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2巻
2-3
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◇ ◆ ◇ ◆ ◇
魔道具屋ミミコカフェは今日も休業中。ただし、建物の中は煮詰まった珈琲の香りで満ちていた。
「ミミコ様、報告書をお持ちしました」
「ありがと……はぁ……いつまで続くんだろ、こんな生活」
この店の店主である私はそう呟いてパックを顔に貼り、珈琲を飲みながら、処理しても減らない書類にチェックを入れる。
ファントムから上がってくる報告の処理を行い始めて、もう一週間になる。
次々上がってくる報告を処理し続けるのは決してやさしい仕事ではない。
名のある富豪や名門貴族、さらには他国の重鎮までもが関係者として名前が挙がるのだから尚更だ。
現在の辺境町には、新たに誕生した工房主について調べようと、百名以上の諜報員が潜り込んでいた。
周囲数百メートルのスケルトンやインプを一瞬にして消滅させる、光の魔法晶石の情報が明るみに出たためだろうが、仕方がない。あの時は他に手段などなかったと思うから。
しかし、もしもそれが光の魔法晶石ではなく、たとえば火の魔法晶石だったらどうなっていただろう?
複数個の魔法晶石が暴走するだけで町が一つ崩壊――否、蒸発してしまう兵器となる。
幸い、あの魔法晶石が私の倉庫から工房に移送、納入されたという記録が残っているため、あれは私が偶然生み出した魔法晶石だったという、説得力のある偽情報を裏の人間から流布させることができた。
お陰で、魔法晶石目的で辺境町に探りを入れるのは、裏の情報すら入手できない小物がほとんどとなった。
その代わり裏の情報を仕入れた、ヤバイ部類の諜報員が私を狙ってくるから気の休まる暇はないけれど……私もこの国の宮廷魔術師になって二十年、自分の身くらいは自分で守れる。
遠巻きに観察しているだけの諜報員は完全に無視し、私の身柄を確保しようとした実行犯も十二名ほど捕縛した。その十二名の雇い主にはしかるべき報復を行っている。
「ミミコ、眠気覚ましの香を持ってきたぞ……凄いことになっているな?」
定期連絡のために訪れたオフィリアちゃんが言った。床に散らばった書類の束を見ての台詞か、私の顔を見ての台詞かは聞かないことにする。
「オフィリアちゃんこそ大丈夫? ファントムもほとんどリーゼロッテ様とクルトちゃんにつけちゃって、オフィリアちゃんにまで護衛を回せないけど」
「私の方は大丈夫だ。ミシェルがいるからな。今も店の外に待たせている」
「そっか、ミシェルちゃんがいれば大丈夫だね」
私はそう言って頷くと、手元の書類に目を落とす。
「ん、これって」
「どうした?」
「ファントムが諜報員を何人か取り逃がしたみたい。クルトちゃんを見張っていたようだけど」
「ファントムが取り逃がすとは珍しいな――あっちには裏の情報すら入手できない情弱な諜報員しかいないのではなかったか?」
「全員がそうってわけじゃないよ。魔法晶石のことを除いても工房主について調べたい人間は多くいるし。でも、もしも裏の情報を入手したうえで、裏の裏にある真実を見抜いてクルトちゃん達を見張っていたのだとしたら、かなり厄介な相手だと思うよ」
「……トリスタン司教を殺した人間のように?」
「うん、その可能性もあるかな」
先日の上級悪魔召喚の黒幕と思われるトリスタンは、教会の大聖堂の最奥で、死体となって見つかった。
あの教会の警備は厳しく、その奥にいる司教を暗殺するとなると、難易度は国王の暗殺に匹敵する。
誰にも気付かれずにトリスタン司教を殺した実力者。もしもその人物が牙を剥いた時、果たして私は生きていられるだろうか?
店内に重い空気が流れた。
オフィリアは空気を変えようとしたのか、それとも単純に空気が読めないのか私に尋ねる。
「教会といえば、あの襲撃事件を起こしたマーレフィスとかいうクルトの元仲間はどうなっているんだ? 殺したのか?」
「殺してないよ、クルトちゃんが面会したがっているからね。だからクルトちゃんと会う時までにしっかりいい子になるように洗の――調教してるよ」
「言葉を訂正しているようで訂正しきれていないな……そうそう、ひとつ報告があった。辺境町の西の魔物達が活性化している。魔族が動いているのかもしれない」
「魔族――国内の敵を倒すだけでも大変なのに、そんなの相手できないよ」
私がそう言った時、天井から一枚の赤い紙が落ちてきた。
新しい報告だ――赤い紙は最重要の報告。
私はそれを受け止めて中身を見る。
「……はぁ……」
「何が書かれていたの?」
「厄介事。クルトちゃんが太守になるかもしれない」
私は心底疲れた口調で言った。
本来なら友達の出世は喜ぶべきことなんだろうけれど、でもクルトちゃんの場合はそうはいかない。
彼が工房主であることと、その実力を知られたら、せっかく敵を私のところに集めている意味がなくなってしまう。
そうなったら、クルトちゃんだけでなく、リーゼロッテ様にも危険が及ぶ。
それは避けたい。
「たしかに厄介だね。いっそのこと辺境伯を暗殺でもするか? あの狸は嫌いなんだよな」
「あはは、それができたらいいんだけどね……それともう一つ。クルトちゃんが卵を拾ったみたいなんだけど、そこから生まれたのが――」
本当にクルトちゃんらしい話を伝えるため、私は先を続けた。
◇ ◆ ◇ ◆ ◇
「ユーリシアさん、リーゼさん、生まれましたよ」
私とリーゼを呼ぶクルトの声が聞こえてきた。
とうとう生まれたか。悪魔が出るか蛇が出るか。
でも、なぜだろう?
