さよなら私のドッペルゲンガー

新田漣

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1巻

1-3

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 俺と深谷がよく訪れる喫茶店は、出町柳でまちやなぎ駅から徒歩三分のところに位置している。ほぼ毎週通っているこの店は、俺たちの部室だと紹介しても過言ではないだろう。薄暗い店内には小洒落こじゃれたジャズが流れ、珈琲豆の深い香りがアロマのように漂っている。そして、閑古鳥かんこどりが常に鳴いている素敵な場所である。

「俺、ミートソース。トラウマになるくらいの大盛りで。墨染は?」
「いつもの明太子パスタ。誠意のある大盛りで。珈琲は食後で頼んます」

 注文を気怠けだるげに聞き終えたマスターは、小さな声で「あいよ」と言い残し厨房へ去っていく。凛はマスターがいなくなったのを確認してから、重々しく口を開いた。

「最初の一手は、どうしましょうか」
「そうだなぁ。いきなり飛びかかるわけにもいかないし」

 俺と凛がうんうん悩んでいると、深谷は「それならよ」と前置きして注目を集める。

「まずは初対面のふりして、接触してみねえか? 生前の凛ちゃんの生活を辿たどれば、ドッペルゲンガーも同じことをしているはずだろ。決まった行動とか習慣はなかったのか?」

 なるほど。確かにそうかもしれない。俺は期待を乗せて凛を見る。
 凛が「そうですねぇ」と呟きつつ、店内に飾られた写真の数々を見やる。額縁に固定された京都の町並みは、いずれもマスターが撮影したものらしい。凛はそれらをたっぷりと眺めてから、伸ばした指を一本ずつ折り曲げていく。

「高校に行って、帰宅して、夕方には鴨川で茶々丸ちゃちゃまるの散歩をして……」
「誰だ、その古風な名前のオッサン」
「犬ですよ。なんで選択肢の先陣を切るのがおじさんなんですか」

 凛が心底呆れたように目をつむる。
「なら、犬の散歩をする凛ちゃんのドッペルゲンガーに接触してみるか?」と、深谷が提案する。

「ああ、そうするか。散歩は決まった時間だったの?」
「はい。晴れている日は夕方の六時くらいですね」
「なるほど。まだ一時間以上あるな」

 俺は壁に掛かった時計を眺める。これだけ余裕があれば、追加でアイスクリームを注文しても間に合うだろう。そう考えていると、言いづらそうに凛が口を開いた。

「えっと、私のドッペルゲンガーと接触するのはいいんですけど……大きな問題があります」
「ほう。その問題とは?」
「思考が私と同じであれば、初対面の男性に声をかけられたら警戒するはずです。ましてや、先輩方のような人が相手だと催涙スプレーに片手が伸びるかもしれません」

 強烈な言葉のアッパーカットが直撃する。
 確かに、俺の前に現れた凛は異常事態の真っ只中で、人見知りをしている場合じゃないと言っていた。だが、ドッペルゲンガーは違う。平常時の凛を模しているとすれば、俺たちなど異分子でしかない。
 手厳しい現実に、俺と深谷はうなだれた。それはもう、でろんでろんに。
 テーブルに頭を擦りつけてクネクネとしていると、髭面ひげづらのマスターが二つの皿を運んでくる。

「気持ち悪い動きすんなら、よそでやれ」
「……客引き効果とかあると思うんです」
「こんな動きで寄ってくる奴なんざ妖怪だ」

 マスターは言葉を吐き捨てながら、のしのしと厨房に戻っていく。
 まったく、素直じゃない人だ。俺と深谷は口角を吊り上げながら、料理と一緒に運ばれてきたアイス珈琲に口を付けた。食後に出してほしいと伝えたはずだが。なんなんだ、あのヒゲ。
 俺はぷりぷりと怒りながら、明太子パスタをすする。出汁だしが絡んだアルデンテの麺と、ぴりりと辛い明太子が舌先でがっつりと絡み合う。
 変わらぬ美味しさに俺はすぐさま機嫌を取り戻すが、深谷は真剣な表情を浮かべていた。

