教師と生徒とアイツと俺と

本宮瑚子

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91. カウントダウン-5

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 林田、と柔らかく声をかける。

「散々悩んだ末のアイツの決断を、認めてやってくれないか? 笑顔で送り出してやって欲しい」

 乱暴に制服の袖で涙を拭った林田が、真っ直ぐに俺を見た。

「沢谷は? 沢谷はそれでいいの? 奈央のこと諦めるの?」
「いや」

 俺は首を横に振った。

「じゃあ、どうして行かせんのよ!」

「林田、アイツは同じ失敗は二度と繰り返さない。だからこそ、前へ進もうとしてるんだ。でもな? 過去の傷を忘れたわけじゃない。その過去で変わってしまった自分のことを、きっとアイツは責めている。自分が弱かったからだって。そんな自分自身をアイツは変えたいんだ。自らの手で強さを手に入れたいんだよ。守られるだけじゃなく、守ることの出来る強さを、な」

「……」

「そんなアイツを引き止められるだけの力が、残念ながら今の俺にはない」

「そんなことない!」

 即座に否定してくるその眼差しは真剣で、俺のことも本気で信用してくれているのだと思うと、胸の奥に温かさが滲む。

「林田、勘違いすんなよ? 俺だってただ黙って指咥えてるつもりはねぇからな?」

「…………どういうこと?」

「俺にもやらなきゃなんねぇことがあるんだ。ずっと避けて通って来たけど、教師を辞めてそれをやるつもりでいる。逃げてばっかじゃなく、俺も強い人間になるためにな」

「え?⋯⋯沢谷教師辞めちゃうの?」

「あぁ。おまえ達が巣立ってくのを、しっかり見届けてからな」

「……」

「俺も負けてらんねぇし。今日よりも、未来にある明日を手に入れるために。そこに間違いなくアイツを巻き込んでやる」

 敢えておどけた様に言えば、林田は強張ってた表情を緩めて、フッと吐息を吐くように笑みを零したが、

「今日よりも、未来にある明日……」

 呟いた林田はどこか寂しげで、暫くの沈黙を置いたのち、その胸の内を静かに吐露した。

「みんな先に進んでくんだね。奈央もN.Yに行くし、裕樹は医者になる夢に向かって突っ走ってるし……あたしだけ、何やってんだろう」

「林田、焦んなくていい。焦んないでいいんだ。俺なんて、やるべきことをこの歳になって気付いたんだぞ?」

「……」

「おまえはおまえのペースで進めばいい。それに、アイツが言ってたぞ? 林田が本気になったら自分も勝てないって。だから、そう言う時が来たら全力でぶつかれ。おまえならそれが出来るって、俺も信じてるから」

「っ」

 再び溢れ出した涙。

「でも……」

 と、涙で震える声が伝えたのはは、

「……やっぱり寂しいよ。いつまでもこのままでいられればいいのに。大人になるのって……やっぱり寂しい」

 18歳の林田が懐く、偽りのない心境だった。





 こういう気持ちは、誰しもが大なり小なり感じていると思う。
 高校三年生ならば、避けては通れない通過点なのだとも思う。
 親の庇護の下に置かれ、学校と言う名のもとに守られ……。窮屈だと思っていたところが、それがいつしか当たり前となり、そして、時間に追い立てられるように、今度は嫌だと思っても、そこから強制的に放出される。
 同じ教室で机を並べ、同じ時間を過ごして来たクラスメイト達の旅立つ先は皆バラバラで。自分の決めた方向次第で、その後の人生にも及ぶ可能性がある分岐点に立たされる。
 希望に溢れている生徒もいるだろうけれど、見えない先に、不安や焦り、寂しさを感じている生徒も少なくはないだろう。
 だけど、慌てる必要なんてないんだ。周りがそうだからと、自分もなんて焦る必要はない。遠回りしたっていいんだ。失敗したっていい。やり直せると言うことさえ諦めなければ、人は何度だって立ち上がれると信じている。
 スタートダッシュしなくても、自分の速度で歩み、最後には笑っていられる人生であれば、それでいい。そうあって欲しいと心から願う。

 だから、どうか生き辛い世の中に流されることなく、林田が持つ人に対する優しさを失わないで欲しい。
 それがあったからこそ、奈央がいて、裕樹がいて……、この学び舎で友情を深めて行ったはずだから。
 大人になるほど親友を作るのは難しい。色んなしがらみが邪魔をして自分を取り繕うしかなく、心を開く機会は極端に少なくなる。
 大人になる前だからこそ出来る友人形成。
 感情が優先する多感な時期である、この今と言う時に作られた友情は深く、そして代えがたい財産だ。例え、長い間離れようとも、共に我武者羅に生きた時代を心は忘れはしない。会えば童心に返ってしまう程に。



 だから、今は寂しさを感じても恐れる事はない。

「でもな、林田? これだけは忘れんなよ? みんな同じ場所にはいらんねぇけど、おまえには信頼できる友人達がいる。それだけは変わんねぇから。自分に自信持って堂々と生きてけ」
「っ」
「それに、俺も変わらない。教師辞めたって、死ぬまでおまえの担任でいる気満々だ。俺にとって大事な生徒であることに変わりはない。だから、何かあればいつだって連絡して来いよ?」

 止めどない涙が頬を伝い筋を作り、必死で抵抗するように、林田は唇を固く噛みしめている。
 この可愛い教え子の為にも、俺は地に足をつけ歩んで行きたいと思った。
 立派とまでは言わないまでも、後ろ指を差される生き方だけはしないと、強く誓った。

「んなに口噛んでたら血が出んぞ。ま、今はな、寂しいのも無理ねぇけど」
「っ……」
「だから、我慢すんな。俺しか見てねぇから。好きなだけ泣けばいい」

 とうとう堪えきれずに声を上げ泣きだした林田は、今度は差し出したハンカチを素直に受け取った。

「沢谷のバカぁ~」

 暫くすると、照れ隠しか、合間合間に文句を挟み、

「泣かせんなぁ~」

 ぎゃあぎゃあと騒ぎながら、乱暴に顔にハンカチを押し当てる。

「コラっ、人のハンカチで鼻までかむなっ!」
「うっさい!」

 泣き終える頃には、冬の太陽は明日に備え、闇の向こうへと姿を隠していた。





「奈央、おはよ~」

 林田が泣きじゃくった翌日。
 奈央の背中をバシンと叩きながら、何事もなかったように挨拶をした林田は、

「奈央! 向こうに行ったら、金髪のイケメン君、絶対私に紹介してよね!」

 そう言って笑った。
 それは奈央の留学を認め、応援すると決めた林田の、精一杯の餞の言葉だった。

「由香に紹介する前に、奈央がちょっかい出されないか心配だけどね」

 脇から好青年らしい言葉を挟んだ裕樹もまた、奈央の留学を訊いて、黙って応援するつもりでいる一人なのだろう。

「ちょっかい出されても、奈央は相手にしないでしょ? 奈央は金髪イケメンよりオヤジの方が好みみたいだし?」

 意味深に言って俺をチラリと見た林田は、昨日泣いていたのが嘘のように豪快に笑っている。

 あのヤロー。誰がオヤジだっ! ご丁寧に、そこだけ強調しやがって!

 朝っぱらから騒がしい中。俺はにこやかに、そして時折り、林田の言葉に過剰に反応し、眉をぴくぴくと痙攣させながら、教室の隅にいる三人の様子を眺めていた。

 そんな俺達が、この学校に通う最後の冬は、寒さに縮こまっている暇すらないほど、足早に駆け抜けて行った。


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