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72. 喪失-3
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口端を撫でても、奈央は何も言わなかった。
「奈央の心も体も傷つける事が、親父さんにとっては一番辛いはずなのに、それでもこうして殴るしかなかった親父さんの気持ち、分かるか?」
「……」
「分かってるよな? 奈央はちゃんと愛されてたって。それは今も変わっていないって」
されるがままに撫でられていた奈央が、俺の手から逃れるように顔を逸らすと、俺は先日の出来事を打ち明けた。
「俺も、うちの親父に会って来た」
不意を衝かれたからか、奈央の顔に驚きの色を見る。
「話したの、すげぇ久々。相変わらず無口で愛想もなかったけどな。でも、分かった事もある。俺を跡取りとしてしか見てないと思っていた親父の中にも、一人の父親としての愛情があったんだって」
「……」
「俺が求めてたものとは形が違っても、親父なりの愛情はちゃんとあったんだって、そう思えた。だから、俺が教師をやっていても、邪魔もしてこなかったんだと思う。何も言わないのも愛情。多分、それもあの人なりの表現なんだろうな」
「どうして?」
か細く呟やいた奈央の顔を覗く。
「うん?」
「……どうしてよ。恨んでたんでしょ?」
「だな」
「なら、何で急に気持ちを変えられるの?」
「受け入れたい、そう思ったから」
奈央は訝しげな眼差しを浮かべている。
でも、それが本音だ。
ずっと目を背け、敢えて考えない様にした事で見えなかった部分。目先の言葉だけに囚われ、その奥に潜ませた感情など読み取ろうともせず、不満だけを自分の中に燻らせてきた。あたかも自分だけが不幸だなんて顔して、好き好んでこんな家に生まれて来たんじゃないと否定して……。
「あの家に生まれたのは宿命だ。どう足掻いても変えようのない現実なら、受け入れるしかねぇだろ。でもな、俺の人生は俺だけのもんだ。宿命は変えられなくても、運命だけは変えてみせる。だって仕方ねぇだろ?」
言葉を区切ったのは、同意を求めたからじゃない。これから言おうとしている内容に、少なからず生じた気恥ずかしさを逃すためでもあり、言葉にありったけの想いを乗せるためでもあった。
先を待っている奈央を、横目でチラリと見てから視線を宙に置き、言葉を紡いでいく。
「仕方ねぇじゃん。恨んでばかりの澱んだ人生、これ以上見せたくねぇしな、教師としては」
「……」
「それに、何かを恨んで生き続けるより、大切な奴の幸せを願う人生がいいって思っちまったんだよ、男として」
「……」
「それが俺の幸せでもあるって気づいちまったんだから、仕方ねぇだろ?」
「……」
「何より、俺は指咥えて相手の幸せを願うほど出来た男じゃねぇって充分思い知ったからな。だからもう、逃げるのは止めだ。宿命からも、自分自身の想いからも……。この手で幸せを掴む。それが出来るって証明してやる、お前に」
一方的に言い立てると、奈央の肩を掴み、宙から戻した視線をガッチリ奈央のものと合わせる。
「けどな、決定的な言葉をまだ言うつもりはない」
決定的な言葉……。
それは今更だけど、しっかりと伝えたかった“愛してる”という、奈央だけに抱く想い。
でも、そのたった一言は重く大きい故に、だからこそ容易く言うのは憚られる。
足下を固める、そのスタートラインに立った時。その時が来たら───。
「お前達を卒業させたら、俺も卒業する」
奈央の瞳が戸惑いに揺れる。
「……それ、どう言う意味?」
「マスコミから奈央が守ってくれたのに悪いけど、俺……、教師を辞める」
「ぇ?」
小さな声で驚く奈央に、おどけたように笑って見せた。
