2 / 117
プロローグ
しおりを挟む
スノーケルピーという名前には、雪の妖精という意味があるらしい。勝手につけられた偽りの名前の中に、偶然にも真実が混在しているのは皮肉なものだった。
「さっさと馬房に戻らないか! 肉にされたくなきゃ言うことを聞け!」
しなる鞭はくり返し体を叩く。激しい痛み。乾いた音。響く罵声。狭く汚れた馬房。ここはまるで牢獄――いや、地獄なのかもしれない。窓から日が差したとしても、温かさや眩しさは微塵にも感じられず、使い古した冷たい藁もひどく心地が悪かった。
毎日、毎晩。確かめるように周囲を見渡す。ここにはほかに動物はいないようだ。ネズミ一匹、見当たらないのも妙だが、この世界の動物たちはみんな、知っているのかもしれない。ここは地獄だということ。そして地獄には、悪魔のような人間がいること。
「まったく、いい馬だと思ったが姿ばかりだったな。明日、お前をよそへ預ける。そこは私よりも厳しい厩務員たちが大勢いるから、お前も少しはまともになるだろうよ」
「旦那さま、まだよくなられたばかりなのですから、あまり無理をされませんよう……。大きなお声は体にも障ります……」
「あぁ、わかっている。私の杖は」
「ここにお持ちしました」
「すまないね。しかし、こいつのおかげでえらい目に遭ったもんだ。いいか、スノーケルピー。アジアで肉にされたくなきゃ、更生しろ」
そうか。ぼく、よそへやられるんだ……。
二つの足音が遠ざかっていくのを確め、傷だらけの体をそっと藁の上に倒す。そうしながら、男の言葉をぼんやりと思い返した。不思議だ。そこがどんな場所かもわからないのに、ぼくは安堵している。
もっとも、この地獄から出られるのなら、どこへ連れていかれたって構わなかった。その先が再び地獄であっても、今、この場所から逃れられるのなら、それは一筋の希望の光ですらあった。ただ、苦しかった。ここは、ぼくに孤独と恐怖を強く感じさせる。
あぁ、誰か、誰か。ここには光がない。お願いだ。助けて――。
一刻も早くここを出て自由になりたい。しかし、どれだけそう願って嘶いてみても、小鳥すら、トカゲすら、ここへはやって来てくれない。あの男が去ったあとの馬房はただ、しん、と静まり返っているだけだ。
誰か……! ぼくの声を聞いてくれよ……!
心の中でそう何度も叫び、だんだんと暗くなっていく窓の外を見上げるが、やはり、助けはこない。ぼくは本当にひとりぼっちだった。静けさの中で目頭が熱くなり、涙が滲む。もうこの体にはほとんど力が残っていないのに、明日になれば、今度は新しい場所で、さらに厳しい仕打ちがぼくを待っているのだ。いったい、なんの罪があって、こんな思いをしなければならないのだろう。
こんなことなら、人間の世界になんか、遊びにくるんじゃなかった……。
しかし、そう思った瞬間。不意に強い風の吹く音がした。直後、甘い花の香りが風に乗って鼻をくすぐっていく。どこからか舞い降りてきたのは――花びらだ。ピンク色の小さな花びら。ここへ来てから、もういくつもの季節を過ごしてきたが、こんなことは珍しかった。まるで、風に慰められているような気分だ。
風が……、言ってくれてるんだろうか。大丈夫だって、ぼくにそう言って……。
そんなふうに思ったのは、ほのかな花びらの香りのせいかもしれなかった。不思議なことに徐々に意識が遠のいて、浅い呼吸が落ち着いていく。いつもなら、鞭で打たれた痛みが眠気を妨げてしまうのに、今夜はその痛みもさほど感じない。
あぁ、今夜は眠れそうだ……。
ぼくは目を閉じ、願いが叶う日を夢に見る。いつか、誰の指図も受けずに、自らの意志で生きること。好きなだけ、好きな場所を自由に駆ける日が来ることを信じて――。
「さっさと馬房に戻らないか! 肉にされたくなきゃ言うことを聞け!」
しなる鞭はくり返し体を叩く。激しい痛み。乾いた音。響く罵声。狭く汚れた馬房。ここはまるで牢獄――いや、地獄なのかもしれない。窓から日が差したとしても、温かさや眩しさは微塵にも感じられず、使い古した冷たい藁もひどく心地が悪かった。
毎日、毎晩。確かめるように周囲を見渡す。ここにはほかに動物はいないようだ。ネズミ一匹、見当たらないのも妙だが、この世界の動物たちはみんな、知っているのかもしれない。ここは地獄だということ。そして地獄には、悪魔のような人間がいること。
「まったく、いい馬だと思ったが姿ばかりだったな。明日、お前をよそへ預ける。そこは私よりも厳しい厩務員たちが大勢いるから、お前も少しはまともになるだろうよ」
「旦那さま、まだよくなられたばかりなのですから、あまり無理をされませんよう……。大きなお声は体にも障ります……」
「あぁ、わかっている。私の杖は」
「ここにお持ちしました」
「すまないね。しかし、こいつのおかげでえらい目に遭ったもんだ。いいか、スノーケルピー。アジアで肉にされたくなきゃ、更生しろ」
そうか。ぼく、よそへやられるんだ……。
二つの足音が遠ざかっていくのを確め、傷だらけの体をそっと藁の上に倒す。そうしながら、男の言葉をぼんやりと思い返した。不思議だ。そこがどんな場所かもわからないのに、ぼくは安堵している。
もっとも、この地獄から出られるのなら、どこへ連れていかれたって構わなかった。その先が再び地獄であっても、今、この場所から逃れられるのなら、それは一筋の希望の光ですらあった。ただ、苦しかった。ここは、ぼくに孤独と恐怖を強く感じさせる。
あぁ、誰か、誰か。ここには光がない。お願いだ。助けて――。
一刻も早くここを出て自由になりたい。しかし、どれだけそう願って嘶いてみても、小鳥すら、トカゲすら、ここへはやって来てくれない。あの男が去ったあとの馬房はただ、しん、と静まり返っているだけだ。
誰か……! ぼくの声を聞いてくれよ……!
