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74. 過去を受け入れて-1
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──朝か。
カーテンの隙間から差し込む一筋の光を受け、細めた目で腕の中で眠る奈央を見る。
泣いて、泣いて、声が枯れるまで泣き続けて。
疲れ果て眠りに落ちた奈央は、瞳は閉じたままなのに、少しでも俺が動けば小さな手でしがみついてきた。
そんな奈央を手離せるはずもなく、俺の胸に身を預けて眠る奈央を一晩中抱きしめ、完全なまどろみに落ちずとも、苦に感じることはなかった。
赤く腫れた瞼の淵。頬に残る涙の痕。それらは、自分を解放した証。
闇を抱えた時と同じくらい、隠し続けてきた心の内をさらけ出した奈央は、どれほどのエネルギーを要したことか。
今は、ただ。少しでも長く眠らせてやりたかった。今だけは何もかも忘れて、意識は静かな時間に沈ませてやりたい。
そして、目が覚めた時。必要以上に過去の自分を責めることなく、少しでも早く前へと進めるように。そう祈りを込めて、柔らかい髪が貼りついた頬を、そっと撫でた。
腕の中で、奈央の瞼がピクッと動き、瞳がゆっくりと開かれる。しかし、完全に見開くことは出来なかった。腫れた瞼のせいだ。
「起きたか?」
頷いただけの奈央は、腫れた瞼や寝起きだけが原因じゃなく、その瞳は、どこか虚ろで脆く見せた。
「今、冷たいタオル持ってくるから待ってろ、な?」
一晩中巻きつけていた腕を静かに離し、キッチンへと向かう。
氷水で冷やしたタオルを持って、再び奈央の隣に座ると、綺麗な瞳を隠してしまうほど腫れあがった瞼に宛がえた。
天を向き、タオルを押さえる奈央は、
「コーヒー淹れてくるな」
声を掛けても一言も発せず、悄然と頷くだけだった。
どこかで予感はしていた。奈央の性格を鑑みれば、こうなるんじゃないかと。
いくら自分をさらけ出したとは言え、直ぐに開き直れるほど器用な奴じゃない。
優しいが故に傷つき易い奈央が、今までの自分を責めないはずがない。苦しまないはずもない。
それに、全てを受け入れ人を信じるには、また傷付くのではと、背中合わせの恐怖も抱いているはずだ。縋るものを見失ったからこそ、何をどうすれば良いのか分からず、揺蕩っても無理はなかった。
だからといって、その様な心の内は露にはしないだろう。寧ろ、全てをさらけ出した以上、最早、取り繕う必要もなく、憎しみという糧を失くした今、抜け殻のように落ちてしまうんじゃないか。そんな予感があった。
昨夜、奈央自身が言った、
『────私が私でいられなくなるじゃない』
その言葉通りに……。
その日。朝食のハムエッグとトーストには、一口も手を付けなかった奈央は、昼食では、少しだけ野菜スープを口にした。
一人勝手に芸能ネタやスポーツの話題を口にしながら時間を繋ぎ、俺の部屋へと移動し迎えた夕食時。サラダを三口食べただけの奈央は、消え入りそうなほど小さな声で俺を呼んだ。
「……敬介」
「うん? どうした?」
持っていた箸を置き、奈央を見つめる。
「…………時間が欲しい」
俺に焦点を合わすことのない、虚ろな目をした奈央に言い聞かす。
「あぁ。ゆっくりでいい。少しずつ、少しずつでいいんだ。時間をかけて前を見ればいい。俺はおまえを信じてる」
返事の代わりに腫れの引いた瞼をギュッと閉じた奈央は、生気は失せ力なく立ち上がると、俺の部屋から出て行った。まるで魂が抜け落ちたように。
でも、俺は信じている。賢い奈央のことだ。色んなことを考え、悩み、そして、前に進む道を見つけ出せる女だと。
別に自分の殻に閉じこもったわけじゃない。
現に翌朝。奈央の部屋のインターフォンを鳴らせば、黙って俺を受け入れ、会話はなくとも昨日と同じく休日を一緒に過ごしてくれる。