「背負わされた人生から逃げるように、俺は教師になったんだ。ふざけた理由だ。こんないい加減な奴が何言ったって信憑性に欠けんだろ? 生徒にだって、女にだって、信頼して貰えるはずねぇよな」
ホント馬鹿だよな? と笑う俺に返ってくる言葉はない。
今なら分かる。初めて二人で過ごした正月。沢谷の息子だと知っていた奈央に、『バカ息子』と言われ、力をつければいいと、私とは違うとまで言わせた俺は、今になって痛いほど分かるんだ。
型に嵌められた運命でも、跡取りとして父親に期待を持たれていただろう俺とは違って、親を喜ばせようと幼い頃から努力してきた挙句、その親に裏切られたと信じ込んできた奈央の胸の内は、どれほど痛んだろうって。どれだけ切なかったろうって。
「だからもう一度、自身の人生に向き合うつもりだ。自分に堂々としていられるように。そのスタートラインに立つ時まで、お前に向ける決定的な言葉は保留にしとく。だがな、それまでお前を放置する気は毛頭ねぇから」
瞬きもしない奈央の視線が俺を突き刺す。
「泣きたきゃ泣けばいい。けど、一人で泣いたりなんかすんな。寂しければ寂しいって言えばいい。いくらだって抱きしめてやる。一人じゃないって分かるまで───」
「いい加減にして!」
その内来るだろうと思っていた拒絶の矢。
疲労感漂う顔に反し高く出されたその声は、俺の言葉を遮りこの部屋に大きく響いた。
「奈央? お前、なんでそんなにムキになる?」
奈央の眼差しは険しくなり、眉間の皺も深さを増す。
でも、そうせずにはいられないんだろ? 怒りを露わにするのも声を荒らげるのも、出会った頃の奈央ならしなかったはずだ。
例え怒りを胸に宿したとしても、相手を冷やかな目で牽制し、そして自らの腹を探られないよう感情を露わになんてしなかった。
だけどもう──無理なんだよ、おまえには。
「敬介が勝手なことばかり言うからでしょ? 決定的な言葉? 何をいうつもりだか知らないけど、そんなもの要らない。疲れるって言ってるじゃない! 今更取り繕ったように奇麗事並べて父親面するあの男も、必要以上に関わろうとする敬介も、もううんざりなの!」
奈央の肩に乗せている俺の手に、怒りで震える震動が伝わる。
その振動で振り落とされてしまわぬよう、置いていただけの手に力をこめ、華奢な肩を掴んだ。
「ほらな? いつも冷静だったはずの奈央が、今じゃそうやって、感情が顔や態度に分かりやすいほど出ちまうんだもんな。違う自分に疲れて当然だ」
「馬鹿にしてるの?」
「してねぇよ。ただ、お前の気持ちが分かるだけだ」
否定したい気持ちが自分の中に芽生えたと気付いた時、人は戸惑い混乱する。奈央に抱いてしまった感情に、気付いた時の俺がそうだったように。
全てを狂わされたくなくて、必死で頭で指令出してブレーキ掛けてみても、思いに反して胸に秘めた想いは日ごと募るばかりで。らしくない自分に戸惑い、持て余す感情を何処にぶつけていいのか分からず、今までの自分をキープする事が、そこから脱する唯一の術だと女に逃げた俺は、恐怖すら感じていた。
そんな頭と気持ちが連動しない葛藤に疲れないはずがない。
ましてや、誰かを恨むという行為を維持しようとするなら、尚更だ。それ相応の理由とエネルギーがなければ難しいだろうに、その力を失いつつあっても、それに気付かぬふりして、恨みと言う名の鎧で自分を雁字搦めにしようとしているのだから。
でも……、
「敬介は何も分かってない。気持ちが分かるって言うなら、もう此処から出てって。そして、金輪際私に関わらないで」
あくまでも拒絶して、全てを認めようとはしないのなら、
「聞こえなかった? 出てってって言ってるの。それでも出ていかないのなら、はっきり言うわ。私は一人が楽なの。敬介なんて必要ない。私は……敬介が嫌いなの」