「どうした深谷。マスターのヒゲでも入ってたか?」
「違う。気色の悪いことを言うんじゃねえ。ただ、ドッペルゲンガーって、何が目的なんだろうなと思って」

 その疑問は、俺にとって盲点だった。凛が恨みを抱いているから復讐劇に協力する。その程度の認識だったので、ドッペルゲンガーの思惑については想像を広げていない。
 深谷の問いかけを受け、凛は口をすぼめながら仮説を切り出した。

「もしかしたら、私に成り代わるのが最終目標だったのかも」
「だとしたら、これからは何を考えて生きていくんだろう」
「……現時点ではわかりません。そもそも、悪意があるのかどうかも」
「凛を殺している以上、悪意はあるはずだ。だから復讐したいんだろ?」
「そう、ですね。いえ……私は、そう思いたいのかもしれません」

 歯切れの悪い返答が積み重なる。どうしたのかと問いかけるより早く、深谷がぱんと手を叩いた。

「ま、どのみち接触しなきゃわかんねえ。だったら、黒髪にするしかねえな」
「……黒髪?」
「そうだ。俺は金髪、墨染は茶髪。だから警戒心を抱かれる。真面目な黒髪にすれば万事解決だ」
「なるほど、その手があったか! 完璧じゃねえか!」

 盛り上がる俺たちだったが、凛は鋭い指摘をする。

「確かに茶髪と金髪の馬鹿に抱く印象なんてロクなものではないですが、先輩方は丸坊主でも馬鹿に見えます」

 アッパーカット再び。二度目のダウンをした俺は、革張りのソファにもたれかかるしかなかった。うなだれる俺をよそに、深谷が力強く立ち上がる。

「まあ、やらねえよりマシだろ。家に黒染めスプレーが残ってたはずだから、取ってきてやるよ」

 深谷はこちらを一瞥いちべつもせず、片手を挙げて去っていく。まっすぐ伸びた背筋は、まるで深谷が真人間であるような錯覚を抱かせる。だが、俺は騙されない。

「あいつ、ここの支払いを踏み倒す気だな」

 俺が確信をもって呟くと、深谷は目にも止まらぬ速さで店から飛び出した。扉にぶら下がったベルが、荒々しく鳴り響く。

「……先輩方って、本当に友達なんですか?」
「友情の形が、どれも綺麗とは限らないんだよ」
「そのようですね。少なくとも、今見た友情は足で作ったプラモデルみたいでした」

 あわれむような凛の視線を浴びながら、俺はアイス珈琲に口を付ける。
 厨房の奥にいたはずのマスターが、俺の逃走を警戒するようにカウンター付近に陣取っていた。


 京阪けいはん電車の出町柳駅近くには、鴨川デルタと呼ばれる三角州が存在する。
 さらさらと流れる浅い川を横断する石のオブジェ。その上を楽しげにぴょんぴょんと飛ぶ子供。昼間から宴に興じる大学生。そんな市民の憩いの場と化した空間で、スプレーを手に向かい合う半裸の男子高校生が二人。
 言うまでもなく、俺と深谷だ。

「何してるんですか……」

 冷ややかさを含んだ凛の声が、夏の空に溶けていく。夕方とはいえ照りつける直射日光は容赦がなく、京都市内は地獄の猛暑日を記録していた。
 俺は仰々ぎょうぎょうしく声を作り、手を挙げて宣言する。

「これより、脱・見た目がパーティーの儀をり行う。ここにある黒染めスプレーで生まれ変わるのだ」

 付近にいた大学生が、いいぞいいぞとはやし立ててくる。俺と深谷は投げキッスで声援に応え、再び向かい合う。

「墨染よ、このスプレーは仕上がりが最悪だと評判の代物だ。分量を誤れば、カツラのような光沢感になっちまう」
「ああ、作戦のためにも失敗は許されない」

 このスプレーは、髪の表面に色素を付着させるだけだ。お手軽な反面、安価な商品だとムラが出やすく扱いづらい。しかし、高校生のお財布事情では高価なスプレーに手を出せないのだ。