クルトの声は喜びよりも困惑の方が強そうに聞こえる。
やはり、鳥の雛ではなかったのだろうか?
私達は意を決して、クルトがいる裏庭に向かった。
そしてそこで、言葉を失ってしまう。
「クルト、それ――」
「クルト様、それはまさか――」
クルトが持っていたのは、三歳くらいの小さな女の子だった。
しかも、クルトにそっくりな。
まさか、まさか――
「「クルト(様)の子供が生まれたあぁぁあっ!?」」
「違いますよーっ!」
珍しくクルトの大声が裏庭に響いた。
――人の姿に化ける魔物にはいくつか種類がある。
たとえばこの前、私達によって倒された上級悪魔がそうだ。中級以上の悪魔には人の姿に化ける力があると言われている。
他にも、サキュバスのような低級悪魔でも、元から人に近い姿をしているものならば人間に姿を変えられる。
しかし、生まれたばかりの魔物や悪魔が人間の姿に化けるという例は決して多くない。
いくら悪魔でも、生まれてすぐは魔力が安定せず、人に化けることは難しいのだ。
「じゃあ、この子はなんなんですか?」
クルトが膝の上で眠る幼女の頭を撫でて尋ねた。
幼女は安心しているのか、クルトの服を布団代わりにして熟睡している。
当然だけれども、卵の中から人間の子供が生まれるなんて話は聞いたことがない。
しかし、ひとつだけ、とある話を思い出した。
「六羽目の雛鳥の話って知ってる?」
私が尋ねると、クルトもリーゼも首を振った。
私はその話を語った。
ある男の家の庭に、鳥が巣を作って卵を産んだ。
卵は五つあった。
五羽の雛が生まれるのを男は楽しみにしていた。しかしいつの間にか、卵は六つに増えていた。
そして、六つの卵から、六羽の雛が生まれた。
親鳥はせっせと雛達に餌を運ぶ。
男は卵が増えたことなどすっかり忘れていたが、気付いてしまった。
雛鳥のうち一羽だけが全く成長していないことに。
何かの病気だろうか? と男は思ったが、しかし一番小さな雛鳥は、とても元気そうに餌を食べている。
それから年月が流れ、巣立ちの季節がやってきた。
五羽の雛も立派に成長した。しかし、やはり小さな雛鳥は全く成長していない。
ある日、その小さな雛鳥を残し、巣から親鳥も五羽の子供の鳥もいなくなった。
男は残された雛鳥を不憫に思い、自分の家で飼ってあげようと、木に梯子をかけて巣の中を見た。
そこで彼が見たのは、いつもと変わらない雛鳥と、血に染まった大量の羽だった。
男はそこで気付いた――他の鳥は旅立ったのではない、この小さな雛鳥に食べられたのだと。
男は慌てて梯子から降りると、その巣に火のついた枝を投げつけた。
火はみるみるうちに巣に広がり小さな雛を包み込んだ――その時男が聞いたのは、鳥のものでも獣のものでもない、奇妙な声だったという。
結局、あの雛鳥がなんだったのか、そもそもこの話が本当なのかどうかもわからない。
私が最後まで話すと、やはりというか、重い空気が流れた。
「つまりユーリさんは、この子は魔物で、僕達を殺すと言うんですか?」
クルトが不安そうに尋ねた。
「私達を殺すかどうかはわからない。でも、この子が普通の子じゃないってことくらい、クルトでもわかるだろ? 卵から人の子供は生まれない」
そもそも、水鳥の卵から、このような大きなものが生まれることもおかしい。
いったい、どのようにして生まれたのか、その瞬間を見たかった。
「はい、それはわかります」
クルトが頷いた。
「自分を孵化させてくれた相手を親と認識し、その子供の姿として生まれる――そういうことでしょうか?」
「たぶんね――じゃないとクルトに似ていることの説明がつかない」
鳥の中には托卵という習性を持つものがいる。他の鳥の巣に卵を産み、自分の雛を育てさせるというものだ。
どちらにせよ、他人を利用するなんてろくでもない話だと思った。
「でも、まだこの子が悪い魔物だって決まったわけじゃないですよね……ユーリシアさん、リーゼさん、お願いします。この子を僕に育てさせてください」
「育てるって本気で言っているのかい? 無理に決まってるだろ。クルト、悪いがこの子は私が殺す」
そう言って腰から剣を抜いた――その時だった。
クルトの膝の上にいた子が寝返りを打った。
無垢な寝顔にはクルトの面影がしっかりとあり――本当にクルトの子供みたいに見えて、もしも私とクルトの間に子供が生まれたら――って何を考えているんだ、私。
この子は魔物なんだ。私とクルトの子であっても魔物――クルトの命を守るためには殺さないといけない。
「あなたとクルト様の子ではありませんわよ、ユーリさん」
「心の声を読むな、リーゼ」
そう言って、呼吸を整える。
