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 これは大胆な逃走劇だった。
 逃走劇と言う名の休暇だった。
 少なくとも高槻果穂にとっては。
「あら~? 高槻さんはお疲れなのかしら?」
 後方、コピー機方面から皮肉気な声がする。
(そりゃ疲れもするだろ)
 果梨は、大きな溜息を吐いた自分への羽田の嫌味に答える気力も無かった。
 日々は残酷にも『普通』に過ぎていく。師走という単語に相応しく社内は慌ただしい。商業施設建設に関する、子会社東野設計事務所のコンペが年明け二月に企画されている為、忙しさは半端ない。
 ……まぁ、そんな凄いプロジェクトに高槻果穂が関わっているわけでもないので直接的な緊張感はない。通常業務に加えて藤城部長から頼まれる雑事が倍化しているが、果梨にとってそれほど苦ではない仕事が大半を占めていた。
 だからなんとか出来ているのだと果梨は遠い所で考えた。
 世の中に『普通』程怖いものはないと、新たな境地を悟った。
 高槻果穂の普通。
 それをなぞるのは簡単だが、そこに食い込みそこを生きるとなると神経が擦り切れそうになる。加えて四日前の昼のあれだ。
 あれ以来藤城部長は何も言ってこない。ほっと一息吐きたい所だが予断は許さない。高槻果穂との関係性がまるでわからないからだ。
(あんにゃろ……電話くらい出ろや)
 心の中で果穂を罵る。出来る限り部長を避け続けていられるのもこの忙しい季節が味方をしているからで、設計案コンペの大筋が決定すれば一息つく余裕も出て来るだろう。
 その時にどうするのか。それを相談したいのに逃走者は全ての連絡を絶っている。
 どうしてくれよう、とそんな事を考えていた所為で我に返ってモニターを確認すれば、同じ数字が二カ所打ち込まれていた。更に打ち込みが段違いを起こしている。
 こんなミスをするなんて……いや、これくらいで済んでいるのだから良しとしなければ。
(そもそも果穂の仕事能力ならこれくらいが丁度いいわな)
 積み上がっている溜まった仕事にざっと目を通し、教えてもらった手順を考えげんなりする。普通に仕事をしていればこんな量は堪らない。毎日ちゃっちゃとこなせばこの倍は出来る筈だ。
 辛うじて「急ぎ」の仕事を一日いっぱいかけてこなしている……という印象は否めない。
 再びたまりにたまったデータの打ち込みを始める。機械的にテンキーを打っているために思考は再び四日前の昼へと流れていった。
 ―――考えてやろう。お前のプロポーズ。
(あり得ないッ! 絶対にありえないってッ!)
 まさか藤城部長からそんな言葉が飛び出るとは、思ってもみなかった。
 あの後はもう恐ろしくて、果梨は藤城の発言の真偽を問う事が出来なかった。そのまま蕎麦を食し強引に奢られその足で苺大福を買うために蕎麦屋の前で彼と別れたのだ。
 それからは指示を受ける、指示を仰ぐ、くらいの会話しかしていない。
 今日も午後イチの会議からまだ戻らぬ部長と、このまま顔を合わせることなく就業を迎えられそうだ。
 あと一時間……。
 長針でも短針でもなく秒針を気にしながら、果穂は彼女の普段の倍くらい遅いスピードでテンキーを打って行く。
 その時、空気がざわつき彼女の背中にも寒気が走った。会議を終えた部長と課長が話をしながら戻って来る。ち、と果梨は心の奥で舌打ちした。実際にしていたかもしれない。
「お疲れ様です~」
 甘ったるい声が後方、コピー機方面からして彼女は驚いた。
 そんな……十五分もそこに居たのか!?
