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第一合

第11話

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「下ごしらえはこれでいい。使う調味料は買ってきた甜菜糖、小麦粉不使用の醤油、私が常用している無添加のみりんとなるべくシンプルにいく。それと水。軟水のミネラルウォーターだ」


 そう言って小町先生が床に置いてあった段ボールから500mlペットボトルを取ってくる。


「軟水?」
「水に関してもあまり知らないのだな。まあ若いから仕方ないか。ミネラルウォーターとはその名の通りミネラルが含まれた自然の水だ。中に溶けているカルシウムとマグネシウムの量を表わした数値を硬度と言って、多いものを硬水、少ないものを軟水と言う」
「栄養の違いですか?」
「味もかなり違う。硬水だとミネラルなどのせいで口当たりが重くなる。だから飲み水としては軟水が、つまり高度が低い方が美味しく感じるはずだ。お前が知ってそうなのだと、クリスタルガイザーが軟水。あのボトルが柔らかいやつな。その硬度の高さからお腹を緩くし便秘やダイエットで利くと女子に噂されているコントレックスなどは硬水に当たる。硬度の高い硬水はめっちゃまずいから機会があったら味見してみるといい。きっとびっくりするぞ。そして和食にいいのは癖のない軟水というわけだ」
「料理に水も関係あるんですね」
「ラベルに硬水か軟水か書いてあるから見てみるといい。味比べするのもいいかもな。どれがいちばん自分に合うかわかるぞ」
「水にも味があるのは気づいてましたが硬度で変わるんですね」
「さて余談はこの辺にして、まず簡単に日本料理の基本を教えておく」
「本当に簡単にお願いします」
「和食の基本はさしすせそだ」
「知ってますそれ! 砂糖、塩、お酢、せは……あれ」
「せうゆ、醤油のこと。そは味噌だ」
「ちょっと強引だっ」


 いやいや、ちょっとどころじゃなかったわ。
 もっとうまくできんかったのか。
 せいゆっておま。


「先達が憶えやすくするために語呂合わせにしたものだから私に文句は言うなよ。このさしすせその調味料があればおおよそ大抵のものは作れる。さらに味に深みを出したいときはプラスみりん、酒を使う」
「料理って種類が豊富なのに調味料って意外とシンプルなんですね」
「ああ。そのシンプルさを理解すれば料理が思ったほど難しい作業ではないことが自ずとわかるはずだ。するとレシピを見なくてもおおよその見当で味付けができるようになる。まあ基本の分量のバランスは記憶しておく必要があるけどな」
「肉じゃがのは?」
「まずはこれで。鍋に油を軽くひくから中火で野菜と白滝を炒めて、続いて肉を炒める」


 彼女がガスじゃないタイプのコンロの電源を入れて、鍋を置いてくれた。
 そこへ俺はさきほどの野菜と食べやすくした白滝を投入する。
 横から 間髪容れず長い箸を渡されたのでそれでいじくり回す。


「こんなんでいいでしょうか?」
「ああ。次は肉を入れろ」
「量は?」
「適当でいいが肉アレルギーのことも気にして少しだけにしておこう」
「わかりました。ちょっとだけ入れます」
「どうだ楽しいだろ?」
「必死過ぎてまだそこまで行きませんよ。あの肉っていつまで焼けばいいんですか」
「目安としては赤い色が黒っぽくなったら火が通った証拠だ」
「もうなりましたけど」
「よし。ならそこへ水を300cc」
「そんなの目で計れませんよ」
「これで計って入れればいい。てってれー、計量カップ♪」


 と、小町先生が予め用意していたであろう透明なカップを出す。
 見てみると横からと上からでも水量が一目でわかるようになっているようだった。
 横から把握できるのは知っていたが、上からでもわかるものがあるなんて初めて知った。
 きっとこれを発明した人はノーベル賞をとっているに違いない。
 俺は手取り足取りされつつ言われた通りする。


「おっけーです。次は?」
「とりあえず醤油と砂糖を大さじ2、みりんを大匙1でいこうか」
「そんなの目ではか――」
「てってれー、計量スプーン♪」


 今度は彼女から大中小がセットになったプラスティックのスプーンを渡された。
 いちばん大きいのが大匙というものらしい。
 小さいのは小さじだろう。
 醤油大さじ2。
 砂糖大さじ2。
 みりん大さじ1。
 よし完了。


「出来ました。あとは?」
「もうこれでほぼ終わりだ」
「えっ、もうこれで?」
「だから簡単だと言っただろう」
「まじで? これだけで」
「あとは煮込んで落とし蓋とかして煮汁が飛ぶくらい煮込めば完成だ。アク取りもすればなおよし」
「あとは煮込むだけか。肉じゃがってもっと難しいイメージありました」
「なんでもやってみることさ。そしてもっといろんなものに挑戦して料理の深淵に近づいていくのさ」
「俺はもうこれで充分っす」


