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欄外編
131 おはよう、どうか良い夢を 【side セイ】
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──深く、深く、深く。水の底に沈んでいた意識が浮上していく。私はゆっくりと目を開けた。
「あ、目が覚めたのね。よかった」
息がかかりそうなくらい近くに、焦がれてやまない女性の顔があった。目の前、そう目の前に。心配そうに私の顔を覗き込んでいる。
その表情に怯えはない。純粋に私を気遣う琥珀色の瞳が柔く揺れた。
(……夢、だったのか?)
見渡すと、そこは後宮の一室だった。私は椅子に座っており、目の前には魔術の教本。彼女に魔術制御を教えながらうたた寝してしまったらしかった。
テーブル脇に置かれたティーポットからは、夢と現実の境目のように、ゆらゆらと湯気が立ち上っている。
しばらく放心状態だったが、徐々に夢だったのだとわかり徐々に力が抜けていった。あまりにも生々しく、現実との境目がわからない世界だった。
(まだ…私は大切なものを失っていない)
堪えようとしても、駄目だった。安堵で目から涙がぼろぼろと零れていく。
驚きに目を見開いたシアの頬に手を伸ばすと、柔らかく、温かい。そのぬくもりの尊さを知り、次から次へと涙が溢れ止まらなかった。
花茶が注がれた椀の蓋を開け、湯の中で花がゆっくり開くさまを眺めているうちに、ようやく少し落ち着いてきた。
既に陽は落ちかけており、オレンジ色の光が窓から差し込んでいる。そろそろ戻らなくてはいけない時間だが、とてもそんな気にはなれなかった。
大の男が突然泣き出して驚いただろうに、シアは何も聞かず、私の気持ちが静まるのを待ってくれた。
「こんな話をして、驚くとは思いますが…どうか、聞いていただけませんか?」
ぽつり、ぽつり、と。
あれはただの夢だと、現実ではないと実感したくて憶えている限りのことを話す。全て話し終えるまでに時間がかかったが、シアは黙って話を聞いてくれた。
結婚したこと、嫉妬のあまり監禁して薬漬けにしたこと、最後にはシアがいなくなってしまったこと。口にするのも辛く、喉がひどく渇いた。話し終える頃には、重苦しい疲労感が全身を襲った。
黙り込んだ私を心配したのか、気づくと向かいに座っていたはずのシアがそばに立っていた。座ったまま、縋るように彼女の腰を攫い、無言でぎゅうと抱きしめる。
「……ひとりで抱え込んで辛かったね。もう大丈夫だからね。」
彼女は小さな子供にするように、よしよしと私の背中を撫でた。
ただの夢だ。現実ではない。なのに、なお現実めいた悪夢が頭から離れない。募る不安、狂気めいた束縛、そして…
まぎれもない、あれは、私が選んだかもしれないもう一つの未来だった。
一時の欲望で彼女を独占したら起こりえる悪夢のような結末。今の歪な関係性が、結果的にはいちばん平和で合理的だということを改めて思い知った。
私は現実のシアに尋ねたかった。
「もし……、私とあなたの婚姻が決まったと陛下に告げられたらどうしますか?」
「…それが決定であれば、承諾するかなあ。」
「本気ですか? だって私はあなたを壊してしまうかもしれないのに?」
「うーん、一度決まったことを覆すのも大変だし、アレクが決めたんだったら受け入れると思う。」
シアの答えは、あっけらかんとしたものだった。
本来であれば死ぬほどうれしい返事であると同時に、死ぬほど聞きたくなかった返事だった。
自分でもどちらの答えを望んでいたのかわからない。ただ、自分が考えるほど、彼女が深く考えてくれていないように感じて、憤りにも似たような理不尽な気持ちになる。
ぎゅっと、彼女を抱きしめる腕に力を籠めた。
「あなたは…たとえ不幸になるとわかっていても、陛下が決めたことであれば従うんですか?」
つい責めるような口調で問い詰めると、彼女は。抱きしめ返す腕に力を籠めた。
「そうじゃない。」
「だって夢で私はあなたを…。」
「そうじゃない、人間はシナリオ通り、都合よくは動かないから。たとえセイの夢の私たちが悲しい結末だったとしても、それは『結婚したから』とは違う。」
