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閑話:ノクスの夜明け
閑話:ノクスの夜明け
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世界は最初から、錆びた鉄の味と、湿った土の匂いしかしていなかった。
ノクスの記憶の始まりは、陽の光ではなく、冷たく☆鉄格子の感触だ。魔導士の一族という仰々しい肩書きを持つ両親にとって、ノクスは息子ではなく「精度の高い魔力伝導体」に過ぎなかった。
三歳から六歳までの三年間、彼は光の届かない地下の鳥かごの中で過ごした。食事は一日に一度、魔力を活性化させるための苦い薬草を混ぜた粥が、格子の隙間から無造作に放り込まれる。それを泥水ですする音が、彼の世界のすべてだった。
「もっと魔力を練れ。肉体を削り、魂を導線にしろ」
父の冷酷な声が、魔法陣の刻まれた床を叩く杖の音と共に響く。
七歳になると、ノクスは鳥かごを出された。だが、自由が与えられたわけではない。首には魔力を抑制する重い鉄の鎖が繋がれ、庭の隅にある犬小屋同然の掘っ立て小屋が、彼の「家」となった。
雨の日は泥にまみれ、冬の夜は自分の体温だけで凍えを凌ぐ。両親は、極限状態に置かれた肉体の方が、より鋭敏な黒魔導を引き出せると信じて疑わなかった。ノクスにとって、親とは「痛みを与える神」であり、自分は「痛みに耐えるだけの獣」だった。
十歳になった、嵐の夜のことだ。
実験の失敗を理由に、ノクスは意識が飛ぶまで打ち据えられた。泥の中に顔を埋め、血の混じった唾を吐き出した時、彼の中で何かが音を立てて千切れた。それは怒りですらなく、ただの結末であり、極限まで苛め抜かれた脳が叩き出したのは悲しいまでの結果だった。
(……ああ、もう、いいかな)
暗い情熱が、ノクスの指先から溢れ出す。鎖を繋ぐ杭を影の刃で断ち切り、彼は初めて自分の足で「神々の寝所」へと向かった。
寝台で安らかに眠る両親の首筋を、影の触手で締め上げる。
──夜を編む指(ナイト・ウィーヴァー)発現。
抵抗する間もなかった。彼らの命の灯火が消える瞬間、ノクスが感じたのは、驚くほど平坦な虚無だった。返り血を浴びたまま、彼は嵐の中へ踏み出した。鎖のちぎれた首輪だけを残して。
それから五年。
彼は死神と呼ばれ、影に潜み、喉を裂くことだけに特化した暗殺術を磨き上げた。生きることは、作業。食べることは、燃料補給。心は、ずっとあの地下の鳥かごに置いたまま。
——だが、その作業は、ある赤毛のお人好しによって完膚なきまでに破壊された。
「ノクス。おはよう」
宿屋の窓から差し込む、白磁色の柔らかな光。ノクスが浅い眠りから目覚めると、そこには自分の命を狙った相手に、なんの警戒心もなく、黄金色のスープを差し出すマナトがいた。
「なんだ、毒でも入れたか。マナト」
「あは。そんなわけないでしょ。ノクスの好きな、お肉多めだよ」
マナトの手が、何の躊躇いもなくノクスの細い肩に置かれる。
かつて痛みしか与えなかった「人の手」が、今は驚くほど温かい。その掌から伝わってくるのは、理屈を超えた全肯定の熱量だった。その手は誰にでもかざされる。生命あるものはその手のひらで愛撫される。ノクスは視線を逸らし、乱暴に皿を受け取った。だが、その指先はわずかに震えている。
(俺を繋ぐ鎖はもうない……)
スープから立ち上る湯気が、視界を滲ませる。
横ではフェリスが「私の分より肉が多い気がしますが!? マナト!」と不機嫌そうに騒ぎ、マナトが「フェリスには後で別なの作るから」となだめている。暗殺者として生きた五年。繋がれた野犬の人生だった十年。暗闇しか知らなかった彼にとって、このあまりにも眩しい光景は、恐ろしいほどの救済だった。
「美味い。けど、俺には甘すぎて……焼けそうだ」
そう毒づきながら、ノクスはスープを啜った。頬を伝った熱い滴が、スープの中に落ちて波紋を作る。それは、十歳の夜に流せなかった、孤独な少年の涙だった。
「ふふ。おかわり、あるからね」
マナトが再び、ノクスの肩にそっと手を置く。ノクスはもう、その手を振り払うことはしなかった。錆びた鉄の味に支配されていた彼の人生に、ようやく本物の夜明けが訪れた瞬間であった。
