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障害編
3話【Conference at Y Univ.】内科医 神沢 隼人 31歳:再会(藍原編)①
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Y大に来るのは初めてだった。東京といっても埼玉寄りにあって、広い敷地に医学部を含めいろんな学部がある。今日はその会議室を使っての内科学会地方会だ。梨沙ちゃんの初学会発表。症例だけ提案したら、あとは初めてとは思えない素晴らしいまとめっぷりで、プレゼンテーション用のスライドまでほとんど手直しなしで作り上げてしまった。さすが梨沙ちゃんだわ。
二人で受付を済ませて、持参したプレゼンテーション用ファイルを会場用パソコンにコピーする。あとは、時間になるまで待機。まだ余裕があるから、ほかの演題を聞いたりする。あたしは梨沙ちゃんの指導医として来てるから、もし発表中に梨沙ちゃんが困ったりしたら、助け船を出さなきゃいけない。今までは、あたしが発表する立場で、もし困っても西園寺先生とかが助けてくれたから安心だったけど、今度はあたしが助ける番。梨沙ちゃんの初学会発表がかかってるから、あたしは絶対に失敗できない。……ああ、これって、発表する側より緊張する。
ちらりと横を見ると、梨沙ちゃんはケロッとしてる。さすが、肝も据わってるのね。
「……ちょっと、飲み物買ってくるわね」
緊張で喉がカラカラになったあたしは、梨沙ちゃんを会場に置いて息抜きに自販機コーナーへ向かった。スポーツドリンクを買っていると、背後から男の人の声がした。
「香織ちゃん……?」
振り返ると、立っていたのは30歳前後のスーツを着た男性だった。すらっとした体格で、さらさらの髪の毛を清潔に切り揃えて、少し下がった穏やかそうな目と口元。
心臓が鷲掴みにされたみたいに、びっくりした。
……ちょっとだけ変わったけど、雰囲気は全然変わらない。まさか、こんなところにいるなんて。
「……神沢先輩……?」
その人は、ニコッとよく知った表情で笑った。
「やっぱり香織ちゃんだ。驚いたなあ、どうしてここにいるの。もしかして香織ちゃん、医者になったの?」
「あ……はい……あの、先輩も……ですか……」
からからに乾いていた喉が、ますます乾く。でも、驚きと緊張で震えて、せっかく買ったスポーツドリンクの蓋も開けられない。神沢先輩はごく自然に近づいてきて、あたしは思わず一歩後ずさる。
「いやあ、久しぶりだなあ。高校以来だよね。香織ちゃんのこと、ずっと気になってたんだよ。今、何してるの?」
「あの、えっと、M病院で内科医しています……。今日は、後輩の学会発表の付き添いで……」
「そうなんだ? 香織ちゃん、立派になったんだねえ。僕はあのあと、Y大の医学部に進学して、そのままY大付属病院の内科で働いてるんだ。今日は地方会があるから、当番教室の事務として来てるんだけどね。……そうかあ、香織ちゃん、まさか僕と同じ医者になってるなんてね、全然知らなかったよ。……あのあと、いくら電話しても繋がらないし、連絡取れなかったからさ……」
それはそうだ。だってあのあと、あたし、先輩の電話番号を着信拒否にしたから……。
先輩はきょろきょろとあたりを見回して、人がいないのを確認すると、そっとあたしに近づいて小声でいった。
「……ねえ。僕はあれからもずっと、君のこと、忘れてないよ。どうして急にいなくなったりしたの?」
「ど、どうしてって……!」
あのときを思い出して、一気に血が上る。心臓がバクバクいい出して、緊張のあまりうまく話せない。
「せ、先輩が、あたしをフッたからじゃないですか……」
「え? フラれたのは僕のほうだよ? 香織ちゃん、初めてのデートのあと、急にいなくなって、電話だって出てくれなくなって」
「うそ、それは、先輩があんなこというから……ッ」
「あんなことって……」
神沢先輩が更に一歩近づいてあたしの肩を掴んだ。途端に、あたしの体が過剰なまでに反応して、全身がかっと熱くなる。ダメ、予想外の出来事過ぎて、頭も体もついていかない。どうしよう、混乱してきた、パニックになりそう――