「羽田くん、高槻くん、会議室の片づけ頼むな」
 課長の声にはぁい、とコピー用紙をその辺に置き(何をコピーしていたのだ?)腰を振りながら羽田が歩き出す。一旦データを保存し立ち上がろうとした果梨を藤城が呼び止めた。
「高槻」
「はい」
 関節が軋む。途端に潤滑油を失った身体を無理やり動かして席に戻る部長の方を見れば、彼は手招きして目の前のファイルを指さした。
「今日の会議の資料と内容だ。今日中に議事録に打ち直してくれ」
「………………はい」
 時計は残り三十五分と四十二秒で十七時になる。
「内容は走り書きしてあるから」
 会議に出てもいない人間に議事録をまとめさせるとは……しかも腰かけOL認定済みのこの高槻果穂に頼むとはよほど重要じゃない会議なのか……もしくは議事録など無意味なのか。
 そう思いながらファイルを受け取ると、上に付箋が張ってあった。
 その文字に果梨の血が足元まで落ちた。
 なんてことだ、呼び出しじゃないか、これは。
 十九時とレストランの名前が書かれている。それに目の前が暗くなった。
 貧血で倒れようか。
 いやいやいやいや……家まで送るとか紳士的な申し出をされたらアウトだ。
 ではどうすれば……どうすればいい!?
 ―――そうして出した果梨の答えは社会人として失格の答えだった。




 壁に掛けられた時計の針が六時半を指すが、未だに果梨はパソコンに向き合っていた。
 議事録とは名ばかりの簡素なものを、これまた簡素な部長の手記を元に壮大な物語に仕上げていく。過分に妄想を繰り広げ、白熱する様子を伝えようと四苦八苦する。
 どうせ誰もみやしない、保管室に速攻で治められるだけの文章だ。
 じりじりとねつ造を繰り広げながら時計が七時を指すのをじっと待つ。
「不要な残業は理由書だぞ」
 冷え冷えとした声がして、ひ、と彼女は息を呑んだ。再び体内から油分が放出され滑らかな動きが成りを潜める。
 このまま固まって気絶すれば、何事も無かったように時が過ぎてくれるだろうか。
 そんな果梨の希望的観測を打ち砕くように、響く靴音が真後ろで止まり、自分の右手横に大きな手が置かれた。
「随分独創的な議事録だな」
 左耳に囁かれ、恐怖が全身を駆け巡った。ブラウスの上にセーターを着ているにもかかわらず感じる藤城の体温に果梨の背筋が震えた。
 温かさを感じて震えるなんて、物理法則に反した出来事だ。怪奇現象と言ってもいい。
「それをあとどれだけ続ける気だ?」
 柔らかい猫なで声。だが殺傷力がある。……なんかわからないが、殺傷力があるのだ。
「えと……」
 ちらと時計を見て果梨はなるべく平静を装って答えた。
「三十分くら――」
「今すぐ保存しろ」
 有無を言わさぬ一言に彼女は溜息を飲みこんだ。未だ身体の油分は抜けきり、関節は軋んでいる。
 それでも逆らえず、のろのろとマウスを動かすと書き掛けの議事録を保存した。
「行くぞ」
 背後の声が下す冷やかな命に逆らえず、果梨は処刑台に向かう受刑者のような顔つきで立ち上がった。




 営業という仕事は人を相手にした仕事だ。
 相手のどんな細かな仕草でも、どんな言葉でも、使い方によっては最強の武器になる。
 上辺の底に隠されたものを見付け引きずり出す……そんな残酷な一面もあれば、薄っぺらな外側を剥き続けて徒労に終わる事もある。それが楽しいと思える自分はただのドSかもしれないと最近は思う。
 兎に角、入社以来人を相手にし続けた結果、人の言葉の裏にあるモノや態度の底に潜むモノを見抜ける目を多少は養えたと思っていた。
 そう、思っていた……過去形だ。
(この女が持っていたものを見抜けなかったとは……)
 藤城康晃は困惑顔で正面に座っている部下に、じっと視線を注いだ。
