教師と生徒とアイツと俺と

本宮瑚子

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38. 儚き夏の日-7

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    おめでとうと伝えれば、グラスを持ったまま奈央が固まった。

「まさか、自分の誕生日、忘れてたのか?」
「私……誕生日だったんだ」
「本気で忘れてたのかよ」

 苦笑を洩らしながら、俺は小さな箱を奈央の前へと滑らせた。

「え?」
「誕生日プレゼント。気に入るか分かんねぇけど」

 グラスをテーブルに置いた奈央は、小さな箱を手に取り、リボンを解いてそっと蓋を開ける。
 箱の中には三つのダイヤが縦に並んだ、現在・過去・未来を意味するスリーストーンネックレス。奈央の未来が明るいよう、願い込めて選んだものだ。

「つけてやるよ」

 箱からそれを取り出し奈央につけると、石の部分を指で弄り黙って見ている。

「気に入らなかったか?」

 何も言わない奈央に焦って聞くと、奈央は静かに首を左右に振った。

「何年振りだろう。誕生日を誰かと一緒に過ごすのって」
「何年ぶりって、ずっと一人だったのか?」
「うん、そうだね」

 ……だったら、あいつは? あいつにも祝って貰ったことないのか? 林田が言っていた、奈央が本気で好きだったって言う、昔付き合ってた男にも……。

「好きな男と過ごしたりは?」

 一瞬だけ俺を見た奈央は、またダイヤに視線を落とした。

「過去に一度だけ憎むほど好きな男がいたけど。でも、誕生日迎える前に別れたから。違うか、捨てられた……かな」

 自分で話を振っておきながら、まさか奈央が別れた男の話を口にするとは思わなかった。ただ、誕生日を過ごしたか否か……。その事実だけを淡々と語られるとばかり思っていただけに、男の存在を知っていたとはいえ、痛烈に胸に刺さる。

「辛かったな。一人きりの誕生日は寂しかっただろ?」

 痛みを押し隠して言う俺とは違って、奈央は冷静だった。いや、冷淡な物言いというべきか。

「勘違いしないでよ。男に限らず誕生日を祝って貰いたいなんて感情、もともと持ち合わせてなかったから。中学の時は敢えて一人でいた位だし」
「どうしてだ?」
「頼んでもなければ、好きで産まれてきた訳でもない。勝手にこの世に送り込まれた日ってだけで、おめでとうって言われて、ありがとうって返すのが苦痛でしかなかった」
「……」
「ここ二年くらいは、気づいた時には夏が終わってた、って感じかな」

 俺だってある程度の年になってからは、誰かに祝って欲しいだなんて強く望んだ事はない。
 でも必ず誰かがいた気がする。それは、建前上そうしただけであったとしても、親が一緒だったり、女がいたり。そいつ等におめでとうと言われて、別段湧き上がる喜びもなかったが、相手が俺の誕生日だって知っていても知らなくても、俺が一人で過ごした記憶はなかった。

 ──奈央。それはお前の本心か? 気付いたら夏が終わってたって……。どんな思いで、お前は一人で過ごしてきた?

 色んな思いがぐちゃぐちゃになって交差し、俺はそれを整理出来ないままで。脳には何も指令を出していないのに、気づけばそうしていた。
 それは、そうしようと思ってした事ではなくて。自分でも、どうしてこうしたのか考える暇もないほどに。
 気付けば俺は……、奈央の唇に、自分のものを重ね合わせていた。

 触れる唇が静かに離れれば、俺をジッと見つめる奈央がいる。俺もその瞳から逃れようとはしなかった。

「そんな冷めた思いを抱えたまま大人になるなよ。俺みたいに損するぞ」
「……」
「俺も他人と深く関わりたくないって思ってた。どうせ俺の背負ってるもんを見てるんだろって、勝手に決め付けて。そんな奴らを蔑んだ目でも見てた。でも、いつもどこか満たされなくて……」
「……」
「それが、奈央と出会って変わった。人と関わるのも悪くねぇなって、いつも他人の上辺しか見てこなかった俺が、奈央と一緒にいる内にそう思うようになったんだ。誰かといるって結構楽しいもんなんだって知った。今まで、そんな事も知らなかった俺って、結構損してたなって思うよ」

 夜とは言えまだ夏だ。この気温の中、一気に話したせいで、俺の喉は水分を求めていた。
 でも、まだシャンパンに口をつけていない奈央より先に、それを飲む気にはなれず、代わりに無造作に煙草を一本引っこ抜くと火を点けた。喉の渇きは増しても、熱く語っただけに恥ずかしさも伴って、一息入れたかった。
 奈央の視線も俺から離れ、吐き出した煙を追うように見ている。その視線を、俺の言葉がもう一度取り戻した。