食欲の落ちている奈央を気にかけ、念のために鍵を預けて欲しいと頼めば、それもすんなりと手渡してくれた。
俺の部屋の鍵も奈央に渡し、お互いの手にスペアキーが戻った今。無理して喋らせようなんて思わない。奈央には受け入れる時間が必要だ。
隣に座れば、口は開かずとも俺のシャツを掴んでくる奈央が、ちゃんと全てを消化出来る日が来るまで、俺は焦らせるつもりなどない。
────だが、そんな奈央を、周りの奴等は好奇な眼差しで見た。
休日明けの月曜。奈央は登校するだろうか? と、脳裏を掠めた俺の心配は杞憂に終わった。
制服に身を包み、ちゃんと教室に現れた奈央。
しかし、そこに“優等生”の姿はなかった。
作り笑いを忘れた奈央は、存在感を消すように無のままで、それがかえって目立ってしまう。
来週から始まる中間試験を考えれば、緊張を持つべき時期にも関わらず、周りのクラスメイトの興味は、変わり果てた奈央へと一斉に注がれた。
遠巻きにチラチラと視線を投げかけては、コソコソと何かを言い合うクラスメイト達。それらから守るように、奈央の傍には林田と裕樹が常にいて、片時も離れようとはしなかった。
何を言われても反応せず、笑みも見せず、貝のように口を閉ざしてしまった奈央の変わりよう。当然、話題にするのは、生徒達ばかりじゃない。
「一体、水野はどうしたんです?」
「授業中もぼんやり外ばかり見て、上の空なんですよ」
「中間だって近いんです。ちゃんと指導して下さい!」
放課後の職員室。他の教科の先生方や教頭から、担任である俺は矢継ぎ早に攻め立てられる。
「申し訳ありません。でも、もう少しだけ見守ってやってはもらえませんか。水野なら大丈夫です。自分をどうするべきか考えられないほど、愚かな子じゃありません。だからもう少しだけ、お願いします!」
深々と頭を下げる俺に、訊こえてくる複数の溜息。
「三年を受け持たせるのは早かったですね」
嫌味を含ませた教頭の言葉なんて気にもならない俺は、頭を下げるくらいしか、今の奈央にしてやれない。
何日経っても奈央に変化が見られないまま、生徒達の好奇の目と、教師達の苛立ちを引きずった中。二日間の中間テストは始まった。
カーテンの隙間から差し込む一筋の光を受け、細めた目で腕の中で眠る奈央を見る。
泣いて、泣いて、声が枯れるまで泣き続けて。
疲れ果て眠りに落ちた奈央は、瞳は閉じたままなのに、少しでも俺が動けば小さな手でしがみついてきた。
そんな奈央を手離せるはずもなく、俺の胸に身を預けて眠る奈央を一晩中抱きしめ、完全なまどろみに落ちずとも、苦に感じることはなかった。
赤く腫れた瞼の淵。頬に残る涙の痕。それらは、自分を解放した証。
闇を抱えた時と同じくらい、隠し続けてきた心の内をさらけ出した奈央は、どれほどのエネルギーを要したことか。
今は、ただ。少しでも長く眠らせてやりたかった。今だけは何もかも忘れて、意識は静かな時間に沈ませてやりたい。
そして、目が覚めた時。必要以上に過去の自分を責めることなく、少しでも早く前へと進めるように。そう祈りを込めて、柔らかい髪が貼りついた頬を、そっと撫でた。
腕の中で、奈央の瞼がピクッと動き、瞳がゆっくりと開かれる。しかし、完全に見開くことは出来なかった。腫れた瞼のせいだ。
「起きたか?」
頷いただけの奈央は、腫れた瞼や寝起きだけが原因じゃなく、その瞳は、どこか虚ろで脆く見せた。
「今、冷たいタオル持ってくるから待ってろ、な?」
一晩中巻きつけていた腕を静かに離し、キッチンへと向かう。
氷水で冷やしたタオルを持って、再び奈央の隣に座ると、綺麗な瞳を隠してしまうほど腫れあがった瞼に宛がえた。
天を向き、タオルを押さえる奈央は、
「コーヒー淹れてくるな」
声を掛けても一言も発せず、悄然と頷くだけだった。
どこかで予感はしていた。奈央の性格を鑑みれば、こうなるんじゃないかと。
いくら自分をさらけ出したとは言え、直ぐに開き直れるほど器用な奴じゃない。
