絶対零度女学園

ミカ塚原

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氷巌城突入篇

託された少女

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 この、学園全体や、おそらく町そのものが凍結している異常現象のなかで、校内になぜか一人だけ動いている何者かがいる。それは一体何者なのか。

 そこまで考えて百合香は、間違いがあることに気付いた。動けるのはその何者か、だけではない。


 私もなぜか動けている。


 もっとも、まだ校舎や町全体を捜索したわけではないので、同じように動ける人がいるのかも知れない。
 そんなことを考えながら、ふと百合香は廊下の壁にかけてある、年代物の温度計に目が行った。

 目盛が振り切れている。
 マイナス方向に。

 その温度計の下限はマイナス30℃である。それが振り切れているということは、少なくともマイナス30℃以下の気温だということだ。小学校の頃、ちょっとした商店をやっている友達の家の冷凍庫にみんなで忍び込んで怒られた、あの時の温度が確かマイナス24℃くらいだった。それを遥かに超えている。

 たしか、日本の最低気温の記録がマイナス40℃強だったはずだ。どこだか知らないが、たぶん北海道だろう。その気温でも人間は生きてはいたという事だ。
 しかし、いまこの学園の中は、どうやらそれを超える恐ろしいまでの極低温にさらされているらしい。

 人間や物体が凍結して動かなくなる温度というのは、一体何℃以下なのか。それを説明できそうな科学の先生が、さっき凍結していた気がする。
 親戚のおじさんの家で読んだバトル系の漫画に、ピカピカの鎧を着て絶対零度がどうの、と解説するキャラがいたのをふと思い出したが、なぜ彼は戦闘中に物理の講義を始めたのだろう。そんなことは今どうでもいい。

「なんで私、動けるんだろう」

 改めて百合香は呟く。それも、ただ動けるだけではない。いま百合香は、半袖のシャツの上に袖なしの薄手のワンピース制服、という服装である。どんな服装も関係なさそうな極低温ではあるが、その状態で寒くも何ともないというのは、どういう事なのか。
 何かの動画で、マイナス10℃の湖でシジミを採って絶叫している熱苦しいおじさんを思い出したが、それを遥かに超えている。

「…まさか」
 そう思って百合香は、何気なく胸に手を当てた。
 すると、胸の奥からオレンジ色に輝く光がにじみ出し始めた。
「うわっ!」
 百合香は慌てて、胸を強く押さえる。なんだ、この光は。そう思った時、驚くべき事が起きた。
 右手に握っている黄金の剣が、眩い光に包まれたかと思うと、百合香の胸に吸い込まれて消えてしまったのだ。
「なに、なに!?」
 百合香は、全身を手でまさぐった。しかし、あの剣は胸から現れた光とともに、消え去ってしまったのだ。
 あの剣がなければ、また怪物が現れた時にどうすればいいのか。困る。いや、困るとかのレベルの話ではない。空手部や柔道部でも、あれと徒手空拳で戦うのは考えものだろう。

 その時だった。なんとなく予感がして、いつもならグラウンドが見えるはずのガラス窓に目をやる。
 そこで百合香は、心臓が止まるかと思うほどのショックを受けた。

 ガラスに映る自分の隣に、もう一人の自分がいる。

 いや、顔立ちはまるで同じで、髪も同じロングストレートだが、よく見ると髪の色が黒い。百合香は生まれつきブラウン寄りである。そして、前髪は百合香のように軽くカールしておらず、おかっぱ調に切り揃えてある。
 間違いない。さっきまで何度も現れては消えた、あの少女だ。少女は、ニコニコ笑って百合香を見ている。

 もう、異常な現象にいい加減耐性がついてきた百合香は、驚きよりも行動力の方が勝り始めていた。
「逃さないわよ、今度は!あなた、いったい誰なの!?ここに来なさい!姿を現して!」
 今までは振り向いた途端に姿を消されたので、今度は映っているガラスに向かって凄んでみせた。
 明らかに自分の顔なのだが、不覚にもちょっと美少女だな、と思ってしまった。

 バン、とガラスに手を突いて、相手の目を見る。不気味なまでに自分の顔だ。ただ、髪が違うので全体の印象は少し違う。なんというか、魔女のイメージだ。
 謎の少女は、ガラスに映る百合香自身と重なって見える。
 そのとき、少女の唇が小さく動いた。何か言っているらしい。同じ言葉を、ゆっくりと繰り返しているように見える。

『ゆ り か』

 唇の形から、そう呼びかけられているように見える。百合香は、ぞっとして後ずさった。
 すると、少女はまたしても、少し寂しそうな顔をしてすっと消えてしまったのだった。