心の中でそう何度も叫び、だんだんと暗くなっていく窓の外を見上げるが、やはり、助けはこない。ぼくは本当にひとりぼっちだった。静けさの中で目頭が熱くなり、涙が滲む。もうこの体にはほとんど力が残っていないのに、明日になれば、今度は新しい場所で、さらに厳しい仕打ちがぼくを待っているのだ。いったい、なんの罪があって、こんな思いをしなければならないのだろう。
こんなことなら、人間の世界になんか、遊びにくるんじゃなかった……。
しかし、そう思った瞬間。不意に強い風の吹く音がした。直後、甘い花の香りが風に乗って鼻をくすぐっていく。どこからか舞い降りてきたのは――花びらだ。ピンク色の小さな花びら。ここへ来てから、もういくつもの季節を過ごしてきたが、こんなことは珍しかった。まるで、風に慰められているような気分だ。
風が……、言ってくれてるんだろうか。大丈夫だって、ぼくにそう言って……。
そんなふうに思ったのは、ほのかな花びらの香りのせいかもしれなかった。不思議なことに徐々に意識が遠のいて、浅い呼吸が落ち着いていく。いつもなら、鞭で打たれた痛みが眠気を妨げてしまうのに、今夜はその痛みもさほど感じない。
あぁ、今夜は眠れそうだ……。
ぼくは目を閉じ、願いが叶う日を夢に見る。いつか、誰の指図も受けずに、自らの意志で生きること。好きなだけ、好きな場所を自由に駆ける日が来ることを信じて――。
0
あなたにおすすめの小説
【BL】死んだ俺と、吸血鬼の嫌い!
ばつ森⚡️8/22新刊
BL
天涯孤独のソーマ・オルディスは自分にしか見えない【オカシナモノ】に怯える毎日を送っていた。
ある日、シェラント女帝国警察・特殊警務課(通称サーカス)で働く、華やかな青年、ネル・ハミルトンに声をかけられ、【オカシナモノ】が、吸血鬼に噛まれた人間の慣れ果て【悪霊(ベスィ)】であると教えられる。
意地悪なことばかり言ってくるネルのことを嫌いながらも、ネルの体液が、その能力で、自分の原因不明の頭痛を癒せることを知り、行動を共にするうちに、ネルの優しさに気づいたソーマの気持ちは変化してきて…?
吸血鬼とは?ネルの能力の謎、それらが次第に明らかになっていく中、国を巻き込んだ、永きに渡るネルとソーマの因縁の関係が浮かび上がる。二人の運命の恋の結末はいかに?!
【チャラ(見た目)警務官攻×ツンデレ受】 ケンカップル★バディ
※かっこいいネルとかわいいソーマのイラストは、マグさん(https://twitter.com/honnokansoaka)に頂きました!
※いつもと毛色が違うので、どうかな…と思うのですが、試させて下さい。よろしくお願いします!
