教師と生徒とアイツと俺と

本宮瑚子

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70. 喪失-1

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    林田のことも、送ってくれると言う父親達を見送る為にフロアに出ると、奈央の部屋の前で足を止め、『すみません、宜しくお願いします』と今日何度目かの頭を下げた父親。
 ドアを見つめ、『何かあった時には連絡を下さい』そう言って、その奥にひっそりと身を置いているだろう奈央に気持ちを残しながら、エレベーターに乗り込み帰って行った。


 誰もいなくなり、息を軽く吐き出してから、インターフォンへと手を伸ばす。
 俺が来るのは想定しているだろうが、素直にこのドアを開けてくれるかどうかは、かなり微妙だ。合鍵なんて返すんじゃなかった。
 しかし、後悔をしても今更だ。頭を切り替え、先ずはこのドアをどうやって開けさせるか、と策を練っていると、

 ───ガチャリ

 すんなりと解錠する音が聞こえ、内からドアが開かれた。
 だが直ぐに、俺を迎え入れる為にドアを開けたのではないと理解する。それは、奈央の格好を見れば一目瞭然だった。

「どこに行くつもりだ?」

 明らかに外出するための出で立ち。制服から大人っぽい私服に着替え、メイクもしっかり施されている。それでも隠しきれない瞼の腫れは、あの後も泣き続けたからなのだろう。左の口端も赤く、僅かに切れていた。

「話あるから部屋に戻れ」
「……煩い。邪魔」
「いいから戻れ!」

 もう少し俺が来るのが遅かったら、本気でどっかに行くつもりだったのかよ。

 間に合って良かった、と力が抜ける一方で、阻む俺をかわし、出て行こうとする奈央の手首を強く掴む。もう片方の手で、中へ戻るようにと肩を押せば、呆気ないほど簡単に内側へと足を引き戻した。
 勿論、抵抗して手を振り払おうとしているのだが、何故かその力は驚くほどに弱い。

「奈央……」
「離して」
「まさか、酒、飲んでんのか?」
「だったら何?」

 目線を落とせば、足下もどことなく覚束ない。

「上がるぞ」

 掴んだ手を離さず、奈央を引きずるようにして、久々にこの部屋に足を踏み入れる。
 リビングに入ると、日が落ちた部屋の中は、頼りないスタンドライトだけが柔らかな光りを灯していた。
 その明かりに浮かび上がる、テーブルの上に転がった空のビール缶二本。
 夏に三郎の所で飲んだ時に比べれば、これくらいでフラつくほど酒に弱い奴とは思えないが、それだけ精神的ダメージが大きく、酔いの回りにも作用した、ということか。

「飲酒が先生にバレちゃ流石にまずいですよね。良いですよ? 説教なら聞いてあげても。何なら、停学にでも退学にでもして下さい、先生」

 奈央は、テーブルに目を遣る俺に、自棄なのか挑発なのか、それとも俺を寄せ付けない為の防御なのか。窓際に立ち、いつもよりゆったりとしたテンポで『先生』を繰り返した。

「お前、ずりぃな。俺を教師だなんて認めてねぇ癖に、都合の良い時だけ祭り上げてんじゃねぇよ」
「……」
「俺は、奈央と二人でいる時、お前を生徒だなんて思えなかった」
「……」
「思おうと努力しても無理だった」

 体を壁に凭れかけたまま窓の外を見ていた奈央は、その視線を俺へと向けた。

「……じゃあ何?」
「言わなきゃ分かんねぇか?」

 奈央に近付き前に立つ。

「俺は、奈央を女として見てる」

 真っ直ぐに視線を注ぎ告げてみても、驚くでもなく眉一つピクリとも動きはしない。

「あの人の話を真に受けて血迷ったとか?」
「奈央の親父さんに会う前から、俺はお前を女として見てた」
「ガキに興味はないって言ってたじゃない」
「言ってたな。自分にそう思い込ませようと努力しながらな」
「……そう。なら……敬介でいいや」

 壁から背中を離し、奈央は手にしていたバックをソファーの方に向って投げ捨てると、力ない目で俺を見上げて言った。

「敬介……抱いてよ」
「…………」

    ──果たして、今のは日本語だったろうか?

