教師と生徒とアイツと俺と

本宮瑚子

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104. アイツと俺との離れた時間-2

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「いらっしゃいませ」

 銀縁の重厚な扉を開けると、感じの良いマスターの落ち着いた声に迎えられる。
 それに続いて、

「遅ーいっ!」

 人の顔を見るなり、文句が挨拶代わりの酔っ払いが俺を待っていた。

「おまえ、結構飲んでんだろ」
「当ったり前じゃーん! 何時から飲んでると思ってんのよ。七時前からだからね、七時前! 待ちくたびれたっつーの!」

 俺が終わる時間を把握しときながら、そんな早くから飲み出したおまえが悪い! と言ってやりたいところだが、そこは長い付き合いだ。面倒な反論を喰らうのは極力避けるのがベスト。何より、こいつの機嫌を損ねるわけにはいかない。
 そう思わせるコイツは──。

「林田、そろそろ水にしとけ」
「まだまだいけるって!」

 元教え子であり、今では俺の部下になった林田だ。
 高校を卒業してからも、時折、裕樹を交えて食事に行ったり、成人してからは飲みに行ったり……。
 おまけに、俺には相談の一つもせずに、競争率の激しい我が社に入社までしてきたものだから、付き合いが途切れるどころか、ほぼ毎日その姿を目にしている。
 林田曰く、『寂しい沢谷を構ってあげてんだから、感謝しなさいよね!』だそうだ。
 実際のところは、奈央がいなくて寂しいのは林田も同じはず。それをおくびにも出さないのは、精一杯の強がりなのだろう。
 奈央の話をする林田の顔は凄く嬉しそうで、そんな話をしたいが為に俺達と会っているとも言える。
 だとしても、元教え子の誘いは嬉しいもんだ。勿論、それだけじゃなく、俺にも気遣ってくれていると分かっている。
 毎朝、“頑張れ”と言いた気な目で受付に立ち俺を出迎えてくれるし、俺を構ってくるのは、俺と奈央との関係を心配し、応援もしてくれている理解者だからだ。
 何せ、今の俺と奈央とを繋ぐものは、架け橋となってくれている林田がいなければ、何もない。⋯⋯そう、何も。


 奈央が海を渡ってから三年と数カ月。その間、進学した大学の絵葉書を送って来たのを除けば、お互いが直接連絡を取り合ったことは、今の今まで一度もない。ただの一度もだ。
 なのに、この数年。奈央に対しての想いが色褪せることもなく、不安に包まれもせずに此処まで来れたのは、林田の存在が大きい。
 俺としてみれば、奈央の声だって訊きたいし、奈央の顔だって見たいのが本音だ。
 でも、自分に厳しく、又、俺のことも考えてくれている奈央は、発達した現代社会に生きながら、文明の利器に頼ろうとはしない。電話で話すのはおろか、メールですら俺とコンタクトを取ろうとはしない徹底ぶりだ。俺にもそれを強要してくる。強要すらも林田を通してだが。
 自分で留学を決めた以上、脇目も振らずに勉強に集中したいのだろうが、それ以上に、俺の尋常じゃない過酷スケジュールも想定内であろう奈央は、俺の身体を心配してくれている。
 日本とN.Yの時差は十四時間。それが俺達の邪魔をする。明け方だろうが構わないから連絡くれればいいものを、電話で話す時間があるなら、少しでも俺に睡眠時間を与えたい。林田によると、そう言うことらしい。
 奈央との時間が取れるなら、多少の無理も屁でもないのに。その為なら、二日や三日、喜んで寝ずのオールでオッケーだ。という俺の胸の内は全て見透かされ

『沢谷がそんなんだから、奈央は連絡取んないんだってば!」

 こんな風に嗜められ、林田を通して奈央の想いを知る。
 せめて写真だけでも送ってくれ! と些細な願いも頼む相手は林田で、

『写真、持ってない。撮るのも面倒』

 林田を介して返って来た答えは、吃驚するほどあっさりしたものだった。



 奈央の振る舞いは、らしいっちゃらしいけど。少なくとも、俺達って想い合ってる仲なんだよな?