 その時なんとなく、百合香は悪いことをしたような気がして、あの少女に謝りたい、という奇妙な感覚を覚えた。
 それと同時に何かの心霊漫画で、物心がつく前に死に別れた双子が現れる、という話を読んだ事も思い出した。そんな子がいる話、母からは聞いていないが。

 ありもしない話を脳内で展開しても仕方ないので、百合香は気持ちを落ち着けて、校内の孤独な探索に戻る事にした。
 

 試みにスマホを取り出してみるが、やはり先刻と同じように、電波は届いていない。無線LANを拾っている様子もない。もっとも停電しているようなので、おそらくLANルーターも何もかも稼働していないのだろう。バッテリーは少しずつ減っている。充電用予備バッテリーはカバンの中に―――

 そこで百合香は大変な事に気付いた。バス停の外で例の怪物と戦った際、カバンをどこかに投げ出してきてしまったらしい。今この状況で、盗難に遭う心配はないかも知れないが、紛失するのはまずい。
 バス停まで、そこまでの距離はない。取りに行くべきか。道中、またあの怪物と遭遇したらどうするか。思考が百合香の中で渦巻く。しかし、まず南先輩が心配だ。先に、彼女の安否を確かめるために、体育館へと急いだ。

 
 百合香が凍結した校門に辿り着く少し前、学園校舎の屋上に向かう階段のドアの、鍵を回す手があった。ドアには『許可なく生徒の立ち入りを禁ずる』と貼り紙がある。
 その人物はドアを開けると、周囲を氷に閉ざされた屋上に出た。コツリ、コツリと硬い足音が響く。
 屋上には、天に向かって延びる氷の階段があった。足をかければ即座に滑って踏み外しそうだが、その人物は恐れる事なく、何事もないかのようにその階段を上って行く。その先には巨大な氷柱が不気味に垂れ下がって連なり、階段は暗闇の入り口に向かって続いていた。


 第ニ体育館に着いた百合香を待っていたのは、予想していた事ではあるが、戦慄の光景だった。
 バスケットボール部の面々が、先刻の職員室にいた人間たちと同じように、恐怖も苦しみも見せず、後片付けをする姿勢のまま凍結していた。手に持ったバスケットボールは、そのまま一緒に凍結している。

 そして、不安を増大させる間もなく、百合香の視界には榴ヶ岡南の姿が入ってきた。
「先輩!!!」
 百合香は駆け寄り、南の腕や肩に手をかける。やはり、彼女もまた水晶のように凍結していた。手には準備室の鍵が握られているが、その鍵も揺れた状態で斜めになって固まっていた。
「先輩…」
 恐る恐る、その整った顔に手を当てる。まるで陶器の人形のように硬い。百合香は、恐れのあまりその場に尻をついて崩れ落ちた。
「なんてこと…なんてこと」
 どうすればいいのだろう。彼女は生きているのか。そうは思えないが、仮に生きているとして、この状態から助かる術はあるのか。
 そして、百合香は文芸部の部室にいるであろう、吉沢さんの事も思い出した。しかし、ここまで来ると行っても同じ事なのではないか、という気持ちになってきた。

 それまで百合香の心を支えていた根拠のない勇気が、ここにきて突然揺らぎ始めた。しょせん、16歳の少女である事を百合香は悟った。
 いや、たとえどんな頑強だったり聡明な人間であっても、この状況では何もできる事などないのではないか。

 しかし、百合香には恐怖している暇さえなさそうだった。床に倒れ込んで視点が低くなった事もあり、窓の外に目が行った。
 
 何かが浮いている。

 それは、距離感がはっきりしないものの、巨大な球体だった。大きさは乗用車くらいありそうだ。それが、ドローンのようにフワフワと、体育館のずっと向こうの校庭を動いている。

 直感的に百合香は危険を覚えて、それが目に入らない壁の裏に身を伏せた。
 少しだけ顔を出し、それが何なのか確かめてみる。

 その物体がくるりと横方向に回転したとき、百合香は気が付いた。

 目だ。

 巨大な、眼球のオブジェのようなものが浮かんでいる。まるで、周囲を警戒しているようだ。

 その不気味さは、言葉に喩えようのないものだった。
 唐突に、百合香の心臓が鳴る。見付かったらどうなるのか。襲いかかって来るのではないか。今は、さっきまで身を守ってくれた剣もなくなってしまった。

 あれは、ひょっとして侵入者を発見するための何かではないのか。もし見付かったら、さっきの怪物たちが大挙するのではないか。そうなったら、私はどうなるのか。

 先輩の方を見る。コートの上では誰よりも頼もしい南先輩が、今その全身を凍結させられて動かないままでいる。

 こんな状況で、なぜ自分だけが動いているのだろう。こんな恐怖と不安を体験するくらいなら、みんなと同じように氷の像になっている方が、良かったのではないのか。


 そんな事を考えた時、ふと百合香は、バスケットボール部に入部してさほど経っていない初夏の、ある試合を思い出していた。
 百合香たち1年生は、まだ重要な試合には出場していなかった。その試合も、県大会などには繋がらないものの、そこそこ重みのあるものだった。