 部下と腹を割って話す場でもなければ、デートでもない。重い話をする気も無いが、かといって上辺のみの会話をするつもりも無かった藤城は、取り敢えず気取らない雰囲気だが、個室のように区切られた空間のあるイタリアンレストランに彼女を連れて来た。
 スパークリングワインと野菜や魚介類に掛けて食べるクラレットチーズ、生ハムのペペロンチーノとボンゴレ。バーニャカウダとアサリのオリーブオイルとバター焼きを注文する。
 注文の際、何を食べたいかと訊いた所彼女は迷いもなく自分の好みを告げた。
 それが藤城には意外だった。
 前に飲んだ時、彼女は典型的な女子らしく「何でもいい」と「部長のおすすめで」なんて首を傾げながら言っていた。周りに一課の連中が居たからかもしれない。もっと言えば本橋が居た。
 つまりは「そう言う事」。
 だが今の高槻は、そういった「そう言う事」が剥がれ落ち不安そうで……何故か張り詰めていた。
(あ……マズイ)
 鋭く身体を貫く感触にぞくりとする。
 先週開催された飲み会で終始感じることのなかった、刺すような感触に藤城はいささか戸惑った。
 東野設計の連中も一緒になった忘年会。
 ばっちりメイクをし、下品にならないよう計算しつくされたスカート丈と胸の空き具合で挑んでいた高槻と羽田は、彼女達の目論見通り男性社員に大うけだった。
 そこまでの計算高さが仕事内容に応用されればもっといいのにと、ジョッキでビールを飲みながら思った。
 本橋の次に仕事が出来る香月渚は切れ者で、男性にも女性にも容赦ない。
 そんな所を買っているのだが、いかんせん猪突猛進タイプでこういう飲み会では敬遠されがちだった。酒が入ると特に持っている舌鋒に磨きがかかるから始末に負えない。
 今も隣で、後輩の松原広大をけちょんけちょんに貶している最中だ。これだと男は完全に敬遠する。
 どんなに仕事が出来て尊敬の対象で有ったとしても、オフでは女性らしさを求めるのが普通の男というものだ。
 と言っても藤城はそう言った偏見で相手を切ったりはしないタイプである。
 というのも、管を巻こうがしなだれかかってこようが、無礼講とばかりに大口を叩こうが「只の酔っ払いだろ」と一刀両断できる最強の刃を持って居るからだ。
 客観的と言えば聞こえがいいが、時折自分には心が無いのではないかと思う時もあった。
 自分の持つ琴線に引っかからなければ興味も持たない。オフの事など特にどうでもよく仕事上問題が無ければ何をしようと勝手にしろ、だ。
 そんな風だからこそ……出来る仕事なのかもしれないが。
 深入りはしない、させない、だが相手を脱がせてしまうという特技。
 そんな彼にとって高槻は完全なる「腰かけOL」のカテゴリーにすっぽり収まっていた。
 とくに興味も持たないカテゴリーだっただけに、彼女に付いて知っていることなど皆無だった。
 その彼女を何の弾みか送る羽目に陥った。
 自分のような氷の部長がいては周りも楽しめない。日付の変わる前に帰ろうと倍の会費を置いて居酒屋を出た。その自分を彼女は追って来て、酔っぱらって気分が悪いので送ってほしいと申し出た。
 確かに彼女は顔色が青ざめ、疲れたように足を引きずっていた。
 普段ならば捨て置く所だが、本当に具合の悪そうな高槻を置いて行けるはずもなく藤城は彼女をタクシーに乗せ家まで送った。
 よろけてしがみつく彼女の、冷たく細い指から鍵を受け取りドアを開け―――。
「……あの時もうちょっと楽しめば良かったかもな」
 ベッドに横たわる高槻の姿を思い出す。
 スパークリングワインのグラスを持ち上げ、何気なく告げられた藤城の台詞に、高槻は凍り付いた。グラスに伸ばした指が微かに震える。
 それを見逃さないのが藤城だ。
 あの夜。
 彼女の家に強引に連れ込まれた夜。
 ふっと笑った藤城は、高槻の頬が赤く染まるのを期待した。が、意外な事に彼女の頬は蒼白で、目に見えて狼狽していた。
(それほど後悔するような出来事だったのか?)
