洋館の記憶

ヤン

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第1話 引っ越し

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 最後の荷物が運び出されて、家の中はすっかり空っぽになってしまった。生まれてからずっと、このアパートで暮らしてきたから、15年間ここにいたことになる。

 トラックは出発していたが、私はまだドアの鍵を掛けられずに、中をじっと見ていた。様々なことが思い出されて、ちょっと泣きそうになった。

 母は、私の肩をポンと叩くと、

かおる。行くわよ。電車に乗り遅れちゃう」

 母の方に振り向くと、相変わらずの、表情に乏しい顔をしていた。こんな風になってから、どれくらい経っただろうか、と考える。

 私が中学に入って、少ししてから、母はたまに会社を休むようになった。

「どうしたの? どこか悪いの?」

 心配して訊くと、

「んー。よくわからない。ただ、会社に行こうとすると、何か頭が痛くなっちゃって」
「え。それって……」

 母が、登校拒否みたいな状態になったのを感じた。一体何があったのだろう、と思ったが、訊けなかった。

「無理しないでゆっくりしなよ。じゃ、学校行ってくる」

 そう言って、私は学校に行った。そして、夕方になって帰宅しても、母は布団に横になったままだった。

「ただいま」
「あら。早かったわね」
「早いって……。もう、5時だし」

 私の答えに、母は初めて夕方になったことを知ったようだった。母は、むりやり体を起こして、夕飯の支度をしてくれた。そんな母の姿を見て、何だか胸がざわざわしてしまった。

 それから、約2年。母は、会社をやめてしまった。私には突然に思えたが、きっと母の中では、ずっと考えて出した答えだったんだろう。

「えっと、それでさ。これから私たち、どうするの?」

 怖かったが、訊いてみた。母は表情を変えず、

「さあ。どうしようかな」

 何も言えなくなった。母は、そのまま何も言わずに部屋に行ってしまい、その日はそのまま出て来なかった。

(これは、どうすれば……)

 しばらく考えて、母の実家に電話した。出たのは、祖母だった。

嶋田しまだでございます」
「あ。おばあちゃん? お久しぶりです。かおるです」
「薫ちゃん? 本当にしばらくぶりね。元気にしてるの?」
「私は元気ですけど……母さんが……」
桐江きりえがどうしたの?」

 慌てたように言う。私は、はーっと息を吐き出してから、

「それが、何か心の調子が悪くて。病院に通ってたけど、今日、とうとう会社を辞めてきちゃって。これからどうしていくのか、母さんは何も考えてないみたいで」

 考えられる状態じゃないのは、わかる。でも、どうなってしまうのか、ただただ不安だった。

「薫ちゃん。それならね、うちに来たらどうかしら。一緒に暮らしましょうよ」
「いいんですか?」

 祖母の提案を、翌日母に話した。母は、首を縦には振らなかった。出来るだけ冷静に。自分にそう言い聞かせながら、話した。が、あまりにもはっきりしないので、つい、

「だったら、どうする気なんだよ」

 大きな声で言ってしまった。母は、びっくりしたような顔で、私を見て、その後泣き出した。私は、母を置いて、自分の部屋に戻った。床に座り込むと、膝を抱えて声を出さずに泣いた。

 そんなことがあったものの、祖父母の説得で、こうして引っ越しをすることになった。

「薫」

 母が私を急かした。唇を噛んでから、むりやり笑顔を作ると、

「今までありがとう。バイバイ」

 家に向かって、そっと声を掛けてから、母とともに歩き出した。
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