悪い、クルト。私はクルトに嫌われてもいい、それでクルトの命が守れるのなら――
「……ママ?」
女の子がゆっくりと目を開けて、そう呟いた。
ママ……この子が私のことをママって……ママって言った。
殺せるわけ……殺せるわけないじゃないか。
「ユーリさん、聞きました!? この子、今、私のことをママって言いましたよ!」
「は、違うだろ、リーゼ、この子は私のことをママって言ったんだ! この子の親権は渡さないよ!」
私は自分が支離滅裂なことを言っていることに気付きながらも、リーゼといがみ合ったのだった。
◇ ◆ ◇ ◆ ◇
卵から生まれた子供。
この子は目を覚ましたあと、僕とユーリシアさんとリーゼさん、三人に囲まれて一緒に遊び、ご飯を食べたらお昼寝してしまった。
その間に僕達は、この子の名前を決めることにした。
「やはりクルト様と私、二人の子供ですから、クルトとリーゼで、クルリなんてどうでしょう? とても可愛らしいと思います」
リーゼさんがうっとりとした表情を浮かべながら、寝ている子供を見る。
クルリちゃんか。たしかに可愛らしい名前だと思う。
なんて思っていると、ユーリシアさんが負けじと提案してきた。
「なぁ、リーゼ。この子は私の子供でもあるんだぞ? ……そうだな、私の名前を入れて、ユクリでいいんじゃないか? ほら、リーゼの名前も入ってるだろ?」
ユクリちゃんか。その名前も可愛いな。
「ユーリさん、そう言って、本当は『ユクリ』のリは、『ユーリ』さんの中にクルト様のクを入れただけではありませんか?」
「な、なんのことだか」
ユーリシアさんが、そう言って明後日の方向を向く。
どうやら、リーゼさんが言っていることが正しかったみたいだ。
「あの、それなら、二人の名前を使って、ユリゼというのはどうですか?」
「「それはクルト(様)の名前が入っていないからダメだ(です)!」」
……えぇ、そこにこだわるの?
「血の繋がりはないのなら、せめて名前だけでも繋がりを作りたいですね」って言ったのは僕の方なんだけど。
「そもそも、ユクリって、どうしてユーリさんの名前が一番に入るのですか。それなら、クリユ……は語呂が悪いですから、クリュとかどうですか? 可愛らしいですし、ほら、全員の頭文字が入っています」
「私の名前をオマケ扱いするんじゃないよっ!」
「いいではありませんか――」
「よくないよ!」
あぁ、また喧嘩になった。
「リーゼさん、ユーリシアさん、やめてくださ――」
僕が注意しようとした時――
「ん……」
名前のまだ決まっていない子が声を出した。
もしかして起こしちゃったかな? と僕達は静まり返った。
「……パパ……ユーリママ、リーゼママ……」
夢を見ているのだろうか?
僕達のことを呼ぶ彼女を見て、僕達は顔を見合わせた。
「ユーリさん、最初の文字はあなたに譲りますわ。私の名前は最後でいいです」
「いや、私の文字こそ最後でいいよ。悪かったね、怒っちまって」
よかった。仲直りできて。
この子が僕達をしっかりと繋いでくれたんだ。
「あの、この子の名前、アクリって名前はどうですか?」
「アクリ? たしかラプラス文明の言葉で端って意味ではないですか? この子は私達の中心にいる子供ですからあまり相応しくないと思うのですけど」
流石リーゼさん、物知りだな。
「端という言葉もありますけれど、四角形や三角形の辺という意味でもあるんです。僕達三人の点と点を繋ぐ線――そういう意味になるかなって思って。それに、ユーリシアさんの【ア】、僕の【ク】、リーゼさんの【リ】と全部の名前が入っていますし」
「いいんじゃない? たしかにこの子は私達を繋いでくれるな」
ユーリシアさんは眠っている子のほっぺたを人差し指でつついた。
「そうですね――あなたは今日からアクリよ」
リーゼさんもそう言って、アクリのほっぺたをつついた。
無事に名前が決まってよかった。
でも、これって全部アクリのお陰だよね。
「では、クルト様。早速アクリの養子縁組の手続きをしましょう。書類はもう用意してありますので」
「わかりました、ありがとうございます……あれ?」
リーゼさんから受け取った書類を見て、僕はそれが養子縁組の書類じゃないことに気付いた。
だって、その書類は婚姻届だったんだから。
そしてなぜか、リーゼさんのところは全て記入済みだった。
「あ、すみません、私ったら間違えてしまいました。こっちが養子縁組の書類です」
「あはは、リーゼさんって意外とそそっかしいんですね」
僕は笑って、アクリを養子にするための書類に記入した。
「リーゼが普段から婚姻届を持ち歩いていることにツッコミはいらないのかい?」
ユーリシアさんが、呆れたように尋ねてきた。
間違えただけだと思いますよ?