 それとも愚かにも発したプロポーズの言葉の所為だろうか。あれの意味など無いに等しい。
 何せ相手は酔っ払い……藤城の所為で絶頂直前まで押し上げられて恥も外聞も失っていたのだから。
 それを恥じているのか? それともそんな真似をして捨て置いた藤城に苛立っているのか、嫌悪しているのか……。
 じっと見詰めていると、彼女は不意に目蓋を伏せ勢いよくグラスを傾けた。
 それからたんっとグラスをテーブルに置く。
 微かに目を見開いて見詰めていると。
「すいません、全部忘れてくださいッ」
 物凄い勢いで頭を下げられた。ごん、という額がテーブルにぶつかる音のおまけ付き。それでも顔を上げない高槻に、藤城は唖然とした。
(これは……どういうことだ?)
 普段、藤城の思考回路は真っ当で回転はすこぶる速い。だが今目の前に繰り広げられている光景に対処する回路は申し訳ないが存在していない。
 女性に「全部忘れてくれ」と懇願されるとは。
「取り敢えず顔をあげろ」
 間仕切りのある店を選んで本当に良かった。こんな土下座まがいに、しかも女性から頭を下げられる姿を他人に晒したいわけがない。
(コイツに関わると碌な事ないな……)
 調子を狂わされっぱなしだ。苦い物を飲みこみながらそう促すと、ゆっくりと高槻が顔を上げた。胸まである長めの波打つ髪が、俯く彼女の表情を隠す。
 綺麗というよりは可愛いタイプの顔つきで、マスカラとアイライン、アイシャドーで武装された目はいやがおうにも大きく見える。ぎゅっと唇を結ぶ顔は青ざめ、必死に痛みをこらえているように見えた。
 さて……どうしたものか。
 ふと、彼は高槻の少し丸い鼻の先が赤くなっている事に気付いた。
 ついでに、斜めに流した前髪からちらりと見える額も。
 瞬間、藤城は吹き出していた。
 彼の楽しそうな笑い声に、高槻は生きた心地もしない沈黙から束の間解放され、ぽかんとして彼を見た。
 氷の営業部長が爆笑している。
 唖然としてその様子を見詰めていると、「すまない」と笑いの滲んだ声で彼が謝った。
「お前、本当に勢いよくテーブルに突っ伏したんだな」
「へ?」
 何を言われているのか判らず、間の抜けた瞬きをすると相手は更に笑った。
「鼻とおでこ、ぶつけたろ」
「あ……」
 ば、と額に手を当て果梨はみるみる自分の頬が赤くなるのを実感した。先手必勝とばかりに頭を下げた際、勢い余ってテーブルに激突した。鼻と眼の付け根辺りに火花が散り、涙が滲んだが心に抱く恐怖がその痛みを抹消していた。
 今更ながらにぶつけた痛みが蘇って来る。
 耳まで赤くなっていることを自覚しながら、それでも誤魔化すように額を撫でていると呼吸を整えた藤城が「高槻」と名を呼んだ。
 聞き違いかもしれないが、声がやや甘い気がする。
「そうまでして俺に忘れて欲しいのに、なんでプロポーズなんかしたんだ?」
 これこそ藤城にとってどうにも溶けないパズルの一つだった。
 彼女が言う、「酔った勢い」というのもあながち嘘ではないと思う。だが、それにしたって何故自分をターゲットにしたのか疑問が残った。
 あの忘年会で明らかに彼女が狙っていたのが本橋だという事を考えても。
 もう一つは「考えてやる」という自分の発言に彼女が狼狽している事だ。
 酔った勢いでプロポーズしたのだとしても(実際はちょっと違うが高槻の名誉の為にそうして置く)OKを取れそうな「隙」に彼女が喰らい付いて来ないのが腑に落ちない。それどころか「忘れてくれ」と本気で頭を下げたのだ。
 そうなると俄然、藤城の明晰な頭脳は彼女の行動の謎を分析したくなってくる。
 運ばれて来たクラレットチーズとバーニャカウダを前に、無言で固まる女。一点を見詰める瞳が揺れている。
「……取り敢えず喰うか」
 このまま無言で攻め立てるのも悪くない……が戦法を変えよう。
 あくまでフランクに提案すると、意を決したように彼女が顔を上げた。
「あの日私は本当に……酔っていて……そして気持ちが……凹んでたんです」
 不意に本橋の隣で羽田とけん制し合っていた姿を思い出す。つまりは羽田に負けたのか?
