番深く傷つけた。……本当に、申し訳ありませんでした」

 扉の向こうからは何の返答もない。
 だが、貴史は止まらなかった。ここで退けば、二度と自分の中の「本当」を取り戻せないと確信していた。
「俺は、臆病だったんです。母親のいない実咲貴を、まっとうに育てなきゃいけないって……そのまっとうという言葉に縛られて、一番大切なものを見失っていました。あなたがゲイだとか、そんなことは、あなたが俺たちにくれた温もりに比べたら、何の意味もないことだったのに」
 貴史は一度言葉を切り、実咲貴の小さな肩をそっと抱き寄せた。
 娘の前で、己の醜さをさらけ出す。それが父親としての最後の誠実さだと思った。
「実咲貴……パパは間違っていた。いっちゃんは、悪い人なんかじゃない。パパが、自分の弱さのせいで、いっちゃんを傷つけたんだ」
 実咲貴の瞳に涙が溜まる。貴史は再び扉に向き直り、叫ぶような熱量で訴えた
「修吾さん! 前のようには戻れないかもしれない。でも……もう一度だけ、チャンスをくれませんか。あなたの料理を、あなたの笑顔を、もう一度だけ信じさせてほしい。……俺には、あなたが必要なんです。あなたがいなければ、俺たちの食卓は、あの日からずっと凍りついたままなんだ!」
 沈黙が長く続いた。
 商店街の喧騒が遠くで聞こえる中、路地の空気だけが重く沈殿している。
 諦めて鍵を置こうとしたその時、カチリ、と内側から鍵の外れる音がした。
 ゆっくりと開いた扉の隙間から、修吾が姿を現した。
 その顔は涙で濡れ、光を失った瞳が貴史を真っ直ぐに見つめていた。
「貴史さん。あなたは、何も分かっていない」
 修吾の声は、震えるほどに低く、深い情愛と絶望を孕んでいた。
「僕が、どんな気持ちであなたと実咲貴ちゃんを見ていたか。ただの隣人として、親切にしていただけだと思っているんですか?」
 貴史が息を呑んだ瞬間だった。
 大きな影が貴史を覆い、修吾の手が貴史の頬を乱暴に、けれど慈しむように包み込んだ。
 熱い唇が、そっと貴史の唇を塞いだ。
 それは謝罪を受け入れるための和解の儀式などではなかった。
 何年も押し殺し、この街で独り静かに生きてきた男が、初めてさらけ出した剥き出しの飢餓だった。
 
 実咲貴の目の前で、男と男が。
 頭が真っ白になり、心臓の音が耳元で爆発する。
 修吾の唇の熱さ、縋りつくような手の力。
 不意に唇が離れた。
 修吾は、肩で息をしながら、真っ赤な目で貴史を射抜いた。
「僕は、こういう関係性を築きたいんです。あなたの隣で、あなたの身体を求め、あなたという男を愛したい。……それが僕の誠実です。あなたは、こんな僕を、受け入れられるというんですか?」
 貴史は、言葉を失った。
 謝罪をして、また隣人として、良き友人として「元通り」になれると思っていた。
 だが、修吾が求めていたのは、そんな生温いものではなかった。
 自分を、一人の男として愛するという、逃げ場のない宣言。
 修吾は、呆然と立ち尽くす貴史の沈黙を拒絶と受け取ったのかもしれない。
 彼は悲しげに口角を上げると、貴史の手から予備の鍵をひったくるように奪い取った。
「……帰ってください、『三坂さん』。僕と向き合えないなら、もう二度とここへ来ないでください」
 バタン、と再び扉が閉まった。
 今度は、内側から重いかんぬきをかけるような音が響き、周囲を拒絶した。
 夜の路地に、貴史と実咲貴だけが取り残された。
 扉の向こうからは、もう物音一つしない。
 突きつけられたあまりにも重い「愛」という名の最後通牒。
 貴史は、自分の唇に残る熱に指を触れながら、ただ暗い鉄の扉を見つめ続けるしかなかった。
 その扉は、その夜、二度と開くことはなかった。
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