◇ ◆ ◇ ◆ ◇
アクリが生まれた翌朝。
工房には幸いにもいくつも部屋が余っていたので、そのうちのひとつをクルトが改造し、子供部屋に作り替えた。
子供服もクルトによって仕立てられ、あっという間に謎の幼女を育てる環境が整えられていった。
私――ユーリシアとシーナが交代でアクリの様子を見ていたけれど、特に変わったことはない。
「じゃあ、これ、ミミコにお願い」
「…………(コクリ)」
実は私は調査のため、アクリの抜け落ちた髪の毛を数本と唾液、爪の欠片などを秘密裏に入手していた。髪を梳いた時にブラシに残った毛、私にもたれかかって寝ていた時に私の服についた唾液、爪切りをしてあげた時の爪を、ファントムのひとりを通じてミミコに送った。
これであの子の正体が少しでもわかればいいんだけど。
アクリの見た目は、普通の子供と変わらない。
見た目だけではない。言葉に関しても幼い子供のように話す。
卵から生まれて間もない子供とは思えない。これも人に擬態する魔物の特性なのだとしたら恐ろしいものだ。
いったい、その言葉の裏で何を考えているのか。
「ユーリママ、あい」
「ありがとう、アクリ」
意味もわからずアクリから積み木を受けとり、心がほっこりする。
クルトの手作りであるこの積み木は、角がしっかりと削られている。しかも積み木のひとつひとつには文字とイラストが描かれていて、自然に文字が身につくようになっているらしい。
本当に、クルトはいいお母さんになるよ。
ちなみにアクリは、私とリーゼのことはそれぞれユーリママ、リーゼママと呼ぶ。パパはひとりしかいないらしく、クルトのことはパパとしか言わない。
シーナのことはシーねぇと呼び(シーナは、「シーナお姉ちゃん」と言わせたかったみたいだけど、アクリには難しかったみたい)、カンスとダンゾウはまだアクリに会わせていない。昨日、酒場に寄ってから帰ってきたので酒臭く、アクリに近付けたくなかったからだ。
とりあえず酒が完全に抜ける昼までは、接触禁止と言いつけている。
「ユーリシアさん、アクリの様子はどうですか?」
クルトがそう言いながら、子供部屋に入ってきた。
「ああ、問題ないよ……っと、もうこんな時間か」
さて、この子から目を離すのは心配なんだけど、そうも言っていられないね。
この子の面倒はシーナに、いざという時の対処はファントムに任せて、私達はまた仕事に行かないと。
「パパだ! パパ、一緒に遊ぼ!」
アクリがクルトに気付き、とてとてと近寄ってクルトの脛に抱き着いた。
クルトは屈み、優しくアクリの頭を撫でる。
「ごめんね、アクリ。僕はこれから仕事があるんだ。帰ってきたら、馬の世話、炊事掃除洗濯と草木の水やりと工房の設備メンテナンスと薬の在庫確認があるから、それが終わった後で遊ぼうね」
……今の話を聞いて、クルトに仕事を任せすぎだと反省。
とはいえ、これらの仕事をクルトは僅か数十分で完璧以上に終わらせるため、任さざるを得ないんだけど。
馬達もクルトの世話が気に入ったらしく、私達がブラッシングしようとすると嫌がるようになってしまったくらいだ。
「アクリ、大人しく待っていられるね」
「アクリいい子だからおとなしく待ってる! パパ、ユーリママ、いってらっしゃい!」
クルトは優しくアクリの頭を撫でてから、手を振って部屋を出ていった。
少し悲しそうな顔をするクルトに私は、ここに残ってもいいって言おうとして、その言葉を呑み込んだ。
これ以上、クルトにアクリへの情を抱かせてどうしようっていうんだい。
ミミコからの報告次第では、やっぱり私はあの子を手に掛けないといけなくなるっていうのに。
一見ただの子供部屋に見えるこの部屋だが、実のところは巨大な檻と同じ働きをしている。
外から鍵をかけることができ、しかも部屋が壊されないように、壁と壁の間にはミスリルの板を仕込んでいる。交代で誰かが入る時を除いて常に鍵をかけ、内側からは決して開かない。
私がクルトに頼んで作らせた。部屋の仕様を聞いた時のクルトの悲しそうな、でも何か諦めた表情が私の胸を締めつけた。
でも、損な役回りだとは思わない。
リーゼもまた、王女という立場のせいでアクリとの接触を禁止されている。万が一があったらいけないからね。
アクリの件、太守の件、工房を狙う諜報員の件、本当に問題は山積みだ。
だけど、少しでも状況がよくなるように努力だけでもしなければ。
「さて、クルト。さっさと行って仕事を終わらせるよ。アクリと遊んであげるためにね」
私は御者席に座って馬車を進めながら、あまり元気がなさそうなクルトに言った。
仕事を早く終わらせる、それがアクリのためになる。
そう再認識したクルトはやる気を出してくれた。
「そうですね、行きましょう!」
「いこー」
「よし、元気が出たね、じゃあ早速――」
……あれ?
気のせいかな、私の横で変な声が聞こえたような。
振り向くと、そこには――
「どうしたの、ユーリママ」
無邪気な笑顔のアクリがいた。
え……えぇぇぇえっ!?