 が、一瞬考えただけで無いとあっさり結論出来た。本橋は羽田をどこまでも煙に巻いていた。それにどちらかというとアイツは高槻を気に入っている。
 その事実に何故か藤城の胸がちくりとしたが、不整脈として乱れた動悸の理由を押しのける。
「そうは見えなかったが?」
 あっさり打ち返されるも高槻は強引に「凹んでたんです」と押し通した。
「ともかく……あの時私は普段とは違って……ナーバスだったんです。そんな時に普段は氷のような藤城部長が優しくしてくれて……それでつい」
「ギャップにやられたと?」
「ええまあ……そんな所です」
「それならプロポーズなんかする必要はないだろ。結婚の申し込みだぞ? 付き合ってほしいとも、抱いて欲しいとも違う。一生を共にしてください宣言だ。それをたったそれだけの理由で?」
「ですから、酔っていたんです。酔っていて……八方ふさがりで……」
 これはまた珍しい単語が出て来た。
 偏見かもしれないが、腰かけOLカテゴリーに居た高槻の口から『八方ふさがり』という単語が零れただけでも驚きだ。
「何故?」
 容赦なく追及してみる。ちらと彼女の顔を見れば瞳に苛立ちが過るのが判った。
「プライベートな問題ですからお答えいたしかねます」
「言っておくが、それに巻き込んだのは君だ」
 今度ははっきりと彼女の顔に苛立ちが浮かんだ。相変わらず顔色は悪いが、頬は怒りの為に赤くなっている。
「その件に関しては申し訳ないと本ッッッ当に思ってます。ですからもう忘れてください」
 ぐっさりと、焼き色のついたチーズの掛かったブロッコリーにフォークを突きさす。
 四日前の昼に蕎麦を猛烈な勢いでかき込んだ時や、先ほどのワインを一気に飲み干した姿を思い出し藤城は思わずニヤリと笑った。
 彼女は何か隠し事をしている。そしてそれは藤城にプロポーズした理由に関連していて、それを明かしたくないと考えている。
 うやむやにしようと躍起になっているのがまるわかりだ。
(こんな奴だったとは……)
 今度は不貞腐れてニンジンを口に放り込んでいる高槻を見ながら、藤城はあまりの分かりやすさに微笑むと同時に、自分が認識していた高槻果穂との違いに戸惑った。
(もうひと押ししてみるか)
 知らない事ばかりの彼女から、もう少し情報が欲しい。
「じゃあ君が俺にプロポーズした件はいったん忘れてやる。が、代わりに提案がある」
 どうにも彼女が気になって仕方なかった藤城は、四日間考えた末に彼女の隠している事情を探り出してやろうと決意していた。
 営業部というチームの中に、何を考えているのか判らない人間が居るのは自分のプライドが許さない……というのは建前で、久々に解き難いパズルを見付けて嬉々としているというのが本音だ。
 高槻果穂。
 自分の認識を百八十度覆した彼女に俄然興味が湧いた。
 対して、やってきた生ハムのペペロンチーノを無言で口に運ぼうとしていた果梨はその一言に凍り付いた。
 何を提案されるのだろう? というか何を提案されても乗る気は無い。
 何故このイケメンは放って置いてくれないのだろうか。
(氷の営業部長のくせに大笑いしてたし……)
 上目遣いで彼を確認すれば、グラスを手にした端正な男が微笑みながらこちらを見ている。
 ただし、その眼は笑っていない。
 本日何度目かになるか判らない寒気が走り、果梨は慌てて目を伏せた。心臓がバクバクしている。
