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76. 過去を受け入れて-3
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動こうともせず、順位表を見上げたまま涙を流す奈央の手に、福島先生はハンカチを握らせて言う。
「あなたは、勉強よりも大切なものを知ったのね」
「……」
「それは、勉強なんかより、ずっと大切なものよ?」
順位表から目を移し福島先生を見る奈央。福島先生は口元に綺麗な弧を描いた。
「それをあなたに教えてくれたのは、沢谷先生?」
クスッと笑みを溢した福島先生の視線から逃れるように、奈央は俯いてしまう。
でもそれは、奈央に限っての事じゃなかった。次の福島先生の言葉で、俺もまた俯き、逃げ出したくなる。
「あんなにも必死だったものね、沢谷先生。水野さんも訊いてたでしょ? 沢谷先生が教頭先生に反論してるのを」
……………マジかよ。よりによって、奈央に訊かれていたとは。
気恥ずかしさから此処から逃げ出し、何も訊かなかった事にしたいのは山々だが、それ以上に、涙を流し気持ちを吐露する奈央が気になって、また壁に寄りかかり二人の会話に耳をそばだてた。
「私は、水野さんが何で苦しんでいるのかは分からない。あなたのその様子を見れば、きっと深い理由があるんだと思う。だけど、沢谷先生は信じているのね、あなたの事を。あなたは立ち上がれる勇気と力を持っているって」
「…………」
「でもね、それってとても難しい事なの。人を信じるって、そう簡単に出来るものじゃないわ」
「…………」
「だって、どんなに信じたって、その人に裏切られるかもしれないもの」
今、奈央は、唇をきつく噛みしめてるだろうか。
裏切られた……いや、裏切られたと思って生きてきた自分を振り返り、その顔は苦痛に歪んでるんじゃないのか?
それでも、奈央は聞くべきだ。
自分だけで答えを探し、それが一番だと疑わなかった奈央が、他人の考えに耳を傾ける事は、人を受け入れる第一歩になるはずだから。
俺や奈央の父親よりも、ある程度距離のある人の話の方が、反発心もなく心に沁み入り易い場合もある。
福島先生は、教頭の教育とは違う考えを持っている先生のはずだ。
去年の忘年会で、奈央を気に掛けてくれていた福島先生なら、俺も絶対的に信用出来る。きっと奈央に必要なものを教えてくれる。柔らかな声に乗せて、精一杯伝えようとしてくれている。そう思うから。
「それでも、あなたには信じてくれる人がいる。とても幸せなことよ?」
「…………」
「ねぇ、水野さん? 裏切られる恐怖をも振り切って、信じようとするその強さは、何で出来てると思う?」
考えているのか、それとも口にするつもりはないのか。待っても沈黙だけが続く中、福島先生はその答えを静かに明かした。
「それはね、愛よ」
「…………」
「家族愛、友情愛、恋人同士の愛、人間愛……いっぱいあるわ。信じるってことはね、その“愛”の存在なしでは出来るものじゃないの。愛情があるからこそなのよ。恐怖をも振り切れるほど人を強くするものだから」
「……でも…………」
閉口していた奈央が、戸惑いがちに声を出す。
「水野さん、思ってることを言っていいのよ?」
福島先生の声に導かれるように、奈央はそれを口にした。
「……人は裏切ったりもする。もし信じてた人に裏切られたら、どうすれば良いんですか?」
「…………」
「傷ついて、弱くなって……。それなら、初めから期待しなきゃいいって、それが最大の防御法だって、私はそう思ってきました。そんな私は………」
奈央の言葉が詰まる。
「感情を捨てなきゃならないほど、過去に大きな苦しみを味わったのね。必死に勉強に励んでいたのも、余計なことを考えないための逃避、でもあったのかな」
詰まる奈央に代わって、その傷を引き受けるかのように、福島先生の声も悲しみを帯びていた。
痛む胸を抱えながら、気付かれないよう二人に目をやれば、
「でもね、水野さん。あなたはもう知ってるじゃない」
奈央の顔を覗き込み、ふんわりと笑う福島先生がいて、
「あなたは、もう知ってるはずよ?」
戸惑う奈央に断言する福島先生の笑みは、
「失った愛情は、愛情によって再生されるって」
どこまでも優しかった。