どうしてアクリがここにいるの!?
魔道具屋ミミコカフェは今日も休業中。ただし、建物の中は煮詰まった珈琲の香りで満ちていた。
「ミミコ様、報告書をお持ちしました」
「ありがと……はぁ……いつまで続くんだろ、こんな生活」
この店の店主である私はそう呟いてパックを顔に貼り、珈琲を飲みながら、処理しても減らない書類にチェックを入れる。
ファントムから上がってくる報告の処理を行い始めて、もう一週間になる。
次々上がってくる報告を処理し続けるのは決してやさしい仕事ではない。
名のある富豪や名門貴族、さらには他国の重鎮までもが関係者として名前が挙がるのだから尚更だ。
現在の辺境町には、新たに誕生した工房主について調べようと、百名以上の諜報員が潜り込んでいた。
周囲数百メートルのスケルトンやインプを一瞬にして消滅させる、光の魔法晶石の情報が明るみに出たためだろうが、仕方がない。あの時は他に手段などなかったと思うから。
しかし、もしもそれが光の魔法晶石ではなく、たとえば火の魔法晶石だったらどうなっていただろう?
複数個の魔法晶石が暴走するだけで町が一つ崩壊――否、蒸発してしまう兵器となる。
幸い、あの魔法晶石が私の倉庫から工房に移送、納入されたという記録が残っているため、あれは私が偶然生み出した魔法晶石だったという、説得力のある偽情報を裏の人間から流布させることができた。
お陰で、魔法晶石目的で辺境町に探りを入れるのは、裏の情報すら入手できない小物がほとんどとなった。
その代わり裏の情報を仕入れた、ヤバイ部類の諜報員が私を狙ってくるから気の休まる暇はないけれど……私もこの国の宮廷魔術師になって二十年、自分の身くらいは自分で守れる。
遠巻きに観察しているだけの諜報員は完全に無視し、私の身柄を確保しようとした実行犯も十二名ほど捕縛した。その十二名の雇い主にはしかるべき報復を行っている。
「ミミコ、眠気覚ましの香を持ってきたぞ……凄いことになっているな?」
定期連絡のために訪れたオフィリアちゃんが言った。床に散らばった書類の束を見ての台詞か、私の顔を見ての台詞かは聞かないことにする。
「オフィリアちゃんこそ大丈夫? ファントムもほとんどリーゼロッテ様とクルトちゃんにつけちゃって、オフィリアちゃんにまで護衛を回せないけど」
「私の方は大丈夫だ。ミシェルがいるからな。今も店の外に待たせている」
「そっか、ミシェルちゃんがいれば大丈夫だね」
私はそう言って頷くと、手元の書類に目を落とす。
「ん、これって」
「どうした?」
「ファントムが諜報員を何人か取り逃がしたみたい。クルトちゃんを見張っていたようだけど」
「ファントムが取り逃がすとは珍しいな――あっちには裏の情報すら入手できない情弱な諜報員しかいないのではなかったか?」
「全員がそうってわけじゃないよ。魔法晶石のことを除いても工房主について調べたい人間は多くいるし。でも、もしも裏の情報を入手したうえで、裏の裏にある真実を見抜いてクルトちゃん達を見張っていたのだとしたら、かなり厄介な相手だと思うよ」
「……トリスタン司教を殺した人間のように?」
「うん、その可能性もあるかな」
先日の上級悪魔召喚の黒幕と思われるトリスタンは、教会の大聖堂の最奥で、死体となって見つかった。
あの教会の警備は厳しく、その奥にいる司教を暗殺するとなると、難易度は国王の暗殺に匹敵する。
誰にも気付かれずにトリスタン司教を殺した実力者。もしもその人物が牙を剥いた時、果たして私は生きていられるだろうか?
店内に重い空気が流れた。
オフィリアは空気を変えようとしたのか、それとも単純に空気が読めないのか私に尋ねる。
「教会といえば、あの襲撃事件を起こしたマーレフィスとかいうクルトの元仲間はどうなっているんだ? 殺したのか?」
「殺してないよ、クルトちゃんが面会したがっているからね。だからクルトちゃんと会う時までにしっかりいい子になるように洗の――調教してるよ」
「言葉を訂正しているようで訂正しきれていないな……そうそう、ひとつ報告があった。辺境町の西の魔物達が活性化している。魔族が動いているのかもしれない」
「魔族――国内の敵を倒すだけでも大変なのに、そんなの相手できないよ」
私がそう言った時、天井から一枚の赤い紙が落ちてきた。
新しい報告だ――赤い紙は最重要の報告。
私はそれを受け止めて中身を見る。
「……はぁ……」
「何が書かれていたの?」
「厄介事。クルトちゃんが太守になるかもしれない」
私は心底疲れた口調で言った。
本来なら友達の出世は喜ぶべきことなんだろうけれど、でもクルトちゃんの場合はそうはいかない。
彼が工房主であることと、その実力を知られたら、せっかく敵を私のところに集めている意味がなくなってしまう。
そうなったら、クルトちゃんだけでなく、リーゼロッテ様にも危険が及ぶ。
それは避けたい。
「たしかに厄介だね。いっそのこと辺境伯を暗殺でもするか? あの狸は嫌いなんだよな」
「あはは、それができたらいいんだけどね……それともう一つ。クルトちゃんが卵を拾ったみたいなんだけど、そこから生まれたのが――」
本当にクルトちゃんらしい話を伝えるため、私は先を続けた。
◇ ◆ ◇ ◆ ◇
「ユーリシアさん、リーゼさん、生まれましたよ」
私とリーゼを呼ぶクルトの声が聞こえてきた。
とうとう生まれたか。悪魔が出るか蛇が出るか。
でも、なぜだろう?