 きっとろくでもない事になる。絶対そうだ。間違いない。
「辞退します」
 彼が何かを言う……それに耐えきれず声高に告げた。先手必勝パート二だ。
「そう言うな。付き合ってくれればそれで良い」
 さらりと言われ、果梨は拍子抜けした。
(……買い物か何かかな)
 目の前の男が綺麗な所作でパスタを巻いている。一々絵になるから……目のやり場に困る。気付けば目で追ってしまうからだ。
 なんとなく背筋を伸ばしながら、それくらいなら……と果梨は一つ頷いた。
「どこにお付合いすればいいのでしょうか」
「付き合うのか付き合わないのか、どっちだ?」
 冷やかな視線と冷たい声にびくりとする。これ以上腹を探られるのはごめんだ。特に痛い腹は。
「もちろん、お付合いいたします」
 ほっと胸をなでおろしながらそう言えば、氷の営業部長は悪魔のように微笑んだ。
「二言はないな、高槻」
「はい」
 勢いよく頷くと、藤城康晃はゆっくりと椅子の背もたれにもたれ勝利の笑みを浮かべた。
「なら、今日から君と俺は恋人同士だ」
 にっこり。
「……………………へ?」
「君は営業に向いていないな」
 くっくっと悪魔は笑い、その茶色の瞳に金色の光が過る。行儀悪くフォークの先端を果梨に向けながら藤城はひたりと彼女に視線を据えた。
「俺は一言も、どこかに出掛けるのに付き合えとは言っていない」
「!?」
「俺は付き合ってくれと言った。君ははい、と答えた。勝手に『どこか』に『出掛ける』ものとして。そんないい加減なことじゃ、相手に足元見られて終わりだぞ」
 向けたフォークをアサリのバター焼きに向けて頬張る姿に、果梨は口をぱくぱくさせた。
「だ……騙しましたね!?」
 彼女の声が掠れる。だが、ICHIHA創業以来トップ三に入る営業成績を叩きだした藤城康晃はただ眩しく爽やかに(そんな事ができるとは思っていなかった)笑って見せた。
「お前が勝手に勘違いしただけだ」
「そう仕向けたでしょ!?」
「それは何の罪に問われるんだ? 俺は嘘は言ってない。言わなかったことがあるだけだ」
 だから騙してはいない。
 涼しい顔でそう告げる藤城に、果梨は胸の内に込み上げて来る悔しさを必死に呑み込んだ。まさか自分が……騙されるなんて!
(もう二度と! 絶対! 騙されないって……男には騙されないって誓ったのにッ)
 自分の浅はかさに腹が立つ。気付けば彼女はフォークの柄を握り締めていた。
(それもこれも全部ッ!)
 全部、アイツが悪い。
 ……傷付いて閉じこもっていた自分をそそのかした、アイツ。
 色っぽい仕草で髪を払う高槻果穂を思い出しながら、しかし果梨は怒り任せにパスタを頬張った。
 これから先の事はもう知らない。こんな窮地に追い込んだ果穂に感じていた同情は微塵もなく消え去った。
 ああそうだ、知るか。これからは自分が好きなようにやってやる。
「諦めろ、高槻。そして喜べ。俺から正式に交際を申し出るなんて事、滅多にないぞ」
 にやにやと捕食者の笑みを浮かべる藤城に、果梨は全てをぶちまけたくなったが押しとどめた。
 自分は高槻果穂ではない―――その爆弾発言が最大の切り札になりそうなそんな気がしたのだ。
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