 そんな疑いが浮上するほどのクールさ加減。それをカバーしてくれるのが林田だ。俺とは連絡を取ろうとはしないくせに、林田とは定期的に連絡を取っているらしい。
 その時の奈央の様子を林田が教えてくれることで、俺は全ての邪念や疲れをフッ飛ばしてきた。
 今は何を勉強しているだとか、女の子の知り合いも出来ただとか。その子の紹介で、一緒に大企業でのアシスタントのバイトもしたり、ある時は、彼女と息抜きに見に行ったハロウィンのパレードでは、奇抜すぎてついて行けず、挙句、奈央までへんちくりんな衣装を勧められて、断固拒否した等々などなど
 そんなエピソードを訊きながら、奈央の様子を思い浮かべては離れている時間を埋めてきた。
 そしてきっと、逆も然り。俺の様子も、奈央には筒抜けなのだろう。ましてや、今じゃ俺の部下だ。元教え子だと知っている、数少ない内の一人である俺の優秀な秘書とも懇意にしている林田は、あらゆる情報を握っている。

 ……一体、どこまでの情報を奈央に伝えてんだか。

 多少の不安を感じながらも、今は林田から教えてもらえるものが全てだ。
 林田から得た情報で知る奈央の頑張りに、負けられない、と気持ちを高め、会社のデスクに飾ってある、唯一の写真である卒業式の写真を眺めながら、それを仕事の活力にして……。
 だから、今夜の突然の呼び出しも苦になるばすもなかった。
 突然とは言っても、秘書と確認を取り合っているのか、いつも俺のスケジュールが緩い日を狙って林田は呼び出してくる。それを知っているからこそ、予定が少ない日は、早く林田の話が訊きたくて、朝からうずうずと待ち侘びてしまう。

「……あのさ? 何を訊きたいのかは良ーく分かるけど、お預け喰らった犬みたいな目で私を見るの止めてくれる? 先ずは何か注文したらどうよ」
「あ……、すみません、生ビールを」
「かしこまりました」

 此処がどこだかも忘れて、すっかり奈央の話だけに胸を膨らませていた俺は、何も言わずに待ってくれていた店のマスターに、慌てて注文した。



 ──にしても、犬って酷くねぇか?

 仮にも元担任で今や上司。元々有ったかは疑わしいが、僅かに残されているだろうと信じたい威厳は、年月が経つ毎に、更に失われて行くと感じるのは、気のせいか。

「バーに来たのにドリンクも注文しないなんて、ホント失礼な男でごめんね?」

 決してお預けを喰らった犬みたいな目じゃない目で睨んでみても、林田はどこ吹く風。最近、お気に入りだと言うマスターに、犬扱いの俺には見せない笑顔で話し掛けている。
    どうやらマスターの顔が、林田のもろタイプらしい。
 顔の良い男を眺めているだけで、酒が数倍旨くなると言う林田に、

「マスターみたく、大人の男になりきれてないのよねぇ、この人」

 何を言われても我慢だ。我慢さえすれば、

「いやいや、男の俺から見ても、相当カッコいい大人の男性ですよ」
「マスター、そんな社交辞令いらないから~、アハハハ」

 毒舌の後には、かなり嬉しい褒美が待っているはず。
 そう思える自分は、林田に飼いならされたのか? と、癪に障る疑問は湧くが、一先ずは大人しくするに限る。目の前に人参をぶら下げられている状態では、機嫌を損ねる訳にはいかない。

 ……って、これじゃ犬じゃなくて馬じゃねぇかよ!

「ちょっと。なに変顔してんのよ。ほらビールきたから。はいはいお疲れ~」

 渋い顔になっていた俺に掛けられた、適当な労いにグラスを合わせ、半分ほどを呑み干したところで、

「そう言えばね?」

 林田が話を切り出した。
 いよいよ、奈央の話が訊けるか! と姿勢を正しグラスを置けば、

「マスターの姪っ子さん、私達の学校通ってんだよ! しかも超可愛いの! 制服見たら懐かしくなっちゃったよ」



 ………………褒美はまだ先らしい。


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