「情報によれば、凛は夕方六時前にこの鴨川デルタで犬の散歩にいそしむはずだ。ファーストコンタクトにはうってつけの場所だ。よし、頼んだぞ」

 俺は凛から聴取した情報を、再度深谷に伝えた。ドッペルゲンガーが凛として生きているのならば、生活リズムも同じだろう。

「任せとけ、墨染」

 俺は切腹をする武士のごとく正座になり、深谷は介錯かいしゃくをする武士のごとく背後で構えた。ただならぬ緊張感が鴨川デルタを包み込む。道行く人々は、俺たちをいぶかしむような視線を浴びせる。

「私、周りから見えなくて良かったです」
「まるで、一緒にいるのが恥ずかしい様な口振りじゃん」
「まさしくその通りなんですけどね」
「へへへ、よせやい」
「それ、やめてもらえませんか」

 どうやらお気に召さないらしい。まあいいや。
 俺は片手を挙げ、深谷に合図を出す。それを確認した深谷が、俺の後頭部に勢いよくスプレーを吹きかけた。黒染めスプレーをムラなく仕上げる秘訣はただ一つ。
 ノリと勢いである。角度や順番のような小手先の技術など、俺たちには必要ない。
 深谷はカリスマ美容師のような手早さで側頭部の染色を終え、前髪の仕上げに突入した。

「……墨染先輩の顔、爆破コントのオチみたいになってますけど」

 凛が的確に現状を伝える。前髪を通過して顔面に射出されるスプレーの量で大体察しはついていたが、どうやら、今の俺はすすまみれに見えるらしい。

「墨染、手は尽くした」
「ありがとうな。攻守交代だ」

 俺は感謝の念を述べながら、深谷の髪にスプレーを噴射した。
 同じように仕上がったのは言うまでもない。上半身がまだらに黒くなった俺たちを見比べて、凛は心底不安そうな声で問いかけた。

「本当に、その姿でドッペルゲンガーに接触するんですか。せめて服を着ませんか?」
「この上からワイシャツを着たら、汚れちゃうじゃん」
「まずは存在感の汚れを気にかけてくださいよ」
「でも、これで見た目のパーティー感はなくなっただろ?」
「パーティーの種類が変わっただけですけどね」

 凛はなおも不満気な様子だが、やり直す時間も金もない。

「後はドッペリンの適応力に賭けよう」
「あの……ドッペリンってなんですか」

 言わずもがな、今生きている方の凛、つまりドッペルゲンガーの呼び名である。呼び方で混乱しそうなので、便宜上ドッペリンと呼ぶ。
 俺は気を取り直して深谷へ向き直り、最終確認を促す。

「今日は核心に踏み込まず、当たり障りのない会話で距離を詰めるのが目的だ。わかったか?」
「オーケー、任せとけ墨染。俺の得意分野だ」

 深谷は自信ありげに頷いてみせるが、凛の視線は冷ややかだった。それでも俺は軽い口調を維持して、凛に微笑みかける。

「凛はここで待機だな。自分の命を奪った存在と対峙たいじするのは、まだ怖いだろ?」
「……そう、ですね」

 凛は自分の身体を抱き、思案するように俯く。そして、そのまましばし固まっていたが、天秤が僅かに俺たちの方へ傾いたらしい。凛は不安を吐露した。

「先輩方を監視しないのも、怖いですけどね」
「大丈夫だ。俺たちを信じてくれないか」
「色違いの馬鹿と放屁ほうひ魔の何を信じるんですか」

 手痛い反論に、俺と深谷はまたダメージを負ってしまう。
 だが、今の俺たちはいつもと違う。使命感に燃える男は打たれ強いのだ。肩で息をしながらダメージに耐えていると、深谷が「あっ」と大声を出した。

