たったの五文字

シロツメクサ

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21.騎士よりも

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「ええ!?」

 本当に、欠片も想像さえしていなかったことを言われて、泡を食った私は素っ頓狂な声を上げた。そんな、彼のことを深く尊敬こそすれ、主人になりたいだなんて尊大なこと、本当に考えたこともない。
 確かにあの仕草をレクス先輩がしたならさぞかし絵になるだろうと妄想くらいはしたけれど、意味を知ってしまった今ではお遊びだったとしても、私にだなんて絶対にありえない話だ。何せ彼は将来を嘱望される、演技ではない本物の騎士様なのだから。

「ふ、あはは真っ青、冗談だって。シェルちゃんを主君と仰いだりしたら卒倒しちゃいそうだし、俺の騎士としての忠誠は、個人に捧げることを許されたものではないしね。……それに、どっちかっていうと俺は、」

 レクス先輩が言いながら鏡面の方へと視線を向けたから私もそれに倣えば、ここが死に場所になるかもしれないことを覚悟して姫に忠誠を捧げた騎士に対して、魔法使いが激励を飛ばしているところだった。

『おい、お熱いのは結構なことだがね、君たちを引き合わせた恩を返してもらうまで死ぬことは許さないぞ! なに私が求める礼は単純なものさ、ここにいる犬ども全ての首だ! どうだい簡単だ、安いもんだ、そうだろう? 何せ今この瞬間が、我々の人生で最も力を発揮できるときなんだからね。──さあ何をしている、立て、愛する者を死んでも守り抜け!!』

 びりびりと空気を震わせるほどの咆哮に近いそれに、思わず息を呑む。魔物の猛攻の防衛を一手に引き受けた彼のすぐ後ろでは、意識が朦朧としている錬金術師が、それでも脂汗を滲ませながら歯を食いしばり、半ば横たわりながらも即席で錬金薬の調合を始めていた。
 例えここが死地になるとしても、決して諦めずに抗ってみせるという意地を見せた二人に、騎士と姫は目を見開き、そして心を奮い立たせ立ち上がる。闘志を燃やした主人公達の猛攻に、魔物の軍勢は少しずつ圧倒され始めた。

 心を震わせる名演にほう、と思わず感嘆の息を漏らせば、ふと気付かぬうちに握りしめていた手に温もりを感じた。とても温かくて、いくつも剣だこがあって。それがレクス先輩の手だということに一拍置いて気がついた私は息を詰めると、じわじわと熱くなる頬を自覚しながら隣の彼をそっと見上げた。
 彼もまた、じっと熱を湛えた瞳で、こちらを一心に射抜いていて。視線が絡まり合って、解けなくなって──そのターコイズブルーの瞳に全てが吸い込まれてしまったように、鏡面から溢れる喧騒がゆっくりと遠ざかっていく。
……まるで、この世界に二人きりになってしまったみたいに。

「……俺は、騎士よりもさ。──シェルちゃんの、魔法使いになりたいな」

 その声は、まるで水面に広がる波紋みたいに、とても静かだったのに──鏡面の中の騎士よりもずっと厳かで、深い誓いが込められているように感じて。
 切なく優しい響きを帯びたそれが、心のどこか深く柔いところを打って、私は思わず息を呑むと瞳を揺らした。けれど彼は、私から視線を逸らそうとはしなくて。
……まるで、捧げた忠誠が受け取られることを待つ、物語の登場人物みたいに。

 きっと、彼が魔法を嫌いになるのは、とても簡単なことだったと思う。どれほど努力をしても追いつけない背中に、成長を強要される環境に、生まれ持っての才能に、どれほどだって理由を押し付けてもよかったはずなのに。
 それでも彼は、胸が苦しくなるくらいひたむきに、純粋に、ただ魔法を愛し続けた。もう手を伸ばすことはない、遠く置いてきたその夢を、振り返ることをやめなかった。……それほど彼にとって大切なものに、私が触れてもいいのだろうかと、迷わないわけじゃないのに。

 レクス先輩が、きっと自分の胸の内の深い、深いところに大切に抱えていたものを、私に差し出してくれた。それが、泣いてしまいそうなくらいに嬉くて仕方なくて。逡巡したのなんてほんの一瞬で、気がつけば私は彼の手を、きつく、きつく握り返していた。
 昂った感情に僅かに滲んだ視界を瞬きで散らせば、濡れた睫毛がキラキラと輝いて、視界に映る彼の美しい瞳を彩っていく。溢れ出した想いが、気がつけば声に変わっていた。