「今あなたは、沢谷先生が必死になって守ろうとした想いを知って、疎ましく感じてる? 感じてないわよね? その流した涙が何よりもの証拠。沢谷先生の想いが愛情が、ちゃんとあなたに届いてるってこと」
「…………」
「確かに、人は傷つき易く脆い生き物よ。何で? どうして? って、これから先、何度となく味わうわ。でも、信じることを諦めないで欲しいの」
「…………」
「あなたを大切に思う人は、必ずいる。沢谷先生のようにね。それを受け入れることを恐れなくて良いの。必要以上に感情を押し殺さなくて良いのよ。人はね、決して一人じゃ生きてはいけないものよ」
「…………」
「じゃなければ、複雑な感情を持ち合わせる人間が、ここまで栄えることはなかったわ。誰かに寄りかかっても良いのよ。恐れなくて良いの。何度傷ついても、愛情によって癒されてきた人間は、そうやって生きながらえてきたんだから」
奈央が黙りこくろうとも、福島先生は諦めずに諭し続ける。
「私なんてって、あなたは思ってるかもしれないけど、それは周りが決める事。少なくとも、あなたを“なんて”とは思わずに情を持って信じてくれる人がいるんだから」
「…………」
「先ずは、自分自身を愛しなさい。そして、この人なら、って人に巡り合えた時は、自分の目を信じなさい。誰かを信じる優しい強さを持って欲しい。あなた自身を信じ、自分を愛してあげる強さを持っていれば、たとえ傷ついても、向かう先には広がる希望があるはずだから」
根気強く話し続けた福島先生は、言葉を止めると、握らせていたハンカチを手に取り、奈央の頬をそれで拭った。
「折角の美人さんが、そんなに泣いたら台なしよ? でも、今のあなたの方が等身大で、私は嬉しいくらいだけどね」
「…………」
「水野さん? 私もあなたを信じてるわ。勿論、愛情を持ってね? 私の場合は、教え子に対する愛情ってより……同士愛? かな」
「……同士愛?」
久々に声を発した奈央は、不思議そうに首を傾げた。
……そりゃそうだ。同士愛、って何だ? 俺にも何のことだか、さっぱりなんだが。
だが、クスッと悪戯気味に笑った福島先生は、それに答えるつもりはないらしい。
「さーてと、随分話し込んじゃったわね。歳取ると話が長くなるのよ、ごめんなさいね。気をつけて帰ってね! 私は、沢谷先生の尻拭いでもしなくっちゃ!」
そう言って、奈央の頭を一撫でした福島先生。
……やばい。ここにいたんじゃ、帰る奈央達に見つかる。
俺は急いで且つ足音を忍ばせ、上の階の踊り場へと避難した。
「気を付けて帰るのよ~」
一緒に下りていかなかったのか、奈央を見送る福島先生の声が大きく響く。
──それから数分後。
「沢谷先生! さっさと出てらっしゃーい!」
「っ!」
………………バレてたのかよ。
更なる大声が響き渡り、俺はおずおずと階段を下りるしかなかった。
「あなたは、勉強よりも大切なものを知ったのね」
「……」
「それは、勉強なんかより、ずっと大切なものよ?」
順位表から目を移し福島先生を見る奈央。福島先生は口元に綺麗な弧を描いた。
「それをあなたに教えてくれたのは、沢谷先生?」
クスッと笑みを溢した福島先生の視線から逃れるように、奈央は俯いてしまう。
でもそれは、奈央に限っての事じゃなかった。次の福島先生の言葉で、俺もまた俯き、逃げ出したくなる。
「あんなにも必死だったものね、沢谷先生。水野さんも訊いてたでしょ? 沢谷先生が教頭先生に反論してるのを」
……………マジかよ。よりによって、奈央に訊かれていたとは。
気恥ずかしさから此処から逃げ出し、何も訊かなかった事にしたいのは山々だが、それ以上に、涙を流し気持ちを吐露する奈央が気になって、また壁に寄りかかり二人の会話に耳をそばだてた。
「私は、水野さんが何で苦しんでいるのかは分からない。あなたのその様子を見れば、きっと深い理由があるんだと思う。だけど、沢谷先生は信じているのね、あなたの事を。あなたは立ち上がれる勇気と力を持っているって」
「…………」
「でもね、それってとても難しい事なの。人を信じるって、そう簡単に出来るものじゃないわ」
「…………」
「だって、どんなに信じたって、その人に裏切られるかもしれないもの」
今、奈央は、唇をきつく噛みしめてるだろうか。
裏切られた……いや、裏切られたと思って生きてきた自分を振り返り、その顔は苦痛に歪んでるんじゃないのか?