一瞬、何を言われているのかわからなかった。
「結婚と不幸に因果関係はないから。だから結婚しなくても不幸になるかもしれないし、結婚しても、ちゃんと幸せになる道はいくつもある。」
「しかし…きっと私は夢と同じようにあなたを疑って監禁してしまう。」
「もし閉じ込められても、きっと内緒でルーやアレクに泣きついてなんとかしてもらうと思うし。」
「……それは大変嫌なのですが。」
「そもそも複数のパートナーを認めているんだから、結婚した後も…他の男性と関係があっても問題ないんでしょ?」
「法的には問題ありませんが、私の気持ちが耐えられません。」
言葉で納得させることは難しいと思ったのか、シアは最後に思ってもないようなことを提案した。
「じゃあ、今夜は一緒に寝てみるのはどう? そうしたら次は違う結果になるかもしれない。」
それは子供じみた提案だったが、シアは本気だった。あっという間にアレクセイ陛下の許可を取り、夕食を食べた後、いそいそと眠る準備を始める。
「まさか本当に眠るだけなんですか?」
シアと一緒に夜を過ごせるのはありがたいが、さすがに今の精神状態では「ただ眠るだけ」では済みそうもない。不埒な気持ちにならないか不安だったが、恐ろしいことに寝台に入った途端、奈落に落ちていくように意識を手放した。
*****
「……どう? 寝た?」
音もなくやってきたアレクは、扉の向こうから小声で尋ねた。わたしは「しーっ」と人差し指を立てて口元にあてる。眠る間際に繋がれた手を慎重にほどき、隣でぐっすりと眠る相手を起こさないように、そろりとベッドを出た。
「睡眠薬って、こんなによく効くって知らなかった。すぐ寝ちゃった。」
「ごめん、ごたごた続きで無理させちゃった自覚はあるよ。」
ここ数週間、セイは多忙で睡眠時間を削って業務をおこなっていたそうだ。それにもかかわらず、わざわざ時間を捻出して私の勉強に付き合ってくれていたのかと思うと、申し訳ない気持ちになる。
「突然セイと一緒に寝たいなんて言うんだもん。何があったのかと思ったよ。」
さすがに夢の内容までは話さなかったが、彼が悪夢を見て落ち込んでいたことは相談してある。アレクはセイの食事に遅効性の睡眠薬を混ぜるよう指示し、今に至るというわけだ。
「セイってば、昔からそうなんだよね、悪いほうへ悪いほうへ考えちゃう。」
「わたしも同じだからわかるなあ。アレクはそういう風には考えないの?」
何気なく尋ねると、アレクは迷いなく答えた。
「考えないね。為政者が後ろ向きだと国が傾く。」
そう断言できる強さが、少しうらやましい。ポジティブ思考は訓練だと聞いたことがあるけれど、アレクの場合もそうなんだろう。
改めてアレクの顔を見ると、セイに負けず劣らず疲れているように見えた。最近少し王宮内がばたばたしているように感じるので、ひょっとしたら何か問題が起きているのかもしれない。
気にはなるが、今の自分は飾り物の側妃という中途半端な立場だ。だからあえて多忙の理由は尋ねなかった。
(それでも、夜くらいはゆっくり休ませてあげたいな)
わたしはアレクの手を引き隣の部屋へ連れていく。ここなら少し声を出してもセイは起きないだろう。そしてソファにアレクだけを座らせた。
「…えーっと? なに?」
なにをされるのか理解できないというように、アレクは戸惑いの視線を向けた。
質問には何も答えずにアレクの体をソファに押し倒した。顔色もよくないし、思った以上によれよれなことに本人は気づいていないらしい。セイが多忙というならば、アレクだって同じはずだ。なのにちゃんと毎日通ってきてくれて、何も言わないけれど大変だったんだろうと思う。
休んでほしいと小声で伝えると、にこりと最上の笑顔が返ってきた。
「ふふ、今眠ったら、君と結ばれる夢でも見れるかな?」
そんな軽口をこぼす相手を愛しく思いながら、そっと触れるだけのキスをした。
「あ、目が覚めたのね。よかった」
息がかかりそうなくらい近くに、焦がれてやまない女性の顔があった。目の前、そう目の前に。心配そうに私の顔を覗き込んでいる。
その表情に怯えはない。純粋に私を気遣う琥珀色の瞳が柔く揺れた。
(……夢、だったのか?)
