ノブさん

ヤン

文字の大きさ
6 / 6

第6話 そして、消えてしまった

しおりを挟む
白井しらいくん。私の担当、白井くんで良かったよ。生きてる時にさ、『シノちゃんだったら良かったのに』とか言ったこともあるけど、あれは本気じゃなかった。ちょっと、からかったんだよ。これは嘘じゃない。本当だよ。それでね、最期が近くなってきて、思ったんだ。白井くんの夜勤の日に逝こうって。だから、その日まで頑張ったんだよ。やっぱり白井くんがいいと思ったから。お願いしたいと思ったから」

 ノブさんの言葉を伝えると、白井さんが「ノブさん……」と小さな声で言った。

「白井くん。ありがとうね。今日シノちゃんが来たら、もうここに来られなくなると思うから……もう一度言っておくよ。白井くん、ありがとう」
「ノブさん……」
「じゃあ、ほら。もう帰んな」

 私が通訳すると白井さんは頷いて、今度こそ帰って行った。ノブさんは、見えなくなるまで白井さんを目で追っていた。

「行っちゃいましたね」

 私が声を掛けるとノブさんは、

「行っちゃったね」

 何だか寂しそうな顔。やっぱり白井さんを大好きなんだなと思わされた。でも、否定されるから言わないでおくことにした。

 それから何分くらい経ってからだったろう。階段室のドアの開く音がして、足音が近付いてきた。鼓動が速くなる。

相田あいださん。もしかして……」

 そう言う間もなく、彼女が現れた。

篠原しのはらさん。来てくれたんですね」
「あなたが嘘を言ってると思えなくて。今ここにいるんですか?」

 辺りを見回すシノちゃん。この人も、やっぱり見えないらしい。私とノブさんは、ほとんど同時に溜息を吐いた。

「私はここにいるんだけどね。何で茉莉まりちゃんにだけ見えるんだろうね」
「そうですよね。だから、ややこしいことになっちゃうんですよね」

 ノブさんの言葉が聞こえないシノちゃんは、不思議そうに私を見ている。当然だ。一人で話しているようにしか見えないんだから。

「篠原さん。私の左側に、相田さんがいるんですけど、見えませんよね?」
「はい……」

 ノブさんが、また大きな溜息を吐いた。会いたかった人に見えないと言われればショックだろう。

「篠原さん。これから相田さんが言うことを、私が代わりに伝えますので、聞いてくださいね」

 微かに頷くシノちゃん。私がノブさんを促すと、「頼むね」と言ってから話し始めた。

「シノちゃん。辛い思いをさせちゃって、本当にごめんね。でも、あれは私が悪い。シノちゃんのせいじゃないんだよ。私が勝手にやった。勝手にケガした。それだけなんだよ。シノちゃんが責任感じることないんだよ」

 私が伝えると、シノちゃんは首を強く振り、

「私が、相田さんが部屋にいないことをもっと早くに気が付いていたら、あんなことにはならなかったはずです。私が悪いんです」

 泣きながら訴える。その気持ち、よくわかる。何かあったら自分のせいだって思っちゃうものだ。わかる。

 心の中で同意を示していると、ノブさんがキレ気味の口調で、

「ちょっと。早く通訳してよ」

 完全に聞き逃していた。謝罪して、もう一度言ってもらう。

「私のせいで、シノちゃんが異動することになって、悪かったと思ってる。でもさ、介護の仕事は辞めないでね。シノちゃんみたいに優しくていつも笑顔でいてくれるいい人が、ここでは必要とされていると思うよ。みんな、シノちゃんのこと好きだから。もちろん私もだよ」
「相田さん……」
「ありがとうね」
「私の方こそ……ありがとうございました」
「うん。じゃあね。来てくれてありがとう」

 私が伝えると、シノちゃんは涙をぬぐい私に向かって礼を言うと、来た道を戻って行った。ノブさんの方を見ると、今まで見た中で一番すっきりした良い表情をしていた。さよならの時が近付いているのが感じられた。

「茉莉ちゃん。この一ヶ月くらい、相手してくれてありがとうね。おかげで、白井くんにお礼を言えたし、シノちゃんにお詫びの言葉も伝えられた。感謝してるよ」
「相田さん。行っちゃうんですか? 寂しくなっちゃいます」

 私がそう言うと、ノブさんは鼻で笑って、

「何を甘えたこと言ってんだい」
「だって、いつも相田さんがいてくれたから」

 いつのまにか、この存在が一緒にいるのが当たり前になっていた。これから夜勤がつまらなくなりそうだな、と思った。

 ノブさんは、触れられない手で私の頭を撫でるような仕草をした。そうされて私は、触れられてもいないのに、本当に撫でられたような気がした。

「ありがとね」

 優しい微笑みを浮かべたノブさんが、少しずつ消えていく。もう会えない。自然に涙が流れ始めた。

「ノブさん、ありがとう」

 今まで名字で呼んでいたのに、初めて名前で呼んでしまった。消えていくノブさんが手を振ってくれる。私も必死に振り返す。そして……完全に相田ノブさんは消えてなくなってしまった。