 その試合の終わりが見えてきた段階で、ガドリエルは1点差をずっと覆せないままでいた。
「3番が限界」
 ベンチでふと、百合香はついそう口に出してしまった。慌てて口を押さえる。縦社会の運動部で、先輩にケチをつけるのはご法度だ。
 周りの1年生がぎくりとして百合香を見るが、聞かなかったフリをしてくれた。

 しかし3番、スモールフォワードを務める2年の先輩が、ここという場面でなかなか活路を見い出せないのが見てわかる。相手は強豪であり、むしろ1点差で抑え続けているだけでも凄い事である。相手は、リードを拡げられない事に苛立っているようにも見えた。

 その後、コーチと榴ヶ岡先輩が、少し真剣な顔で話し込んだあと、スモールフォワードの先輩がベンチに下がった。
 まだ上級生に控えはいる。体力がある選手と後退すれば何とかなる、とベンチの1年生達は期待を込めた。
 しかし、その1年生がいるベンチに、コーチが歩いてくる。
「江藤、出なさい。3番」

 その瞬間、頭の中が真っ白になった。ちょっと何言ってるかわからない、と脳内でお笑いコンビの片方がボケているのが聞こえた。
「聞こえた?江藤百合香さん、出て」
 強めの口調でコーチが言うと、百合香の背筋に緊張が走る。どうやら、冗談抜きでスモールフォワードを任されるらしい。負ける直前の1点差の試合で、まだ高校での大会には出ていない1年生に。
 何を考えているのだ。そう思いながら、百合香は周りのみんなの顔色を見ながら、恐る恐る立ち上がった。
「い…行って来ます」
 何て締まりのない、と自分でも思ったが、とにかく百合香はスモールフォワードを交代してコートに出た。榴ヶ岡先輩が駆け寄ってくる。
「いい、江藤さん」
 憧れていた先輩の顔が近付いてきて、百合香の緊張は倍化された。

 その後、何を話して、試合でどう戦ったのか、覚えていない。気が付いた時には3点差でこちらが勝利しており、相手校のコーチや上級生たちが、あいつは何者だ、という目で百合香を見ていた。
 榴ヶ岡先輩は、よくやった、偉い、と言って汗まみれの身体を押し付けてきて、背中を叩かれた。先輩の汗と私の汗が混じる。

 
 あの時、なぜ私は唐突に任されたのだろう。いや、そこはもっと単純に考えるべきなのはわかっている。しかし、それを引き受けるのは、けっこうな度胸が要る。

 では、今この状況で、なぜ私だけが、まるで何かを任されたように、一人だけ校内の探索をしているのか。誰かが、何かを私に託したというのか。

 そうであるなら、何をすればいいか、誰か教えてくれてもいいのではないか。

 そこまで考えて、百合香はあの謎の『声』の事を思い出した。
 考えてみれば、あの声に急かされて百合香は、学校を出る形になったのだ。やはり、学校がこういう事態になる事を、あの声の主は知っていたとしか考えられない。
 もし、百合香がまだ校舎に残っていたら、先輩たちと同じように、氷の像になっていたのかも知れないのだ。

 コーチと先輩は、試合に勝つために私をコートに配置した。では、あの『声』の主は、何を私に求めているのか。
 あの剣が現れたのも、声に導かれての事だった。剣は戦うための道具、武器だ。つまり、何かと戦うためにあの剣は現れた。何かに勝つ、何かを打ち倒すために。

 今まで起きている事を総合すれば、小学生でもわかる事かも知れない。私は学校の上空に現れた、巨大な城を何とかするように言われているのではないか。

 冗談もたいがいにして欲しい。百合香は心の底から思った。何とかしろって、どうすればいいのだ。解体業者が途方に暮れそうな、あの巨大な城を。
 あの城が、全ての元凶であるらしい事はなんとなくわかってきた。正体不明の怪物たちも、おそらくはあの城から出てきたのだろう。

 今さらだが、学校の上空に唐突に現れた、あの城は何なのだ。

 再び、百合香に恐怖を上回る怒りが沸き起こってきた。あれが元凶だというのなら、バラバラに解体してやらなくてはならない。
 百合香は、拳を握って立ち上がると、窓の外で不気味に浮遊する、巨大な眼球を睨んだ。

 その時だった。百合香の胸が再び、眩く輝き始めた。
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