 瞬時に意味を咀嚼出来なかった俺は、惚けた考えが浮かぶ程、思考は混乱状態に陥った。

「聞いてる? 人の話」

 ……今、なんつった?

 乱れる思考を何とか取り纏め、数秒前の記憶を巻き戻す。

 『抱いて』そう言ったのか?────どんだけ馬鹿なんだ、この女。

「おまえさ、おちょくってんの?」
「違う」
「じゃ、酔ってんのか?」
「酔ってても自分が何言ってるかは分かってる」
「分かってねぇから、ろくでもねぇこと口にすんだろうが!」
「もしかして焦ってる?」

 いつもみたいに目に力だって入りもしねぇのに、人を見下した様に口の端を上げて挑発しやがって。

「呆れてんだよ。奈央が此処まで馬鹿な奴とは思いもしなかったからな」
「クスッ……ふふふ」

 体を不安定にふらふらと揺らしながら、笑うのを止めようとはしない。

「何がそんなにおかしい?」
「馬鹿なのはお互い様だからよ。敬介も私も同類」

 楽しい話でもするように、尚も笑みを引っさげて話し続ける。

「ずっと思ってた。バーで敬介に声掛けるもっと前から、私と敬介は同類の人間なんだって、ずっと敬介を見て思ってた」
「……」
「女といたって愛想笑いの一つも浮かべないで、余計な話は要らないって態度で。やれればいいのよね?」
「……」
「私も同じ。男なんて、後腐れなく、つまらない時間をやり過ごす相手でいてくれればそれでいい。そんな考えの私達が、こんな変な関係でいたから、くだらない感情に振り回されんのよ」
「……」
「だから壊せばいい、こんな関係。どうせ今夜は、時間をやり過ごすつもりでいたし、その相手、敬介でいいよ。勿論、後腐れなく、ね?」
「それ、本気で言ってんのか?」

 沸々と湧き上がる怒りとやり切れなさ。

 後腐れのない関係。つまらない時間を共有するだけの、ただの男。つまり、その辺の通りすがりの男と、何ら変わらない存在に俺を成り下げ、関係を絶つ。そう言う腹積もり、ってわけか。

「私は、本気だから」

 いつの間にか笑みを消した奈央は、着ているシャツの襟元に手を宛がえた。
 一つ、また一つ、と外されるボタン。黒いレース調のシャツが少しずつ肌蹴ていく。

「止めろ」

 ふざけんなよ。
 例え、酒が言わせたとしてもだ。そんなの認められるか。俺達の関係は奇妙なものだったかもしれない。それでも、その過ごした時間の中で、お前は笑ってたんじゃねぇのか? 苦しみを抱えながらも、一時それを忘れて笑ってたお前だって居ただろ?
 俺達に取っちゃ全てが必要で、足りなかったものさえ気付けた時間でもあったはずだ。唯一の誤りは、その奈央から離れようとした、俺の浅はかさだけだ。

 ボタンにかけられた奈央の手を封じ込めるように、伸ばした右手で覆う。

「ふざけた真似するな」
「ふざけてなんかない」
「いい加減に───」

 俺の手を退かそうと奈央が力を入れた時。乱れた襟元から白い肌がくっきりと浮かび、ハッとした俺は息と共に言葉を呑んだ。
 白い肌に浮かぶ、ある一点に俺の目は奪われ、一度は混乱に陥った思考が、落ち着きを取り戻す。肺から深く息を吐き出し感情をも整えると、奈央の動きを押さえていた右手の力を緩め、そっと外した。

「早くしろ」
「……え?」

    感情を鎮めたばかりに、抑揚のない声音になる。そんな俺を、訝しげに見る奈央に、もう一度言う。

「脱げよ」
「……」
「聞こえねぇのか?」
「……」
「教えてやるから、早く脱げって言ってんだよ」
「……分かった」

 再び奈央の手がシャツの上を動く。
 全てのボタンを外し終えると、俺は乱暴に奈央の纏っているシャツを引き剥がした。

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