 それ以来、彼女は本当に現れなくなった。何で私にしか見えなかったのかはわからないけれど、選ばれたことに感謝している。

 ノブさん。出会ってくれて、ありがとう。

(完) 
しおりを挟む
感想 0

この作品の感想を投稿する

あなたにおすすめの小説

あるフィギュアスケーターの性事情

蔵屋
恋愛
この小説はフィクションです。 しかし、そのようなことが現実にあったかもしれません。 何故ならどんな人間も、悪魔や邪神や悪神に憑依された偽善者なのですから。 この物語は浅岡結衣(16才)とそのコーチ(25才)の恋の物語。 そのコーチの名前は高木文哉(25才)という。 この物語はフィクションです。 実在の人物、団体等とは、一切関係がありません。

巨乳すぎる新入社員が社内で〇〇されちゃった件

ナッツアーモンド
恋愛
中高生の時から巨乳すぎることがコンプレックスで悩んでいる、相模S子。新入社員として入った会社でS子を待ち受ける運命とは....。

どうしよう私、弟にお腹を大きくさせられちゃった!~弟大好きお姉ちゃんの秘密の悩み~

さいとう みさき
恋愛
「ま、まさか!?」 あたし三鷹優美(みたかゆうみ)高校一年生。 弟の晴仁(はると)が大好きな普通のお姉ちゃん。 弟とは凄く仲が良いの! それはそれはものすごく‥‥‥ 「あん、晴仁いきなりそんなのお口に入らないよぉ~♡」 そんな関係のあたしたち。 でもある日トイレであたしはアレが来そうなのになかなか来ないのも気にもせずスカートのファスナーを上げると‥‥‥ 「うそっ! お腹が出て来てる!?」 お姉ちゃんの秘密の悩みです。

鐘ヶ岡学園女子バレー部の秘密

フロイライン
青春
名門復活を目指し厳しい練習を続ける鐘ヶ岡学園の女子バレー部 キャプテンを務める新田まどかは、身体能力を飛躍的に伸ばすため、ある行動に出るが…

夫婦交換

山田森湖
恋愛
好奇心から始まった一週間の“夫婦交換”。そこで出会った新鮮なときめき

ママと中学生の僕

キムラエス
大衆娯楽
「ママと僕」は、中学生編、高校生編、大学生編の3部作で、本編は中学生編になります。ママは子供の時に両親を事故で亡くしており、結婚後に夫を病気で失い、身内として残された僕に精神的に依存をするようになる。幼少期の「僕」はそのママの依存が嬉しく、素敵なママに甘える閉鎖的な生活を当たり前のことと考える。成長し、性に目覚め始めた中学生の「僕」は自分の性もママとの日常の中で処理すべきものと疑わず、ママも戸惑いながらもママに甘える「僕」に満足する。ママも僕もそうした行為が少なからず社会規範に反していることは理解しているが、ママとの甘美な繋がりは解消できずに戸惑いながらも続く「ママと中学生の僕」の営みを描いてみました。

上司、快楽に沈むまで

赤林檎
BL
完璧な男――それが、営業部課長・**榊(さかき)**の社内での評判だった。 冷静沈着、部下にも厳しい。私生活の噂すら立たないほどの隙のなさ。 だが、その“完璧”が崩れる日がくるとは、誰も想像していなかった。 入社三年目の篠原は、榊の直属の部下。 真面目だが強気で、どこか挑発的な笑みを浮かべる青年。 ある夜、取引先とのトラブル対応で二人だけが残ったオフィスで、 篠原は上司に向かって、いつもの穏やかな口調を崩した。「……そんな顔、部下には見せないんですね」 疲労で僅かに緩んだ榊の表情。 その弱さを見逃さず、篠原はデスク越しに距離を詰める。 「強がらなくていいですよ。俺の前では、もう」 指先が榊のネクタイを掴む。 引き寄せられた瞬間、榊の理性は音を立てて崩れた。 拒むことも、許すこともできないまま、 彼は“部下”の手によって、ひとつずつ乱されていく。 言葉で支配され、触れられるたびに、自分の知らなかった感情と快楽を知る。それは、上司としての誇りを壊すほどに甘く、逃れられないほどに深い。 だが、篠原の視線の奥に宿るのは、ただの欲望ではなかった。 そこには、ずっと榊だけを見つめ続けてきた、静かな執着がある。 「俺、前から思ってたんです。  あなたが誰かに“支配される”ところ、きっと綺麗だろうなって」 支配する側だったはずの男が、 支配されることで初めて“生きている”と感じてしまう――。 上司と部下、立場も理性も、すべてが絡み合うオフィスの夜。 秘密の扉を開けた榊は、もう戻れない。 快楽に溺れるその瞬間まで、彼を待つのは破滅か、それとも救いか。 ――これは、ひとりの上司が“愛”という名の支配に沈んでいく物語。

病弱な彼女は、外科医の先生に静かに愛されています 〜穏やかな執着に、逃げ場はない〜

来栖れいな
恋愛
――穏やかな微笑みの裏に、逃げられない愛があった。 望んでいたわけじゃない。 けれど、逃げられなかった。 生まれつき弱い心臓を抱える彼女に、政略結婚の話が持ち上がった。 親が決めた未来なんて、受け入れられるはずがない。 無表情な彼の穏やかさが、余計に腹立たしかった。 それでも――彼だけは違った。 優しさの奥に、私の知らない熱を隠していた。 形式だけのはずだった関係は、少しずつ形を変えていく。 これは束縛? それとも、本当の愛? 穏やかな外科医に包まれていく、静かで深い恋の物語。 ※この物語はフィクションです。 登場する人物・団体・名称・出来事などはすべて架空であり、実在のものとは一切関係ありません。

処理中です...