優しいが故に傷つき易い奈央が、今までの自分を責めないはずがない。苦しまないはずもない。
それに、全てを受け入れ人を信じるには、また傷付くのではと、背中合わせの恐怖も抱いているはずだ。縋るものを見失ったからこそ、何をどうすれば良いのか分からず、揺蕩っても無理はなかった。
だからといって、その様な心の内は露にはしないだろう。寧ろ、全てをさらけ出した以上、最早、取り繕う必要もなく、憎しみという糧を失くした今、抜け殻のように落ちてしまうんじゃないか。そんな予感があった。
昨夜、奈央自身が言った、
『────私が私でいられなくなるじゃない』
その言葉通りに……。
その日。朝食のハムエッグとトーストには、一口も手を付けなかった奈央は、昼食では、少しだけ野菜スープを口にした。
一人勝手に芸能ネタやスポーツの話題を口にしながら時間を繋ぎ、俺の部屋へと移動し迎えた夕食時。サラダを三口食べただけの奈央は、消え入りそうなほど小さな声で俺を呼んだ。
「……敬介」
「うん? どうした?」
持っていた箸を置き、奈央を見つめる。
「…………時間が欲しい」
俺に焦点を合わすことのない、虚ろな目をした奈央に言い聞かす。
「あぁ。ゆっくりでいい。少しずつ、少しずつでいいんだ。時間をかけて前を見ればいい。俺はおまえを信じてる」
返事の代わりに腫れの引いた瞼をギュッと閉じた奈央は、生気は失せ力なく立ち上がると、俺の部屋から出て行った。まるで魂が抜け落ちたように。
でも、俺は信じている。賢い奈央のことだ。色んなことを考え、悩み、そして、前に進む道を見つけ出せる女だと。
別に自分の殻に閉じこもったわけじゃない。
現に翌朝。奈央の部屋のインターフォンを鳴らせば、黙って俺を受け入れ、会話はなくとも昨日と同じく休日を一緒に過ごしてくれる。
食欲の落ちている奈央を気にかけ、念のために鍵を預けて欲しいと頼めば、それもすんなりと手渡してくれた。
俺の部屋の鍵も奈央に渡し、お互いの手にスペアキーが戻った今。無理して喋らせようなんて思わない。奈央には受け入れる時間が必要だ。
隣に座れば、口は開かずとも俺のシャツを掴んでくる奈央が、ちゃんと全てを消化出来る日が来るまで、俺は焦らせるつもりなどない。
────だが、そんな奈央を、周りの奴等は好奇な眼差しで見た。
休日明けの月曜。奈央は登校するだろうか? と、脳裏を掠めた俺の心配は杞憂に終わった。
制服に身を包み、ちゃんと教室に現れた奈央。
しかし、そこに“優等生”の姿はなかった。
作り笑いを忘れた奈央は、存在感を消すように無のままで、それがかえって目立ってしまう。
来週から始まる中間試験を考えれば、緊張を持つべき時期にも関わらず、周りのクラスメイトの興味は、変わり果てた奈央へと一斉に注がれた。
遠巻きにチラチラと視線を投げかけては、コソコソと何かを言い合うクラスメイト達。それらから守るように、奈央の傍には林田と裕樹が常にいて、片時も離れようとはしなかった。
何を言われても反応せず、笑みも見せず、貝のように口を閉ざしてしまった奈央の変わりよう。当然、話題にするのは、生徒達ばかりじゃない。
「一体、水野はどうしたんです?」
「授業中もぼんやり外ばかり見て、上の空なんですよ」
「中間だって近いんです。ちゃんと指導して下さい!」
放課後の職員室。他の教科の先生方や教頭から、担任である俺は矢継ぎ早に攻め立てられる。
「申し訳ありません。でも、もう少しだけ見守ってやってはもらえませんか。水野なら大丈夫です。自分をどうするべきか考えられないほど、愚かな子じゃありません。だからもう少しだけ、お願いします!」
深々と頭を下げる俺に、訊こえてくる複数の溜息。
「三年を受け持たせるのは早かったですね」
嫌味を含ませた教頭の言葉なんて気にもならない俺は、頭を下げるくらいしか、今の奈央にしてやれない。
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