クルトの声は喜びよりも困惑の方が強そうに聞こえる。
やはり、鳥の雛ではなかったのだろうか?
私達は意を決して、クルトがいる裏庭に向かった。
そしてそこで、言葉を失ってしまう。
「クルト、それ――」
「クルト様、それはまさか――」
クルトが持っていたのは、三歳くらいの小さな女の子だった。
しかも、クルトにそっくりな。
まさか、まさか――
「「クルト(様)の子供が生まれたあぁぁあっ!?」」
「違いますよーっ!」
珍しくクルトの大声が裏庭に響いた。
――人の姿に化ける魔物にはいくつか種類がある。
たとえばこの前、私達によって倒された上級悪魔がそうだ。中級以上の悪魔には人の姿に化ける力があると言われている。
他にも、サキュバスのような低級悪魔でも、元から人に近い姿をしているものならば人間に姿を変えられる。
しかし、生まれたばかりの魔物や悪魔が人間の姿に化けるという例は決して多くない。
いくら悪魔でも、生まれてすぐは魔力が安定せず、人に化けることは難しいのだ。
「じゃあ、この子はなんなんですか?」
クルトが膝の上で眠る幼女の頭を撫でて尋ねた。
幼女は安心しているのか、クルトの服を布団代わりにして熟睡している。
当然だけれども、卵の中から人間の子供が生まれるなんて話は聞いたことがない。
しかし、ひとつだけ、とある話を思い出した。
「六羽目の雛鳥の話って知ってる?」
私が尋ねると、クルトもリーゼも首を振った。
私はその話を語った。
ある男の家の庭に、鳥が巣を作って卵を産んだ。
卵は五つあった。
五羽の雛が生まれるのを男は楽しみにしていた。しかしいつの間にか、卵は六つに増えていた。
そして、六つの卵から、六羽の雛が生まれた。
親鳥はせっせと雛達に餌を運ぶ。
男は卵が増えたことなどすっかり忘れていたが、気付いてしまった。
雛鳥のうち一羽だけが全く成長していないことに。
何かの病気だろうか? と男は思ったが、しかし一番小さな雛鳥は、とても元気そうに餌を食べている。
それから年月が流れ、巣立ちの季節がやってきた。
五羽の雛も立派に成長した。しかし、やはり小さな雛鳥は全く成長していない。
ある日、その小さな雛鳥を残し、巣から親鳥も五羽の子供の鳥もいなくなった。
男は残された雛鳥を不憫に思い、自分の家で飼ってあげようと、木に梯子をかけて巣の中を見た。
そこで彼が見たのは、いつもと変わらない雛鳥と、血に染まった大量の羽だった。
男はそこで気付いた――他の鳥は旅立ったのではない、この小さな雛鳥に食べられたのだと。
男は慌てて梯子から降りると、その巣に火のついた枝を投げつけた。
火はみるみるうちに巣に広がり小さな雛を包み込んだ――その時男が聞いたのは、鳥のものでも獣のものでもない、奇妙な声だったという。
結局、あの雛鳥がなんだったのか、そもそもこの話が本当なのかどうかもわからない。
私が最後まで話すと、やはりというか、重い空気が流れた。
「つまりユーリさんは、この子は魔物で、僕達を殺すと言うんですか?」
クルトが不安そうに尋ねた。
「私達を殺すかどうかはわからない。でも、この子が普通の子じゃないってことくらい、クルトでもわかるだろ? 卵から人の子供は生まれない」
そもそも、水鳥の卵から、このような大きなものが生まれることもおかしい。
いったい、どのようにして生まれたのか、その瞬間を見たかった。
「はい、それはわかります」
クルトが頷いた。
「自分を孵化させてくれた相手を親と認識し、その子供の姿として生まれる――そういうことでしょうか?」
「たぶんね――じゃないとクルトに似ていることの説明がつかない」
鳥の中には托卵という習性を持つものがいる。他の鳥の巣に卵を産み、自分の雛を育てさせるというものだ。
どちらにせよ、他人を利用するなんてろくでもない話だと思った。
「でも、まだこの子が悪い魔物だって決まったわけじゃないですよね……ユーリシアさん、リーゼさん、お願いします。この子を僕に育てさせてください」
「育てるって本気で言っているのかい? 無理に決まってるだろ。クルト、悪いがこの子は私が殺す」
そう言って腰から剣を抜いた――その時だった。
クルトの膝の上にいた子が寝返りを打った。
無垢な寝顔にはクルトの面影がしっかりとあり――本当にクルトの子供みたいに見えて、もしも私とクルトの間に子供が生まれたら――って何を考えているんだ、私。
この子は魔物なんだ。私とクルトの子であっても魔物――クルトの命を守るためには殺さないといけない。
「あなたとクルト様の子ではありませんわよ、ユーリさん」
「心の声を読むな、リーゼ」
そう言って、呼吸を整える。