「藍原先生! もうすぐですよー」
梨沙ちゃんの声がして、先輩がぱっと体を離す。あたしはかろうじて現実に戻った。
「? どうかしたんですか? お知り合い?」
梨沙ちゃんが怪訝な顔をしてあたしたちを見る。
「あっ、こ、こちらは、あたしの高校時代の先輩で……たまたま再会して、びっくりしちゃって。ごめんなさいね、すぐ行くわ」
あたしは逃げるように先輩から離れた。
「それじゃあ先輩、また今度……」
「あっ、香織ちゃん、ちょっと――」
止めるのを無視して、あたしは会場に戻った。
「先生、よかったんですか? あの人、まだ話したそうでしたけど」
「い、いいのよ、たまたま会っただけだから……」
梨沙ちゃんの学会発表デビューは、あたしの出番もなく、無事終わった。質疑応答も自分で上手に答えていたし、あたしは安心して見ていることができた。……というより、梨沙ちゃんの発表に集中しなくちゃいけないのに、あたしの頭の中は、神沢先輩のことでいっぱいだった。
高1のときの、初恋の先輩。初めてのデートで、あたしが暴走して、先輩にこっぴどくフラれて……それがトラウマになった、あの苦い思い出。思い出さないようにしていたのに、まさかこんなところで会うなんて。会うのは10年以上ぶりなのに、先輩、全然変わっていなかった。優しそうな目も、穏やかな雰囲気も。
あのとき、あたしは、本気で先輩が好きだった。大好きで大好きで、卒業の前、先輩が付き合ってくれっていってくれたときは、両想いだったことが信じられなくて、すっかり舞い上がったのを覚えてる。卒業式のあと、先輩と初めて行ったデートは、遊園地だった。その遊園地で、生まれて初めてのキスをして、生まれて初めての……。
そこまで思い出して、また心臓がバクバクいい始める。……だめだ、やっと克服できるかもって思ってたトラウマが、また鮮明に蘇ってきて、今にもパニックになりそうだ。それに今回は、たちが悪い。蘇ってきたのはトラウマだけじゃない。……先輩を好きだった、あのときの甘酸っぱい気持ちまで……思い出したくもないのに、まるであの頃に戻ったかのように、あたしの心が初恋の淡い色で満たされる。それと同時に、体があのときみたいに熱くなって……
ああ、ダメ! こんな再会はなかったことにして、用事が済んだら早く帰らなきゃ。そうしないと、大変なことになる気がする――
二人で受付を済ませて、持参したプレゼンテーション用ファイルを会場用パソコンにコピーする。あとは、時間になるまで待機。まだ余裕があるから、ほかの演題を聞いたりする。あたしは梨沙ちゃんの指導医として来てるから、もし発表中に梨沙ちゃんが困ったりしたら、助け船を出さなきゃいけない。今までは、あたしが発表する立場で、もし困っても西園寺先生とかが助けてくれたから安心だったけど、今度はあたしが助ける番。梨沙ちゃんの初学会発表がかかってるから、あたしは絶対に失敗できない。……ああ、これって、発表する側より緊張する。
ちらりと横を見ると、梨沙ちゃんはケロッとしてる。さすが、肝も据わってるのね。
「……ちょっと、飲み物買ってくるわね」
緊張で喉がカラカラになったあたしは、梨沙ちゃんを会場に置いて息抜きに自販機コーナーへ向かった。スポーツドリンクを買っていると、背後から男の人の声がした。
「香織ちゃん……?」
振り返ると、立っていたのは30歳前後のスーツを着た男性だった。すらっとした体格で、さらさらの髪の毛を清潔に切り揃えて、少し下がった穏やかそうな目と口元。
心臓が鷲掴みにされたみたいに、びっくりした。
……ちょっとだけ変わったけど、雰囲気は全然変わらない。まさか、こんなところにいるなんて。
「……神沢先輩……?」
その人は、ニコッとよく知った表情で笑った。
「やっぱり香織ちゃんだ。驚いたなあ、どうしてここにいるの。もしかして香織ちゃん、医者になったの?」
「あ……はい……あの、先輩も……ですか……」
からからに乾いていた喉が、ますます乾く。でも、驚きと緊張で震えて、せっかく買ったスポーツドリンクの蓋も開けられない。神沢先輩はごく自然に近づいてきて、あたしは思わず一歩後ずさる。
