教師と生徒とアイツと俺と

本宮瑚子

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51. 感情の矛先-1

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    俺の手元に合鍵が戻って来てから五日。あれからマンション内で奈央と顔を合わす事はなかった。
 会ったら『旨かった、ご馳走様』と、真夜中に食べた、奈央が最後に作ってくれたオムライスの礼だけは、きちんと伝えたいと思っていたのに。五日も間が空いてしまうと、唯一、話すきっかけとなりそうな言葉でさえ、今じゃ躊躇って言えそうにもない。
 奈央と会えるのは、この場所だけ……。

「水野」
「はい」

 学校内なら、今もこうして俺が名を呼べば、奈央は俺の目を見て返事をしてくれる。
 俺に残された、たった一つの奈央との繋がり。教師と生徒という関係。それだけが奈央が卒業するその日まで、虚しくも変わる事無く続く。

 抱く胸の内は、苦しくて、切なくて。でも、その声は愛しくて、耳にしたくて。教室に一歩足を踏み入れれば、奈央の顔を見られる代わりに心渦巻く澱みを押し殺し、教師なのだからと、大人なのだからと、そう自分に言い聞かせる。
『お帰り』と、言ってくれる気配のない静まり返った部屋に戻れば、教師なんて、大人なんて、我慢を強いられるだけの辛い立場だと、酒を飲み自棄気味に一人嘆く日々を過ごしていた。

 そんな日が更に数日が過ぎ、三者面談も始まって、それも中盤に差し掛かる頃には、他の生徒の事を念頭に置きながら、教師として遅くまで仕事に没頭するようになった。
 忙しくしている方が今の俺にとっては都合が良い。あの部屋に戻れば、何を見ても奈央の残像が浮かんでしまう。ベッドに入る事すら素面しらふでは難儀なほどに。

 そしてこの時期、忙しいのは何も教師だけではない。面談最終日の二日後には、文化祭も控えている。
 いくら、三年は簡単な出し物しかしないと言っても、看板だ、内装だ、と手作り作業はあるわけで。三者面談中で三年の教室を使えない生徒達は、別棟でその作業に追われていた。しかも、暗くなるまでだ。
 勿論、本人の意思ではないだろうが、当然、その中には奈央もいて、暗くなってから一人帰らせるのは何かと心配だった。

「おい、まだやってたのか? 今日は、もうここまでにして早く帰れよ」

 その日の面談も終わり、うちのクラスが作業している教室を覗けば、そこにはまだ半数以上の生徒達が残っていた。

「えー、でも、まだ30分はここ使っててもいいんじゃねーの?」

 ジャージ姿で手にはペンキを塗るための刷毛を持った一人の男子生徒が、時計をちらり見て言う。
 確かに、最終下校まではまだ時間がある。しかし、曇り空だった今日の天気は、普段より太陽の光を早くに奪っていた。

「そうだけどな、外見ろよ。もう暗いだろ? せめて女子は帰して、やるんならお前等ヤローだけでやれよな」
「だったら問題ねーって。みんなでまとまって帰るし」
「じゃあ、同じ方面の奴等はまとまって一緒に帰れよ。それから、俺まだ職員室にいるから、終わったらここ鍵掛けて俺んとこ持ってこいな」
「「「はーい」」」

 太い声、低い声、甲高い声が入り混じった素直な返事。ただ、その中に奈央の声は含まれていない。
 見渡した教室の片隅で、俺に視線を向けるでもなく黙々と小さな紙で何かを作っていた。その傍には、同じように何かを作っている芹沢の姿もある。

 ……アイツがちゃんと送ってくか。

 余計な心配を胸にしまい、教師がいる必要もないこの教室を後にした。
 それから三十分と少し。俺の元に、教室の鍵を返しに来たのは芹沢だった。

「失礼します。先生、これ」
「おう。片付けも終わったか?」
「はい」
「なら、ちゃんと送ってけよ?」
「……」

 鍵を受け取った時にチラリと芹沢の顔を見ただけで、書き物をしながら交わしていた会話は、突然に止まる。

 ……何故、急に無言になる?

 ペンを動かすのを止め、芹沢と目を合わせる。

「どうかしたか?」

 いつもの爽やかな笑顔はなく、ただ黙って突っ立ったまま俺を見下ろしていた。

「おい、どうした?」
「あ、すみません。でも、送ってくって、誰をですか?」
「……」

 今度は、俺の方が言葉を止めた。
 送って行けと芹沢に言った時、浮かんだ相手は当然奈央だが、教師としてはそのまま告げる訳にはいかない。

「誰って訳じゃないが、さっきも言ったよな? 皆で一緒に帰れよって。もう暗いし女子もいるんだから、一人で帰さないようにって事だ。他の男子にも言っておいてくれよ」
「先生は、まだ帰れないんですか?」
「あぁ、俺はまだ仕事頑張んないと」
「そうですか。じゃ、みんなには言っときます」
「おぅ、頼むな。気をつけて帰れよ」
「はい」

 何だよ、芹沢の奴。他の女子生徒だって一人で遅くに帰したくはないが、普通、芹沢の立場なら真っ先に奈央を送ってやろうって思うんじゃねぇのか? 彼氏なら、当然だろ。何をとぼけてんだよ!

 考えれば考えるほどイライラし、やがてそれは不安へと変わる。

 アイツ本当に分かってるよな? ちゃんと、送ってくんだろうな?

 職員室を出て行く芹沢の背中を見送りながら、一抹の不安を覚え徐にポケットに手を突っ込んだ。

 奈央に近寄って来るバカ男は、わんさかいんだぞ? しっかりガードしてやれよ。それが出来るのは、俺じゃねぇし。芹沢に託すしかねぇんだし。何で、まだ俺がこんなに心配しなきゃなんねぇんだよ。くそっ!

「沢谷先生ッ!」
「っ!」

 突然、怒鳴り声が職員室に響く。
 声のする方を辿れば、教頭が顔をしかめて俺を見ていた。

「沢谷先生。ここは禁煙ですが?」
「あっ、す、すみません!」

 奈央で埋め尽くされた脳は、ここが職員室だと言う事をすっかり忘れていたらしい。
 他の先生達の視線が一斉に俺に集まる。
 気付けば煙草を口に咥え火を点ける寸前でいた俺。周りの数ある視線に頭を軽く下げながら、慌ててその煙草をへし折りゴミ箱へと投げ捨てた。

 病気だな、これは。それも現代の医学を持ってしてでも治らない、厄介な病。
    唯一、治せる奴がいるとしたら……。

 浮かんだ顔に、またすぐ脳内を支配されそうになって、慌てて頭を振り追いやると、深いため息をついて仕事へと気持ちを切り替えた。
 それからの俺は、教頭のしかめっ面を思い出しながら、何とか緊張感を維持し続け、仕事をやりこなして午後八時前には学校を出た。

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