見渡すと、そこは後宮の一室だった。私は椅子に座っており、目の前には魔術の教本。彼女に魔術制御を教えながらうたた寝してしまったらしかった。
テーブル脇に置かれたティーポットからは、夢と現実の境目のように、ゆらゆらと湯気が立ち上っている。
しばらく放心状態だったが、徐々に夢だったのだとわかり徐々に力が抜けていった。あまりにも生々しく、現実との境目がわからない世界だった。
(まだ…私は大切なものを失っていない)
堪えようとしても、駄目だった。安堵で目から涙がぼろぼろと零れていく。
驚きに目を見開いたシアの頬に手を伸ばすと、柔らかく、温かい。そのぬくもりの尊さを知り、次から次へと涙が溢れ止まらなかった。
花茶が注がれた椀の蓋を開け、湯の中で花がゆっくり開くさまを眺めているうちに、ようやく少し落ち着いてきた。
既に陽は落ちかけており、オレンジ色の光が窓から差し込んでいる。そろそろ戻らなくてはいけない時間だが、とてもそんな気にはなれなかった。
大の男が突然泣き出して驚いただろうに、シアは何も聞かず、私の気持ちが静まるのを待ってくれた。
「こんな話をして、驚くとは思いますが…どうか、聞いていただけませんか?」
ぽつり、ぽつり、と。
あれはただの夢だと、現実ではないと実感したくて憶えている限りのことを話す。全て話し終えるまでに時間がかかったが、シアは黙って話を聞いてくれた。
結婚したこと、嫉妬のあまり監禁して薬漬けにしたこと、最後にはシアがいなくなってしまったこと。口にするのも辛く、喉がひどく渇いた。話し終える頃には、重苦しい疲労感が全身を襲った。
黙り込んだ私を心配したのか、気づくと向かいに座っていたはずのシアがそばに立っていた。座ったまま、縋るように彼女の腰を攫い、無言でぎゅうと抱きしめる。
「……ひとりで抱え込んで辛かったね。もう大丈夫だからね。」
彼女は小さな子供にするように、よしよしと私の背中を撫でた。
ただの夢だ。現実ではない。なのに、なお現実めいた悪夢が頭から離れない。募る不安、狂気めいた束縛、そして…
まぎれもない、あれは、私が選んだかもしれないもう一つの未来だった。
一時の欲望で彼女を独占したら起こりえる悪夢のような結末。今の歪な関係性が、結果的にはいちばん平和で合理的だということを改めて思い知った。
私は現実のシアに尋ねたかった。
「もし……、私とあなたの婚姻が決まったと陛下に告げられたらどうしますか?」
「…それが決定であれば、承諾するかなあ。」
「本気ですか? だって私はあなたを壊してしまうかもしれないのに?」
「うーん、一度決まったことを覆すのも大変だし、アレクが決めたんだったら受け入れると思う。」
シアの答えは、あっけらかんとしたものだった。
本来であれば死ぬほどうれしい返事であると同時に、死ぬほど聞きたくなかった返事だった。
自分でもどちらの答えを望んでいたのかわからない。ただ、自分が考えるほど、彼女が深く考えてくれていないように感じて、憤りにも似たような理不尽な気持ちになる。
ぎゅっと、彼女を抱きしめる腕に力を籠めた。
「あなたは…たとえ不幸になるとわかっていても、陛下が決めたことであれば従うんですか?」
つい責めるような口調で問い詰めると、彼女は。抱きしめ返す腕に力を籠めた。
「そうじゃない。」
「だって夢で私はあなたを…。」
「そうじゃない、人間はシナリオ通り、都合よくは動かないから。たとえセイの夢の私たちが悲しい結末だったとしても、それは『結婚したから』とは違う。」
一瞬、何を言われているのかわからなかった。
「結婚と不幸に因果関係はないから。だから結婚しなくても不幸になるかもしれないし、結婚しても、ちゃんと幸せになる道はいくつもある。」