「ああ。おかわり!」
不器用ながら、笑みの気配のようなものを浮かべてノクスは空の皿を差し出した。
ノクスの記憶の始まりは、陽の光ではなく、冷たく☆鉄格子の感触だ。魔導士の一族という仰々しい肩書きを持つ両親にとって、ノクスは息子ではなく「精度の高い魔力伝導体」に過ぎなかった。
三歳から六歳までの三年間、彼は光の届かない地下の鳥かごの中で過ごした。食事は一日に一度、魔力を活性化させるための苦い薬草を混ぜた粥が、格子の隙間から無造作に放り込まれる。それを泥水ですする音が、彼の世界のすべてだった。
「もっと魔力を練れ。肉体を削り、魂を導線にしろ」
父の冷酷な声が、魔法陣の刻まれた床を叩く杖の音と共に響く。
七歳になると、ノクスは鳥かごを出された。だが、自由が与えられたわけではない。首には魔力を抑制する重い鉄の鎖が繋がれ、庭の隅にある犬小屋同然の掘っ立て小屋が、彼の「家」となった。
雨の日は泥にまみれ、冬の夜は自分の体温だけで凍えを凌ぐ。両親は、極限状態に置かれた肉体の方が、より鋭敏な黒魔導を引き出せると信じて疑わなかった。ノクスにとって、親とは「痛みを与える神」であり、自分は「痛みに耐えるだけの獣」だった。
十歳になった、嵐の夜のことだ。
実験の失敗を理由に、ノクスは意識が飛ぶまで打ち据えられた。泥の中に顔を埋め、血の混じった唾を吐き出した時、彼の中で何かが音を立てて千切れた。それは怒りですらなく、ただの結末であり、極限まで苛め抜かれた脳が叩き出したのは悲しいまでの結果だった。
(……ああ、もう、いいかな)
暗い情熱が、ノクスの指先から溢れ出す。鎖を繋ぐ杭を影の刃で断ち切り、彼は初めて自分の足で「神々の寝所」へと向かった。
寝台で安らかに眠る両親の首筋を、影の触手で締め上げる。
──夜を編む指(ナイト・ウィーヴァー)発現。
抵抗する間もなかった。彼らの命の灯火が消える瞬間、ノクスが感じたのは、驚くほど平坦な虚無だった。返り血を浴びたまま、彼は嵐の中へ踏み出した。鎖のちぎれた首輪だけを残して。
それから五年。
彼は死神と呼ばれ、影に潜み、喉を裂くことだけに特化した暗殺術を磨き上げた。生きることは、作業。食べることは、燃料補給。心は、ずっとあの地下の鳥かごに置いたまま。
——だが、その作業は、ある赤毛のお人好しによって完膚なきまでに破壊された。
「ノクス。おはよう」
宿屋の窓から差し込む、白磁色の柔らかな光。ノクスが浅い眠りから目覚めると、そこには自分の命を狙った相手に、なんの警戒心もなく、黄金色のスープを差し出すマナトがいた。
「なんだ、毒でも入れたか。マナト」
「あは。そんなわけないでしょ。ノクスの好きな、お肉多めだよ」
マナトの手が、何の躊躇いもなくノクスの細い肩に置かれる。
かつて痛みしか与えなかった「人の手」が、今は驚くほど温かい。その掌から伝わってくるのは、理屈を超えた全肯定の熱量だった。その手は誰にでもかざされる。生命あるものはその手のひらで愛撫される。ノクスは視線を逸らし、乱暴に皿を受け取った。だが、その指先はわずかに震えている。
(俺を繋ぐ鎖はもうない……)
スープから立ち上る湯気が、視界を滲ませる。
横ではフェリスが「私の分より肉が多い気がしますが!? マナト!」と不機嫌そうに騒ぎ、マナトが「フェリスには後で別なの作るから」となだめている。暗殺者として生きた五年。繋がれた野犬の人生だった十年。暗闇しか知らなかった彼にとって、このあまりにも眩しい光景は、恐ろしいほどの救済だった。
「美味い。けど、俺には甘すぎて……焼けそうだ」
そう毒づきながら、ノクスはスープを啜った。頬を伝った熱い滴が、スープの中に落ちて波紋を作る。それは、十歳の夜に流せなかった、孤独な少年の涙だった。
「ふふ。おかわり、あるからね」
マナトが再び、ノクスの肩にそっと手を置く。ノクスはもう、その手を振り払うことはしなかった。錆びた鉄の味に支配されていた彼の人生に、ようやく本物の夜明けが訪れた瞬間であった。
「ああ。おかわり!」
不器用ながら、笑みの気配のようなものを浮かべてノクスは空の皿を差し出した。
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