「あれ、ドッペリンじゃね?」

 深谷が指差したのは土手の上。そこには、紛れもなく白谷凛の姿があった。水色のTシャツに黒のハーフパンツを合わせたラフな格好で、ふわふわの茶色い毛玉みたいな犬を連れている。俺は隣にいる凛と見比べながら、他人の空似でないのを確認した。

「見た目は、凛そのものだな」

 驚く俺に被せるように、深谷が「慎ましやかな胸もそっくりだ」といらん賛同をする。凛からドス黒いオーラが溢れ出したので、俺は必死になってフォローする。

「まあ、ここから先は任せとけ。俺たちが絶対に上手くやってやるから」

 凛の目を真っ直ぐ見つめる。凛は深谷の心ない一言に怒りの表情を浮かべていたが、やがて困ったように微笑んだ。

「……任せました、墨染先輩」

 ふにゃふにゃした笑顔を間近で見た瞬間、もっと眺めていたい感情に駆られる。
 しかし、早くしなければドッペリンは去ってしまう。俺は下心を抑え、深谷と横並びになって歩を進めた。
 目指すはドッペリン。どのような手を使っても仲良くならねばなるまい。ここは戦場。勝てば官軍、負ければ賊軍の厳しい世界なのだ。
 前方を歩くドッペリンは、毛玉犬を連れて鼻歌交じりに散歩している。

「お嬢さん、少し失礼」

 深谷が歩幅を広くして、先陣を切った。
 なるほど。いつもの無気力な自分ではなく、紳士さを前面に出して大人の余裕で籠絡ろうらくする作戦か。やるじゃねえか。溢れ出るジェントリズムの前では、高校一年生の女子などイチコロだ。俺は期待の意を込めて成り行きを見守る。

「なんですかその格好。劇団の方ですか?」

 だが、いきなり話しかけられたドッペリンは、後頭部から伝わるほど警戒心を剥き出しにする。冷静に考えれば無理はない。今の俺たちは、肩から上を黒く染めた変態だ。
 とはいえ、これは予期せぬパス。あとは劇団員のふりをしてパスを受け取り、流れに乗ってシュートを決めるだけだ。
 俺は深谷の背に視線を送り、意思疎通を図る。深谷は気配を察したのか、背中越しに親指を立ててみせた。

「いいえ、そういう者ではありません。アッハッハ!」

 俺は思わず川へ転落しそうになる。
 アイツ、絶好のパスに見向きもしなかった。
 劇団員から変態に格下げされ、いつ通報されてもおかしくない状況が整ったのに、深谷の足取りは余裕を崩さないままである。汗でぬらぬらと黒光りしているせいか、もはや夏の鴨川にだけ現れる妖怪の類にも見えてきたが、まだ何か妙案があるのかもしれない。深谷は馬鹿ではあるが、能無しの阿呆ではないはずだ。俺は一縷いちるの望みを託し、なおも深谷を見守る。

「そんなことより、お嬢さんが連れているトイプードル可愛いですね」

 前言撤回、どうやら能無しの阿呆のようだ。深谷の出で立ちは、そんなことでは済まされない。身の毛もよだつ会話のデッドボールである。
 この作戦は失敗だ。凛にどう言い訳しようかと考える俺をよそに、深谷はバリトンボイスでなおも滔々とうとうと語りやがる。

「トイプードルって、実はヨーロッパの方では十八世紀頃から存在した犬種らしいですよ。日本では、比較的新しいイメージがあるので驚きですよね」

 深谷はドッペリンの反応を気にする様子はなく、トイプードルのうんちくを垂れ流す。
 強引ではあるが、この作戦はアリかもしれない。共通の話題で盛り上がるのは、仲良くなるために有効な手段である。ここにきて、俺は深谷の評価を改めた。やはり、コイツはやるときはやる男である。伊達に黒縁眼鏡をかけていない。
 けれど、ドッペリンの反応はかんばしくない。困ったように立ち止まって、深谷の方に身体を向けた。
 小さな唇が、ゆっくりと開く。