「……私、レクス先輩の繊細で優しくて、とても綺麗な魔法が、本当に好きです。でも、それだけじゃなくて……気が付いていなかったかもしれないですけど、私、あなたがくれる言葉ひとつで、嘘みたいに簡単に心が引き上げられてしまうんですよ。落ち込んでいるときでも、悩んでるときでも、……レクス先輩は、人に寄り添うのがとても上手だから。ずっと、それが不思議だなって……特別な魔法みたいだなって、思ってました」

──ずっと前から。レクス先輩は、私の魔法使いでしたよ。

 泣き出してしまいそうなのを誤魔化すように、へにゃ、ときっと情けないことになっている笑みを浮かべれば、滲んだ視界の先で、レクス先輩が少しだけ、息を震わせた気がした。
 次の瞬間には俯いてしまった彼の表情は、暗さも相まって窺えなくなってしまったけれど。ただ、固く繋いだ手の力が少しだけ強まって、それがとても、熱くて。彼が絞り出すように呟いた声は、まるで強い感情を押さえつけるみたいに、低く掠れていた。

「……シェルタ、俺は……本当に。──俺は、君を、……」

 どく、と、心臓が高鳴った。それは落ち着くどころか、どんどん大きくなっていって。レクス先輩に聞こえてしまいそうで、それが酷く恥ずかしいと思うのに、それよりも彼の言葉を掻き消してしまいそうなことのほうが嫌だった。
 だからどうか大人しくしてほしいと願ってみるけれど、鼓動は逸るばっかりで。だって、だって、こんなのどうしたって、期待してしまう。
……その先に続く言葉が、私がずっと、誰よりも大切な人と伝え合うことを憧れていた、たったの五文字であることを。

「……、ッ」

……けれど、どれほどに待っても、レクス先輩はその言葉の続きを紡ぐことはなくて。
 ただ、胸元を握りしめて苦しそうに息を詰まらせるばかりなことに、期待が段々心配に変わっていく。だって、表情がよく窺えなくたって分かる。……彼は何だか、酷く辛そうだった。
 もう欲しい言葉が貰えそうだったことすら飛んでいってしまって、もしや体調でも悪くなってしまったのかと、私はそっと彼の顔を覗き込んだ。

「……レクス先輩……? 大丈夫ですか?」

 私の呼びかけに、僅かに顔を上げたレクス先輩と視線が絡んで、思わず息を呑む。
 彼の美しいターコイズブルーの瞳は、いつにないほどに複雑な感情を孕んで揺らいでいて、その全てを汲み取ることはできなかったけれど……きっと一番、彼の心を占めている感情が、まざまざと伝わってきた。
……──どうして、そんなに、悲しそうな。ほんの数瞬の間に彼が見せた悲哀の色は、けれど彼が繋いでいない方の手を伸ばしてきたことで、視界から遮られてしまって。
 目の前が真っ暗になって、甘い香りが広がって漸く、私は彼にきつく抱きしめられているのだと気がついた。

「!? え、あ、あのっ」

 ぶわ、と顔に熱が上って、思わず彼の胸に手を置いたけれど、いつものスキンシップとは違う、まるで縋るような力強い腕は少しも緩んでくれなくて。
 少し苦しいほどの力に息を詰めながら、一体どうしてしまったのだろうと、私は恥ずかしさを通り越した後に戸惑いを覚えた。何だか彼の様子がおかしいことだけは確かで、それなのにその理由が少しも分からないことが酷くもどかしい。
……何が何だかわからないけれど、彼が悲しんでいるなら、力になってあげたいのに。せめて、と伸ばした片手で宥めるようにそっと彼の背を撫でれば、彼の腕の力が尚更強くなった。

「……シェルちゃん、お願い」

「……レクス先輩?」

「いつもの。……言ってよ」

 普段の彼からは考えられない、弱々しい懇願に、私は少しだけ目を見開いた。それがまるで、溺れた人が酸素を求めるみたいな響きを帯びていて、何だか苦しくなる。
……彼に、言葉を貰いたかったのは嘘じゃない。一方的に伝えるばかりのそれに、胸が痛んでいるのだって、嘘偽りない本音で。……でも、彼にこの想いを伝えることが嫌だなんて思ったことは、ただの一度だってなかった。この言葉が、悲しんでいるらしい彼の慰めに、ほんの少しでもなってくれるというのなら。

「……あいしてる。……愛してます、レクス先輩」

「……うん。──、うん」

 やっぱり、彼は受け取るばかりで、同じ言葉を返してくれることはなかったけれど。でも、少しだけ穏やかになったその声に、僅かに緩んだ腕に、そっと安堵の息を吐く。
 もうすっかり映像を見ていたことなんて頭から吹き飛んでいて、咲き乱れるスノウモルの大木の下、民衆の祝福を受けながら幸せそうに手を取り合う二組の男女を最後にエンドロールが流れ始めた後も、ただ彼の気が済むまで、私たちはそうやっていつまでも抱き合っていた。
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