「しかし…きっと私は夢と同じようにあなたを疑って監禁してしまう。」
「もし閉じ込められても、きっと内緒でルーやアレクに泣きついてなんとかしてもらうと思うし。」
「……それは大変嫌なのですが。」
「そもそも複数のパートナーを認めているんだから、結婚した後も…他の男性と関係があっても問題ないんでしょ?」
「法的には問題ありませんが、私の気持ちが耐えられません。」
言葉で納得させることは難しいと思ったのか、シアは最後に思ってもないようなことを提案した。
「じゃあ、今夜は一緒に寝てみるのはどう? そうしたら次は違う結果になるかもしれない。」
それは子供じみた提案だったが、シアは本気だった。あっという間にアレクセイ陛下の許可を取り、夕食を食べた後、いそいそと眠る準備を始める。
「まさか本当に眠るだけなんですか?」
シアと一緒に夜を過ごせるのはありがたいが、さすがに今の精神状態では「ただ眠るだけ」では済みそうもない。不埒な気持ちにならないか不安だったが、恐ろしいことに寝台に入った途端、奈落に落ちていくように意識を手放した。
*****
「……どう? 寝た?」
音もなくやってきたアレクは、扉の向こうから小声で尋ねた。わたしは「しーっ」と人差し指を立てて口元にあてる。眠る間際に繋がれた手を慎重にほどき、隣でぐっすりと眠る相手を起こさないように、そろりとベッドを出た。
「睡眠薬って、こんなによく効くって知らなかった。すぐ寝ちゃった。」
「ごめん、ごたごた続きで無理させちゃった自覚はあるよ。」
ここ数週間、セイは多忙で睡眠時間を削って業務をおこなっていたそうだ。それにもかかわらず、わざわざ時間を捻出して私の勉強に付き合ってくれていたのかと思うと、申し訳ない気持ちになる。
「突然セイと一緒に寝たいなんて言うんだもん。何があったのかと思ったよ。」
さすがに夢の内容までは話さなかったが、彼が悪夢を見て落ち込んでいたことは相談してある。アレクはセイの食事に遅効性の睡眠薬を混ぜるよう指示し、今に至るというわけだ。
「セイってば、昔からそうなんだよね、悪いほうへ悪いほうへ考えちゃう。」
「わたしも同じだからわかるなあ。アレクはそういう風には考えないの?」
何気なく尋ねると、アレクは迷いなく答えた。
「考えないね。為政者が後ろ向きだと国が傾く。」
そう断言できる強さが、少しうらやましい。ポジティブ思考は訓練だと聞いたことがあるけれど、アレクの場合もそうなんだろう。
改めてアレクの顔を見ると、セイに負けず劣らず疲れているように見えた。最近少し王宮内がばたばたしているように感じるので、ひょっとしたら何か問題が起きているのかもしれない。
気にはなるが、今の自分は飾り物の側妃という中途半端な立場だ。だからあえて多忙の理由は尋ねなかった。
(それでも、夜くらいはゆっくり休ませてあげたいな)
わたしはアレクの手を引き隣の部屋へ連れていく。ここなら少し声を出してもセイは起きないだろう。そしてソファにアレクだけを座らせた。
「…えーっと? なに?」
なにをされるのか理解できないというように、アレクは戸惑いの視線を向けた。
質問には何も答えずにアレクの体をソファに押し倒した。顔色もよくないし、思った以上によれよれなことに本人は気づいていないらしい。セイが多忙というならば、アレクだって同じはずだ。なのにちゃんと毎日通ってきてくれて、何も言わないけれど大変だったんだろうと思う。
休んでほしいと小声で伝えると、にこりと最上の笑顔が返ってきた。
「ふふ、今眠ったら、君と結ばれる夢でも見れるかな?」
そんな軽口をこぼす相手を愛しく思いながら、そっと触れるだけのキスをした。
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