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第一合

第4話

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 ありえない。
 嘘だ。
 幻覚だ。
 トリックだ。
 CGだ。
 じゃあなきゃ――
 何だ、あの現象は。
 なんだっていうんだ。
 さっきのアレは。


「どうじゃ、少しは己の見識のなさを思い知ったか?」


 馬のように四足歩行をする俺の背中に乗っているぴりかが勝ち誇ったように言う。
 互いの上下関係やら位置関係やらがひっくり返ったのも、こんなことになっているのも、全ては彼女の主張が正しかったからに他ならない。
 知り合った少女が妖怪だろうが神だろうが話だけならいくらでも一蹴できる。最初そうしていたように一笑に付せる。
 だが俺は見てしまった。この目で確認してしまった。
 彼女が人ではないところを。
 その事実を否定すれば自分の目や脳を異常ということになってしまう。
 そっちのほうが幾分ましだが、いかんせん俺は正常だ。
 頭もクリアだし、体調もいい。
 途中から夢の可能性もあるにはあるが、望み薄だ。だってコンクリートに接触する膝頭がずっと痛い。


「まだ状況が呑み込めないけど信じるからもう勘弁してくれ」


 俺は手足を止めて懇願する。
 もう限界だ。病院を出て長らく通行人の視線が痛い。
 傍目には年の離れた妹のわがままを聞いている優しい兄の雄姿、として映っているとことを願う。
 まさか、変な性癖を持ってて変なプレイの最中とか思われてないだろうな。


「なんじゃ、なんだっていうこと聞くんじゃなかったのか?」
「言ったよ。言ったけどさ」
「都会の人間は騙すのが得意なのか?」
「都民の名誉のためにいうが、そんなことは断じてない」
「ならこのままわしの乗り物になっておるがよい」
「いつまでやったら気が済むんだよ。そもそもさっきからどこへ向かっているんだ?」
「そうじゃなあ……」
「いま考えるな」
「特に考えてなかった」
「じゃあ何のために俺はこんな惨めな恰好で移動手段にされたんだよ」
「立場をわからせるため」
「そこは即答なのか」
「仕方ない。もう許してやるか」


 不意に背中からぴりかが降りてくれてほっとしたのもつかの間、彼女は続けてこう言った。


「じゃあ次はー」
「まだ終わらないのかよ」
「いつからわしの願いがひとつだと錯覚していた?」


 やべえ、とんでもないやつひっかかってしまった。
 これが妖怪というものなりか。いやただ性格が悪いだけだ。
 普通ならここでキレているところだが、しかし瞳に焼き付いた超常現象がそれを禁じる。
 彼女がどんな能力を有しているか得体が知れないので逆らうと何をされるか分かったものではない。
 喉から溢れそうな反論を飲み込んで俺が待っていると、ぴりかはもうひとつの注文を出してきた。


「んー、とりあえず儂が食べられるものを探してくれ」


 彼女は簡単にそれを口にしたが、俺はすでに戦慄していた。


「では後は頼んだぞヒカリ」


 俺が事態を理解し絶句していると、ぴりかがいきなりそう言い残して地面に倒れ込んだ。


「お、おい」
「栄養不足でもう意識を保っていられそうにない。しばし眠る」
「何を勝手なことを言ってる。お前はアレルギーで、そもそも俺はまだ――」
「……」


 俺が言い終わらないうちにぴりかはすでに大の字になって寝息を立てていた。
 歩道のど真ん中で。
 なんとはた迷惑な。
 確かに病院で点滴を打ったがこいつは空腹のままだった。
 彼女がなんであれ人間の食べ物が体に合わないのは可哀想だとは思うし同情だってしよう。
 だからといって俺が面倒を見るのか。
 世界人口は億単位でいるのに。
 なんでよりによってこの俺が?
 一瞬だけこのまま立ち去ろうかと逡巡もしたが、観衆の手前そうするわけにもいかない。
 何よりそれだと後味がよくない。


「くそ、俺にどうしろっていうんだよ」


 とりあえず悪態をついて思考だけはしてみる。
 アレルギー持ちの少女が食べられるものを頭に思い浮かべる。
 美味しいものが好きな俺にとって食べることは専門分野と言っても過言でないが、これは完全に専門外だった。
 むしろ自分とは対極にある分野と言っていい。
 乱暴に髪をかいたがいい案は一行に出てきそうになかった。


「あーやっぱ無理。むりむり。悪いけど俺よりいい人に助けてもらってくれ」


 結論が出た。
 彼女に背を向けて俺は立ち去ることにした。
 罪悪感はあるけれどあまりに荷が重い。
 妖怪だか座敷童だか知らないけどこちとら観光大使じゃないっつーの。
 もっと適任の人類がいるはずだと言い聞かせて家の方角へと歩き出す。
 だがそのとき、ある音が俺を引き止めた。
 ぐるるるるる。
 まただ。
 それはあまりに人間的で、よく聞きなれた音だった。
 はっとして振り返ると、ぴりかがお腹を押さえて寝ていた。
 不意にその姿がかつての自分と重なった。


――お母さんお腹空いたよー―


 あのときの自分と。
 重なってどうしようもなくほうっておけなくなってしまった。


「わかったよ」


 彼女に聞こえるはずもないが、俺はその音に返事をした。
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