「あの、この子……ポメラニアンです」

 それは、あまりにも無情な宣告。
 深谷はその場で倒れ、小刻みに痙攣けいれんし始めた。自信満々だっただけに、さぞ恥ずかしいだろう。恥辱にまみれ、涙に濡れる戦友に別れを告げ、俺はドッペリンの隣に並んだ。さてドッペルゲンガーよ、一勝負といこうじゃないか。
 そう意気込んだが、ドッペリンは思いもよらぬ反応を見せた。

「あれ、もしかして墨染先輩ですか?」
「……え?」
「その顔、やっぱりそうですよね。校舎で送り火を敢行した噂のお馬鹿さんと、お話してみたかったんです」

 ドッペリンは悪戯いたずらっぽく口元を緩ませて、俺の顔を覗き込んだ。
 ああ、そうか。凛は俺を知っていたので、同じ脳を共有するドッペリンも俺を知っているのか。
 どう返答すべきかと迷う俺をよそに、ドッペリンは「今日は一体何してるんですか」と問うてくる。

「……ああ、夕暮れを優雅に散歩するのが俺の日課なんだ」
「その格好で、ですか?」
「夏は基本こうだな」
「冬の訪れを願いたくなりますね」

 ドッペリンはそう言いつつも、嬉しそうに茶々丸のリードを引っ張った。

「まあいいです、一緒に歩きませんか?」
「そう、だな」

 驚くほどスムーズに事が運ぶ。文字通り無駄死にした深谷を思考から切り離し、どう会話を展開しようかと考える。
 沈黙が訪れる。
 茶々丸がハァハァと息を荒らげ、俺の足元で飛び回る。蹴飛ばさないように注意しながら歩いていると、唐突にドッペリンが口を開いた。

「墨染先輩って、やっぱり変な人ですよね。なんですかその格好。顔なんて爆破コントのオチみたいになってますよ」

 衝撃が俺を貫いた。打ち合わせしたわけでもないのに、凛と同じ言葉選びである。改めて、ドッペリンの存在が夢や幻の類ではないと思い知った。
 俺は気を引き締めなおし、ドッペリンと当たり障りのない会話を続ける。鴨川沿いをゆっくり歩いていると、神宮丸太町駅じんぐうまるたまちえきの近くまで辿り着いていた。
 一時間弱とはいえ、蒸し暑い夏の夕方に散歩をするのは重労働だ。
 俺たちは橋の下で少し休憩する。茶々丸はドッペリンが差し出した水をぺろぺろと舐め回していた。人よりも嗅覚が鋭い犬でさえ、本物の凛ではないと気がついていない様子だ。

「墨染先輩って、本当に楽しい人ですね」
「そ、そうか?」
「はい。私は人見知り気味なんですけど、全然気負わずに喋れてますし」

 ドッペルゲンガーだと知りつつも、凛の顔で笑いかけられると胸の鼓動が速くなる。不覚にも、デートしている錯覚にさえ陥ってしまう。俺は伸びて落ちそうになる鼻の下を必死に持ち上げながら、真顔を維持する。

「最近、少し嫌なことがあったので、久しぶりに笑った気がします」
「どしたん? 話聞こうか?」

 ワンチャンを狙うヤリチンのような言葉選びになったが、俺はあくまでも紳士を装って接する。ドッペリンは力なく笑いながら、風で揺れる川面を見つめた。

「なんだか、頭がぼんやりしてるんです。記憶喪失って表現はオーバーなんですけど、それに近い症状が出ちゃいまして。全部忘れちゃったわけではないんですけど、ここ一週間の記憶だけが、すっぽり抜けちゃってます」

 その言葉に、思わず固まってしまう。
 一週間といえば、ドッペルゲンガーが本物の凛を殺害して成り代わったタイミングと一致する。記憶喪失を装い、成り代わりを偽装する演技とも取れた。ドッペルゲンガーが悪意で動く存在であれば、接触する人間をあざむくくらいは容易たやすくやってのけるだろう。
 だが、もし本当に記憶がないとすれば。目の前のドッペルゲンガーが、自身を白谷凛だと思いこんで生きているとしたら。
 考えただけで、呼吸を忘れてしまう。両手が震えた。
 殺害には、絶対に踏み切れないと断言できる。だってそれは、凛を殺すのと同じだから。