好きになったのは異世界の王子様でした(ルーシェン編)
カム
BL
「異世界で働きませんか?」
偽営業マンみたいな男、如月隼人にスカウトされたので、再び異世界トリップすることにした修平。
運が良ければまたルーシェン王子と会えるかも、そんな期待を抱いて王宮にやってきたけれど…。
1week本編終了後の番外編です。
一番続編希望の多かった王子様とのその後の話なので、他の攻めキャラは登場しません。
王子様×主人公
単独で読めるように簡単なあらすじと登場人物をつけていますが、本編を読まないと分かりにくい部分があるかもしれません。
本編のネタバレあり。
美しい世界を紡ぐウタ
日燈
BL
精靈と人間が共に生きる世界。
“ウタ”を紡いで調和をもたらす、カムナギという存在がいた。
聖界から追放された一族の末裔である少年、リュエルは、 “ウタ紡ぎ” として独自の活動をする日々の中、思いがけずカムナギを育成する学び舎への招待状を渡される。
意を決して飛び込んだそこは、貴族ばかりの別世界。出会いと波乱に満ちた学生生活の幕が上がった。
強く、大らかに開花してゆくリュエルの傍には、導き手のような二人の先輩。ほころんだ心に芽生えた、初めての想いと共に。
――かつて紡がれた美しい世界が、永久になるまで。
龍の寵愛を受けし者達
樹木緑
BL
サンクホルム国の王子のジェイドは、
父王の護衛騎士であるダリルに憧れていたけど、
ある日偶然に自分の護衛にと推す父王に反する声を聞いてしまう。
それ以来ずっと嫌われていると思っていた王子だったが少しずつ打ち解けて
いつかはそれが愛に変わっていることに気付いた。
それと同時に何故父王が最強の自身の護衛を自分につけたのか理解す時が来る。
王家はある者に裏切りにより、
無惨にもその策に敗れてしまう。
剣が苦手でずっと魔法の研究をしていた王子は、
責めて騎士だけは助けようと、
刃にかかる寸前の所でとうの昔に失ったとされる
時戻しの術をかけるが…
ユキ・シオン
那月
BL
人間の姿をした、人間ではないもの。
成長過程で動物から人間に変わってしまう”擬人化種”の白猫青年と、16歳年上のオッサンとのお話。
出会ったのは猫カフェ。白猫従業員としての青年と客としてやってきたオッサン。
次に再会したのは青年が人間として通う大学。オッサンは保健室の先生だった。
青年が金のためにヤバいことをしていて、あるトラブルが起こる。
そこへ見計らったかのようにオッサンが飛び込んで救出したのをきっかけに2人の距離は縮まり……
※表紙絵は自作。本編は進むにつれてどんどん動物園と化します(笑)
うちの鬼上司が僕だけに甘い理由(わけ)
藤吉めぐみ
BL
匠が勤める建築デザイン事務所には、洗練された見た目と完璧な仕事で社員誰もが憧れる一流デザイナーの克彦がいる。しかしとにかく仕事に厳しい姿に、陰で『鬼上司』と呼ばれていた。
そんな克彦が家に帰ると甘く変わることを知っているのは、同棲している恋人の匠だけだった。
けれどこの関係の始まりはお互いに惹かれ合って始めたものではない。
始めは甘やかされることが嬉しかったが、次第に自分の気持ちも克彦の気持ちも分からなくなり、この関係に不安を感じるようになる匠だが――
エリート上司に完全に落とされるまで
琴音
BL
大手食品会社営業の楠木 智也(26)はある日会社の上司一ノ瀬 和樹(34)に告白されて付き合うことになった。
彼は会社ではよくわかんない、掴みどころのない不思議な人だった。スペックは申し分なく有能。いつもニコニコしててチームの空気はいい。俺はそんな彼が分からなくて距離を置いていたんだ。まあ、俺は問題児と会社では思われてるから、変にみんなと仲良くなりたいとも思ってはいなかった。その事情は一ノ瀬は知っている。なのに告白してくるとはいい度胸だと思う。
そんな彼と俺は上手くやれるのか不安の中スタート。俺は彼との付き合いの中で苦悩し、愛されて溺れていったんだ。
社会人同士の年の差カップルのお話です。智也は優柔不断で行き当たりばったり。自分の心すらよくわかってない。そんな智也を和樹は溺愛する。自分の男の本能をくすぐる智也が愛しくて堪らなくて、自分を知って欲しいが先行し過ぎていた。結果智也が不安に思っていることを見落とし、智也去ってしまう結果に。この後和樹は智也を取り戻せるのか。
【完結】ネクラ実況者、人気配信者に狙われる
ちょんす
BL
自分の居場所がほしくて始めたゲーム実況。けれど、現実は甘くない。再生数は伸びず、コメントもほとんどつかない。いつしか実況は、夢を叶える手段ではなく、自分の無価値さを突きつける“鏡”のようになっていた。
そんなある日、届いた一通のDM。送信者の名前は、俺が心から尊敬している大人気実況者「桐山キリト」。まさかと思いながらも、なりすましだと決めつけて無視しようとした。……でも、その相手は、本物だった。
「一緒にコラボ配信、しない?」
顔も知らない。会ったこともない。でも、画面の向こうから届いた言葉が、少しずつ、俺の心を変えていく。
これは、ネクラ実況者と人気配信者の、すれ違いとまっすぐな好意が交差する、ネット発ラブストーリー。
※プロットや構成をAIに相談しながら制作しています。執筆・仕上げはすべて自分で行っています。
ユーザ登録のメリット
- 毎日¥0対象作品が毎日1話無料!
- お気に入り登録で最新話を見逃さない!
- しおり機能で小説の続きが読みやすい!
1~3分で完了!
無料でユーザ登録する
すでにユーザの方はログイン
閉じる