「いやあ、久しぶりだなあ。高校以来だよね。香織ちゃんのこと、ずっと気になってたんだよ。今、何してるの?」
「あの、えっと、M病院で内科医しています……。今日は、後輩の学会発表の付き添いで……」
「そうなんだ? 香織ちゃん、立派になったんだねえ。僕はあのあと、Y大の医学部に進学して、そのままY大付属病院の内科で働いてるんだ。今日は地方会があるから、当番教室の事務として来てるんだけどね。……そうかあ、香織ちゃん、まさか僕と同じ医者になってるなんてね、全然知らなかったよ。……あのあと、いくら電話しても繋がらないし、連絡取れなかったからさ……」
それはそうだ。だってあのあと、あたし、先輩の電話番号を着信拒否にしたから……。
先輩はきょろきょろとあたりを見回して、人がいないのを確認すると、そっとあたしに近づいて小声でいった。
「……ねえ。僕はあれからもずっと、君のこと、忘れてないよ。どうして急にいなくなったりしたの?」
「ど、どうしてって……!」
あのときを思い出して、一気に血が上る。心臓がバクバクいい出して、緊張のあまりうまく話せない。
「せ、先輩が、あたしをフッたからじゃないですか……」
「え? フラれたのは僕のほうだよ? 香織ちゃん、初めてのデートのあと、急にいなくなって、電話だって出てくれなくなって」
「うそ、それは、先輩があんなこというから……ッ」
「あんなことって……」
神沢先輩が更に一歩近づいてあたしの肩を掴んだ。途端に、あたしの体が過剰なまでに反応して、全身がかっと熱くなる。ダメ、予想外の出来事過ぎて、頭も体もついていかない。どうしよう、混乱してきた、パニックになりそう――
「藍原先生! もうすぐですよー」
梨沙ちゃんの声がして、先輩がぱっと体を離す。あたしはかろうじて現実に戻った。
「? どうかしたんですか? お知り合い?」
梨沙ちゃんが怪訝な顔をしてあたしたちを見る。
「あっ、こ、こちらは、あたしの高校時代の先輩で……たまたま再会して、びっくりしちゃって。ごめんなさいね、すぐ行くわ」
あたしは逃げるように先輩から離れた。
「それじゃあ先輩、また今度……」
「あっ、香織ちゃん、ちょっと――」
止めるのを無視して、あたしは会場に戻った。
「先生、よかったんですか? あの人、まだ話したそうでしたけど」
「い、いいのよ、たまたま会っただけだから……」
梨沙ちゃんの学会発表デビューは、あたしの出番もなく、無事終わった。質疑応答も自分で上手に答えていたし、あたしは安心して見ていることができた。……というより、梨沙ちゃんの発表に集中しなくちゃいけないのに、あたしの頭の中は、神沢先輩のことでいっぱいだった。
高1のときの、初恋の先輩。初めてのデートで、あたしが暴走して、先輩にこっぴどくフラれて……それがトラウマになった、あの苦い思い出。思い出さないようにしていたのに、まさかこんなところで会うなんて。会うのは10年以上ぶりなのに、先輩、全然変わっていなかった。優しそうな目も、穏やかな雰囲気も。
あのとき、あたしは、本気で先輩が好きだった。大好きで大好きで、卒業の前、先輩が付き合ってくれっていってくれたときは、両想いだったことが信じられなくて、すっかり舞い上がったのを覚えてる。卒業式のあと、先輩と初めて行ったデートは、遊園地だった。その遊園地で、生まれて初めてのキスをして、生まれて初めての……。
そこまで思い出して、また心臓がバクバクいい始める。……だめだ、やっと克服できるかもって思ってたトラウマが、また鮮明に蘇ってきて、今にもパニックになりそうだ。それに今回は、たちが悪い。蘇ってきたのはトラウマだけじゃない。……先輩を好きだった、あのときの甘酸っぱい気持ちまで……思い出したくもないのに、まるであの頃に戻ったかのように、あたしの心が初恋の淡い色で満たされる。それと同時に、体があのときみたいに熱くなって……
ああ、ダメ! こんな再会はなかったことにして、用事が済んだら早く帰らなきゃ。そうしないと、大変なことになる気がする――
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