悪い、クルト。私はクルトに嫌われてもいい、それでクルトの命が守れるのなら――
「……ママ?」
女の子がゆっくりと目を開けて、そう呟いた。
ママ……この子が私のことをママって……ママって言った。
殺せるわけ……殺せるわけないじゃないか。
「ユーリさん、聞きました!? この子、今、私のことをママって言いましたよ!」
「は、違うだろ、リーゼ、この子は私のことをママって言ったんだ! この子の親権は渡さないよ!」
私は自分が支離滅裂なことを言っていることに気付きながらも、リーゼといがみ合ったのだった。
◇ ◆ ◇ ◆ ◇
卵から生まれた子供。
この子は目を覚ましたあと、僕とユーリシアさんとリーゼさん、三人に囲まれて一緒に遊び、ご飯を食べたらお昼寝してしまった。
その間に僕達は、この子の名前を決めることにした。
「やはりクルト様と私、二人の子供ですから、クルトとリーゼで、クルリなんてどうでしょう? とても可愛らしいと思います」
リーゼさんがうっとりとした表情を浮かべながら、寝ている子供を見る。
クルリちゃんか。たしかに可愛らしい名前だと思う。
なんて思っていると、ユーリシアさんが負けじと提案してきた。
「なぁ、リーゼ。この子は私の子供でもあるんだぞ? ……そうだな、私の名前を入れて、ユクリでいいんじゃないか? ほら、リーゼの名前も入ってるだろ?」
ユクリちゃんか。その名前も可愛いな。
「ユーリさん、そう言って、本当は『ユクリ』のリは、『ユーリ』さんの中にクルト様のクを入れただけではありませんか?」
「な、なんのことだか」
ユーリシアさんが、そう言って明後日の方向を向く。
どうやら、リーゼさんが言っていることが正しかったみたいだ。
「あの、それなら、二人の名前を使って、ユリゼというのはどうですか?」
「「それはクルト(様)の名前が入っていないからダメだ(です)!」」
……えぇ、そこにこだわるの?
「血の繋がりはないのなら、せめて名前だけでも繋がりを作りたいですね」って言ったのは僕の方なんだけど。
「そもそも、ユクリって、どうしてユーリさんの名前が一番に入るのですか。それなら、クリユ……は語呂が悪いですから、クリュとかどうですか? 可愛らしいですし、ほら、全員の頭文字が入っています」
「私の名前をオマケ扱いするんじゃないよっ!」
「いいではありませんか――」
「よくないよ!」
あぁ、また喧嘩になった。
「リーゼさん、ユーリシアさん、やめてくださ――」
僕が注意しようとした時――
「ん……」
名前のまだ決まっていない子が声を出した。
もしかして起こしちゃったかな? と僕達は静まり返った。
「……パパ……ユーリママ、リーゼママ……」
夢を見ているのだろうか?
僕達のことを呼ぶ彼女を見て、僕達は顔を見合わせた。
「ユーリさん、最初の文字はあなたに譲りますわ。私の名前は最後でいいです」
「いや、私の文字こそ最後でいいよ。悪かったね、怒っちまって」
よかった。仲直りできて。
この子が僕達をしっかりと繋いでくれたんだ。
「あの、この子の名前、アクリって名前はどうですか?」
「アクリ? たしかラプラス文明の言葉で端って意味ではないですか? この子は私達の中心にいる子供ですからあまり相応しくないと思うのですけど」
流石リーゼさん、物知りだな。
「端という言葉もありますけれど、四角形や三角形の辺という意味でもあるんです。僕達三人の点と点を繋ぐ線――そういう意味になるかなって思って。それに、ユーリシアさんの【ア】、僕の【ク】、リーゼさんの【リ】と全部の名前が入っていますし」
「いいんじゃない? たしかにこの子は私達を繋いでくれるな」
ユーリシアさんは眠っている子のほっぺたを人差し指でつついた。
「そうですね――あなたは今日からアクリよ」
リーゼさんもそう言って、アクリのほっぺたをつついた。
無事に名前が決まってよかった。
でも、これって全部アクリのお陰だよね。
「では、クルト様。早速アクリの養子縁組の手続きをしましょう。書類はもう用意してありますので」
「わかりました、ありがとうございます……あれ?」
リーゼさんから受け取った書類を見て、僕はそれが養子縁組の書類じゃないことに気付いた。
だって、その書類は婚姻届だったんだから。
そしてなぜか、リーゼさんのところは全て記入済みだった。
「あ、すみません、私ったら間違えてしまいました。こっちが養子縁組の書類です」
「あはは、リーゼさんって意外とそそっかしいんですね」
僕は笑って、アクリを養子にするための書類に記入した。
「リーゼが普段から婚姻届を持ち歩いていることにツッコミはいらないのかい?」
ユーリシアさんが、呆れたように尋ねてきた。
間違えただけだと思いますよ?