「奈央」
「うん?」
「奈央は好きで生まれてきた訳じゃないって言うけどさ、俺にとっては、俺を変えた大事な奴だから……」

 煙を深く吸い込み吐き出すと、精一杯の想いを言葉に乗せる。

「だから奈央。生まれてきてくれて、ありがとな」

 簡単におめでとうって言うより、俺にとってはこっちの方がピッタリくる。
 奈央の唇が僅かに動いたように見えたが、だが丁度その時、間接照明が消え、暗くなった辺りに目を向けた奈央は、それ以上何かを口にする事はなかった。
 テーブルの上の水に浮かんだキャンドルだけが、風に揺られながらも明かりを保っている。
 もうすぐ花火が打ち上げられる時間だ。

「とりあえず、乾杯し直すか」

 煙草を灰皿で押し潰し、その手でグラスを持つ。

「奈央もグラス持てよ」
「……うん」

 互いに笑みを浮かべながら再びグラスを合わせて、漸くシャンパンを口にした。

「ねぇ、敬介。三つだけ質問していい?」

 グラスを置いた奈央が、首を傾げ尋ねてくる。

「答えられる質問ならな」
「うん。じゃ、一つ目。何で私の誕生日知ってたの?」

 それは前に言われたからだ、奈央に。
 今度はクラスも任された訳だし、適当な斜め読みはしなかったから、インプットされた情報も多い。
 もっとも、誕生日まで覚えているのは奈央だけだ、というのは秘密だ。

「調査書に書いてあったから」
「そっか。じゃあ二つ目。敬介の誕生日はいつ?」
「10月25日」
「そう。借りはちゃんと返さないとね。敬介の誕生日は私がお祝いしてあげる」

 笑って言う奈央に俺も笑みを返したが、笑っていられたのもここまでだった。
 答えられる質問のみ受け付けたはずなのに、三つ目の質問は、落ち着きを奪われるほど、俺でさえ分からない難問だった。

「最後の質問。敬介、さっきのは……なに?」

 奈央の顔が、小悪魔な笑みへと変わる。

 さっきとはイコール、キス……だよな?……何でしたんだ、俺。どうしてキスした?

 今更ながら自分の早まった行動に動揺し、胸の鼓動が忙しなく動き出す。
 そりゃ、俺の心の奥底を叩けば、したいと言う願望は以前からあったけど、そんなの言えるはずもない。
 ただ、あの時は……。
 奈央が孤独だったんじゃないかって思ったら、ジッとなんてしてられなくて。一人じゃない、って伝えたい気持ちが、言葉より先に行動に……出た?
 何れにせよ、口にするのははばかれる。何か適当な理由でも見つけなくては……。

「あ、あれだ。誕生日プレゼントだ」

 何だ、このこじつけは! と、自分ですら思う無理な言い訳に、何故か奈央は、小悪魔風を感じさせない柔らかな笑みへと変える。

 ……ん? この理由で納得してくれんのか?

「そうなんだ! ありがとう、敬介」

 もしかして、喜んでる? 思わず顔がニヤケかけた俺は甘かった。

「って、喜ぶべき?」
「っ!」

柔らかい笑みは、焦りが見せた幻覚だったか。今は、その表情にひと欠片の笑みも浮かんでいない。

 ……やっぱ怒ってんのかよ。無表情で見んな、怖いから。

「奈央だって断りもなく俺にしただろ、バーで。これでおあいこだ」

 半ば開き直りで言ってはみたが、覚悟は出来ている。最低・変態・エロ教師……もうどうとでも言ってくれ!

 なのに奈央は、「ならしょうがないね」そう言って、今度こそ本当にクスリと笑った。

 夏の空に高く向う、ヒューッと音が聞こえたかと思えば、俺達の視界がパッと明るくなり、一発目の花火が夜空に咲いた。

「ガキには興味ないんだもんね、敬介は。体は反応するみたいだけど」

 遅れて届く胸を震わす花火の音に、これ幸いと、昼間の失態を弄られても、聞こえないふりで押し通す。
 そして、花火大会の幕開けとばかり、続けざまに花火が打ち上げられ、爆ぜる大きな音が重なる中、俺は聞いた。

「ありがとね、敬介……ありがとう」

 苦痛でしかないと言った、奈央のありがとうを。二回も繰り返された、奈央のありがとうを。
 ともすれば花火の音に掻き消されていたかもしれない、その小さな声を、俺は確かに聞いた。

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