それでも、奈央は聞くべきだ。
自分だけで答えを探し、それが一番だと疑わなかった奈央が、他人の考えに耳を傾ける事は、人を受け入れる第一歩になるはずだから。
俺や奈央の父親よりも、ある程度距離のある人の話の方が、反発心もなく心に沁み入り易い場合もある。
福島先生は、教頭の教育とは違う考えを持っている先生のはずだ。
去年の忘年会で、奈央を気に掛けてくれていた福島先生なら、俺も絶対的に信用出来る。きっと奈央に必要なものを教えてくれる。柔らかな声に乗せて、精一杯伝えようとしてくれている。そう思うから。
「それでも、あなたには信じてくれる人がいる。とても幸せなことよ?」
「…………」
「ねぇ、水野さん? 裏切られる恐怖をも振り切って、信じようとするその強さは、何で出来てると思う?」
考えているのか、それとも口にするつもりはないのか。待っても沈黙だけが続く中、福島先生はその答えを静かに明かした。
「それはね、愛よ」
「…………」
「家族愛、友情愛、恋人同士の愛、人間愛……いっぱいあるわ。信じるってことはね、その“愛”の存在なしでは出来るものじゃないの。愛情があるからこそなのよ。恐怖をも振り切れるほど人を強くするものだから」
「……でも…………」
閉口していた奈央が、戸惑いがちに声を出す。
「水野さん、思ってることを言っていいのよ?」
福島先生の声に導かれるように、奈央はそれを口にした。
「……人は裏切ったりもする。もし信じてた人に裏切られたら、どうすれば良いんですか?」
「…………」
「傷ついて、弱くなって……。それなら、初めから期待しなきゃいいって、それが最大の防御法だって、私はそう思ってきました。そんな私は………」
奈央の言葉が詰まる。
「感情を捨てなきゃならないほど、過去に大きな苦しみを味わったのね。必死に勉強に励んでいたのも、余計なことを考えないための逃避、でもあったのかな」
詰まる奈央に代わって、その傷を引き受けるかのように、福島先生の声も悲しみを帯びていた。
痛む胸を抱えながら、気付かれないよう二人に目をやれば、
「でもね、水野さん。あなたはもう知ってるじゃない」
奈央の顔を覗き込み、ふんわりと笑う福島先生がいて、
「あなたは、もう知ってるはずよ?」
戸惑う奈央に断言する福島先生の笑みは、
「失った愛情は、愛情によって再生されるって」
どこまでも優しかった。
「今あなたは、沢谷先生が必死になって守ろうとした想いを知って、疎ましく感じてる? 感じてないわよね? その流した涙が何よりもの証拠。沢谷先生の想いが愛情が、ちゃんとあなたに届いてるってこと」
「…………」
「確かに、人は傷つき易く脆い生き物よ。何で? どうして? って、これから先、何度となく味わうわ。でも、信じることを諦めないで欲しいの」
「…………」
「あなたを大切に思う人は、必ずいる。沢谷先生のようにね。それを受け入れることを恐れなくて良いの。必要以上に感情を押し殺さなくて良いのよ。人はね、決して一人じゃ生きてはいけないものよ」
「…………」
「じゃなければ、複雑な感情を持ち合わせる人間が、ここまで栄えることはなかったわ。誰かに寄りかかっても良いのよ。恐れなくて良いの。何度傷ついても、愛情によって癒されてきた人間は、そうやって生きながらえてきたんだから」
奈央が黙りこくろうとも、福島先生は諦めずに諭し続ける。
「私なんてって、あなたは思ってるかもしれないけど、それは周りが決める事。少なくとも、あなたを“なんて”とは思わずに情を持って信じてくれる人がいるんだから」
「…………」
「先ずは、自分自身を愛しなさい。そして、この人なら、って人に巡り合えた時は、自分の目を信じなさい。誰かを信じる優しい強さを持って欲しい。あなた自身を信じ、自分を愛してあげる強さを持っていれば、たとえ傷ついても、向かう先には広がる希望があるはずだから」
根気強く話し続けた福島先生は、言葉を止めると、握らせていたハンカチを手に取り、奈央の頬をそれで拭った。
「折角の美人さんが、そんなに泣いたら台なしよ? でも、今のあなたの方が等身大で、私は嬉しいくらいだけどね」
「…………」
「水野さん? 私もあなたを信じてるわ。勿論、愛情を持ってね? 私の場合は、教え子に対する愛情ってより……同士愛? かな」
「……同士愛?」
久々に声を発した奈央は、不思議そうに首を傾げた。
……そりゃそうだ。同士愛、って何だ? 俺にも何のことだか、さっぱりなんだが。
だが、クスッと悪戯気味に笑った福島先生は、それに答えるつもりはないらしい。
「さーてと、随分話し込んじゃったわね。歳取ると話が長くなるのよ、ごめんなさいね。気をつけて帰ってね! 私は、沢谷先生の尻拭いでもしなくっちゃ!」
そう言って、奈央の頭を一撫でした福島先生。
……やばい。ここにいたんじゃ、帰る奈央達に見つかる。
俺は急いで且つ足音を忍ばせ、上の階の踊り場へと避難した。
「気を付けて帰るのよ~」
一緒に下りていかなかったのか、奈央を見送る福島先生の声が大きく響く。
──それから数分後。
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