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第三合

第38話

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「ふー、苦しい。もう何も入らないんじゃあ」


 食時後、だらしなくも食べてすぐごろんと横になるぴりかに苦笑しながら俺は片付けを始める。
 だが間髪容れず彼女は起き上がりこう言い放った。


「さてお菓子の時間じゃ!」
「いま何も入らないって言ったよなぁ!」


 きた。
 すっかり習慣化したパターンなので予想はついていた。
 思えばこれも悪習なのかも知れない。
 今回からは厳しく接していかねば。


「それは三秒も前の話じゃて」
「三秒で胃に場所を作るな」
「今日も甘いものがいいのう。じゅるり」
「その件なんだけどさ。体調も優れないみたいだし、お菓子をしばらくやめたらどうだ?」
「何を言うておる。一日の楽しみじゃぞ。やめるわけなかろう」
「なら甘いものはやめよう。それならいいだろ?」
「やじゃ」


 鮮やかな即答だった。


「どうも甘いものには糖質ってものが含まれていて食べすぎるとよくないらしいんだ。だからさ」
「なんでじゃ。それにはアレルギーはないんじゃろ?」
「そうなんだけどさ。でも駄目なんだ」
「なんでじゃなんでじゃあああ」
「わかってくれ。しょっぱいものなら食べていいからさ」
「わからん!」
「わかれよ。お前のためなんだから」
「儂のためなら食べさせてくれていいじゃろ!」


 ぴりかが俺に飛びいてきて拳で叩いてきた。
 こんなことは初めてだ。
 さすがここまで抵抗されると思っていなかった俺は苛立ちを禁じ得なかった。
 なんてわからず屋だろう。
 俺より年上なんじゃなかったのか。


「いい加減にしろ! ただ甘い物をやめろって言ってるだけだろうが!」
「儂の楽しみなんじゃ。それを奪うな。たださえあれを食べるなこれを食べるなと口うるさい癖に」


 瞬間――頭に血が上った。
 誰のためにこれまで努力してきたとこいつは思っているのか。
 どうでもいいと思っていたら厳しく接したりなんかしない。
 何もわかっていないガキに俺は腹が立って仕方なかった。

 
「奪うとか人聞きの悪いことぬかすな。俺はお前のことを思って心を鬼にして言ってるんだぞ。人の気も知らないで」
「人の気じゃと? なら儂の気持ちを考えたことがあるのか! みんなが食べているものを食べられない気持ちが。外を歩けば周りはクレープやらタコ焼きやら美味しそうに食べておる。テレビをつければ芸能人が美味しそうに話題のものを食べておる。それをただ見ている羨むことしかできない者の気持ちが、ひかりにそれがわかるのか!」


 見るとぴりかが初めて泣いていた。
 涙を流し訴える彼女の気持ちは察することができる。
 きっと俺の知らないところで堪えてきたのだろう。
 でもだからこそ俺も共に我慢して努力してきたのだ。


「わかってるつもりだ。そのために俺もお前と一緒なものを食べているんだから」
「そんなものはただのごっこじゃ」
「なんだと?」
「そんなの食べられないごっこだと言うたんじゃ。いつでも食べようと思えば好きなものを食べられる。本当に食べられない儂とは違う」
「ごっこだ? 全部お前のためにやってるのに。本気で怒るぞ」
「さっきからお前のためお前のためって、いつ誰がそんなこと頼んだ!」


 気づいたとき俺は彼女の頬を強く打っていた。
 すぐ後悔しなかったといえば嘘になる。
 けれどどちらにしたって時間は戻らない。  
 ぴりかは震えながら俯き俺に背を向けた。
 どれだけの沈黙が流れたか。
 部屋にはすすり泣く声だけが虚しく響いていた。
 やがて彼女は腕で目元をこすり、掠れる声でこう言った。


「ひかり、いままでしたくもない無理をさせて悪かったの。これからはもう我慢しなくてもよいぞ。いままで本当に助かった。世話になった。儂はもう帰ることにするよ。これでさよならじゃ」


 一方的に離別を告げた彼女が家から出て行こうとしている。
 止めようと思えば止められたはずなのに、俺はそうしなかった。
 ぴりかは人ではない。
 座敷童だ。
 他人なのだ。
 いままで俺の傍にたまたま居候していたに過ぎない。
 どこへ行こうが自由なのだ。
 俺の横にいるのも。
 俺から離れるのもまた。
 止める理由なんてない。
 出会う前に戻っただけ。
 不満なら勝手に出ていけばいい。
 でも、ただひとつだけ気がかりだ。


「帰るって……どこにだよ」


 そう俺が呟いたときにはもうぴりかの気配はどこにも感じられなかった。
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