俺は、奈央が自ら作った綻びに触れ、追い込むしかない。
「だったら……」
思わせ振りに口火を切った俺は、肩に置いた手を移動させ、奈央の首元に指を這わせた。
「奈央の心も体も傷つける事が、親父さんにとっては一番辛いはずなのに、それでもこうして殴るしかなかった親父さんの気持ち、分かるか?」
「……」
「分かってるよな? 奈央はちゃんと愛されてたって。それは今も変わっていないって」
されるがままに撫でられていた奈央が、俺の手から逃れるように顔を逸らすと、俺は先日の出来事を打ち明けた。
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不意を衝かれたからか、奈央の顔に驚きの色を見る。
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「……」
「俺が求めてたものとは形が違っても、親父なりの愛情はちゃんとあったんだって、そう思えた。だから、俺が教師をやっていても、邪魔もしてこなかったんだと思う。何も言わないのも愛情。多分、それもあの人なりの表現なんだろうな」
「どうして?」
か細く呟やいた奈央の顔を覗く。
「うん?」
「……どうしてよ。恨んでたんでしょ?」
「だな」
「なら、何で急に気持ちを変えられるの?」
「受け入れたい、そう思ったから」
奈央は訝しげな眼差しを浮かべている。
でも、それが本音だ。
ずっと目を背け、敢えて考えない様にした事で見えなかった部分。目先の言葉だけに囚われ、その奥に潜ませた感情など読み取ろうともせず、不満だけを自分の中に燻らせてきた。あたかも自分だけが不幸だなんて顔して、好き好んでこんな家に生まれて来たんじゃないと否定して……。
「あの家に生まれたのは宿命だ。どう足掻いても変えようのない現実なら、受け入れるしかねぇだろ。でもな、俺の人生は俺だけのもんだ。宿命は変えられなくても、運命だけは変えてみせる。だって仕方ねぇだろ?」
言葉を区切ったのは、同意を求めたからじゃない。これから言おうとしている内容に、少なからず生じた気恥ずかしさを逃すためでもあり、言葉にありったけの想いを乗せるためでもあった。
先を待っている奈央を、横目でチラリと見てから視線を宙に置き、言葉を紡いでいく。
「仕方ねぇじゃん。恨んでばかりの澱んだ人生、これ以上見せたくねぇしな、教師としては」
「……」
「それに、何かを恨んで生き続けるより、大切な奴の幸せを願う人生がいいって思っちまったんだよ、男として」
「……」
「それが俺の幸せでもあるって気づいちまったんだから、仕方ねぇだろ?」
「……」
「何より、俺は指咥えて相手の幸せを願うほど出来た男じゃねぇって充分思い知ったからな。だからもう、逃げるのは止めだ。宿命からも、自分自身の想いからも……。この手で幸せを掴む。それが出来るって証明してやる、お前に」
一方的に言い立てると、奈央の肩を掴み、宙から戻した視線をガッチリ奈央のものと合わせる。
「けどな、決定的な言葉をまだ言うつもりはない」
決定的な言葉……。
それは今更だけど、しっかりと伝えたかった“愛してる”という、奈央だけに抱く想い。
でも、そのたった一言は重く大きい故に、だからこそ容易く言うのは憚られる。
足下を固める、そのスタートラインに立った時。その時が来たら───。
「お前達を卒業させたら、俺も卒業する」
奈央の瞳が戸惑いに揺れる。
「……それ、どう言う意味?」
「マスコミから奈央が守ってくれたのに悪いけど、俺……、教師を辞める」
「ぇ?」
小さな声で驚く奈央に、おどけたように笑って見せた。
「背負わされた人生から逃げるように、俺は教師になったんだ。ふざけた理由だ。こんないい加減な奴が何言ったって信憑性に欠けんだろ? 生徒にだって、女にだって、信頼して貰えるはずねぇよな」