「……先輩?」

 停止してしまった俺を、ドッペリンが心配そうな表情で覗き込む。俺は取り繕うように笑い、軽い口調で謝罪する。

「あぁ、ごめん」
「なんだか顔色が悪いですよ。熱中症かも……」
「大丈夫大丈夫、小籠包だって中が熱いほうが美味いだろ?」
「意味わかんない理論ですよ、それ」

 ドッペリンは心底おかしそうに笑った。この笑顔さえ演技だとしたら、尊敬に値するほどの役者である。黒塗りの深谷とはモノが違う。なんだったんだ、アイツの演技。
 俺が悪友の死に様に思いをせていると、ドッペリンが俺の腕をつんと突いた。

「ねえ先輩。一緒に写真を撮っていいですか?」

 そう言いつつも、ドッペリンのスマホはすでにカメラモードに切り替わっている。
 魂でも取る気かと警戒したが、ここで断るのは不自然だ。俺は「いいぞ」と頷いて、ドッペリンに身体を寄せた。
 シャッター音が耳に届く。向日葵ひまわりみたいな笑顔と、揚げすぎたコロッケのような顔が収められた。

「あはは。こうして見ると、すごい状態ですね」

 ドッペリンは目元に笑みを湛えたまま、噛みしめるように呟く。

「大事にしますね」
「……本当に、そんな写真でいいのか?」
「こういうのが逆にエモいんですよ」

 俺にはよくわからない感性だったが、本人が満足しているならいいか。一人で納得していると、ドッペリンは何かを思い出したように立ち上がる。

「あ、そろそろ帰らなきゃいけないので、ここで失礼していいですか?」
「ああ、もうそんな時間か。俺も帰らなきゃな」

 ドッペリンの真意は定かでないが、ファーストコンタクトとしては十分な成果を挙げただろう。凛と深谷が首を長くして待っているはずなので、こちらとしてもありがたい申し出だった。

「また……会えますよね?」

 ドッペリンが、少し寂しそうな素振りを見せる。
 夕陽に照らされて赤く染まった表情は、息が止まるほど美しかった。思わず胸が締め付けられそうになり、俺は適当に返事をして強引に解散する。これ以上会話をすると、情が芽生えそうだったから。

「さよなら、墨染先輩!」

 笑顔の彼女に俺は手を挙げて応えつつ、鴨川沿いを北に上って出町柳まで急いで戻る。駆け足になりながらも、ドッペリンとのやり取りをゆっくりと反芻はんすうしていた。
 今日の印象だけで言えば、ドッペリンは白谷凛そのものだ。とてもじゃないが、悪意の集合体とは思えない。このまま茶々丸の散歩を終え、家族が作った料理を食べて、シャワーで汗を流してから勉強をするのだろう。そこまで想像すると、自ずと嫌な結論に辿たどり着く。
 凛が望む復讐は、白谷凛の周囲まで不幸におとしいれる。
 娘を失った親の姿は、凛自身の苦しみに繋がってしまうはず。そこまでの覚悟が、果たして凛にあるのだろうか。
 ヒグラシの声が脳内に反響する。すれ違う人々の会話や、川端通を走る車のエンジン。流れる川に、鳥のさえずり。その全てが混ざり合い、思考の邪魔をする。
 俺はやがて、考えるのを諦めた。凛も遅かれ早かれ復讐の代償に気付くだろうが、今伝えるメリットは存在しない。凛の精神がもっと安定したタイミングで伝えればいい。馬鹿特有の先延ばしにする悪癖だと言えなくもないが、ポジティブ思考には欠かせない技の一つなのだ。
 そう自分に言い聞かせ、納得するしかない。
 ふと足元を見ると、地を這うせみに大量の蟻がむらがっている。死にかけたせみは、何かを訴えるようにジッと鳴いた。


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