 かなり拍子抜けしてしまった。
 もっと料理とは難しいものと俺は勝手に思い込んでいた。
 修行とかして、レシピとか読みながらやるものだと勝手に想像していた。
 男にとって厨房なんてものはそれくらい縁遠く神聖化されたところだったのだ。
 でも本当に美味しく出来るのだろうか。
 彼女を疑うわけではないが非常にそこが心配である。
 指示に従い火加減を強火に変更。
 鍋がぐつぐつ言うのを俺はただひたすらじっと眺める。
 凝視すれば旨味が増すわけなどないのだが、気になる試合結果の行方のように何故だか目が離せなかった。
 気づけばどこか懐かしい、いい匂いがあたりを包んでいた。
 俺はこれを知っている。
 夕時になるとよく誰かの家の換気扇から溢れてくる心温まる何かだ。
 かつて俺もこれに包まれていた。
 それもいまや遠い記憶の中だ。
 不思議と外食やコンビニ弁当からはこれを感じたことがない。
 何故だろう。不意にそんなことを思い出しながら待つ。
 小町先生は退屈だろうから調理場から離れてもいいと言ったが、そのまま時おり小町先生が教えてくれた通りアク取りをする。
 アク取りの器具はステンレスの棒の先に丸い網がついたシンプルなものだ。
 何だか歌手がレコーディングの際マイクの前につけているあれにどこか似ている。
 俺は網目になっている部分でうまく濁りをすくい上げ捨てる。
 敵の如くとっては捨てる。


「どんな感じだ?」


 ぴりかを様子を見に行っていた小町先生が戻ってきて俺へ声をかけてきた。


「さっぱりわかりません!」


 打てば響くような速さで俺は断言する。
 こんな感じですとしか言いようがない。


「もう二十分くらいそうしているからてっきり悟りでも開いたと思ったが」
「離れがたくて」
「初々しくて可愛いな。でも煮汁はだいぶ減っただろ?」
「それは、はい。もう最初の半分以下くらいになってますよ。もういいんですかね」
「もう少しかな。ぎりぎりまで煮詰めたほうが味が染みて美味しくなる」
「完成の目安ってあるんですか?」
「人にもよるがあるにはある。いちばん硬い食材であるじゃがいもに火が通ってほくほくしていたら食べれるはずだ」
「まさかこんなアツアツなものをいちいち味見しろと? 火傷しますよ」
「まさか。それでもいいが、もっといい方法がある。菜箸、お前がさっき炒めるときに使っていた長い箸で突き刺して柔らかさを確かめるんだ」
「ああそういうふうにするんですね。早速やってみます」
「あまりハチの巣みたいにしてくれるなよ。荷崩れしたら台無しだ。料理は見た目も大事なんだぞ」
「わかってますって」


 俺は恐る恐る箸の先でじゃがいもを突いてそっと力を込める。
 するとすっと簡単に刺さった。


「どうだ、もうかなり柔らかくなっているはずだが」
「すごい、あんなゴツゴツしていたのに柔らかくなるなんて」


 生だったときのジャガイモやニンジンは石みたいだったのに、いまやとろけそうになっている。
 時間の力とは目覚ましい。


「もういいかもな」
「あれ、いいんですか?」
「ああ」
「でもギリギリまで煮詰めるんじゃ」
「理想としてはそうだが、さっきからうるさいんだよ」
「鍋ですか?」
「違うっ。あの子の腹の音だ。聞こえんのか?」
「あの子? ああ」


 料理に夢中すぎて耳が疎かになっていたようだ。
 意識すると遠くから地獄の底から響いてくるような重々しい音が流れてくる。
 どうやら前よりぴりかの空腹が増しているということらしい。
 どういうシステムだ。


「ここで餓死されても困る。そうなったら完全に誘拐殺人事件だぞ。早く起こしてお前が作ったものを食べさせてやれ」
「どうもそのほうがよさそうですね……」
「最後にひとつアドバイス。料理はいちど火を止めて冷まし、再加熱した時に味がよく染みこむ。牛丼などはそうすると格段に味が変わる。最高のものを作りたいときはさらにひと手間をかけるといい。このひと手間というものが出来をかなり左右することもある」
「二日目のカレーはうまいとかそういうやつですか?」
「ちょっと違うが、まあそんな感じだ」
「あの、ここまで色々と教えてもらっておいてなんですけど、料理をするのはこれで最初で最後なんで、せっかくですけどアドバイスは役に立ちそうにないですよ」


 そう断りを入れる俺に、彼女は何を言いたそうな顔をしたが、結局何も言わなかった。
 すべてが興味深い体験だったけれど、ぴりかを満足させたらそれでおしまいだ。
 それでいい。
 寝て起きたらきっと今日やったことなど全て忘れている。
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