ホント馬鹿だよな? と笑う俺に返ってくる言葉はない。
今なら分かる。初めて二人で過ごした正月。沢谷の息子だと知っていた奈央に、『バカ息子』と言われ、力をつければいいと、私とは違うとまで言わせた俺は、今になって痛いほど分かるんだ。
型に嵌められた運命でも、跡取りとして父親に期待を持たれていただろう俺とは違って、親を喜ばせようと幼い頃から努力してきた挙句、その親に裏切られたと信じ込んできた奈央の胸の内は、どれほど痛んだろうって。どれだけ切なかったろうって。
「だからもう一度、自身の人生に向き合うつもりだ。自分に堂々としていられるように。そのスタートラインに立つ時まで、お前に向ける決定的な言葉は保留にしとく。だがな、それまでお前を放置する気は毛頭ねぇから」
瞬きもしない奈央の視線が俺を突き刺す。
「泣きたきゃ泣けばいい。けど、一人で泣いたりなんかすんな。寂しければ寂しいって言えばいい。いくらだって抱きしめてやる。一人じゃないって分かるまで───」
「いい加減にして!」
その内来るだろうと思っていた拒絶の矢。
疲労感漂う顔に反し高く出されたその声は、俺の言葉を遮りこの部屋に大きく響いた。
「奈央? お前、なんでそんなにムキになる?」
奈央の眼差しは険しくなり、眉間の皺も深さを増す。
でも、そうせずにはいられないんだろ? 怒りを露わにするのも声を荒らげるのも、出会った頃の奈央ならしなかったはずだ。
例え怒りを胸に宿したとしても、相手を冷やかな目で牽制し、そして自らの腹を探られないよう感情を露わになんてしなかった。
だけどもう──無理なんだよ、おまえには。
「敬介が勝手なことばかり言うからでしょ? 決定的な言葉? 何をいうつもりだか知らないけど、そんなもの要らない。疲れるって言ってるじゃない! 今更取り繕ったように奇麗事並べて父親面するあの男も、必要以上に関わろうとする敬介も、もううんざりなの!」
奈央の肩に乗せている俺の手に、怒りで震える震動が伝わる。
その振動で振り落とされてしまわぬよう、置いていただけの手に力をこめ、華奢な肩を掴んだ。
「ほらな? いつも冷静だったはずの奈央が、今じゃそうやって、感情が顔や態度に分かりやすいほど出ちまうんだもんな。違う自分に疲れて当然だ」
「馬鹿にしてるの?」
「してねぇよ。ただ、お前の気持ちが分かるだけだ」
否定したい気持ちが自分の中に芽生えたと気付いた時、人は戸惑い混乱する。奈央に抱いてしまった感情に、気付いた時の俺がそうだったように。
全てを狂わされたくなくて、必死で頭で指令出してブレーキ掛けてみても、思いに反して胸に秘めた想いは日ごと募るばかりで。らしくない自分に戸惑い、持て余す感情を何処にぶつけていいのか分からず、今までの自分をキープする事が、そこから脱する唯一の術だと女に逃げた俺は、恐怖すら感じていた。
そんな頭と気持ちが連動しない葛藤に疲れないはずがない。
ましてや、誰かを恨むという行為を維持しようとするなら、尚更だ。それ相応の理由とエネルギーがなければ難しいだろうに、その力を失いつつあっても、それに気付かぬふりして、恨みと言う名の鎧で自分を雁字搦めにしようとしているのだから。
でも……、
「敬介は何も分かってない。気持ちが分かるって言うなら、もう此処から出てって。そして、金輪際私に関わらないで」
あくまでも拒絶して、全てを認めようとはしないのなら、
「聞こえなかった? 出てってって言ってるの。それでも出ていかないのなら、はっきり言うわ。私は一人が楽なの。敬介なんて必要ない。私は……敬介が嫌いなの」
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