◇ ◆ ◇ ◆ ◇
アクリが生まれた翌朝。
工房には幸いにもいくつも部屋が余っていたので、そのうちのひとつをクルトが改造し、子供部屋に作り替えた。
子供服もクルトによって仕立てられ、あっという間に謎の幼女を育てる環境が整えられていった。
私――ユーリシアとシーナが交代でアクリの様子を見ていたけれど、特に変わったことはない。
「じゃあ、これ、ミミコにお願い」
「…………(コクリ)」
実は私は調査のため、アクリの抜け落ちた髪の毛を数本と唾液、爪の欠片などを秘密裏に入手していた。髪を梳いた時にブラシに残った毛、私にもたれかかって寝ていた時に私の服についた唾液、爪切りをしてあげた時の爪を、ファントムのひとりを通じてミミコに送った。
これであの子の正体が少しでもわかればいいんだけど。
アクリの見た目は、普通の子供と変わらない。
見た目だけではない。言葉に関しても幼い子供のように話す。
卵から生まれて間もない子供とは思えない。これも人に擬態する魔物の特性なのだとしたら恐ろしいものだ。
いったい、その言葉の裏で何を考えているのか。
「ユーリママ、あい」
「ありがとう、アクリ」
意味もわからずアクリから積み木を受けとり、心がほっこりする。
クルトの手作りであるこの積み木は、角がしっかりと削られている。しかも積み木のひとつひとつには文字とイラストが描かれていて、自然に文字が身につくようになっているらしい。
本当に、クルトはいいお母さんになるよ。
ちなみにアクリは、私とリーゼのことはそれぞれユーリママ、リーゼママと呼ぶ。パパはひとりしかいないらしく、クルトのことはパパとしか言わない。
シーナのことはシーねぇと呼び(シーナは、「シーナお姉ちゃん」と言わせたかったみたいだけど、アクリには難しかったみたい)、カンスとダンゾウはまだアクリに会わせていない。昨日、酒場に寄ってから帰ってきたので酒臭く、アクリに近付けたくなかったからだ。
とりあえず酒が完全に抜ける昼までは、接触禁止と言いつけている。
「ユーリシアさん、アクリの様子はどうですか?」
クルトがそう言いながら、子供部屋に入ってきた。
「ああ、問題ないよ……っと、もうこんな時間か」
さて、この子から目を離すのは心配なんだけど、そうも言っていられないね。
この子の面倒はシーナに、いざという時の対処はファントムに任せて、私達はまた仕事に行かないと。
「パパだ! パパ、一緒に遊ぼ!」
アクリがクルトに気付き、とてとてと近寄ってクルトの脛に抱き着いた。
クルトは屈み、優しくアクリの頭を撫でる。
「ごめんね、アクリ。僕はこれから仕事があるんだ。帰ってきたら、馬の世話、炊事掃除洗濯と草木の水やりと工房の設備メンテナンスと薬の在庫確認があるから、それが終わった後で遊ぼうね」
……今の話を聞いて、クルトに仕事を任せすぎだと反省。
とはいえ、これらの仕事をクルトは僅か数十分で完璧以上に終わらせるため、任さざるを得ないんだけど。
馬達もクルトの世話が気に入ったらしく、私達がブラッシングしようとすると嫌がるようになってしまったくらいだ。
「アクリ、大人しく待っていられるね」
「アクリいい子だからおとなしく待ってる! パパ、ユーリママ、いってらっしゃい!」
クルトは優しくアクリの頭を撫でてから、手を振って部屋を出ていった。
少し悲しそうな顔をするクルトに私は、ここに残ってもいいって言おうとして、その言葉を呑み込んだ。
これ以上、クルトにアクリへの情を抱かせてどうしようっていうんだい。
ミミコからの報告次第では、やっぱり私はあの子を手に掛けないといけなくなるっていうのに。
一見ただの子供部屋に見えるこの部屋だが、実のところは巨大な檻と同じ働きをしている。
外から鍵をかけることができ、しかも部屋が壊されないように、壁と壁の間にはミスリルの板を仕込んでいる。交代で誰かが入る時を除いて常に鍵をかけ、内側からは決して開かない。
私がクルトに頼んで作らせた。部屋の仕様を聞いた時のクルトの悲しそうな、でも何か諦めた表情が私の胸を締めつけた。
でも、損な役回りだとは思わない。
リーゼもまた、王女という立場のせいでアクリとの接触を禁止されている。万が一があったらいけないからね。
アクリの件、太守の件、工房を狙う諜報員の件、本当に問題は山積みだ。
だけど、少しでも状況がよくなるように努力だけでもしなければ。
「さて、クルト。さっさと行って仕事を終わらせるよ。アクリと遊んであげるためにね」
私は御者席に座って馬車を進めながら、あまり元気がなさそうなクルトに言った。
仕事を早く終わらせる、それがアクリのためになる。
そう再認識したクルトはやる気を出してくれた。
「そうですね、行きましょう!」
「いこー」
「よし、元気が出たね、じゃあ早速――」
……あれ?
気のせいかな、私の横で変な声が聞こえたような。
振り向くと、そこには――
「どうしたの、ユーリママ」
無邪気な笑顔のアクリがいた。
え……えぇぇぇえっ!?
どうしてアクリがここにいるの!?
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